アナスターシャ・ヴィルサラーゼ
アナスターシャ・ヴィルサラーゼ | |
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原語名 | ანასტასია ვირსალაძე |
生誕 | 1833年11月11日(ユリウス暦 10月29日)ロシア帝国クタイシ |
出身地 | → |
死没 | 1968年9月5日(84歳没) ソビエトグルジア・トビリシ(現ジョージア) |
ジャンル | クラシック |
職業 | ピアニスト、教育者 |
担当楽器 | ピアノ |
活動期間 | 1921年-1946年 |
事務所 | トビリシ音楽院 |
アナスターシャ・ダウィドヴナ・アブドゥシェル-ヴィルサラーゼ(グルジア語: ანასტასია დავითის ასული ვირსალაძე、ロシア語: Анастасия Давыдовна Вирсаладзе、1883年11月11日[注釈 1]ロシア帝国クタイシ - 1968年9月5日グルジア・ソビエト社会主義共和国(現ジョージア)トビリシ)はジョージアのピアニストで教育者。長年トビリシ音楽院に奉職し後進を指導した。ピアニストのエリソ・ヴィルサラーゼ (ジョージア出身) は孫娘。
氏名のローマ字翻字は Anastassija Dawydowna Wirsaladse (ドイツ語)、Anastasia Davidovna Virsaladze (英語)。
経歴
[編集]子供の頃からピアノ演奏家を志したアナスターシャ・ヴィルサラーゼは、サンクトペテルブルクでアンナ・エシポワに師事、ピアノ教師の道に進む。ジョージア随一のピアノ教育機関創設者の一人でもあり、そのトビリシ音楽院には1921年から指導者として加わる。1929年に教授を拝命、1932年以降はピアノ部門の責任者を務める。この学校には1921年から1946年まで25年間在籍した。
ピアニスト審査の立場から、全労働組合ピアノコンクールの審査員を務める(第2回1935年、第3回1937年)。自身の孫娘エリソ・ヴィルサラーゼとは、8歳のときからピアノをいっしょに弾いていたという。
ヴィルサラーゼのトビリシ音楽院時代の教え子にドミトリー・アレクサンドロビチ・バシキーロフ、レフ・ヴァセンコ Lev Vassenko 、ダヴィド・トラセ Dawid Toradse ほかがある。洗練された感性と高度な音楽文化を誇るトビリシ音楽院にあって、ヴィルサラーゼは校是を象徴する存在であった。
著書で演奏法を系統的に紹介し[1]、師匠のアンナ・ニコライェヴナ・エシポワの回想録も手掛けた[注釈 2]。
孫のエリソ・ヴィルサラーゼは取材を受けると、ピアニストとしての祖母を次のように語った。「ただし、子供時代はおそらく適切な指導を受けなかったと見えて、祖母は常に手を傷めていたというが、サンクトペテルブルクで学んだことをきっかけに、当時としては輝かしい職歴を辿る。アメリカでデビューしたロシア人ピアニストの草分けと考えられ、現地で出会った作曲家との縁で演奏会を重ねていく。それでも今日の認識ではご存じのように、祖母はコンサート・ピアニストとは見なされていない。」
著書
[編集]- アナスタシア・ヴィルサラーゼ『ソビエトジョージアにおける音楽教育-歴史』、Toradze、Gulbat Grigorievich(編)。トビリシ:ヘロブネバ、1985年。全139ページ。
受賞・受章
[編集]トビリシの芸術学校はアナスターシャ・ヴィルサラーゼの名前を冠している。
- グルジアソビエト共和国(当時)「名誉芸術家」章(1942年)
- レーニン勲章(1953年)
- 「労働党赤い旗」章(1958年)
- グルジアソビエト共和国「人民芸術家」章(1960年)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ アナスタシア・ヴィルサラーゼ『ソビエトジョージアにおける音楽教育-歴史』、Toradze、Gulbat Grigorievich(編)。トビリシ:ヘロブネバ、1985年。全139ページ。
外部リンク
[編集]- ADGO (2016年1月20日). “Anastasia Virsaladze plays Chopin Waltzes op. 69 no. 1 & op. 64 no. 3(A・ヴィルサラーゼ演奏ショパン作曲「ワルツ」作品番号69番第1楽章ならびに同64番第3楽章)” (英語). 2018年9月30日閲覧。