利用者:Pixan/提言:「多い」の表現は危険を伴う
様々な記事の中で、「○○は▲▲▲であることが多い」といった表現を見かける。本当にそれは多いのだろうか。一般的に、何かの状態について多いか少ないかを判別するためには客観的な観測や資料が必要である。記事編集者の視点から見て「多い」と感じたことを素直に「多い」と書いていないか。
ウィキペディアは百科事典であり他の何者でもない。特に、ウィキペディアが洗脳のツールであることは絶対にあってはならない。
「多い」あるいは「少ない」といった表現は、誰でも簡単に扱える洗脳の手法である。この表現の前後にもっともらしい記述を行えば、読み手に「なるほど、○○は▲▲▲なんだ」と思わせることができる。特に注意すべき点は「○○はたいていの場合▲▲▲なんだ」と伝わるのではなく、「たいていの場合」の抜けた形で伝わるのである。
また、「多い」と位置づける基準が不明確な上、恣意的に定めることがいくらでもできる。ある人は全体の80%に達した事柄を「多い」とするかもしれないが、40%程度で「多い」とすることもできよう。具体的な表現の例を挙げてみると、
- 「A国では、対人地雷によって手足を失い、満足に就労できない家族のいる家庭が40%程度存在する」
- 「B国では、自分の名前や住所以外の文章を満足に書き記せる成人の割合は40%程度である」
おそらく、前者は多く感じられ、後者は少なく感じられるはずだ。
もし、「多い」といった表現を用いるなら、その対象以外と比較することは最低限必要である。「○○は◇◇◇に比べて▲▲▲の方が多い」というようにするのが最も簡単である。しかしこの場合でもきちんとした情報収集をしなければ意味をなさなくなる。「(個人的に見たところ)◇◇◇に比べて▲▲▲の方が多い」では個人の主観に基づいた表現にしか過ぎず、記事として記述し、第三者に読まれる価値はない。
アマチュアの編集者として、十分な調査を行うのは困難である。特に数値的な把握のできない事柄については困難ではなく不可能かもしれない。ではどうしたらよいか。それは容易である。多い・少ない、一般的・まれといった表現を用いず、「▲▲▲という例がある」、複数の姿を書くなら「▲▲▲、◇◇◇などが存在する」という表現で書けばよい。
こうすることで編集者の主観は取り除かれ、不確かな情報で読者を惑わすことはなくなる。確かにその編集者の見ただけの例しか記述できないが、それは複数の編集者が自由に加筆できるウィキペディアの性質によって補われる。ウィキペディアが百科事典であり続けるため、この点は重視していただきたい。--pixan 2006年1月20日 (金) 08:40 (UTC)