利用者:Poo tee weet?/1

ビザンツ・アラブ戦争
イスラームの征服中

ギリシアの火がはじめて実戦で使用されたのはビザンツ・アラブ戦争のときのビザンツ海軍である
634–1180
場所レヴァント、シリア、エジプト、北アフリカ、アナトリア、クレタ、シチリア、南イタリア
結果 アラブが全体的に領土を拡げ、ビザンツも再興した
領土の
変化
レヴァントメソポタミア北アフリカがアラブ帝国に組み込まれた
衝突した勢力
ビザンツ帝国[1]
ブルガリア帝国
十字軍国家
ガッサーン朝[2]
イタリア都市国家
正統カリフ,
ウマイヤ朝,
アッバース朝,
アグラブ朝,
en:Emirate of Bari,
en:Emirate of Crete,
Hamdanids of Aleppo,
Fatimid Caliphate
指揮官
Heraclius,
Sergius,
Theodore Trithyrius ,
Gregory the Patrician ,
Constans II,
Constantine IV,
Justinian II,
Leontios,
Heraclius,
Constantine V,
Leo V the Armenian,
Michael Lachanodrakon,
Theophilos,
Niketas Ooryphas,
Himerios,
John Kourkouas,
Bardas Phokas the Elder,
Nikephoros II Phokas,
Leo Phokas the Younger,
John I Tzimiskes,
Michael Bourtzes,
Basil II,
Nikephoros Ouranos,
George Maniakes,
Andronikos Kontostephanos
Zayd ibn Harithah ,
Khalid ibn al-Walid,
Caliph Abu Bakr,
Caliph Umar
Abu Ubaidah ibn al-Jarrah,
'Amr ibn al-'As,
Shurahbil ibn Hassana,
Yazid ibn Abu Sufyan,
'Iyāḍ ibn Ghanm,
Al-Zubayr,
Abdullah ibn Saad,
Yazid I,
Muawiyah I,
Muhammad ibn Marwan,
Maslamah ibn Abd al-Malik,
Mu'awiyah ibn Hisham,
Harun al-Rashid,
Al-Ma'mun,
Al-Mu'tasim,
Leo of Tripoli,
Umar al-Aqta,
Sayf al-Dawla,
Manjutakin

Template:Campaignbox Byzantine-Arab Wars

Sham region was just the start of Arab expansion.
  Expansion under Muhammad, 622-632
  Expansion during the Rashidun Caliphate, 632-661
  Expansion during the Umayyad Caliphate, 661-750

ビザンツ・アラブ戦争(Byzantine-Arab Wars )とは、7世紀から12世紀にかけておこなわれたビザンツ帝国とアラブのムスリム王朝でおこなわれた戦争のことである。正統カリフおよびウマイヤ朝の時代にとられた拡張路線のもとではじめてのジハードが起こり、戦いが繰り広げられた。その後十字軍の遠征がはじまるまで、この戦争は長期化し、膠着状態が続くのであった。一連の戦争によって、アラブ人たちが支配する領土は飛躍的にひろがった。

最初の衝突は634年に起こり、718年に二度目のコンスタンティノープルの包囲がおこなわれるまで戦いが続いた。この包囲によってアラブ帝国のアナトリアへの攻勢はいったん停止することになるが、9世紀ごろから1169年にかけて再び衝突が続く。アッバース朝は9世紀および10世紀に南イタリアとシチリアを占領した。しかしマケドニア朝のもとビザンツ帝国がレヴァントを奪い返す。その先進的な軍装はアラブ人の有するエルサレムから南をおびやかし、アレッポおよびその周辺はビザンツの従属国となったが、その西方のエジプトではファーティマ朝が王国を築きビザンツにとって脅威となっていた。しかし新たに興ったセルジューク朝がビザンツの獲得した土地を奪いとり、さらにはアッバース朝をアナトリア深くへと追いやった。この結果をうけてアレクシオス1世はローマ教皇ウルバヌス2世をたよりピアツェンツァ教会会議でなんとか軍事的な支援を引きだそうとした。一連の出来事はしばしば第一次十字軍の先駆とも評される。

背景[編集]

6世紀から7世紀までと長期化し、規模も拡大していたビザンツ帝国とササン朝の戦いは両国を深く疲弊させ、ことに急に出現したアラブ人が勢力を拡大しはじめるという事態に直面すると、その脆さを露呈することになる。しかし最終的に勝利をおさめたのはビザンツであった。皇帝ヘラクレイオス1世は失地を回復し、629年にはエルサレムへ聖十字架をとりもどした[3]。しかし、ササン朝はおろかビザンツ帝国も全盛期の勢いをとりもどすことはなく、わずかもしないうちに攻勢をかける、新たにイスラム教のもと結束したアラブ人たちには抗えなかった。その猛襲は、ハワード-ジョンストンによれば「人の津波としか呼びようのない」ものであった[4]。またジョージ・リスカは「不必要なまでに長引いたビザンツとペルシャの争いがイスラム世界に門を開いた」と評している[5]

620年後半ごろにはムハンマドがすでにアラビア半島の大半を攻略しており、ムスリムの法のもとにまとめあげていた。こうして新たな指導者をえたムスリムとビザンツの間に小競り合いがおこる。そのわずか数ヶ後、ヘラクレイオスはペルシアの将軍シャルバラーズと手を結び、ペルシアの兵力をビザンツが失った東部へと割くことで合意し、629年にはアラブ軍とムタで会戦する[6] 。ムハンマドが632年に亡くなると、後を継いだアブー・バクルは最初の正統カリフとしてリッダ戦争を戦い抜き、アラビア半島全域を完全に掌握した。かくして半島一帯に強力なムスリム国家が根を下ろしたのであった[7]

戦いの幕開け[編集]

ムスリム側の伝記作家によれば、ビザンツ軍がアラビア北方に集結し、侵攻する気配をみせているという情報をえていたムハンマドは、先手をとって軍を現在のサウジアラビア北西部にあたるタブクへと派遣した。しかしこの知らせは間違いだったことがわかっている。典型的な意味での戦争にまで発展せずとも、実際に衝突が起こっていればビザンツ帝国へのはじめてのアラブ人の攻撃という表現になったはずだ。It did not, however, lead immediately to a military confrontation.[8]。しかし、タブクへの遠征に関する同時代のビザンツ側の史料はまだ見つかっておらず、詳細の大部分はずっと後になってからのムスリムの史料をふまえたものである。長らく629年のことだとされてきたムタの戦いについての記録だとみなしうる記述がビザンツ側の史料にもあるという説があるが、自明なものではない[9]。最初の交戦とされているのはビザンツに従属するアラブ国家とササン朝の衝突で、それぞれガッサーン朝とラフム朝ヒーラ王国である。いずれにせよ、アラブ人は634年にはどちらの帝国にたいしても莫大な戦果をあげており、レヴァント、エジプト、ペルシアがイスラム教国家に組み入れられた。傑出した戦功をあげた将軍としてはハーリド・イブン・アル=ワリードアムル・イブン・アル=アースの名があがる。

シリアの征服 : 634-638[編集]

レヴァントでは、侵略をすすめる正当カリフの軍勢の前にビザンツ帝国が立ちふさがった。その軍兵の半数は地方からの徴集兵である[1]。イスラム史の研究者によれば、ビザンツの支配に不満をもっていたシリア一帯に暮らす単性論者のキリスト教徒やユダヤ人たちはアラブ人の侵略を歓迎していたという。またアラビア半島の諸部族も、肥沃な三角地帯を占めるアラブ人たちと経済的にも、文化の面でも、その出自においても結びつきがあった。

皇帝ヘラクレイオスは病に倒れており、634年のアラブによるシリア・パレスチナの征服に抵抗する軍隊を指揮することができなくなっていた。同じ年の夏にはアジャナダインのそばで戦闘がおこるが、正当カリフの軍勢が決定的な勝利をおさめている[10]。ファールでも勝利したムスリムは、ハーリド・イブン・アル=ワリードの指揮のもと634年にダマスカスを占領した[11]。それに対抗するために、ビザンツは集められるだけの兵士を集めて主立った指揮官に任せ、軍を急行させた。こうしてテオドロス・トリテュイオスとアルメニア人の将軍ヴァハンはムスリムを撃退するために、アラブ人が新たに得た土地へと向かった[11]

しかし636年のヤルムークの戦いでは、地の利を知り尽くしたムスリムがビザンツ軍を局地戦へと誘い出した。ビザンツ側も本来は避けるような地形であったが、深い谷や崖が凄惨な死の罠へと変わるなか損害をかさねながらも攻撃を耐え忍ばねばならなかった[12]。コンスタンティノープルへと向かうためアンティオキアに別れをつげてそこを離れるときの(9世紀の史家アル=バラードゥリーによれば)ヘラクレイオスの叫びはその深い失望を表していた[13]。「汝に平和を、おおシリアよ、なんと素晴らしい国だろう敵にとっては!」b[›]。シリア陥落がビザンツに与えた衝撃は大きく、ヨハネス・ゾナラスの言葉を借りれば「[…]そのときから[シリアが失われた後]、イシュマエルの子らがローマ全土で侵略と略奪をはばかることはなくなった」[14]

Muslim and Byzantine troop movements before the battle of Yarmouk.
"The people of Homs replied [to the Muslims], "We like your rule and justice far better than the state of oppression and tyranny in which we were. The army of Heraclius we shall indeed, with your 'amil's' help, repulse from the city." The Jews rose and said, "We swear by the Torah, no governor of Heraclius shall enter the city of Homs unless we are first vanquished and exhausted!" [...] The inhabitants of the other cities—Christian and Jews—that had capitulated to the Muslims, did the same [...] When by Allah's help the "unbelievers" were defeated and the Muslims won, they opened the gates of their cities, went out with the singers and music players who began to play, and paid the kharaj."
Al-Baladhuri[15] – According to the Muslim historians of the 9th century, local populations regarded Byzantine rule as oppressive, and preferred Muslim conquest instead.a[›]

637年4月、長く続いた包囲の末にアラブ人はソフロニウス主教が籠もるエルサレムを攻め落としたc[›]。夏にはガザを征服したことで、同時期にビザンツの支配者がエジプトとメソポタミアで結んだ休戦協定には高くつくことになった。このときの平和はエジプトでは3年、メソポタミアでは1年保たれた。アンティオキアがムスリムの軍勢に落とされるのが637年の後半であり、そのころまでには北シリアの大半がビザンツの手を離れていた。その例外となったメソポタミアの上流域には1年間の猶予が与えられたことになる。この協定の期限が切れると638年から639年にかけてアラブ人はビザンツ支配下のメソポタミアとアルメニアを攻め立るとともに海辺のカエサリアを襲い、ついにはアシュケロンを陥落させてパレスチナ征服を果たした。639年10月にはパレスチナを離れ、640年はじめにエジプト侵攻をおこなっている[9]

北アフリカの征服: 639-698[編集]

エジプトとキレナイカの征服[編集]

ヘラクレイオスが亡くなる頃にはエジプトのほとんどが失われ、637-637年にはシリア全土がイスラム勢の手に渡っていたd[›]。3500から4000人の部隊を率いたアムル・イブン・アル=アースは、639年の終わりから翌年のはじめにパレスチナからまずエジプトに渡った。途中でアブドゥッラー=イブン・アッズバイル|アッズバイルの12,000が進んで合流し、さらなる援軍を得たアル=アースははじめバビロンを囲みこれを落とすと、アレクサンドリアへ攻勢をかけた[16]。あまりにも多くの領土を突然に失ったことで国を分断され、たいへんな衝撃をうけていたビザンツは、642年9月にはアレクサンドルを手放すことを決めた。この都市が奪われたことで、エジプトからビザンツの支配地は消えてしまった。ムスリムはさらに軍事的な拡張を続け、北アフリカに殺到する。643年から644年までの2年間でアル=アースはキレナイカの征服をおえている[17]。2代目カリフのウマル・イブン・ハッターブが死ぬと、ウスマーンが後を継いだ[18]

ウスマーンがカリフに就いてすぐの645年、ビザンツの海軍がすばやくアレクサンドリアを奪い返している。しかし翌年、ニキウの戦い直後には再びこの街はムスリムの手に落ちる[19]。イスラム軍は652年にシチリアを襲い、ついで653年にはキプロスとクレタを確保した。アラブの歴史家によれば、この地方のキリスト教徒であるコプト人は、エルサレムで単性論者がそうしたように、アラブ人の占領を喜んだという[20]。これら豊かな土地を失ったことでビザンツは貴重な小麦の供給源を奪われてしまい、続く10年もの間ビザンツ帝国は全国的な食糧不足に頭を悩ませるようになり、軍も弱体化していった[21]

北アフリカの二度目の征服[編集]

647年、アラブの軍勢はビザンツのアフリカ総督を破り、トリポリタニアを征服した。ついでカルタゴから南に150kmほどのスベイトラを征服し、アフリカ皇帝を自称していた司令官のグレゴリーを殺している。後継者のゲンナディオスに毎年30万枚のソリドゥス金貨の進貢を約束させると、戦利品を抱えたアラブ人たちは648年にエジプトへ帰還した[22]

アラブ帝国で起きた内戦はムアーウィヤ1世のもとウマイヤ家が権力を握って終結した。そしてウマイヤ朝のもとで北アフリカに残るビザンツの支配地の征服が完了し、ベルベル人の将軍ターリク・イブン=ズィヤードのもとアラブ人は西ゴート王国のスペインへ攻勢をかけることで、マグレブの大部分で自由に行き来できるようになった。しかしその前提として、海軍の増強とカルタゴの城塞の攻略、その破壊があるe[›]。アフリカを失うということは地中海西方の支配者であるビザンツにとって、チュニジアを出発し拡大を続ける新たなアラブ艦隊といまにでも闘わなければならないということを意味していた[23]。 Following a civil war in the Arab Empire the Umayyads came to power under Muawiyah I. Under the Umayyads the conquest of the remaining Byzantine territories in North Africa was completed and the Arabs were able to move across large parts of Maghreb, invading Visigothic Spain through the Strait of Gibraltar,[20] under the command of the Berber general Tariq ibn-Ziyad. But this happened only after they developed a naval power of their own,e[›] and they conquered and destroyed the Byzantine stronghold of Carthage between 695–698.[24] The loss of Africa meant that soon, Byzantine control of the Western Mediterranean was challenged by a new and expanding Arab fleet, operating from Tunisia.[25] ムアーウィヤはアラル海からエジプト西の国境にいたる領土の支配を固め始めた。フスタートにエジプトの司令官を送り、663年にアナトリアを攻めさせた。そして665年から689年には、「側方からのビザンツによるキュレネへの攻撃から」エジプトを守るために、新たに北アフリカを攻略する動きを起こした。40,000のアラブ軍がバルカを襲い、30,000のビザンツ軍を打ち負かしている[26]

ダマスカスからウクバ・イブン・ナフィ率いる10,000の先鋒がそれに続き、670年にはいまのチュニジアがある地にケルアンが建てられた。さらなる侵攻への拠点となったケルアンは後にイフリーキヤの首都となり、中世におけるアラブ-イスラム文化の中心地となった[27]。そしてイブン・ナフィはその心臓部を駆け抜け、未開地を横断し[28]、ついには大西洋とサハラ砂漠にまで到達し、国境を広げた[29]。さらにマグレブ征服を進め、沿岸部の都市であるブジア、ティンギを落とし、かつてローマの属州であったマウレタニア・ティンギタナに迫ったところでようやくイブン・ナフィはその歩を休めた[30]。歴史家のルイス・ガルシア・ド・ヴァルデアヴェリャーノはこう言う。

ビザンツやベルベル人との苦闘の末に、アラブの指揮官はアフリカにおける支配圏を著しく広げた。ウクバは682年には大西洋を臨む岸辺に達しているが、タンジェを占領することはかなわなかった。彼をアトラス山のほうへ追いやったのは、ジュリアン伯爵として歴史と伝説に名を残すことになる人物である[31]

アナトリア侵攻とコンスタンティノープル包囲[編集]

近東を征服していったムスリムたちの第一波がおさまったことで、二つの大国のあいだには半永久的な国境が引かれることになった。トロス山脈とアンティトロス山脈を南端としてビザンツとアラブのどちらも領有を主張しなかったキリキアの広大な土地(アラビア語でal-Ḍawāḥī「外界」、ギリシャ語で τὰ ἄκρα, ta akra「末端」として知られる)は事実上うち捨てられ、シリアがムスリムの、アナトリアはビザンツの手に委ねられた。ヘラクレイオスもウマル・イブン・ハッターブ(在位634-644年)も、この一帯をうまく二国間の緩衝地帯にしつつ敵を打ち倒す戦略を練っていた[32]

しかし、アラブ帝国の指導者はなおもビザンチン、とくにコンスタンティノープルの征服を究極の目標としていた。シリアの総督として身を立て、後にカリフとなったムアーウィア1世(在位661-680年)はつねにビザンチンと争うムスリムの原動力となっていた人物であり、とくに彼の創設した艦隊は島や沿岸を襲いビザンチン海軍を苦しめていた。655年のマストの戦いで、ビザンチン帝国の艦隊ができたばかりのムスリムの海軍に敗れたことは衝撃的であり、また重要な分岐点ともなった。かつては「ローマの湖」と呼ばれた地中海がアラブ帝国の拡大のために門を開いたことで、地中海の水路の支配権をめぐる長い海上の攻防が始まったのである[33][34]。またムアーウィアは641年に初めて大規模なアナトリアへの攻撃をしかけた人物でもある。ビザンチンを入り江に釘付けにし、敵軍の弱体化や略奪もかねたこれら水陸の遠征は、それに対するビザンチンの報復もあいまって、次第に3世紀にわたるビザンツとアラブの本格的な戦争につながっていった[35][36]。>

Gold tremissis of Constans II

656年にムスリムで内戦が勃発したことでビザンツ帝国にとっては貴重な休息がもたらされ、コンスタンス2世(在位641-668)が守りをかため、アルメニアでの支配を広げ、安定させるだけの時間が生まれた。さらに重要なのは、ビザンツの軍制が大幅に改められたことである。後世まで維持されることになるテマ制を導入し、帝国に属する大きな一つながりの土地であったアナトリアを分割して司令官が置かれた。そしてそれまでの軍はそれぞれの配置のままにし、兵士たちは軍役-の対価として現地に入植させるというものであった。この制度はその後何世紀にもわたってビザンツ帝国の防衛機構の要ともいうべきものとなる[37]

内戦に勝利したムアーウィヤは、アフリカ、シチリア、近東にあるビザンツの拠点へ波状攻撃を開始する[38]。670年にイスラム艦隊はマルマラ海を突破し、その冬にはキュジコスを押さえている。4年後、ムスリムの大艦隊は再びマルマラ海に現れ、やはりキュジコスを拠点にし、そこからほとんど制約をうけずにビザンチン側の沿岸都市へ攻撃をしかけている。676年、ついにムアーウィヤは陸路からも軍を送りこんでコンスタンティノープルを取り囲み、はじめて帝都の包囲をおこなった。しかしコンスタンティン4世(在位661-685年)が用意していたのはキリスト教徒の亡命者が発明した「ギリシアの火」として知られることになる圧倒的な武力をもった新兵器であった。ギリシアの火がマルマラ海で攻撃をしかけていたウマイヤ朝の海軍に決定的な敗戦をもたらしたことで、678年にコンスタンティノープルの包囲は解かれた。ムスリムの艦隊は帰投中の嵐によってさらに損害を重ね、陸でも撤退中の部隊がテマ制下の兵士たちに襲われ、多くの将兵を失うことになる[39]

包囲作戦中に死んだ者のなかにエユップという人物がいた。彼はムハンマドの旗手であり、その最後の仲間でもあった。今日のムスリムにとってその墓はイスタンブールで最も神聖な場所の一つと考えられている[40]。ビザンツ帝国がウマイヤ朝に勝利したことで、拡大を続けていたイスラム世界はヨーロッパの手前で30年近くも足踏みすることになった。

In spite of the turbulent reign of Justinian II, last emperor of the Heraclian dynasty, his coinage still bore the traditional "PAX", peace.

コンスタンティノープルでの挫折に続いて巨大なイスラム帝国にさらなる変化が起こった。ギボンは次のように書いている。「新たな世界に焦がれたこのムハンマド風のアレクサンダー大王は、近代においてはその勝利を歴史に刻むことができなかった。ギリシア人とアフリカ人とが海をまたいで彼に背いたために、大西洋の岸辺から手を引かざるをえなかったのである」。ムアーウィヤはすぐに兵士を蜂起した暴徒たちのもとへ向かわせたが、その戦いのさなかに反乱軍に取り囲まれ、そのまま全滅させられた。一方で三代目のアフリカ総督も、コンスタンティン4世によってコンスタンティノープルからカルタゴの救援に送られた強力な軍隊に倒されたのだった[30] 。その間にアラビア半島とシリアでは二度目の内戦が起き、680年のムアーウィヤの死からアブド・アルマリクが即位する685年までにカリフが4度交替するという事態が生じた。そして内戦も反乱軍の主導者が692年に死ぬまで続くのである[41]

ヘラクレイオス朝最後の皇帝であるユスティニアヌス2世(在位685-695年、705-711年)のサラセン人との戦いは「時代をおおった混沌を反映していた」[42]。戦いを上首尾で終えた皇帝は、アルメニア、イベリア地方、キプロスを共有することで休戦に合意した。しかしキリスト教徒でもあった12,000人のマルダイテス人をもともと暮らしていたレバノンから追放したことで、アラブ人たちからシリアという大きな障害物を取り払ってしまった。凄惨なセヴァストポリスの戦いを終えたムスリムは、アルメニア全土を襲い、征服する[43]。一方ビザンツ帝国では、695年に退位したユスティニアヌスが、698年のカルタゴ陥落の後の705年から711年に再び権力を握っている[42]。二度目の戴冠は小アジアにおけるアラブ人の勝利と政情不安をうけてのものだった[43] 。伝えられるところでは、先の戦いを終えた皇帝はそこで自分を見捨てなかった唯一の部隊を自らの護衛に命じて処刑している。次に見捨てられないとはかぎらないからだという[42]

ユスティニアヌスの退位は、一度目も二度目も内乱や相次ぐ暴動、そして正当性や支持を失った皇帝自身の問題によるものだった。この情勢のなか、ウマイヤ朝はアルメニアとキリキアの支配をかため、コンスタンティノープルへの再度の攻撃を準備しはじめた。ビザンチンでも「イサウロス」ことレオーン3世がちょうど717年3月に即位をおこなった頃、ウマイヤ朝の王子であり将軍であるマスラマ・イブン・アブド・アルマリクが大軍を率いて帝都へと進軍を開始した[44]。陸路と海路を進むマスラマの指揮する軍隊は資料によればその数およそ120,000、1,800隻というもので、実際の数字は定かでないがビザンチンの兵数をはるかに上回る大軍であった。しかし海に面した城壁はレオーン3世のもと補修され、強化されたばかりであり、さらに皇帝はブルガールのハン、テルヴェルに支援を頼み、侵略者の後方を攪乱することを約束させたのだった[45]

The Theodosian Walls of Constantinople

717年7月から翌年の8月まで、帝都はムスリムによって陸と海から包囲された。丘には長大な防塁と対塁が二重に張り巡らされ、コンスタンティノープルは孤立することになる。水上の完全な封鎖も試みられたのだが、ビザンチンの海軍が「ギリシャの火」をもちいたために失敗を余儀なくされている。アラブの艦隊は城壁の防衛にゆとりを与え、帝都の補給線は安定したままだった。冬まで包囲を延長することが決まり、取り囲む兵士たちは寒さと糧食の不足に苦しむことになる[46]。春が訪れ、海はアフリカとエジプトから、陸では小アジアを通じた新たな援軍が新たなカリフ、ウマル2世(在位712-720年)の命をうけて送られてきた。新造艦の漕ぎ手はおもにキリスト教徒であり、その多くがすでに欠員になり始めており、くわえて陸の部隊もビュテニアで待ち伏せにあい敗走していた。さらには飢餓と疫病がアラブ軍の宿営に蔓延し、ついに包囲は718年8月15日に解かれることになる。撤退中にアラブの艦隊はさらに損耗をだす。再度の嵐と、テラ島の噴火によるものだった[47]

マスラマは無数の艦隊を横に並べた(これまでに私が見たどれよりも長かった)。ルームの独裁者、レオーンがコンスタンティノープルの門塔の一つからこちらに臨んでいた。相手は歩兵を長い横列に組み、ムスリムたちが埋める岸辺をにらみ海と壁のあいだに並んだ。我々は1000隻の艦で武器を誇ってみせた。灯船で、エジプト人の衣料品店があった大型船で、戦士たちののったガレー船で…しかしウマル2世のそばで船から敵を覗きみる者たちは港の入り口に近すぎたのではと恐れ、命を惜しむばかりだった。ルームはそれをみてとるなり、港からガレー船と灯船を我々のほうにだしてきた。そのうち一隻が、最も近いこちらの船に近づいて鎖つきの錨を投げこむと、船員ごとコンスタンティノープルへと牽いていくのだった。我々の落胆たるや

その後の衝突[編集]

ムスリムの征服活動の第一波は718年のコンスタンティノープル包囲の失敗で終わりを迎え、二つの帝国の境界線が東アナトリアの山脈に沿って定められた。攻撃と反撃とが交互に続き、ほとんど儀式のようになっていたが、少なくともビザンツを一気に征服するというムスリムの目論見は崩れかけていた。そのため、二国は互いに礼をとるだけでなく定期的どころかしばしば友誼を思わせるほどの外交を行うようになった。8世紀の前半に最も強大になるムスリムの脅威を振り払うために、イサウリアの皇帝たちがとった政策こそイコノクラスムだった。786年に一度廃止されるが、820年代にはまた採用され、再び放棄されるのはやっと843年になってからのことだった。アッバース朝が衰え、分裂していくのに乗じて、ビザンチンはマケドニア朝のもとで次第に攻勢に転じていく。そして10世紀にはほとんどの領地を回復するのだが、1071年にはそれもセルジューク・トルコの登場によって失われるのだった。

前線の固定化とイコノクラスムの過激化[編集]

Map of the Byzantine-Arab naval antagonism in the Mediterranean, 7th to 11th centuries

717-718年にコンスタンティノープルを落とし損ねたことに続き、ウマイヤ朝の注意がよそへと向かったことで、ビザンチンは攻勢をとりアルメニアで戦果をえた。しかし720年ごろにはアラブ軍もアナトリア半島への遠征を再開した。とはいえそれはもはや征服を目指したものではなく、大規模な襲撃や略奪、地方での破壊活動とでもいうべきものであり、ただ折りをみて砦や大きな施設に攻撃をしかける程度だった[49][50]。そのため後期ウマイヤ朝と初期のアッバース朝のもとではトロス山脈とアンティトロス山脈に沿ってその前戦が安定化していった。アラブの側では、キリキアは長らく占領されたままであり、無人の都市であったアダナやモプスエスティア、そしてさらに重要なタルソスがサリー・イブン・アリーのもとで再び守りの拠点となり、植民がおこなわれた。同様にメソポタミア川の上流ではゲルマニケイア(マラシュ)やメリテネ(マラティヤ)といった街が軍事的要衝になった。これら二つの地域が新たに守りのかためられた前戦地域、「スグール」を半分ずつ構成した[51][52]

ウマイヤ朝も後期アッバース朝も毎年のように繰り返される「宿敵」への遠征を永遠の「ジハード」に不可欠なものとみなしており、それが季節の風物詩のようなものになるまで時間はかからなかった。夏に二度の出兵はときに海路からの攻撃と/あるいはそれに続き冬の出兵がおこなわれた。夏にはたいてい二方面での作戦がとられた。「左翼の遠征」がキリキアの「スグール」から、主にシリアの兵で構成された部隊が、「右翼の遠征」はそれより小規模なのがふつうだったが、マラティアからメソポタミア人を主力とする軍が動いた。攻撃目標となるのはほとんどがアナトリア台地の中心部やその周辺で、沿岸部のようなビザンツが守りを固めるアナトリアの外縁を襲うことはごくまれであった[49][53]。アッバース朝の時代には、ビザンツの前線はカリフが直接作戦を立案する唯一の地域となっていた。イスラム研究者のヒュー・ケネディによれば、こういった遠征軍は略奪や捕虜の獲得だけを目指したものではなく、政治的、宗教的な目標をはっきり持っていた。つまり、アラブ人は「おそらくイスラム共同体社会におけるカリフの重要性を裏づける象徴としてのメッカの導きと引き比べていたのだろう」[54]

しかしそれでも積極的なカリフだったヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクののもとで、アラブ帝国の遠征はしばらくのあいだ勢いを増し、マスラマ・イブン・アブド・マリクやアルアッバース・イブン・アルワリド、ヒシャーム自身の子であるムアーウィヤ、マスラマ、スレイマンのようなウマイヤ朝の王子たちをふくめたきわめて有能な将軍らがそれを率いるのだった[55]。アラブ人のさらなる侵略、そしてテラ島の噴火のような自然災害の結果に対して、レオーン3世は帝国が神からの授かり物を失ってしまったことを悟った[56]。すでに722年には帝国内のユダヤ人に改宗を迫っていたが、すぐにその関心はイコンの崇拝に向けられた。司祭のなかにはそれが偶像崇拝にあたると考えるようになったものもいたのだ。726年にレオーン3世がイコン崇拝を公布のなかで弾劾すると、その信奉者たちからの無数の非難が皇帝に寄せられた。730年の廷議において正式にイコノクラスムが決まるまでそれは続く。この決定にはレオーン3世がとりあわなかった民衆や教会、とりわけ法王から強い反対の声があがった。ウォーレン・トリーゴールドはいう。「皇帝は教会と協議する必要を感じていなかった上、自身に向けられた一般民衆の反対の声の大きさに驚いていたようだ」[57][58]。この騒動はビザンツ帝国の弱体化をまねき、コンスタンティノープル総主教とローマ法王の不和をもたらしたref name="Europe273">Europe: A History, p273. Oxford: Oxford University Press 1996. ISBN 0-19-820171-0</ref>[59]

しかし国外の紛争でウマイヤ朝の抱える悩みもまた増すばかりであった。とくにレオーン3世の息子であり後継者でもあるコンスタンティノス5世に王妃チチャクを嫁がせたハザールの台頭は看過できるものではなかった。730年になってようやくムスリムの攻撃がビザンツにとってふたたび深刻なものとなるが、アクロイノンの戦いでビザンツが大勝利をおさめ、さらにはアッバース革命が混乱をもたらしたがためにアラブ帝国の攻勢は小休止をむかえるのだった。コンスタンティノス5世にとってはより積極的な姿勢をとることが可能になり、741年にはアラブ側の一大拠点であったメリテネへ攻撃をくわえ、勝利が積み重なった。こうした成功はレオーン3世とその子コンスタンティノス5世によって神の新たな恵みとして解釈し、帝国内でのイコノクラスムの正当性が確かめられることとなる[60][61]

"The thughūr are blocked by Hārūn, and through him
the ropes of the Muslim state are firmly plaited
His banner is forever tied with victory;
he has an army before which armies scatter.
All the kings of the Rūm give him jizya
unwillingly, perforce, out of hand in humiliation."
Poem in praise of Harun al-Rashid's expeditions against Byzantium[62]

ムスリムの共同体を統べるものとしての役割とその敬神とを強調しておきたかったカリフ、ハールーン・アッ=ラシードは初期のアッバース朝の指導者のなかで最も精力的にビザンチンとの戦争をおこなった人物である。まず前線にほど近いラッカに居を構え、726年にはシリア北部にそって二本目の防衛線となる「アワースィム」を設定した。さらに一年おきにメッカ巡礼を行い、アナトリア半島へ攻勢をかけることで評判を集めた。とくに806年と807年の遠征はアッバース朝の歴史でも最大規模のものだったref>El-Cheikh (2004), pp. 89–90</ref>[63]。しかし以前のカリフの時代から伝統行事にすらなっていたビザンツとの頻繁な外交はより本格的になり、外交使節や親書のやりとりはウマイヤ朝のときよりもはるかに一般的になっている。アッ=ラシードの敵愾心にもかかわらず、外交使節を送ることはアッバース朝がビザンツ帝国を対等の立場にある大国であることを認めるしるしであった[64][65]

一方でビザンツ帝国にも内戦がおこる。これはアラブ側の教唆によるものがしばしばであった。カリフ、マアムーンの支援をうけてスラブ人トマスが反乱を起こし、アラブがそれに乗じて侵略をおこなったため、1月もたたぬうちに小アジアで皇帝ミカエル2世に忠誠を誓う軍管区はわずか2つとなった[66] 。しかし帝国内で2番目に大きな都市であったテッサロニケがアラブ人に奪われると、ビザンツもまたすぐに奪い返した[66]。821 siege of Constantinople did not get past the city walls, and he was forced to retreat.[66]

小アジア、クレタ、シチリア[編集]

The siege of Amorium, miniature from the Madrid Skylitzes

アラブ帝国は小アジアにえがいた構想を捨てたわけではなく、838年に再び侵攻をおこない、アモリオンを奪っている。ビザンチン国内の結束が弱まると西方への統制も緩み、824年にクレタがサラセン人の軍門に降ってイスラムの海賊国家の領土となり、シチリアも75年ほどの時を経てゆっくりと衰退していった。チュニジアを中継地としたアラブ帝国は、831年にパレルモ、842年にメッシナ、859年にはエンナと次々に征服していくのだった。

よみがえるビザンチン[編集]

しかし867年にマケドニア朝が興ると、ビザンチンに強力な指導者が現れて結束が強まるだけでなく、国内に宗教的な平穏がもたらされた一方で、アッバース朝はさまざまな派閥が入り乱れる事態となっていた[67]。バシレイオス1世は領土を広げるなかで各地方の活力をとりもどし、ビザンツ帝国をヨーロッパ随一の大国へと立て直した。そこにはローマ法王との友好関係をうけて教会に対する政策が決められたこともあった。バシレイオスは神聖ローマ帝国の皇帝であるルートヴィヒ2世と手を組んでアラブに対抗し、アドリア海を襲っていた的の艦隊を一掃した。ビザンツの助力をえたルートヴィヒ2世も871年にバーリを征服している。この都市は876年にはビザンツの領土となっているが、シチリアにおける帝国の権勢が揺らぐと、878年にはシラクサがシチリア太守国に落とされる。シチリアでは900年にカタニアが、そして902年にはついにタオルミーナが陥落し、926年7月10日にはザフムリエのミハイが、ビザンツがプーリアに持っていた街シポント(ラテン語: Sipontum)を奪っている[68] 。ミハイが、複数の歴史家がいうように、クロアチアのトマスラフ王を最高司令官として軍事行動を起こしていたのかは明らかにされていないままである。ある研究者によれば、トマスラフは海軍をミアイに委ね、サラセン人をイタリア南部から撃退し、都市を開放したのだという[69]。こうしてシチリアはノルマン人が1071年に侵略するまでアラブの支配下に置かれることになる。


シチリアを失った一方でニケフォロス2世は880年にタラントとカラブリアの大半を手中におさめる。ビザンツは960年にはクレタも奪回し、第四次十字軍中の1204年にヴェネツィア共和国によって落とされるまで支配を維持した。イタリアにおける軍事的成功はこの地域でのビザンツの支配に新たな時代をもたらし、とりわけ地中海、さらに大西洋において強い存在感をもつようになるのである。

Nikephoros II and his stepson Basil II (right). Under the Macedonian dynasty, the Byzantine Empire became the strongest power in Europe, recovering territories lost in the war.

内乱に終止符をうったバシレイオス2世は995年、アラブに反撃を試みる。内戦により東方におけるビザンツ帝国の影響力は弱まっており、包囲されたアレッポやアンティオキアは危機に瀕し、ニケフォロス2世とヨハネス1世が取り戻した土地も失われかけていた。バシレイオスはシリアでの戦いで勝利を重ねアレッポを救うと、オロンテス川を越えてさらに南へと進軍した。パレスチナまで進み、エルサレムを耕地化するほどの武力は持っていなかったが、リアの大半を帝国の手に取り戻すには十分だった。彼が回復した領土にはアンティオキアという総主教座のある大都市も含まれていた[70]。ヘラクレイオス以降の長い歴史のなかでも最大の版図を獲得した皇帝のもと、ビザンツは1078年までの110年間、その権勢を保つのである。ピアズ・ポール・リードがいうように、1025年までにビザンチンの領土は「西はメッシナ海峡、北アドリア海からドナウ川まで、北はクリミアを、東はユーフラテス川を越えてメリテニとエデッサまで広がった」[70]

バシレイオス2世のもと、ビザンツは新たにテマ制を敷き、北東部では帯状にアレッポ(ビザンチンの保護領)からマンジケルトまで広げられた。テマ制という軍事および行政の新たな仕組みを設けることで、ビザンツは少なくとも200,000の将兵を募ることができたといわれ、人員は戦略に沿って実際に帝国中に配された。バシレイオスの治世は、ビザンツ帝国におよそ5世紀の歴史においても際だった興隆をもたらし、事実その後4世紀にわたってその栄光はたもたれることとなる[71]

終結[編集]

The Komnenos launched an invasion of Egypt.

両国の争いは終わりに近づいていた。トルコ人とさまざまのモンゴル人が侵略者としてそれぞれの大国の新たな脅威となったからである。11世紀から12世紀へと時代が下り、アナトリアに攻撃を続けるイスラム勢力がセルジューク・トルコにとってかわったことで、ビザンツの抱える戦争はビザンツ-セルジューク戦争へと移行していった。1071年にマンジケルトの戦いでトルコに敗れていたビザンツ帝国だが、西方の十字軍の助力をえて、再び中東における一大強国としての地位を取り戻した。一方で、アラブ帝国にとって重要な戦争は十字軍であり、その後はモンゴルの侵略に立ち向かわねばならなくなった。とくに黄金のオルドことキプチャク・ハン国とティムール朝である。

第二次十字軍のあいだボードゥアン3世が1153年にアシュケロンを包囲し、エルサレム王国はエジプトで優位に立つと、いきおい1160年代にはカイロ占領を果たした。アモーリー1世のいとこであるマヌエル1世はマリー・ダンティオケと結婚し、一方でアモーリーもマヌエルの甥の娘にあたるマリア・コムネナと結婚している。1168年、正式な同盟が後の大主教であるギヨーム・ド・ティールの交渉によってまとまり、翌年にマヌエル1世はアモーリー1世と時を同じくしてエジプト遠征を行った。攻城兵器と「ギリシアの火」をそなえた200隻を超える艦隊を率いるマヌエルの野心的な軍事行動は、ビザンツ帝国がどれほど強大な武力を持ち得たかを雄弁に物語るものだった。かつてはコムネニアン軍のカタフラクトを搭載していた巨大な輸送船にティールはたいへんな感銘をうけている[72]。ローマカトリックの十字軍を自分たちの盾に使うというマヌエル1世のとった戦略は柔軟だった。エジプトへ介入したのも、エジプトを支配することが第二次十字軍の要となると考えていたからである[73]。遠征の成功は十字軍による聖地の支配を確かなものにし、帝国にもたらされる富裕な属州からの小麦の供給も回復したのであった。

さらに十字軍はよりビザンツ帝国の目標にからめとられることになる。マヌエルがその在位中を通して決断を続け追い求めた目標であり、アモーリー王が結果としてマヌエルの庇護のもとでその王国全体をもったとき、それは明らかになるのである。エルサレム王国全体を少なくとも名目上はビザンツ帝国の一部とすることでアンティオキアでの協定をうまく延長している。しかしそれは個人同士の取り決めであり、伝統的な西欧の封建制度においてはそういったものが適用されるのはマヌエルとアモーリーがそれぞれの国の支配者である間だけのことだった。

The Byzantine Empire in purple, c.1180, at the end of the Komnenian period and the Byzantine-Arab Wars.

この侵略は、現地のコプト人のキリスト教徒たちからの支援を期待してもいた。彼らはイスラムの支配のもと500年以上も二級市民として暮らしていたのである。しかし十字軍とビザンツ帝国の協同は失敗し、属州を奪う好機を失いかける。ビザンツの艦隊は3ヶ月の糧食のみを携え出航した。十字軍の準備が整うころには補給はすでに途絶えており、ディムヤートの占領も上手くいかずに退却をしはじめていた。どちらの側も互いの瑕疵を責め合ったが、互いに依存していることもわかっていた。同盟はたもたれ、新たな計画が練り上げられたが、最終的には無意味なものになった[72]

セルジューク朝のスルタン、クルチ・アルスラーン2世はこの時間を政敵の排除にあて、小アジアで権力を握った。地中海の東における力の均衡は崩れはじめており、エジプトでのマヌエル1世の失敗は死後も長く尾をひいた。サラディンの登場は1171年に自らをエジプトのスルタンと宣言したことで初めて可能になった。彼がエジプトとシリアを統一したことが、最終的には大三次十字軍へとつながる。一方で、ビザンツの同盟は1180年のマヌエル1世の死とともに解消された。彼は十字軍へ真に好意的だった最後の皇帝となった[74]

影響[編集]

The Byzantine-Arab Wars provided the conditions that developed feudalism in Medieval Europe.
The Byzantine-Arab Wars provided the conditions that developed feudalism in Medieval Europe.

長期化した戦争がいつもそうであるように、ビザンツとアラブが永々と繰り広げた戦争は両国に後代まで影響を及ぼした。ビザンツ帝国が広大な領土を失う一方で、それを侵略したアラブ人は中東とアフリカで強力な支配権を確立した。ユスティニアヌスの時代には西方の再征服を目指していたビザンツは、国境の東に迫るイスラム軍に対して守勢にまわることが多くなる。東欧に出現した新興のキリスト教国へのビザンツ帝国の影響がなくなり、封建主義と自給自足の経済には大きな刺激がくわわることになる[75]

さらに現代の歴史研究者の目からみれば、最も重大な影響はローマとビザンティウムの関係に緊張をもたらしたことにある。イスラム軍と生き残りを賭けて争うなかで、ビザンツ帝国はもはや教皇制度の後見人となるだけの力を保てなくなっていた。さらに悪いことに「国の力が明らかに及ばない地域にある教会のあり方に定期的に皇帝が介入する」ようになったとトーマス・ウッズはいう[76]。8世紀と9世紀のイコノクラススム論争はローマ・カトリックをフランクの武装を決断させる鍵だったとされている[59]。したがって、シャルルマーニュ朝は間接的にはムハンマドがつくりだしたものだともいえる。フランク王国がイスラムなしにはおそらくあり得なかったように、モハメットのいないシャルルマーニュなど想像すらできないだろう[77]

シャルルマーニュ朝を受け継いだ神聖ローマ帝国は後にルートヴィヒ2世のもと十字軍のあいだビザンツを支援したが、両国の関係は緊迫したものになる。「サレルノ年代記」によれば、バシレイオス1世は西の大国へと怒りに満ちた手紙を送り、ルートヴィヒ2世が皇帝を僭称していることを非難している[78]。東の皇帝によれば、フランクの支配者は単に「王rex」なのであり、どちらの国もそれぞれの支配者に自分たちで称号を冠しているが、皇帝という位がふさわしいのは、東ローマの君主であるバシレイオスその人だけなのであった。

正史と通史[編集]

The 12th century William of Tyre (right), an important commentator on the Crusades and the final stage of the Byzantine-Arab Wars

ウォルター・エーミール・ケーギは、現存するアラブ側の史料には不明な箇所や矛盾点があり、その問題について研究者の関心が非常に高まっているという。しかし、彼によればビザンチン側の史料にも問題点は多い。セオファニスやニキフォロスの年代記のような、シリア語で書かれたものは史料としての重要であるにもかかわらず短く簡素であり、どう扱うべきかという問題について解決をみていない。ケーギが下した結論は、研究者はビザンツの伝承が批判的に精査されねるべきだということを受け入れなければならないし、「バイアスを含んでおり、ムスリムの史料が独断的に読まれていることを鑑みても客観的な基準とはなりえない」ということだった[79]

この戦争に関してラテン語の史料は少ないながら、フレデガリウスの7世紀の歴史と、8世紀のスペインの年代記が2種類あり、どれもビザンツと東方の歴史を伝えてている[80]。最初のムスリムの侵略に対するビザンツの軍事行動に関して、ケーギは「ビザンツの伝承は…ヘラクレイオスから他の人物、集団、事象までビザンツの失敗を歪めて批判しようとしている」としている[81]

非歴史的なビザンツの史料には非常に幅がある。写本や説話(そのうち最も有名なものはソフロニウスとシナイのアナスタシウスのものだろう)、詩、教父からのものが多い書状、詫び状、黙示文書、聖者伝、軍事教本(とくに7世紀はじめのもーリッツの「ストラテギコン」)などがあり、ほかにも非文献資料として、刻文や考古学的遺物、貨幣がある。これらの史料でムスリム軍による攻勢や征服についてはっきりと触れているものは存在しない。しかしどこにも残されていない貴重な細部を伝えてくれているのである[82]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

^ a: Politico-religious events (such as the outbreak of Monothelitism, which disappointed both the Monophysites and the Chalcedonians) had sharpened the differences between the Byzantines and the Syrians. Also the high taxes, the power of the landowners over the peasants and the participation in the long and exhaustive wars with the Persians were some of the reasons why the Syrians welcomed the change.[83]
^ b: As recorded by Al-Baladhuri. Michael the Syrian records only the phrase "Peace unto thee, O Syria".[84] George Ostrogorsky describes the impact that the loss of Syria had on Heraclius with the following words: "His life's work collapsed before his eyes. The heroic struggle against Persia seemed to be utterly wasted, for his victories here had only prepared the way for the Arab conquest [...] This cruel turn of fortune broke the aged Emperor both in spirit and in body.[85]
^ c: As Steven Runciman describes the event: "On a February day in the year AD 638, the Caliph Omar [Umar] entered Jerusalem along with a white camel which was ride by his slave. He was dressed in worn, filthy robes, and the army that followed him was rough and unkempt; but its discipline was perfect. At his side rode the Patriarch Sophronius as chief magistrate of the surrendered city. Omar rode straight to the site of the Temple of Solomon, whence his friend Mahomet [Muhammed] had ascended into Heaven. Watching him stand there, the Patriarch remembered the words of Christ and murmured through his tears: 'Behold the abomination of desolation, spoken of by Daniel the prophet.'"[86]
^ d: Hugh N. Kennedy notes that "the Muslim conquest of Syria does not seem to have been actively opposed by the towns, but it is striking that Antioch put up so little resistance.[87]
^ e: The Arab leadership realized early that to extend their conquests they would need a fleet. The Byzantine navy was first decisively defeated by the Arabs at a battle in 655 off the Lycian coast, when it was still the most powerful in the Mediterranean. Theophanes the Confessor reported the loss of Rhodes while recounting the sale of the centuries-old remains of the Colossus for scrap in 655.[88]

出典[編集]

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参考文献[編集]

主要参考文献[編集]

参考文献[編集]

関連文献[編集]

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