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利用者:Poo tee weet?/9

エドウィン・スタントン・ポーター
エドウィン・スタントン・ポーター(1901年の写真)
生誕 (1870-04-21) 1870年4月21日
ペンシルベニア州コネルズビル
死没 1941年4月30日(1941-04-30)(71歳没)
ニューヨーク
トーマス・リチャード・ポーター
メアリ・ジェーン・クラーク
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エドウィン・スタントン・ポーター(Edwin Stanton Porter 1870年4月21日 - 1941年4月30日)はアメリカ映画黎明期のパイオニアであり、トーマス・エジソンの会社の映画監督だったことで知られている[1][2]。ポーターの最も重要な映画は「アメリカ消防士の生活」(1903年)と「大列車強盗」(1903年)である。

生涯[編集]

青年時代[編集]

商売人のトーマス・リチャード・ポーターとメアリー・ジェーン・ポーターを両親に持つエドウィン・ポーターはペンシルベニア州コネルズビルで生まれ育った。彼は7人兄弟の4番目の子だった[3]。コネルズビルは1870年の時点では人口1300人にも満たない街だったが、 小さいながら工業の中心地として栄え、特にコークスのコ生産地として知られていた[3]。地元で盛んになりつつあった芝居やオペラを楽しむだけでなく、切符切りや席の案内役の仕事にも手を出していた。当時の経験は後の「アンクル・トムの小屋」(1903年)といった作品や彼の「芝居映画」(filmed theatre )という考え方につながった[4]。コネルズビルとピッツバーグの公立学校に通うが、この頃から家族や友人たちと移民に対する嫌悪感を共有するようになる。「コーエン氏のファイアセール」(Cohen's Fire Sale 1907年)など後年の作品にも人種的ステレオタイプは明らかに受け継がれている[5]。ポーターはスケート選手や看板描き、電信技師など様々な仕事についたが、若い頃から電気学に興味を持つようになり、21歳のときには照明の調節装置に関する特許の共同所有者でもあった[6]

造船と機械製造を手がけるフィラデルフィア州のウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社の電力部門にも一時期勤めていたポーターだが、1893年にアメリカ海軍に電気技師として入隊している。3年間の軍隊生活の中で、彼はよりすぐれたコミュニケーションを実現する電気装置の発明家としての才能を発揮した。

ポーターは1896年にモーション・ピクチャーの仕事を始め、最初の映画はすでに商業作品としてアメリカの映画館で上映された。短い間ながらニューヨークでラフ・アンド・ガモン社に雇われてトーマス・エジソンのつくった映画と鑑賞装置の代理人としても働き、その後は競合他社であるクーン・アンド・ウェブスター社のプロジェクタスコープを携えた巡業の映写技師になる。西インド諸島や南アメリカを旅しては広場や空き地で映画を上映した。後にカナダとアメリカへ2度目の旅行に出かけ、ニューヨークに戻ってからは映写技師の仕事を始めるとともに、成功こそしなかったもののモーションピクチャー用のカメラと映写機の製造会社を起こす計画を立てた。

エジソン社[編集]

1899年にポーターはエジソン社に雇われた。彼はすぐにニューヨークのスタジオで制作されるモーション・ピクチャーの責任者となり、カメラの操作や俳優への指示、完成版の組み立てなどを任された。そして10年のうちに彼はアメリカで最も影響力を持つフィルムメーカーになった。巡業の映写技師として働いていた経験から大衆が何を喜ぶかを知っていたポーターは、エジソン社のためにトリック映画やコメディ映画を作り始めた。初期の映画の一つ、「テリブル・テディ―グリズリーの王様」は1901年2月に制作された風刺映画で、当時の次期副大統領だったセオドア・ルーズベルトをあてこすったものである。黎明期のフィルムメーカーの例にもれず、ポーターも映画のアイディア自体は他人のものだった。しかし彼は単にコピー映画をつくったわけではなく、借り物をさらに改良することに努めていた。「ジャックと豆の木」(1902年)と「アメリカ消防士の生活」(1903年)のポーターは、フランスのジョルジュ・メリエスジェームズ・ウィリアムソンのようなイギリスのブライトン派の初期映画の背中を追いかけている。しかしショット間の急な切り替えや場面転換の代わりに彼は画面をあるイメージから別のイメージへなめらかに移行させる「ディゾルブ」を編み出しており、なかでも「アメリカ消防士の生活」ではこの技術によって観客が屋外の複雑な動きを追いかけやすくなっている。

「大列車強盗」とその後[編集]

そしてポーターは「大列車強盗」(1903年)でアメリカ的西部劇の原風景ともいえるストーリーを採用した。それはすでにダイム・ノベルやメロドラマの舞台を通じて観客によく知られていたが、彼が提供したのはまったく新しい視覚体験だった。一巻物の映画で長さにして12分ほど、14のシーンで構成され、カメラに向かって発砲する悪漢に、観客は驚かされる。内外問わず10の異なるロケーションが用いられ、異なる場所で同時に起こる行動を見せようというクロスカッティングの編集は画期的だとされている。これ以前の映画にはここまで敏捷な動作があったり様々な場面が登場するものはなかった。そして事実「大列車強盗」はたいへんな人気を博した。何年もかけてアメリカ中を巡回し、1905年には最初期のニッケルオデオンで第一級の呼び物となった。この成功によってアメリカの映画がエンターテイメントとして大量生産されることが運命づけられた。

「大列車強盗」後もポーターは新たな技法に挑戦し続けた。「窃盗狂」(1905年)では二つのストーリーを平行して描いているが、この映画は「前科者」(1904年)と同様に社会批評に重きが置かれ、技術的にはやや平凡なものがある。「7つの世代」(1905年)では側方からの照明や、クローズアップ、一つのシーンでのショットの転換などを導入しているため、この作品はシーンごとに単一のショットという演劇とのアナロジーから逃れた映画制作者であることを示す最初期の例として挙げられる。彼はウィンザー・マッケイコミックストリップをもとにした「レアビット狂の夢」(1906年)というトリック映画も監督している。1903年から1905年にかけての彼は映画を通じたビジュアル・コミュニケーション(視覚伝達)の基本モデルとなる手法の大半をいかんなく実演してみせたということができる。例えば彼は現代におけるコンティニュイティ英語版の概念の成立に貢献したし、映画における基本単位はシーンではなくショットであることを発見し、グリフィスの進歩的な映画編集とストーリー・テリングに橋渡しをした人物としてしばしば名前が挙がる。しかし彼はそういったテクニックをそのたびごとの実験としかみていなかったらしく、映画をつくる上で一貫したスタイルとしてまとめあげるということはついになかった。

1909年、ニッケルオデオンの人気により新体制化に移行しつつあった映画産業に抵抗しようとするポーターは、エジソンのもとを去り、仲間とともに独立系の映画会社であるレックス社を立ち上げる。同時に映像投射機のシンプレックスを製造する会社の設立にも参加している。3年後にはレックス社を売却し、アドルフ・ズッカ―のオファーを受けてアメリカで最初の長編映画を定期的につくる会社であるフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーの監督となる[1]。最初の五巻物のアメリカ映画「ゼンダ城の虜」(1913年)では舞台俳優のジェームズ・K・ハケットが、その他の長篇でもメアリー・ピックフォードポーリン・フレデリックジョン・バリモアといったスターがポーターの作品には登場した。しかし映画監督としてのポーターは映画という急激に変化していくアートに技術的についていくことができなかった。彼の最後の映画は、1915年に公開された初のアナグリフ方式による3D映画「ジム・ザ・ペンマン」(Jim the Penman)だった。彼はその前年にも同じ手法で短編映画「ナイアガラの滝」を制作していた。ポーターは翌年のパラマウントの再編成中に会社を去っている。

1917年から1925年までポーターは映写機の「シンプレックス」を製造するプレシジョンマシナリーの社長を務めていた[1]。25年に退職後も発明家やデザイナーとして自分の研究を続け、スチルカメラや映写装置などで複数の特許を保持していた。1930年代には家電会社に雇われている。

[編集]

1941年、71歳のポーターはニューヨークのホテル・タフトで亡くなり[1]、ペンシルベニア州サマセットのハズバンド・セメタリーに埋葬された。1893年6月5日に結婚した妻キャロライン・リーディンガーとの間に子供はいなかった。

評価[編集]

ポーターは映画史において今も謎めいた人物のままである。それでも彼が「大列車強盗」を始めとする初期の革新的な映画の監督であることの意義は間違いないが、彼は1度新しい手法を成功させるとそれを繰り返すことは希で、監督としてのスタイルを固め、発展させることはなかった。後年に誰かがポーターの技術を再発見し、それを自分のものだと主張しても彼はそれに抗議したことはなかった。1912年から彼の監督映画に登場し始める有名スターと仕事をする上で不愉快な思いをすることがあっても、彼は慎み深く、物静かで、慎重な人間だった。ズーカーは彼のことをドラマの芸術家というよりも芸術的なエンジニアだと語ったことがある。つまり人と触れあうよりも機械に触れているほうが好きな男だというわけだ[要出典]

脚注[編集]

参考文献
  • Charles Musser (1991). Before the Nickelodeon: Edwin S. Porter and the Edison Manufacturing Company. University of California Press 
  • 北野圭介『ハリウッド100年史講義―夢の工場から夢の王国へ』平凡社新書、2001年。  pp.30-38
関連文献
  • "Edwin Stanton Porter. Dictionary of American Biography, Supplement 3: 1941–1945. American Council of Learned Societies, 1973.

外部リンク[編集]


▼▼▼[編集]

Girl Reading a Letter at an Open Window
作家 ヨハネス・フェルメール
1657年–1659年
種類 カンバスに油彩
寸法 83 cm × 64.5 cm (33 in × 25.4 in)
収蔵場所 ドレスデン, アルテマイスター絵画館

窓辺で手紙を読む女はオランダ黄金時代の画家ヨハネス・フェルメールの絵画。完成したのはおよそ1657年から1659年までの間とされる。この、開け放たれた窓の前で手紙を読むオランダの少女を描いた絵は、長らくレンブランのものとされ、その後もピーテル・デ・ホーホの名が冠されていたが、1880年になってフェルメールの作品と認められた。第二次世界大戦後に「窓辺で手紙を読む女」は短いながらもソビエト連邦が所有していた時期があるが、保存状態もよいまま現在ではドレスデンのアルテ・マイスター絵画館に展示されている。

作品[編集]

ブロンドの若いオランダ人が、開いた窓のそばで手紙を読む姿を横から描いている。内側に開いた窓の上端には赤いカーテンが吊されてひだをつくり、ガラスの右下隅には少女が映り込んでいる。正面右には飾りのついた黄土のカーテンがかかり、部屋の四分の一ほどを覆っている。その色は少女が着ているガウンの緑が映し出され、赤い布が敷かれたテーブルの鉢に果物の影が差している。鉢のそばでは桃が半分に切られ、くぼみを露わにしている。

シンボリズムと技法[編集]

ノルベルト・シュナイダーは2000年の「フェルメール:1632–1675」のなかで、開いた窓に一つの解釈を示した。それは家庭や社会の束縛を越えて「自分の内面領域を拡大しようとこがれている女性」というコードを表現したものである。そして果物は「不倫関係にあることのシンボル」だ[1]。読んでいるのは愛の手紙であるが、これから許されざる関係を持とうというのか、相手をつなぎとめようとしているのかいずれどちらかだ。この結論はカンバスのX線検査によって示された、フェルメールがある箇所にクピドを書き込んでいたという事実によっても確かめられる、とシュナイダーは言う[2] 。かつてこの絵の右上方にはプットの姿があったが、理由は何であれフェルメールはその上にカーテンを描いた[3][4]

正面左にかかったカーテンそのものはフェルメールに普遍的なエレメントではなく、7枚の作品にみることができるのみだ[5]。より一般的な(25作品にみられる)ルプソワールが用いられた絵のなかでも、「窓辺で手紙を読む女」のように人物と鑑賞者の間の布が敷かれた机や手すりを特徴とするものは3作品しかなく[5]、またこれはフェルメールがこの手法を用いた最後の作品でもある[5]

この絵と「士官と笑う娘」とはフェルメールを有名した点描画法の最初の例としても知られている[3]。ジョン・マイケル・モンティアスは1991年の「フェルメールとその環境」においてどちらの作品にも「小さな白い球体」が明度の高い箇所にみられると指摘した。つまり両者の静物画的エレメントや、特にこの作品の場合は少女の金髪においてこの粒(globule)がみられる[3]。こういった光の反映はフェルメールが何らかの光学機器をもちいていたという美術史家たちの推測を裏づけるものになりうる。例えば画家はカメラ・オブスクラにdoubleの凹レンズをそなえつけ、作品にリアルな光の模様を写し取ったのである[3]

歴史[編集]

フェルメールがこの作品を完成させたのはおそらく1657年から1659年である[6][7]。その後1742年にポーランド王でありザクセン選帝侯のアウグスト3世がこの絵を購入した。ただしこのとき絵はレンブラントの作品であると考えられていた[8]。1826年にはその間違いが訂正されたが、今度はピーテル・デ・ホーホの作とされている。その後フランスの美術批評家テオフォール・トレ=ビュルガーがこの絵をオランダ人の画家の手になる類い希な一品であると認め、正しい帰属先に再訂したのは1860年の事である。

「窓辺で手紙を読む女」は第二次世界大戦中のドレスデン爆撃による破壊から救い出された絵画の一つである[9]。他の作品とともにスイスのザクセンにあるトンネルに保管され、そしてこの地を訪れた赤軍によって持ち去られたのである[9][10]。ソビエト連邦はこの行動を「救出」と位置づけたが、略奪とみなすものもいた。いずれにせよソビエト連邦はスターリンの死後の1955年に「独ソ間の友好関係のさらなる発展と強化のため」この絵をドイツに返還することを決めている[10][11]。何百もの絵画が失われたと考えたソ連の美術史家とキュレーターは、「世界的に有名なドレスデンの宝を救い、それを返還したことを認めたあかし」としてドイツは「窓辺で手紙を読む女」とジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」を寄贈してしかるべきではないかと提案した。ドイツはそれを受け入れず、作品はそのまま返還された[9][10]。現在はドレスデンのアルテ・マイスター絵画館で展示されており、保存状態もよい[3]

影響[編集]

この絵に触発されたアーティストは何人かいて、例えばトム・ハンターは果物の鉢などの陰鬱なトーンを翻案して、若い母子が「立ち退き通告」を読む写真を発表している[12]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Schneider (2000), p. 49.
  2. ^ Schneider (2000), p. 50.
  3. ^ a b c d e Montias (1991), p. 152.
  4. ^ Huerta (2005), p. 37.
  5. ^ a b c Huerta (2003), p. 66.
  6. ^ Huerta (2003), p.83.
  7. ^ Shapiro (2003), p. 63.
  8. ^ Saltzman (2008), p. 39.
  9. ^ a b c Bailey (1995), p. 44.
  10. ^ a b c Akinsha (1991).
  11. ^ Smith (2002), p. 60.
  12. ^ Woman Reading Possession Order

参考文献[編集]

外部リンク[編集]