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中島照光
[編集]出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中島照光(なかじま てるみつ、大正5年(1916)-昭和56年(1981))は、高麗川村(現日高市)出身の教育者。
生涯
[編集]埼玉県師範学校卒業後、鶴ヶ島・狭山・飯能・日高の教員として四十一年間、学校教育の充実発展のために尽瘁し、豊かな発想と厳しい指導によって幾多の人材を育成した。
高潔清新の気風に溢れ、豪放磊落そして細心の気配りを持って人に接し多くの人々の尊敬と信望を築かれた。
昭和二十二年高麗中学校に赴任、清流高麗川天神渕の水泳指導を取り入れ、豊かな自然と一体の教育を展開、逐に埼玉県中学校水泳大会女子八連覇の偉業に輝いた。叱咤激励の熱情は、地域を動かし学校プール建設に結びついた。県下水泳指導者、国体水泳監督など水泳の普及指導の業績により県より体育功労賞を受賞。さらに昭和 四十四年高麗中学校長となり、「皆泳四百米」を目標に泳力向上に首尾一貫した水泳教育の普及に尽力した。
また、理科教育に造詣が深く実践研究は高く評価されている。 更には学校長としては、率先垂範、決断と実行の指導力によって学校研究に取組み数々の実績をあげた。昭和四十六年の高麗中学校の「学び方を学ぶ」研究は県下の注目を集めた。校長会、教育研究会の会長として斬新なアイデアを取り入れ地方教育の振興に寄与した。学校建設、県立高校誘地問題等、常に指導的役割をはたした。
昭和五十一年、日高町教育長となり、体育施設建設、公民館活動の重視、画期的な教員の中国派遣研修など大胆な行政施策を展開した。
後に中島照光氏の業績はあまりにも大きくこの功績を永くとどめるためにと、高麗中学校元水泳部員が中心となり顕彰碑が建立されている。
厳にして慈の精神は広く,多くの後輩達の大成への道を切り拓くことになった。昭和五十六年逝去,従五位雙光旭日章受賞する。