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利用者:Pakiken/ザ・スペクテーター(1711年)


1711年6月7日付のスペクテーター

「スペクテーター」は1711年から1712年にかけて発行されていたイギリスの日刊紙である。ジョセフ・アディソンとリチャード・スティール(en:Richard Stele)によって創設された。各「紙」および「号」は2500語ほどの長さで、オリジナルのものは1711年3月1日から555号発行され、後に7冊の本にまとめられた。[1]同紙は1714年にスティールの関与なしに復刻され、その後週3回のペースで6ヶ月間発行された。これら復刻版は、上述のまとめの8冊目に収録された。アディソンのいとこであるユースタス・バジェルも刊行に携わっていた。

「スペクテーター」の登場人物[編集]

「スペクテーター」で用いられた特徴的な表現の一つは、架空の解説者であるミスター・スペクテーターが登場することである。本紙の第一号は彼の生い立ちの説明にあてられている。ミスター・スペクテーターは寡黙な性格で、主に顔の表情によって意志疎通を図ろうとする。彼はその謙虚な人柄によって社会を広く駆け回り、”スペクテーター”(観測者)としての使命を全うする。彼はロンドン市民たちの習慣、癖、そして無作法について意見を述べる。また自身について、文章における饒舌さと日頃の寡黙さを対比させて皮肉を述べている。

「スペクテーター」の第二号では、ミスター・スペクテーターの近しい友人からなる”スペクテーター・クラブ”のメンバーが紹介されている。同クラブの人物たちは、エピソードや実社会における場面を描写する際の登場人物として用いられた。本紙の含意するエートスを表現するために、クラブのメンバーたちは様々な地位、職業を持っている。もっとも有名なキャラクターはサー・ロジャー・ド・カバリー(en:Sir Roger de Coverly)であり、彼はアン女王統治下の英国の大地主である。彼は田舎の紳士の伝統的な価値観を体現し、愛嬌がありながらもどこか間抜けな人物として描写され、彼のトーリー党的な思想を無害で馬鹿らしいものたらしめている。ウィル・ハニカム(Will Honeycomb)は好色な男性(en:Rake (character))で、”通常男性が女性を楽しませる、その種の会話の準備が、いつでもできている” -第二号より-(原文: is very ready at that sort of discourse with which men usually entertain women-No.2-)。「スペクテーター」廃刊直前で彼は結婚し、その際に性格が修正されている。アンドリュー・フリーポートは商人であり、クラブには他にも将校や聖職者がいる。

刊行の目的[編集]

第10号において、「スペクテーター」の目的は”ウィットによって道徳観を活性化し、道徳観によってウィットに節度を持たせる”ことであるとミスター・スペクテーターが述べている。彼は同紙が”図書館、学校、大学や押入れから哲学を引っ張り出して、クラブや集会、茶会やコーヒーハウスに広めた”と言われるようになることを目指している。そして読者に、本誌を”お茶会道具の一つ”のように捉えて毎朝側において読むことを勧めている。[2]「スペクテーター」は読者たちに思慮深い議論をするための話題を提示し、それらを持って彼らが丁寧なマナーで会話や社会的な交流に参加することを目指した。[3]当時の啓蒙思想と足並みをそろえつつ、「スペクテーター」の編者たちは家族や結婚、そして礼儀に関する価値観を広めた。

読者[編集]

1788年版の書籍版スペクテーターの表紙

一日およそ3000部と発行部数こそ控えめだったが、「スペクテーター」は広く読まれていた。ジョゼフ・アディソンは各号が6万人のロンドン市民に読まれていると見積もっていた。これは当時のロンドンの人口の10分の1に相当する。一方、同時代を研究している歴史家や文学者たちも、これを根拠のない主張だとは見なしていない。というのも、読者のほとんどは自身で契約している人々ではなく、「スペクテーター」を取っているコーヒーハウスのパトロンだったと言われているからである。これらの読者たちは多様な社会的地位を持っていたが、当時英国で台頭していた商人や大小の貿易商の興味を第一に、本誌は書かれていた。

「スペクテーター」は当時植民地だったアメリカにおいても、おおくの読者を持っていた。特筆すべき人物として、当時十代であったジェームズ・マディソンは同紙の熱心な読者であり、彼の世界観に生涯を通じて影響を与えたと言われている。[4]

ユルゲン・ハーバーマスは「スペクテーター」を、18世紀のイギリスにおける公共圏を形成した媒体としてみている。[5]同紙は政治的に中立であると宣言しているが、一般的にはホイッグ党的な価値観を奨励したものとして認知されている。

「スペクテーター」の人気は衰えることなく、18、19世紀の後期においても広く読まれていた。その時には全8巻の本として売られていた。その文体と、道徳および助言と娯楽性との合致は、模範的であると考えられていた。同紙の人気の衰退は、C・S・ルイスやBrian McCreaによって考察されている。

参照[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Information Britain
  2. ^ Addison, Joseph (1837). The Works of Joseph Addison, Vol. I, p.31. Harper & Brothers.
  3. ^ Bowers, Terence. "Universalizing Sociability: The Spectator, Civic Enfranchisement, and the Rule(s) of the Public Sphere." In Newman, Donald J., ed. (2005). The Spectator: Emerging Discourses, pp. 155-56. University of Delaware Press.
  4. ^ "James Madison, A Biography," Ralph Ketcham, 1971, pp. 39-48,
  5. ^ Habermas, Jürgen (1989). The Structural Transformation of the Public Sphere: An Inquiry Into a Category of Bourgeois Society. Massachusetts Institute of Technology.

出典[編集]

  • The Spectator Nos. 1, 2, 10 [Addison], 1710–11.
  • The most used edition of The Spectator is Donald F. Bond's five–volume edition (1965).
  • Brian McCrea, Addison and Steele are Dead: The English Department, Its Canon, and the Professionalization of Literary Criticism
  • C. S. Lewis, "Addison" in Eighteenth Century English Literature: Modern Essays in Criticism ed. James Clifford.

追記[編集]

外部リンク[編集]