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菅野村強盗殺人・放火事件 | |
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場所 | 兵庫県飾磨郡菅野村(現・姫路市) |
日付 |
1949年6月10日 (UTC+9〈日本標準時〉) |
概要 | 借金を抱えた主婦が老夫婦宅に侵入し、妻を殺害した後に火を放った。 |
攻撃側人数 | 1人 |
武器 | 鎌 |
死亡者 | 1人 |
負傷者 | 1人 |
損害 | 現金1万8千円・衣類101点 |
犯人 | 主婦・Y(事件当時34歳) |
容疑 | 強盗殺人罪・放火 |
動機 | 借金を返済するために被害者宅へと侵入し、犯行を気づかれたと思い殺害を実行。 |
対処 | 兵庫県警が逮捕 |
刑事訴訟 | 死刑(後に無期懲役へと減刑) |
菅野村強盗殺人・放火事件(すがのむらごうとうさつじんほうかじけん)は、1949年6月10日に兵庫県飾磨郡菅野村(現・姫路市)で起こった強盗殺人および放火事件。犯人は戦後初の女性死刑確定者となった。
Yの生い立ち
[編集]犯人となるYは1915年5月30日に兵庫県飾磨郡菅野村(現・姫路市[1])にて生まれる[2]。Yは看護婦として勤務していたが[3]、1939年にUと結婚し[4]、これを機に辞職する[3]。Uとの間に7人の子供を設けたが(そのうち3人は幼児期に死亡)、かねてより怠け者かつ身体が弱かったUはまともに働こうとせず、Yが一家の生活を支えることとなる[3][注 1]。やがて生活に困窮するようになったが、Yは病弱であったUに対して稼ぎを強要することができず、養子を迎えて安心していた高齢の母に対しては一家の現状を相談することもできずにいた[4]。そんな中Yは自身の衣服を売ったり、開墾作業に勤しみながら一家の稼ぎを担っていたが、それだけでは生活が困難であったことから[4]、Yは1948年秋に借金をして米や麦の闇商売を始めた[5][注 2]。しかし、商品となるはずの麦や米も自家用とするなど、その場凌ぎをするためにYは方々から金を借り続けた結果、最終的に借金は5万円ほどになってしまっていた[5]。さらに1949年4月には、不景気と自身の性格が原因でUは会社を解雇されることになった[6]。
1949年6月9日、Yは近日中に返済しなければならない借金を工面するために一日歩き回って金を得ようとしたもののそれが叶わず[4]、沈んだ心持ちで家に帰るとUから「借金返済の催促があった」と告げられる[5]。Uは自身のこれまでの月給6千円と4月の退職金手当8千円があったことから借金は問題ないと考えていたが、YはUにこれまでの借金の経緯やUの収入も既に借金へと充てられていたことを伝えておらず、さらにYはUに「お金はあります」と嘘をついてしまった[7]。困り果てたYは以前から何度か借金をしていたA(当時69歳[1])宅へ訪れ、再び借金を願い出ることにした[5]。しかし、この日応対したのは近所から「鬼婆」と陰口を叩かれていたAの妻・Kであり、彼女はYの借金の申し出を却下したうえにYに対して罵声を浴びせる[5]。Kから「身体を売ってでも金策しろ」との旨の言葉を言われ、この言葉に怒りを覚えたYはA宅への強盗を決意する[8]。
事件
[編集]Kから借金の申し出を却下された翌日の1949年6月10日午前1時半ごろ、Yは再びA宅へ侵入する[9]。この時、Aが肺結核を患って闘病していたことから妻のKは結核の感染を恐れて別室で暮らしており、両者とも熟睡していた[5]。それを確認したYはKの部屋で金品を物色していたところ、Kが動いたように見えたことから所持していた鎌で頭部を切りつけて殺害し[10]、その後現金1万8千円と衣類100点ほどを奪った後に[11]、犯行の痕跡を消すためにA宅に火を放った[9]。Aは救助され一命を取り留めたものの、事件のショックから数日後に病死した[11]。事件後、Yは奪った金で借金返済に回っていたが、Kが生前紙幣に番号を書き込んでいたことから犯行が発覚し、事件から5日後の15日にYは逮捕された(当時34歳[1])[12]。
刑事裁判
[編集]第一審
[編集]Yは1949年12月26日に神戸地方裁判所姫路支部にて死刑判決を受けた[12]。女性に対して死刑判決が下されるのは戦後初であった[13]。
控訴審・上告審
[編集]1950年9月4日[2]には大阪高等裁判所にて控訴が棄却された[12]。1951年7月10日には最高裁判所にて上告が棄却され[14]、Yの死刑が確定した[15]。これによって、Yは戦後初となる女性の死刑確定囚となった[15]。
死刑確定後
[編集]模範囚
[編集]死刑確定以前よりYは教誨師の話には熱心に耳を傾け、素直で物静かな態度であったことから模範囚とされており、確定後してから1か月間は気持ちが沈んでしまっていたものの、気分が落ち着いたころには獄中で指導を受けた俳句や仏画の制作に励むようになり、また処刑時の心得を刑務官に聞くなど自身の死を受け入れていたとされている[16]。村野 (1993)ではYの句を複数紹介しているが、その一部を以下に表記する。
A. 落栗の土のぬくみに音したか
B. 入学の母を忘れてくれればよし
C. 食台に汁の指もて子の名かく
— 村野薫『戦後死刑囚列伝』1993年発行、162-163頁より抜粋
Aの句は村野によれば「悟道の域に達したもの」として高く評価されたとのこと[17]。BとCの句はY自身の子供に対する痛烈な心情によるものであり、このような句がラジオや雑誌などの媒体で紹介されると、Yに対する同情や助命の声が高まっていくことになる[17]。
助命運動
[編集]このころ、サンフランシスコ平和条約発行による講和恩赦や当時の皇太子・明仁親王の立太子礼による記念恩赦について議論され始めていた[17]。法務府恩赦課[18]が非公式ではあるものの死刑囚へ対して助命を願う声が数多く挙がった場合には特赦の検討する可能性は否定しないとしていた背景もあり、東京新聞社がYの助命運動に乗り出すと、同社には多くの助命嘆願書が寄せられた[19][注 3]。しかし、同条約発効による講和恩赦では14人の死刑囚が恩赦による減刑を受けたものの[17]、Yがその対象になることはなかった[18]。それに加えて、立太子礼による個別恩赦を得ることもなかった[17]。
1955年初頭にはYの精神異常(詳細は後述)がマスコミに知れ渡ることとなり世間から同情を得ることとなり、再び助命運動が行われていった[21][注 4]。また、当時イギリスでは英国下院で死刑廃止法案が可決され、日本の国会でも死刑廃止法案が諮られるなど、死刑廃止に関する議論が活発に行われていた[21]。1956年5月には当時の大阪拘置所長・玉井策郎が参議院での法務委員会公聴会にて死刑制度に反対の意を表明していたこともあり[21]、再びYの助命を後押しする風潮が高まっていた[11]。しかし、1959年の皇太子成婚による記念恩赦でもYが対象になることはなく、これを機に助命運動の流れは停滞していった[21]。
幾度となくYの恩赦が却下されたのは、殺人罪ではなく強盗殺人罪に加えて放火罪であったことが原因であり[21]、1950年代当時において「強盗殺人犯」は恩赦の対象から外れてしまうことは原則としてあったとされている[18]。また罪状だけではなく、被害者遺族がYに対して処罰を望む強い感情を示していたことも、Yの恩赦を妨げる要因となっていた[11]。
精神異常
[編集]1953年夏ごろにはYに精神的な異常が目立つようになっていた[22]。精神異常を引き起こすきっかけとなったのは、Yが死刑確定後に入信していた浄土真宗の最高権威者がYと面会した際に助命の成就を期待させる発言をしたこととされている[22]。その後恩赦は得られずに結果的に期待を裏切る形となってしまったが、このことが後の精神異常に繋がっていった[22]。
Yの精神異常は1954年2月ごろに一気に悪化した[22]。仏壇や経典に関心を寄せることはなくなり[22]、検事や法務省だけでなく、米国の物理学者・ロバート・オッペンハイマーに対しても助命嘆願書を書くようになっていた[11]。同年暮れにはそれまで数多くの優れた句を詠んできたYが突然、以下のような句を詠み、俳句指導に来所した俳人・北山河を驚愕させた[22]。
赤い花咲かせて科学の雲の蜂
— 村野薫『戦後死刑囚列伝』1993年発行、163頁より抜粋
Yは自身の元に訪れた北に対して「みんな私に電波をくださいます」と言い放っていた[22]。このような状態が続いたことによって、刑事訴訟法第479条第1項によりYの死刑執行は一時的に見送りとなった[21]。
1955年1月12日発行の『読売新聞』にてYが獄中で精神異常を起こしていることが世間の人々に伝えられた[18][注 5]。ただ、1956年に突入した頃には落ち着きを取り戻し、看守や教誨師と話を交わすことができていた[23]。Yは以前のように手記や俳句に励むようになったが、これらが世間に明るみになると子供たちに自身の罪が知られてしまうことを恐れたため、誰にも見せることはなくなっていった[23]。
無期懲役へ減刑
[編集]中央更生保護審査会は、犯行当時、夫と子供が生活に苦しんでおり動機に同情すべき点があること、犯行に対して反省する気持ちが強いこと、拘禁性精神病にかかっていることなどを理由に恩赦を決定した[24]。そして1969年9月2日に前述の恩赦のため無期懲役に減刑された(当時54歳)[25]。減刑の報せは同月12日にYに伝えられたものの、この頃にはYが感激する様子もなく、正気に戻ることもなかった[26]。同月18日には八王子医療刑務所へ移送され、そこで約二年半の治療が施されたのちの1972年2月24日に和歌山刑務所へと移送された[27]。その後は同刑務所で服役生活を送ったものの[25]、結核の悪化などを理由に同刑務所移送から5年後の1977年7月29日に刑の執行停止処分が下り、結核予防法によって奈良県大和郡山市の国立療養所[注 6]へ収容されることとなった[27]。そして1978年3月4日に同療養所にて病死した(62歳没)[25]。戦後、恩赦で無期懲役に減刑された女性死刑囚は彼女が唯一である[13]。
評価
[編集]犯人Yの人物評
[編集]作家の村野薫は犯人Yについて、戦後初の女性死刑囚ではあるものの決して「毒婦」「妖婦」などに分類される女性ではないとしており、むしろまともに働こうともせずに横柄な態度を取る夫に対して不満を漏らすこともなく4人の子供を育てるために懸命に働くその姿は「どこにでも見られる古風な日本女性」の一面を象徴していると評している[3]。
考察・見解
[編集]Yの死刑が延期された理由について、作家の小山いと子は受刑者が女性であることが考慮されているとの見解を示しているが、法学者の瀧川政次郎は小山の見解は誤りであると指摘する。瀧川はY自身の子供に対する切実な想いが綴られた手記を閲覧した法務当局が、「仮に釈放され家族の元へ帰れるならば喜んでこれを受け入れた上で家族のために孝養に尽くしたい」と話すYの家族の境遇に同情したからであり、女性だからというシンプルな理由ではないとの見解を示している[28]。
教育学者の石山脩平はYの起こした事件は許されないもので厳粛に裁かれるべきであるとする一方で、女手一つで一家の生活を支えなければならないうえに相談できる相手すら居らずに結果的に事件を起こしてしまったことは「社会の責任を感じざるを得ない」と述べている[29]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 最後の一時間 (2008), p. 109.
- ^ a b 集刑49 (1951), p. 601.
- ^ a b c d e 村野 (1993), p. 159.
- ^ a b c d e 集刑49 (1951), p. 606.
- ^ a b c d e f 村野 (1993), p. 160.
- ^ 牧 (1955), p. 70.
- ^ 集刑49 (1951), pp. 606–607.
- ^ 日本犯罪心理研究会 (1968), p. 257.
- ^ a b 刑政80 (1969), p. 10.
- ^ 古川 (1987), p. 54.
- ^ a b c d e 最後の一時間 (2008), p. 110.
- ^ a b c 村野 (1993), p. 161.
- ^ a b 深笛 (2013), p. 8.
- ^ 村野 (2006), p. 120.
- ^ a b 『読売新聞』1951年7月11日東京朝刊3頁「強殺女に死刑の判決 戦後初の上告棄却」
- ^ 村野 (1993), pp. 161–162.
- ^ a b c d e 村野 (1993), p. 162.
- ^ a b c d e f 倉光 (1955), p. 106.
- ^ 滝川 (1952), p. 26.
- ^ 滝川 (1952), p. 25.
- ^ a b c d e f g 村野 (1993), p. 164.
- ^ a b c d e f g 村野 (1993), p. 163.
- ^ a b 新聞月鑑8/別冊 (1956), p. 20.
- ^ 『朝日新聞』昭和44年9月5日朝刊、12版、15面「女死刑囚に初恩赦」
- ^ a b c 深笛 (2013), p. 11.
- ^ 村野 (1993), p. 165.
- ^ a b 村野 (1993), p. 166.
- ^ 滝川 (1952), pp. 25–26.
- ^ 社会人36 (1952), p. 90.
参考文献
[編集]- 「7月10日判決 昭和26年(あ)第237号 判決 本籍並びに住居 兵庫県飾磨郡菅野村菅生澗西荒木番地不詳(当時大阪拘置所在所) 無職 YH 大正四年五月三〇日生」『最高裁判所裁判集 刑事 昭和26年7月(上)』第49号、最高裁判所、1951年7月、601-611頁、NDLJP:1363912/309・国立国会図書館書誌ID:000001203693。
- 『自由と正義 第3巻第4号』日本弁護士連合会、1952年3月1日。
- 瀧川政次郎「死刑存廃論談義」、22-33頁。
- 『月刊社会人 第36号』社会人社、1952年4月5日。
- 『小説公園 第6巻第5号』六興出版社、1955年5月1日。
- 倉光俊夫「女死刑囚」、106-111頁。
- 『りべらる 第10巻第8号』白羊書房、1955年7月。
- 牧修人「たった一人の女死刑囚」、70-74頁。
- 楠田修『灰色の捜査線』新大阪新聞社出版局、1960年4月10日。
- 『新聞月鑑 第8巻第86号 別冊』新聞月鑑社、1956年3月20日。
- 日本犯罪心理研究会『死刑囚の記録 : 明治・大正・昭和・百年の犯罪史 (明治百年シリーズ)』清風書房、1968年1月15日。
- 『刑政 第80巻第10号』矯正協会、1969年10月1日。
- ぎょうせい『法律のひろば 第40巻第7号』ぎょうせい、1987年7月。
- 古川健次郎「死刑と恩赦」、54-55頁。
- 村野薫『戦後死刑囚列伝』宝島社、1993年11月1日、159-166頁。ISBN 4-7966-0736-6。
- 村野薫『死刑はこうして執行される』 む-27-1(第1刷発行)、講談社〈講談社文庫〉、2006年1月15日、120-124頁。ISBN 4-06-275304-9。 NCID BA75304430。国立国会図書館書誌ID:000008051816。
- 別冊宝島編集部『死刑囚最後の一時間』宝島社、2008年8月2日。ISBN 978-4-7966-6520-9。
- 深笛義也『増補新版 女性死刑囚 十四人の黒い履歴書』(初版第1刷)鹿砦社、2013年12月16日。ISBN 978-4-8463-0979-4。 NCID BB15913176。国立国会図書館書誌ID:025046549。