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利用者:PetitLamp

PetitLamp は日本国籍ではない。でも日本語を話す。それによってこの日本語版 Wikipedia での執筆をおこなうときがある。対象範囲は定めていない。また、呼称 PetitLamp は日本語版での活動のためだけに使われている。



日本語版 Wikipedia の品質に関する疑問

  1. 記事本文について


日本語版の記事全般の根本的な品質について PetitLamp は疑問を抱いている。懐中の少々は嘗て諸々のノートにおいて提示してみたことがある。他執筆者からの賛同は得られなかった。要点を今一度ここで挙げる――


  • 日本語版ウィキペディアは「日本語話者」のために存在するのであって、「日本民族」のためだけに書かれるものではない。
  • 現行の日本語版の記事文は全般的に日本語の本来的な言語体系を逸脱した現代日本人に特有の記述様式にもとづいているところがある。
  • いかなる版のウィキペディアにおいても、記事形態は、特定の民族的な慣習や趣向にたいしては中立的となるべきである。


つまるところ、記事文における外来語の使用については慎重となるべきだ、といったようなことを PetitLamp は議論している。この点を考えるにあたっては、日本語本来の言語体系と、現在の日本列島において日本国民がこれ(日本語)を扱っているところの特有民族的な慣習・趣向とを、まず識別する必要がある。「LAST WEEK のチャートでトップテンにランクインしたあのアルバム」という表現は日本民族に特有の慣習と趣向にもとづくものであり、日本語本来の体系からは乖離しているところがある。この表現がいわんとする事実事項を一方で他の日本語話者が次のように言い表すことはありうる――「先週の番付で上十位入りしたあの楽曲集」。現在の日本語版ウィキペディアの記事文を占めている様式は前者であって後者ではない(なぜなら編集者のほとんどが日本社会で暮らしている日本人であり、その特有民族的な傾向が省みられることなく直接的に当サイトの日本語の記述形態に反映されているからだ)。ところが前者の様式を後者のそれよりも正しい日本語の表現として認めることはできない。日本民族独自の表現として受けとめることはできてもそれを日本語本来の体系に根ざした正しい表現として認識することはできない。そして記事の多くはこうした害癖によって日本語版としての言語的品質という初歩的な条件を満たしきれずにある。その現状を PetitLamp は指摘している。


実際の執筆において PetitLamp は現在、日本民族独自の日本語の使い方に服従しようと努めている。なぜなら、それをしないことには自身の編集内容が日本人達によって即座に抹消されたり或いはアカウントそのものを無効化されかねないことを PetitLamp が知っているからだ。日本語の使用にまつわる PetitLamp と日本民族との間のこの関係は、たとえば英語にまつわる英国人やアメリカ人や南アフリカ人との間の関係、あるいはスペイン語にまつわるスペイン人やメキシコ人やアルゼンチン人との間の関係とは打って異なるものである。特有民族的な傾向にたいする中立性が図られている英語版やスペイン語版における記事形態の傍ら、日本語版ではしごく基本的に日本人編集者による支配が台頭している。「マネジメント」という文字列を「管理」に戻すことは許されず、「リズム」を「調子」に戻すことも、また「アウトプット」を「出力」に戻すことも許されない。その現状を PetitLamp は指摘している。


2. 編集態度について


理念として言語以外の分け隔てを持たないはずの Wikipedia だが、「日本国政府」によって制定されている国家的方針をそのまま日本人編集者達はごく普通に日本語版の編集環境に持ち込むことがある。日本語だけでなく著作権などにもたいする日本国独自の解釈がこれに当たる。基本的に属人主義的であるという日本の法律の性格も関係するところだが、これにたいして Wikipedia の中立精神を相対的に保持しようとする動きは日本人編集者達の間ではそれほど活発ではない。他版と違って日本語版では日本語にたいする日本人独自の民族的な扱い方が顕示していることは上に述べたとおりだが、言語的に閉じた環境におけるその自民族主義的な気概が編集態度そのものにも表れている、というわけである。その傾向が特別に規律的なものであればまだよかったのだが、残念なことに現実はそうではない。参考までに、「2ちゃんねる化するウィキペディア」や「ウィキペディアの攻防」といった記事にみられる諸氏の意見を挙げておく。要すると、Wikipedia において日本人編集者達は、独自の日本語の扱い方を非反省的に封建化しているだけでなく、自らの特有民族的な行動原理を露呈するかたちで当サイトの理念をないがしろにしてもいる、ということだ。PetitLamp が実際に目撃したところでは、日本人編集者達は、自分のことが名指しで呼ばれたり他の個人が一つ名のもとに議論を提示展開することを嫌う。さらにはそのような個人の名指しや個人による議論を控えることを彼らはあたかも Wikipedia の普遍的常識であるかのように捉えており、またこれを推奨している。とんだ思い違いである。個人の名指しや個人による議論が望まれないものであるならばアカウントというものがそもそもこのサイトには用意されていなかったはずだし、また自分が名指しで呼ばれるのを嫌うのであれば初めから IP 番号のもとに自らをそれなりに匿名化しておくべきなのだ。健全な編集に臨めている日本人編集者はもちろんいるのだろうが、その周辺で日本社会の内輪的常識にもとづいて当サイトの物書きに携わっている日本人編集者もまた沢山いる。そして後者の方が多いのが現実である。


日本語版では(日本人編集者達の共解によって)「ノート」と示されている項目は、他版では「議論」(discussion、discusión、dyskusja、చర్చ、שיחה、نقاش、討論)の場として解されている。つまり、ここにも、個人対個人という対立構図すなわち客観的な審議に主体的に臨むうえで要される構造を好まない日本民族の典型的な気質が表れているわけだ。いや、表れているだけではなく、日本民族専用の版の仕組として基盤化し、この版の編集に携わるどの人間にたいしてもその特有民族的・内輪的な道理を突きつけてもいる。その事実を PetitLamp は「井戸端」で取り上げてみたが、議論はもののみごとに当日本語版 Wikipedia の編集者人口の多数派を占める日本人達によって棄却された。異論者が集中したことで質疑応答のやりとりが混迷化したことはもとより、閲覧者がおおむね日本人であるという環境においては、言語と民族を切り離すかたちで日本語版の本質的原理を誠実に省みるための反省力・観察力を養うことはおろかそれを求めることすらもがたいへん難しいのである。その現状を PetitLamp は指摘している。


3. 「ダイジェスト」という習慣について


Wikipedia の諸版の中でも比較的に日本語版は多くの記事を有する。しかし充分な見直しを施されていない単なる英語版からの「ダイジェスト」がそこに多く紛れているということも指摘されている。本当のことだ。問題は、英文を訳せばそのままで良質な日本語記事が出来上がるという摂理でもあるかのように編集者達がそれらの「ダイジェスト」を放置するところで起きる。英語というのは確かに緻密で精細な描写を可能とする言語であり、それによる記事文章を日本語のような言語に訳する際にはそれなりの処方が要される。そのことを理解していない編集者が日本語版には多い。たとえば「Dithering」という英語版記事で次のような部分がある――


Another plausible solution would be to take 4.8 and round it so that four times out of five it rounded up to 5, and the other time it rounded to 4. This would average out to exactly 4.8 over the long term. Unfortunately, however, it still results in repeatable and determinable errors, and those errors still manifest themselves as distortion to the ear (though oversampling can reduce this).


これを借用するかたちで日本語版に次のような部分があった――


別のもっともらしい解決策として、4.8 という値を量子化するにあたって、5回に4回は 5 に丸め、残り1回を 4 に丸める。こうすれば長期的に見れば平均で 4.8 となる。しかし残念なことに、これでも繰り返しの決定可能な誤差が発生し、耳で聴けば歪みとして感じられるのである(オーバーサンプリングでこれを低減することは可能)。


これはひどい、と PetitLamp は思った。単なる直訳なのだ。日本語では表現しえない構文形態や意味形態が地球上に存在するという事実にかかわらず、「determinable errors」といった言葉がそのまま「決定可能な誤差」と訳されていた。これは、たとえ英語ネイティヴの日本語話者が読んだって易く理解できるものではない。なぜなら「決定可能な誤差」こそは「(a) decidable error(s)」と解される表現であるからだ。重要なのは、「determinable」と「decidable」の間にあるような違いを必ずしも日本語の語彙で表し分けれるとはかぎらない、ということだ。該当記事のその部分を PetitLamp はとりあえず文脈にしたがって「周期的な誤差」と訳した。このような改善が要されている記事は他にも沢山ある。願わくは、英語版からの借用というかたちで日本語版の記事を新規に作成する際に編集者は充分に気をつけなければならない。


日本語そのものの性格が Wikipedia の記事作りに与える影響について

「2ちゃんねる」における投稿群が代表的に示しているように、匿名性というものに日本人は猛烈にあやかうところがある。ブログにしたって、日本人利用者の9割以上は匿名である(インターネットコムと goo による調査 を参照)。 これは、外国人にみられる傾向とは打って異なるものだ(Fernand Viégas による調査 を参照)。当日本語版 Wikipedia では、アカウントという制度が存在するものの、やはり、登録されている名称の多くは本人の実名を類推できないようなものばかりで(ちなみに PetitLamp は外国版においては実名で投稿活動をしている。PetitLamp という仮称は日本人向けに特別に用意したものだ)、また、(前節で述べられているように)自分が名指しで呼ばれることを嫌うという性向が、多くが日本人である編集者達の間によくみられる。個人よりも集団(家族・会社・国家)のほうに行動規範の基軸を置くという日本民族の伝統的な社会性がそこに継承されていることを認めるのは易いが、それとは別に、日本語の使用そのものが、匿名やムラ化にたいする日本人の志向に(相関的に)一役買っているところがあると思われる。日本人はごく頻繁に主語を省く。これはスペイン語やイタリア語などの外国語にもみられる省略だが、そちらの諸言語には少なくとも述語の形が格で変化するという仕組が備わっていて、主語を省いても主格は不明にならない。一方の日本語では、主語を省いてしまえば主格が不明となる。よって、動詞などが示すところの活動の主体が自明のものではなくなり、これについては、日本人達の間のごく伝統的・慣習的な談話法的省略規則にもとづいて暗黙のうちの推測を徒然に試みることとなる。たとえば次のような文が某図鑑の中に実在する――


ジェミニ計画はアメリカの宇宙開発競争への復帰宣言だった。重量が4トンもあったため、地球を回る軌道に乗せるにはタイタンII型というロケットが必要だった。


2文目、いったい何の「重量」なのか、また、いったい何を「地球を回る軌道に乗せる」のか、その主格が提示されていない。1文目に「ジェミニ計画」という主語があるが、計画は観念であって重量を有さないし衛星軌道を回ることもない。この例における隠れた主格はおそらく「人工衛星」などの事物だが、人物を隠れた主格とする文としては次のような例がある――


新しく越したこの町では、あなた以外にまだ人は知らない。


動詞「知らない」の主体が省略されている。この例における隠れた主格はおそらく「私」だが、格を識別するための文法的要素が日本語の言葉にはやはり備わっていない以上これは「彼」や「彼女」でもありうることとなる。このあたりは文脈というものを頼りにすればおおむね定まるものだが、ここで PetitLamp が着目しているのは、格の変化といった仕組を持ちあわせていない言語において一文中の主格をごく普通に省略する日本人達の一般的な習慣である。


そこに一種の変わった匿名性にたいする彼らの志向がある。主格の明示を彼らはかならずしも好まず、むしろこれを忌避したり、良い文の条件とはみなさなかったりする。「君は僕がかぶっていた帽子を見なかったか?」よりも「帽子を見なかった?」のほうが日本人の語感には合うのだ。そしてそのような言語使用環境で育つなか、日本人は、「人を名指しで呼びつけるもんじゃない」とか「自分の名をあげて堂々と議論を繰り広げるもんじゃない」という日本社会特有の内輪的な掟を無意識的にも頭に染み込ませることとなる。個人対個人のはっきりとした討論という様相は避けるべきものとしていくようになる。


(皆ではないにしろ)日本人は、議論の要点が、討論という過程をすっとんで誰からとはなしに箇条書きのようなかたちでそれとなく浮き上がってくることを期待する。学校の教室といった教育の場でもそうだし、インターネットにおける意見交換の場でもそうだ(参照)。少しでも長い意見文は「演説」と同一視し、それがまた非多数派的な意見である場合にはこれを「荒らし」とし、当の投稿者を追放しにかかる。前節で述べられているように、日本語 Wikipedia における「ノート」という項目名は特異なものだ。他版では「討論」の場として設けられているこの空間が、日本語版では「覚書」のための黒板のごときものとして使われている。討論は、日本人からはあまり望まれない作業工程なのだ。彼らはまた「批判」という行為にたいしてなかなか神経質に反応しがちだ。自らの投稿には署名を残すということを道理として了解していながらも、そこに示した自分の名を別の編集者が指しながらその投稿内容を批判した折には、憤慨と敵対心を覚え、当の批判から離れて「名指し無用」という逆批判を相手に投げつける。


議論や意見(argument)の健全なやりとりとは、お互いの提出する命題(proposition)を交換的に吟味し合うことでもたらされる。英語など外国語の話者と違って、主格をはじめとする構文要素を日頃から意識して明示する必要が無いという言語環境で育つ日本人は、命題論理というものにあまり慣れていない。「あなたは綺麗になったね」ではなく「綺麗になったね」で相手と意思の疎通を図るのが彼らなのである。それはそれで特有の詩的魅力に通ずるものがあるのだが、本格的な討論が有意義となっている当 Wikipedia のような場では、現代の日本人の日本語はいくらか機能不全をきたすこととなる。通数という約束にもとづいて単数と複数とが区別されないことはもとより、必要な文要素を明示することが習慣的な制約によってもどかしく感じられること、また、文が有する情報を明細にすればするほど主辞と賓辞との間が離れていってしまうという日本語型SOV構文が、明確な命題文の生成を難しくしている。「日本製品は、ハードウェアは excellent、ソフトウェアは good、でもマニュアルは joke だ」という外国人のコトワザは的を外れたものではない。日本人同士の間ではナアナアで通じ合う文章も、実際には非合理的な言葉のつらなりからなっている場合がごく頻繁にある。たとえば『サウンド&レコーディング』という雑誌に載っていた、音楽制作用のミキサーについて日本人が書いた説明文として次のようなものがある――


センドは元のオーディオ・チャンネルから音を分岐させてエフェクトをかけるので、元音とエフェクト音をミックスして使用するのが前提のエフェクト向きと言えます。


結びとして「エフェクト向き」と述べている以上、初めの文節の「エフェクトをかける」という賓辞は蛇足となる。また、「エフェクトをかける」にたいする主語として「センドは」と書かれているが、音声信号にエフェクトをかけるのはエフェクターであってミキサーのセンドそのものではない。センドこそは信号の通行口なのだ。その事はこの文の筆者も知っているはずなのだが、日本語を使うところではそのあたりの分別がなかなかつけられないものであり、結果としてこのような曖昧で不正確な表現が提出されることとなりやすい。例文に示される日本語のおかしな特徴は他にもある。「~するのが前提のエフェクト向き」とはいったいどのような文法構造から成立しているのだろうか。ここでの「前提・の」や「エフェクト・向き」といった言葉を品詞として明確に定義することはできるだろうか。名詞ともなりえれば副詞とも形容詞ともなりえる、という多義的な状態がここにあるのだ。また、この箇所に先立つ「元音とエフェクト音をミックスして使用する」では、「使用する」の目的格として「元音とエフェクト音」が配されているが、本来ここに当てるべきなのは「センド(の機能)」、つまり、「使用する」の対象は「センド(の機能)」であって「元音とエフェクト音」ではないのだ。そのようにして使用されることを前提とするものであるゆえに「センド」は「エフェクト向き」なのだ。また、「言えます」は能動態だが、これに対応する主体(私は・私達は)はやはり省かれており、命題としては不安定である。一般の日本人はこのような欠如に気づくことなくこれをごく日常的に看過するが、文そのものは命題上の不備をきたしている。これを敢えて是正するならば受動態の「言われえます」を用いて初めの「センドは」をその主格とすることになる。そして事典の解説文たるものはそのような適切性に基づくべきなのである。残念ながら「言われえます」という言葉遣いを日本人はしない。アメリカ人が独自の英語観を持っているように、日本人にも日本人なりの日本語観があるのだ。結局、一般の日本社会では上の例文がそのままのかたちで使われざるをえなくなる。


このような言語環境において議論を交し合うからには、それなりの看過性が参加者達に要される。たとえば発言内の対象の数値的実体を気にしてはならないとか、省略された主格や補語が何であるかを毎回問い尋ねてはいけないとか、言及対象の詳細な側面(「机の上のハエ」は「a fly above the table」なのか「a fly on the table」なのか、といった違い)は気にせずこれを妥協するとか。ただしこのような漠然性や非合理性を議論の場でおおむね許容するとなると、また別の問題が起きる。その問題は、「2ちゃんねる」にみられるような意見交換の泥沼化によって典型化されている。「2ちゃんねる」の利用者はオタクであって一般日本人を代表しているわけではない、という指摘はあるものの、日本語環境における議論の泥沼化や諸々の「2ちゃんねる用語」の発生と普及が現代日本語の抱える本質的な問題とはまったく無関係だとみなすことはできない。当 Wikipedia でさえ、日本語版とそれ以外の版とでは記事のつくりだけでなく編集者同士の発言の交し合いにおいても様相がかなり異なっている。既に述べたように、日本語版 Wikipedia には、(日本語話者の人口の割合と分布による必然的な結果として)話者の多数派を占める日本人の民族的な慣習と傾向が支配的に顕在しており、そこに匿名性が油をさすかたちで、インターネット上最大手の百科事典の編集工程とは思えないような特異なやりとりと意見のぶつけ合いがよく始まる。


日本語版 Wikipedia は、記事の作成以前に、日本語の使用について留意すべき点を抱えているのだ。

IPA の推奨

日本語圏外に由来する事物・事象の呼称について IPA (国際音声記号)の表記をそえることは有益だ。日本人の習慣では外来の言葉はカタカナで言い表すことが基本となっているが、そのような趣向は Wikipedia においては優先されるべきものではない。日本語版で『アビエイター』として解説されている『The Aviator』というアメリカ映画の呼称を例にとる。「アビエイター」という文字列そのものが製作者側の了解にもとづく日本人向けの公式の名称であるにしろ、そこにある[abɪeɪtaː] というカタカナ発音にもとづいて本来の「the aviator」[ði eɪvieɪtə] という言葉の音声的事実をないがしろにしてしまうことは、信頼できる正確な情報を求められる Wikipedia としては好ましくない。(またそのようなカタカナ表記はあくまで日本人向けであって日本語話者向けではないのだ。)「英語であることぐらいが分かっているかぎりはこれを日本人が堂々とカタカナ発音することはないだろう」という意見はあるものの、外国語の音声を発音記号にもとづいて学ぶ慣習を持たない(中学校の英語教育の時点からカタカナ表記を通じて発音を認識する癖をつけてしまう)一般の日本人は、「the aviator」といった言葉の正しい発音を知る機会に貧窮し、結局のところ英語人に向かっても [ʑa abɪeːtaː] と口にしてしまうのがオツなのである。その慣習を少しでも改めるという目標もかねて Wikipedia で説明対象の概念や事物の外来語名称に IPA 表記を付加することは日本人を苦しめないはずだ。したがってそのような処方を PetitLamp は推奨する。