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アンナ・ドストエフスカヤ
生誕 アンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナ
(1846-09-12) 1846年9月12日
ロシア、サンクトペテルブルク
死没 1918年6月9日(1918-06-09)(71歳没)
クリミア、ヤルタ
墓地 チフヴィン墓地
職業 伝記作家速記者
配偶者 フョードル・ドストエフスキー (1867–1881)
子供 ソフィア (1868),
リュボーフィ (1869–1926),
フョードル (1871–1922),
アレクセイ (1875–1878)
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アンナ・グリゴーリエヴナ・ドストエフスカヤ (Анна Григорьевна Достоевская 1846年9月12日 - 1918年6月9日)はロシアの伝記作家、速記者で、フョードル・ドストエフスキーの2番目の妻である。ロシア人女性で最初の郵便学者の1人でもある。『アンナ・ドストエフスカヤの日記(in 1867)』と『アンナ・ドストエフスカヤの伝記』(『アンナ・ドストエフスカヤの回想』の題でも知られている)というドストエフスキーに関する伝記を2冊書いており、どちらもアンナの死後にそれぞれ1823年、1925年に出版された[1]

生涯[編集]

幼年時代[編集]

アンナ・ドストエフスカヤ(旧姓はスニートキナ)はグリーゴーリー・イワーノヴィチ・スニートキンとその妻マリア・アンナのあいだに生まれた。父親はウクライナの技師/測量士であった(in the district of St. Michael)。母の出自はフィンランド-スウェーデン系(family Miltopäus)であり、ロシア人よりもスウェーデン人のほうに肩入れしていた。高校を主席で卒業したのち、アンナは速記者としての勉強を始めた[2]

結婚[編集]

1866年10月4日に速記者として働き始めるが、その最初の作品がフョードル・ドストエフスキーの『賭博者』だった[3]。そして11月にはこの文豪に結婚を申し込まれている[3]

スニートキナが回想しているように、まるで女性の心理に関して助言をもとめているかのごとくドストエフスキーは構想途中の新たな小説のプロットを彼女に語った[4]。それはある老いた画家がアーニャという名の若い女に結婚を申し込むという物語で、ドストエフスキーはごく若い女性が歳も性格も違う画家と恋に落ちることはありえるかと尋ねている。アンナが十分にありえると答えると、ドストエフスキーはこう言った。
「すこしだけアーニャを自分に置き換えてみてくれ。私が画家で、君に愛を告白して、妻になってくれと頼むところを想像してほしいんだ。なんて答えるかい?」
「こう答えるでしょうね。愛しているわ、ずっと愛し続けるわ、って」[5][6]

1867年2月15日、2人は結婚した。2ヶ月後にはロシアを離れ、4年以上を外国で過ごした(1871年7月まで)。国外に出てからまもなく、ドストエフスキーの債権者2人が支払いを求めて訴訟を起こしている[7]

バーデン滞在中に、ドストエフスキーはルーレットで有り金をすべて失ってしまった。そこにはアンナの衣類や持ち物を売った金も含まれていた。当時のことはアンナの日記に記されている[7]。財産を取り戻すためにドストエフスキーはジュネーブでほぼ1年間を費やして必死で仕事をした。1868年2月22日、最初の娘ソフィアが生まれたが生後三ヶ月で亡くなった。1869年、ドレスデンで次女のリュボーフィが生まれている(1926年没)。サンクトペテルブルクに戻った後、アンナはフョードル(16 July 1871 — 1922)とアレクセイを産んでいる(10 August 1875 — 16 May 1878)。家を守っただけでなく、アンナは出版事業や交渉ごとをはじめ経済的な問題をすべて引き受け、ほどなくドストエフスキーを借金問題から解放した。1871年、ドストエフスキーはついにギャンブルをやめている。

晩年[編集]

1880年代

ドストエフスキーが1881年に亡くなったとき、アンナは35歳になっていた。再婚をすることはなかった。夫の死後、原稿や手紙、書類や写真の蒐集をはじめ、1906年には国立歴史博物館にドストエフスキーの部屋をつくっている。

切手蒐集[編集]

アンナはドレスデン時代の1867年に切手のコレクションを始めている。回想によればこのとき、女性は気まぐれだと批判的だったドストエフスキーとの間で諍いがあったという。自分の世代の女性は何かを継続したり、それに没頭できると考えない事に嫌気がさしたアンナは、それが間違いで、女は何年も1つの目標を追い続けることができると証明すると夫に言った。そして切手を集めることに決め、それを生涯にわたって保管した。1枚の切手も買ったことがない、とアンナは回想している。コレクションはすべて自分で探したか、友人から譲り受けたものだった。彼女のコレクションがどうなったかは定かでない[8]

伝記[編集]

  • アンナ・グリゴーリエヴナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳 (1999). 回想のドストエフスキー〈1〉. みすず書房. ISBN 4622050439 
  • アンナ・グリゴーリエヴナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳 (1999). 回想のドストエフスキー〈2〉. みすず書房. ISBN 462205048X 

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Достоевская, А.Г.. “антикварный интернет-магазин”. RareBooks.ru. 2012年3月25日閲覧。
  2. ^ Kjetsaa 1989, pp. 252–253.
  3. ^ a b Lantz, K. A. (2004). “Chronology”. The Dostoevsky Encyclopedia. Greenwood Publishing Group. ISBN 0313303843. http://books.google.ru/books?id=XfDOcmJisn0C&dq=inauthor:%22K.+A.+Lantz%22&hl=en&source=gbs_navlinks_s 
  4. ^ Nasedkin, Nicholay. “Around Dostoyevsky” (Russian). 2010年6月21日閲覧。
  5. ^ Memoirs of Anna Dostoyevskaya, pp. 96–97
  6. ^ Korneichuk, Dmitry. “Life of Fyodor Dostoyevsky: Women's motives” (Russian). Chronos. 2010年6月21日閲覧。
  7. ^ a b Lantz, K. A. (2004). The Dostoevsky Encyclopedia. Greenwood Publishing Group. pp. 97–99. ISBN 0313303843. http://books.google.ru/books?id=XfDOcmJisn0C&dq=inauthor:%22K.+A.+Lantz%22&hl=en&source=gbs_navlinks_s 
  8. ^ [1][リンク切れ]
  • Kjetsaa, Geir (15 January 1989). A Writer's Life. Fawcett Columbine 
ナジェージダ・ドゥーロワ

▼▼▼ナジェージダ・ドゥーロワ[編集]

ナジェージダ・アンドレーエヴナ・ドゥーロワ (ロシア語: Наде́жда Андре́евна Ду́рова 1783年9月17日 - 1866年3月21日)はアレクサンドル・ドゥーロフ、アレクサンドル・ソコロフ、アレクサンドル・アンドレエヴィチ・アレクサンドロフという名でも知られる。ナポレオン戦争中にロシアの騎兵隊の一員として活躍して叙勲を受けた女性であり、知られるうちではロシアの軍人として初めて女性の将校ともなった人物でもある。ドゥーロワの回想録である「女騎兵の手記」はこの時代の貴重な文章である。それはナポレオン戦争中の経験を記した若い将校が少ないというばかりではなく、ロシア語で開かれた自伝としても最初期の一つに挙げられるからである。

幼年時代[編集]

ナジェージダ・ドゥーロワはキエフの兵舎で生まれた。ロシア軍の少佐(major)であった父はナジェージダを部下の兵士たちに預けるがごとくに育てたが、それは粗暴な母親に動いている馬車の窓から放り出され、幼い命を奪われかけるという事件がきっかけだった。そういった環境もあって、小さな子供のころからドゥーロワは行軍の号令につかう旗をすべて覚えたり、好んで空鉄砲をもてあそび玩具のかわりにしていた[1]

若き日のドゥーロワ

動物に親しみ、外に出ることを好むドゥーロワはまた熱狂的な愛国者であり、軍人となることを自由になることだと考えていた。そして伝統的な女性の仕事には向いていないと感じていたのだった。自伝には母との不幸な関係についてページが割かれており、逆に父親の描写には暖かみを感じさせ、結婚生活についてはついに何も書かれぬままである。

父が退役した後もドゥーロワは折れたサーベルをきらめかせ、人に馴れぬと思われた雄馬をひそかに手懐けては家族を驚かせていた[2]。1801年にはサラプルの判事であったワシーリー・チェルノフと結婚し、2年後には息子のイワンをもうけている。1807年に24歳となったナジェージダは息子と夫を棄て(1805年にコサックの武官と一緒になって家を飛び出しているという説もある)、愛馬を連れてポーランド槍騎兵(ウワン)に籍を入れた。男装しているときの偽名は「アレクサンドル・ソコロフ」であった。

軍役[編集]

1806年から1807年にかけてのドイツ・ポーランド戦役では主だった戦いに参加している。そのうち2度の戦いで味方の兵士の危機を救った。1人目は戦場で落馬して震盪を起こしていた男で、ドゥーロワは激しい砲撃のなかを先駆けて救援に向かい、自軍が周囲に退却するまで安全を確保していたのだった。2人目も落馬した将校でこちらは無傷だったが、フランス軍の竜騎兵が迫っていた。槍を構えたドゥーロワが立ちはだかり、自分が危険になるのも構わず軍馬を将校に貸してやり退却を急がせたのだ。これは軍規に逆らう行為でもあった。

戦役のあいだ家族に手紙を書き、自分がいなくなった訳を説明している。家族のほうでは手立てをつくして娘の場所を探り当てようとむなしくも試みた。その頃ツァーリ、アレクサンドル2世の耳には、軍隊にアマゾンがいるという噂がはいっており、その興味を引いていた。当時のドゥーロワの階級は、その無類の勇気を物語っていたのだ。ペテルブルクの宮殿に呼び出された彼女は皇帝に強い印象を与え、聖ゲオルギウス十字を授かるとともに軽騎兵隊(ハサー)の尉官(lieutenant)に昇進している。軍には女傑がいるという話とともにアレクサンドル・ソコロフという名はこの頃までにはよく知られるものとなっていた。そのため皇帝は偽名をもとに新たな名として「アレウサンドロフ」を賜っている[3]

ウラジーミル・ガウによる鉛筆画(1937年)

ドゥーロワのうら若い容貌はその栄達の妨げとなった。ロシアの軍人には口ひげを生やすことが求められていた時代に、この女騎兵は16歳の少年のようであったのだ。またウワンからハサーへと転科したのには、ドゥーロワへ恋をした大佐(colonel)の娘を避けるという意味もあった。1812年にナポレオンがロシアに侵攻してくると、再びドゥーロワは武器をとった。身を投じたのはスモレンスクの戦いである。ボロディノの戦いでは砲弾で脚を怪我したが、立て直すため退却を命じられるまで幾日も前線で戦い続けた。彼女が軍を退いたのは1816年である。最終的な階級は騎兵大尉(ロシア語: Ротмистр)であった[4]

それから20年以上も経って、ドゥーロワはアレクサンドル・プーシキンを紹介される機会をえた。この詩人は彼女が軍隊にいたときに日記をつけていたことを聞いており、それを回想録として出版するよう勧めている。ドゥーロワは日記に幼少期の出来事を背景としてつけ加え、年を7歳だけ誤魔化した上でそれを「女騎兵の手記」として1836年に出版した。結婚について言及した箇所すべてが削られていた。彼女はまた4つの小説を書き、女性の権利を擁護している。しかしドゥーロワは終生男装を続け、1866年にエラブガで亡くなった。埋葬は軍人として最大限の名誉でもって行われた[5]

伝説[編集]

「女騎兵の手記」の初版本(1836年)

ドゥーロワの子孫はその動物を扱う才を受け継いでいた。曾孫にあたるウラジーミルとアナトーリーはロシアのサーカス団で動物の調教師として有名になり、モスクワに「ドゥーロフ動物劇場」を建てている。現在この劇場はナジェージダを祖にもつナターリヤ・ドゥーロワが経営している。

ドゥーロワが男装していたと言う事実は近年関心の的となっている。彼女の息子が結婚の承諾を得るとき、男性的な人格を選んだ母に「お父様へ」という宛名で手紙を送るほどだった。完全な自由を得るために男装と独身の生活を送ったドゥーロワに性別直行を読み取ろうとする者もいるし、女性的でない装いをしていたことに性的な含みをみる者もいる。しかしドゥーロワの手記に綴られた文章は貞潔を称揚している当時の道徳観をみてとることもできる。

珍しい女性の軍人による回想録というだけでなく、「女騎兵の手記」はナポレオン戦争中の出来事を若い士官の眼から捉えた確かな史料の一つであり、ロシア文学における最初期の自伝でもある。

ドゥーロワは西欧においていくつかの創作物のなかでに描かれてきたが、英語圏では1988年にメアリ・フレミング・ジーリンが「女騎兵の手記」を翻訳するまでほとんど無名だった。今や彼女は比較文学やロシアの歴史、トランスジェンダー研究などのテーマのもと大学で講義が行われ学術的な対象となっている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  • 本項は英語版ウィキペディアからの翻訳を含む
  1. ^ Mersereau, John Jr.; Lapeza, David (1988). Nadezhda Durova: The Cavalry Maid. Ardis. ISBN 0-87501-032-6 
  2. ^ Mersereau & Lapeza, p. 21
  3. ^ (ロシア語) Rulex.ru
  4. ^ (ロシア語) Rulex.ru
  5. ^ (ロシア語) Rulex.ru

書誌情報[編集]

  • 田辺佐保子訳 (1990). 女騎兵の手記. 新書館. ISBN 978-4403240355 
  • Mersereau, John Jr. & Lapeza, David (1988). Nadezhda Durova: The Cavalry Maid. Ardis 
  • Durova, Nadezhda, The Cavalry Maiden: Journals of a Russian Officer in the Napoleonic Wars trans. Mary Fleming Zirin. Indiana University Press, 1989. ISBN 0-253-20549-2 (see book reviews on Amazon.com).
  • Barta, Peter I., "Gender Trial and Gothic Trill: Nadezhda Durova's Subversive Self-Exploration" by Amdreas Schonle in Gender and Sexuality in Russian Civilization, 2001. ISBN 0-415-27130-4

外部リンク[編集]

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