利用者:QQualle/sandbox

日本重油
日米礦油商標
種類 株式会社
設立 1898(明治31年)7月15日
業種 石油卸売
関係する人物 近藤光正
早山与三郎
テンプレートを表示

日本重油は三井物産が米国ゼネラル石油より輸入した重油を販売するために、日米礦油を初めとする日本石油系の有力特約店5社の共同出資により1924年(大正13年)2月に設立された石油卸売会社である。世界恐慌による経営不振と、社員による不正事件で欠損を抱え倒産寸前となるが、五代目社長の近藤光正による経営再建ののち、同氏が専務を務めていた日米礦油を分割・吸収合併し1942年(昭和17年)4月に東亜石油と改称する。

概要[編集]

設立の経緯[編集]

三井物産が1924年(大正13年)燃料油を取り扱いを始め輸入を行うが、重油の販売網が無かったため日本石油に委託する。しかし、主力の特約店5社のいづれもが一手引受を主張して譲らない状況であった。当時は自動車や飛行機の進歩による内燃機関の発達や、太平洋航路船舶の燃料に重油が使用され揮発油や重油等の燃料油の需要が著しく増加していた。日本石油の支店長である木村義雄が調停斡旋し、5社の共同出資により重油の販売会社を設立させる事となった。三井物産の輸入重油を一手販売させる目的で1924年(大正13年)2月6日、東京市日本橋区小網町3−9に資本金10万円で日本重油は設立された。初代社長には北村石油店主の北村長吉が就任した。[1]

創業発起人
見出しテキスト 見出しテキスト
日米礦油 東京支店長 横溝栄次郎
日米礦油 東京支店次長 近藤光正
北村石油 店主 北村長吉
矢野商店 店主 矢野新吉
島田商店 店主 島田善介
硲商店 硲文七

世界恐慌による影響を受ける[編集]

昭和初期、アメリカの原油増産により世界中で原油価格が急落しました。この問題を解決するため、昭和3年にロンドンで米英の石油業者による会議が開かれ、原油の減産について協議されました。翌年の昭和4年6月、日本の主要石油会社6社(日本石油、小倉石油、三井石油、三菱石油、ライジングサン石油、スタンダード石油)が原油減産と石油製品市況の引締めを目的に協定を結び、製品価格を80銭から1円へと25%以上の値上げを計画しました。しかし、東京自動車組合が反対運動を展開し、昭和4年7月末に値上げの発表は撤回されました。【第一次ガソリン争議】

さらに、昭和4年には世界恐慌が発生し、日本経済も大きな打撃を受けました。1924年(大正13年)の創業以来順調に業績を伸ばしていた日本重油も、この影響を受けて業績が悪化しました。海外市場が狭まったため、外国石油会社が日本市場で石油製品のダンピングを行い、国内の石油市況がさらに悪化しました。この結果、日本重油の業績も低迷することとなりました。

1930年(昭和5年)、硲文七が2代目社長に就任し、世界恐慌による影響からの回復を目指しましたが、不況は続き、日本重油の業績も回復には至りませんでした。この時期、日本の石油産業は困難な状況に直面していました。

ガソリンをめぐる戦いと満州事変の勃発[編集]

ガソリン税創設の機運[編集]

昭和6年、若槻内閣は国家予算の財源としてガソリン税の創設に着目する。同年6月、大蔵省は省議でガソリン税の創設について審議をしたが、これを知った自動車業界は自動車税やその他の重税に加え、更なる増税が一大恐慌を引き起こすことを懸念したことや、日本自動車業組合連合会は全国の関係団体を動員してガソリン税の反対運動を開始する。同年9月には東京市もガソリン税の徴収計画をたて、商工省もガソリン輸入税の引き上げを検討したため、石油業界も反対運動の陣営に参加する。大蔵省は昭和6年10月10日の省議において決定した税率は1ガロン10銭というものであったが、同年11月27日の省議では1ガロン7銭を原案として国会通過を図ったが、連日の反対運動のために同年12月9日には1ガロン5銭と落ち着いた。しかし、3日後の12月12日に閣内不一致のため若槻内閣は崩壊し、犬養内閣が登場する。犬養内閣はガソリン税新設中止の声明を発表し、ガソリン税の問題は解消する。

第二次ガソリン争議(192~192)[編集]

ペガサス不買運動[編集]

ガソリン税創設の機運がなされているなか、昭和6年10月スタンダード石油を中心とした会社がガソリンの値上を公表する。東京自動車組合は第一次ガソリン争議の覚書をたてにとり、ペガサス不買運動をもって対抗する。(ペガサスはスタンダード石油の商標である)昭和7年にはいると不買運動は全国規模となった。販売店は共同購入の方式を用い販売に当たったため市況は混乱し販売戦が激化したため、石油業社は昭和7年1月9日、石油業販売業社の団体である石油協会を通じ1ガロン3銭の値上厳守を販売店に通達する一方で乱売防止の厳重な監視を行った。(日本自動車703)

自動車業界と石油会社の板ばさみとなった石油販売店は、不正販売を行うものが続出し、スタンドには粗悪品が流通するようになる。これに対し警察庁が取り締まりに乗り出すが効果はなかった。しばらくすると、スタンダード石油が突如1ガロン5銭の値下げを発表したため、石油会社の陣営がくずれ第二次ガソリン争議が終了する。

満州事変[編集]

島田増次郎が三代目社長に就任する[編集]

1932年(昭和7年)島田増次郎が3代目社長に就任する。前年に満州事変が勃発するが石油市況は一向に回復の兆しが見えなかった。

消費者主導から軍需物資としての石油。[編集]

第三次ガソリン争議(192~192)[編集]

貝印ガソリン不買運動[編集]

昭和7年8月25日(日本自動車704)、石油6社が協定によってガソリンの値上げを発表する。1ガロン10銭と大幅な値上げであり33銭から43銭にしようとするものであった。東京自動車業組合連合会はその対策として、値上げの急先鋒であるライジングサン社の貝印ガソリンの不買同盟を起こし反対運動を展開した。しかし、業界は保証金を積み、違反者に対し出荷制限をもって反対運動に対抗する。

昭和7年上半期のガソリン市況はライジングサン、スタンダードの外国石油会社がシェアの確保から国内石油会社、特に小倉石油、三菱石油の進出を阻止するために極端な乱売を行ったため市況が軟化し倒産の危機に瀕する石油会社がでてくる状況であった。そこで商工省は燃料国策の立場から国産石油会社の保護のため6社協定の斡旋に乗り出す。自動車業者は協定値上げに商工省が参画していることから反対理由の陳情に乗り出し、反対運動は全国的に高まり問題は更に悪化する。(日本陸運20年)

この抗議活動として東京自動車業○〇〇は昭和7年9月9月25日、商工省を1500車におよぶ自動車で包囲し警察が介入する騒動にも発展する(日本自動車712)

東京自動車業組合による一斉休車指令とガソリン争議の終了[編集]

昭和7年10月15日午前1時を目標とし関東一円の一斉休車の指示が発令されるまで発展し、この険悪な情勢に対し警視総監は、交通治安、思想上、重大な悪影響があるとして10月14日夜の強制調停に乗り出す。これにより東京自動車業組合と石油業者代表との間に、品質数量の確保、値上げ実行の延期、10月中に1ガロン2銭の払い戻しを行う事とした覚書が交わされ第三次ガソリン争議は落着する。

日ソ石油事件[編集]

松方幸次郎が自動車業組合と会談を行う[編集]

昭和7年5月松方幸次郎の招きを受け東京自動車業組合の幹部が会見を行った席で、ソビエトからガソリンを輸入する計画を受けた。松方はガソリン消費の太宗たる自動車業界の意見を聞くのが目的であった。この会談では、1ガロン38銭であった市況価格を35銭を目標としてソ連通商部と商談を進めることを確認した(日本自動車交通事業史)

ソビエト産石油の商談に成功する[編集]

昭和7年8月27日松方幸次郎がソビエトを訪問し、同国通商部との間にバクー油田の商談に成功する。同年9月25日ソ連通商部との間に調印が終わり松方は「日ソ石油販売株式会社」を設立しソ連石油の輸入準備を進める。(日本陸運)

この事は英米の石油会社や国内の石油会社に激震を与えたことはもちろんであるが、6社協定によって苦悶の闘争を繰り広げている自動車業界は歓迎し松方氏が敦賀港に入港した際に幹部を派遣し奮闘を○い、歓迎文を贈呈して祝福し、東京駅に到着したさいは1000車におよぶ車両により東京駅から和田門まで埋め尽くし歓迎をおこなった(日本自動車714)

ソ連産ガソリン輸入による相場下落[編集]

昭和8年8月上旬10999トンの初入荷を行い、9月1日から販売を開始するが、内外6社との間に猛烈な販売競争が行われ、第一船入港と同時に49銭の市況価格は5銭下がり日を追って暴落し市況に大混乱を起こし、1ガロン30銭まで下落した。(日本陸運20)

ソ連産のガソリンは比重が軽く、燃費に優れすことやノッキング性能にも優れていることから冬季や坂道などでエンストすることがなく性能も優れていた。(一橋)

松方日ソがカルテルの仲間入りする[編集]

内外6社は数回に渡り妥協を申し込むが、松方は常に拒絶の態度をもって対応する。しかし昭和9年6月燃料国策を目的とした石油業法(後述参照)の施行を前にして、自動車業界の協定加入反対を退いて7社協定の成立となる。(日本陸運20)

7社協定と石油業法の実施によってガソリン市況の価格は一応安定する。しかし、昭和9年8月末をもち7社協定が切れると再び市況が変動することとなる。昭和9年10月に日石、三菱、小倉石油の3社は「国産揮発油連合会」を結成する。連合会は昭和9年末に石油業法施行による貯油義務遂行とその他の理由として1ガロン10銭の値上げを商工省に申請し1ガロン3銭5厘の値上げを承認、昭和10年1月1日から実施することを決定する。(日本陸運20)

この値上げに対し東京の自動車業界は反対陳情を行った程度で静観の姿勢を行ったが、大阪を中心とする関西の自動車業界はこれを承服せずガソリン争議の舞台は大阪に移る。(日本陸運20)

商工省による指導から日ソが買収される[編集]

昭和10年4月、国産揮発油連合会は早山、愛国石油を加えさらにスタンダード、ライジングサン石油の米英2社、松方日ソを加えた8社により協定値上げを実施を計画し、同年5月には1ガロン7銭の値上げを申請した。 この値上げに対し商工省は協定値が43銭5厘となっているのに市況価格が41銭程度で2銭5厘の価格差があるので値上げの必要があればまずはこの価格差を埋めるべきと営業の合理化を推奨した。 この推奨をうけ石油業界は販売陣営の整備を行い、昭和10年10月日石、小倉、早山、愛国の国産4社は松方日ソを買収し日ソ石油株式会社を成立させる。 同年11月には1ガロン46銭の値上げを行い、昭和11年4月には国産揮発油連合会を改組強化し「石油連合株式会社」が設立される。 昭和11年5月に、原油および運賃の値上げと石油関税の引揚げを理由とし1ガロン5銭の値上げを行った。

これを機会に自動車業界は商業組合の結成による更生策によって事業の進むべき道を見出し、ここにガソリン争議は終止符を打つ事となる(日本陸運20)

石油業法の制定[編集]

1929年(昭和4年)に勃発した世界恐慌による景気後退と、世界的な石油の過剰生産により市況が暴落した結果、外国石油会社の価格攻勢に起因する販売競争によって国内精製能力は50%程度まで低下していた。このような状況にありメジャーの攻勢に対し国家的統制のもと石油産業を保護しその育成を図るとともに、満州事変をきっかけに太平洋戦争へ突入していく過程において軍需産業としての石油産業を国家統制する事を目的として1934年(昭和9年)月石油業法が施行された。

石油業法は①製油業と石油輸入業を許可制とする ②原油、製品の輸入量、精製量、販売数量を統制する ③原油、重油、揮発油の輸入数量の1/2を貯油義務とする ことを骨子とし、輸入数量の内精製業者が自己の精製に必要な原料油と燃料用重油を規制外とする国内製油主義をとり石油産業の保護と国防の充実を図った。

石油業法に至る背景[編集]

  • 国産原油から輸入原油による製油体制の変化

日本市場を争奪するためスタンダードバキュームとロイヤルダッチシェルとの間で石油製品の乱売と販売価格の協定を繰り返してきた。第一次世界大戦後は石油資源開発競争によって世界の原油生産量は大正7年と比較し12年には2倍となる。このような過剰生産により海外石油価格の暴落と、国内の燃料油需要の激増は国内原油資源の貧困と相まって輸入品の急増を招くことになった。

国内原油生産量は1914年(大正3年)秋田黒川油田の大噴油により一時的に増加するが、新潟油田の枯渇によりやがて減少していく。昭和になると台湾、北樺太の外地油田が開発されるが1934年(昭和9年)には原油自給率は19%まで低下する。しかも、輸入原油の80%が米国産原油であることから国防上の問題も発生する。国産原油の生産地である新潟県に本社を構えていた日本石油は1914年(大正3年)に東京に移り、1921年(大正10年)に宝田石油と合併する。国産原油の80%以上を産出しその保護のため関税引上げに奔走した日本石油も1923年(大正12年)には新潟製油所で輸入原油からの製油を始め、1924年(大正13年)には神奈川県に鶴見製油所を建設する。やがて、小倉石油横浜製油所、日本石油下松製油所、三菱石油川崎製油所と輸入原油から連続蒸留システムによる自動操業される製油所が石油の陸上げに便利で消費地に近い太平洋沿岸に次々と創立されることになった。

  • 軍需産業としての石油製品

戦前、石油製品を最も多く消費したのは日本海軍であった。石油は国防上の重要な軍需物資であった事から国会の石油に関する質問は海軍大臣が答弁する不文律があった。明治以来、民間主導により発展していった石油産業は1931年の満州事変を契機に軍需産業としての一面が強くなり、海軍の強い意向により1934年(昭和9年)石油業法が成立し国家統制されることになる。


(詳細は石田氏の論文を参照されるとよろし!)



久保井鉎之が四代目社長に就任する[編集]

日本重油は役員、株主ともにすべて同業競争者であり利害相反することが多かったので、出資者以外の者を社長とする事となり、日本石油の推薦により同社を定年退職した久保井鉎之助(せいのすけ)が1933年(昭和8年)2月に4代目社長に就任する。しかし、日ソ石油株式会社の松方幸次郎が1933年(昭和8年)8月にソ連産石油を輸入し無限競争が宣言されると、国内では熾烈な販売競争が発生する。(東亜)特にガソリン市況の悪化が甚だしい状況となり1ガロン50銭のガソリン価格が、1934年(昭和9年)春には30銭を割る状況であった。そのような石油市況の悪化が日本重油の苦境を一層深刻にした。(東亜)


近藤光正による経営再建[編集]

不正事件による欠損により会社休業[編集]

久保井が社長に就任した目的である、得意先と出資者との調整は果たされることがない中、幹部社員による多額の不正事件が発生し、その欠損額は資本金の数倍にも達する。未払い資本金の払い込みをする者もなく、役員間の紛糾のため会社は機能不全となり1934年(昭和9年)3月5日に会社休業を決議する。

三井物産と株主からの要請[編集]

最大の債権者である三井物産の【要調査】山本は、日本重油の整理更生を日米礦油の常務であった近藤に対し繰り返し懇願する。併せて、株主や重役からも引受けの申し入れがあり、近藤は日本重油の取締役と日米礦油の常務としての立場と、三井物産に対する取引の道義的責任から止む間も無く一大決心をもって再建に当たることを決意する。

近藤光正が5代目社長に就任[編集]

1934年(昭和9年)9月17日に近藤光正が5代目社長に就任する。1934年(昭和9年)3月5日に休業を決議した会社を6ヶ月ぶりに営業を再開した。まず近藤は、全株主の未払込責任付き株式を引き受け、紛糾の原因となった出資関係を私財を投じて整理、調整を行う。そして、三井物産の債権を13年で返済する事とすることとした。

営業活動を積極的に行うため、年(昭和)本社を日本橋際野村銀行ビルに移転する。

景気のかいふく[編集]

世界恐慌から混迷を続けていた石油市場が満州事変以後の需要増加と時局の進展につれ反省の機運?が生じた。またこの頃、石油業法が1934年に制定される。

昭和9年6月になると、日ソ石油事件が落ち着いたことで、混乱した石油市況が回復し始める。9月には揮発油、11月には軽油、機械油の自治的統制機関が設立され秩序を取り戻すに至った。

昭和11年に近藤は日米礦油の常務を辞任し◯◯となり、日本重油の社長として再建に専念する。近藤の手腕と日本重油の今後の成長を見込まれ、揮発油の増産を図っていた早山石油をはじめ、日石、小倉、愛国石油からも重油の販売を依頼され、無担保で大量の燃料油を取り扱うこととなった。以前は年間5000トン程度の取引量であったが、日本鋼管をはじめとする有力販売先の開拓により80000トンにまで膨らむ。

債権を10年早く返済する[編集]

昭和12年に資本金を◯◯万から20万に増資する。昭和13年になると支那事変による軍需景気が盛んになりさらに業績が向上し、復配するにまでいたった。この年、さらに増資し資本金を20万から30万とする。

業績の急激な成長により、予定より10年早い昭和13年秋に債務を完済し日本重油は再建を完了した。 以降は戦局の進展により経済統制が強化され、重油の消費規制により業績が伸び悩む時期もあったが、大した影響がなく営業を続けることができた。

東亜石油の誕生 日米礦油の一部を吸収合併し東亜石油と改称する[編集]

近藤は親会社より規模が大きくなった日本重油に、日米鉱油の大部分を分割併合する事を昭和17年4月10日臨時株主総会で決議する。(道ひとすじに/東亜61)

日米鉱油の22営業所中、小樽、釧路、東京、横浜、三崎、伊東、北京、天津、上海の営業所および中川工場を併合し、資本金を30万から126万に増資を行い社名を“東亜石油”と改め新発足させた。

昭和17年11月4日に大東亜会館(東京會舘)で披露宴を催した。


終戦[編集]

昭和18〜19年になると戦局は激しさを増し国内石油消費規制はますます強化され、石油販売業者のほとんどが経営困難になったが、企業整備により東京支店の経営、販売は蒲田区内の指定配給所に指名され、大家商店、小舟商店と3社の共同出資による蒲田石油配給所(社長:近藤道正)として発足し営業を行う。中川工場は強制疎開になり、東京大空襲により東京と横浜営業所は倉庫と共に全滅する被害を受ける。

この頃、近藤は私財を投じ買収した東華火油工廠の社長を兼務しており、政府命令による大規模な人造石油工場建設のため昭和20年1月から6月中旬まで中国青島にある現地製油所にいたが、終戦前に一時帰国し青島向けの資材を輸送計画中に終戦となる。

終戦後、中国大陸からの引揚げ従業員の受け入れが始まったが、石油の消費量が極めて少なかったため、東亜石油の経営上これらの従業員を引き受けることが難しかった。そのため、近藤は個人財産を投じて魚粕肥料、冷凍、殿粉の事業を開始する。

昭和24年に石油統制が解除され石油消費量に回復の兆しが見えるまで、全従業員の復帰と生活確保のために近藤は労苦を重ねた。


沿革[編集]

  • 1924年2月(大正13年)- 資本金10万円を以て、東京日本橋小網町に創立。社長北村長吉、発起人は他に矢野新吉、島田善介、硲文七、日米礦油東京支店長横溝栄次郎、同次長近藤光正。三井物産が、米国ゼネラル石油より輸入した重油の京浜地区一手販売を目的とした
  • 1929年(昭和4年)- 世界恐慌始まる。石油市況悪化
    • 8月 - 松方幸次郎がソ連石油輸入のため、石油市況ますます悪化
  • 1934年(昭和9年)- 欠損のため破産状態に陥る
    • 12月 - 近藤光正社長に就任、整理に着手
  • 1936年(昭和11年)- 近藤社長は、日米礦油の常務から平取締役になり、日本重油の会社再建に専念する。再建緒につき、早山、日石、小倉、愛国石油等各石油会社より重油販売を委託され、以来業績向上
  • 1938年(昭和13年)
    • 6月 - 資本金30万円に増資、三井物産への負債完済
    • 7月 - 近藤社長、日本重油の社長を在任のまま日米礦油の専務に昇格
  • ??日華事変と軍需景気の勃興により業績大いに向上
  • 1942年(昭和17年)
    • 4月 - 日米礦油を分割し同社22営業所中、小樽、釧路、東京、横浜、三崎、伊東、北京、天津、上海の各営業所を吸収、東亜石油株式会社と改称

関連項目[編集]

  • 近藤光正- 東亜石油創設者・社長、東華火油工廠・社長、共同石油・取締役
  • 早山与三郎- 早山石油創設者・社長

脚注[編集]

注釈

出典

参考文献[編集]

  • 『東亜石油61年のあゆみ』1959年6月18日。 
  • 『日米礦油八十年史』1979年12月。 
  • 『昭和石油物語』2010年9月5日。 
  • 『東神油槽船55年史』1995年1月。 
  • 近藤光正『道ひとすじに』大和書房、1964年6月1日。 

外部リンク[編集]

バックアップ[編集]

業績を立て直すため社長が入れ替わる[編集]

1930年(昭和5年)硲文七が2代目社長に就任するも不況は回復せず日本重油は不振を続け、1932年(昭和7年)島田増次郎が3代目社長に就任する。前年に満州事変が勃発するが石油市況は一向に回復の兆しが見えなかった。

日本重油は役員、株主ともにすべて同業競争者であり利害相反することが多かったので、出資者以外の者を社長とする事となり、日本石油の推薦により同社を定年退職した久保井鉎之助(せいのすけ)が1933年(昭和8年)2月に4代目社長に就任する。

[1]

  1. ^ 東亜石油61年のあゆみ 1959, p. 14.

日ソ石油事件[編集]

当時の石油価格は商工省の主要産業統制法により国内6社によって支配されており、(一橋pdf)

自動車の復旧と伴に、ガソリンの激しい販売合戦が繰り広げられ世界的な石油価格の下落を招いていた。(エンパイヤ)

https://www.empire.co.jp/story/story05.html

https://www.ier.hit-u.ac.jp/COE/Japanese/discussionpapers/DP98.4/honbun4.htm

[1]

  1. ^ 東亜石油61年のあゆみ 1959, p. 14.

第一次ガソリン争議(192~192)[編集]

昭和初期、アメリカ産の原油が急激に増産され、その結果、世界中で原油価格が下落した。この問題を解決するため、昭和3年にロンドンで米英の石油業者による石油会議が開かれ、原油の減産について話し合われた。昭和4年6月、 原油減産、為替変動による影響と石油製品市況の引締めを目的として、日本石油、小倉石油、三井石油、三菱石油、ライジングサン石油、スタンダード石油の6社が協定を結び80銭から1円の値上げを計画した。(25%以上の値上げ)製品価格の値上げを新聞広告に掲載したが、東京自動車組合が反対運動を行い、昭和4年7月末に6社協定の値上発表は撤回される。 (日本陸運二十年史_第一次大戦末期より日華事変勃発に至るまでの運輸経済) p635

世界恐慌による業績不振[編集]

※(世界恐慌の石油に与えた影響を述べる)

1924年(大正13年)の創業以来、業績を順調に進展させていたが1929年(昭和4年)の政界恐慌による影響を受け日本が不況となる。さらに、海外市場が狭められた外国石油会社は日本で石油製品のダンピングを行い、国内の石油市況が悪化し、その影響から日本重油の業績が不振となる。[1]

硲文七が二代目社長に就任する[編集]

世界恐慌による影響を回復させるために、1930年(昭和5年)硲文七が2代目社長に就任するも不況は回復せず日本重油は不振を続ける。

  1. ^ 東亜石油61年のあゆみ 1959, p. 14.