利用者:Quark Logo/sandbox佐敷城 (肥後国)
佐敷城 (熊本県) | |
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城郭構造 | 山城 |
築城主 | 佐敷氏 |
築城年 | 南北朝時代 |
主な改修者 | 加藤清正 |
主な城主 | 佐敷重宗、宮原景種、加藤重次 |
廃城年 | 元和元年(1615年) |
遺構 | 近世佐敷城の石垣と土塁 |
指定文化財 | 県重要文化財、国指定史跡 |
位置 | 北緯32度18分11.0秒 東経130度30分10.0秒 / 北緯32.303056度 東経130.502778度座標: 北緯32度18分11.0秒 東経130度30分10.0秒 / 北緯32.303056度 東経130.502778度 |
佐敷城(さしきじょう)は、肥後国の南部、現在の熊本県葦北郡芦北町佐敷字下町にあった日本の城。加藤清正によって築城された近世の佐敷城は佐敷花岡城とも呼ばれる。佐敷城の城下は薩摩街道と人吉街道(相良往還)が通る交通の要地であり、戦国時代中期までは相良氏、戦国時代末期には島津氏の勢力拡大をめぐって佐敷城の攻防が繰り返された。
城跡は国の史跡に指定され、指定名称は佐敷城跡(さしきじょうあと)という。
歴史
[編集]佐敷城の名は在地の豪族である佐敷氏が拠る城として、南北朝時代から歴史史料(『深江文書』、『入来院家文書』)に登場するが、それがこの佐敷城址か、佐敷川を挟んでその東に位置する「佐敷東の城」(芦北町花岡字宇土)の城趾をさしていったものか、判断できていない。いずれにしても14世紀初に水俣氏の一族として分岐した佐敷氏の本拠であって、両城ともに戦国期には存在して、葦北の回復[1]を狙って球磨から勢力を伸ばした相良氏と、宇土・八代を本拠とする名和氏[2]の間で争奪が繰り返され、しばしば薩摩の島津氏からも攻撃を受けた。相良氏は
『八代日記』によれば享禄2年(1529年)に舟橋氏が相良氏に味方したことで落城した。それが永禄2年(1559年)に肥後守護であった菊池為邦によって安堵され、相良氏の葦北領有が公認されるに至った。
天正9年(1581年)、島津義久は相良義陽と水俣で戦ってこれを降し、葦北郡を割譲させて家臣の宮原景種を佐敷城代(地頭)とした。次いで八代郡も併合した島津氏は肥後へ進出する道が開け、以後盛んに九州各地を経略したが、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐を受けたことにより、肥後の諸城を放棄して撤退を余儀なくされた。
豊臣政権の下で肥後の領主に任じられた佐々成政の統治は国人一揆によって短期に終わり、天正16年(1588年)葦北郡は肥後北部の半国を拝領した加藤清正の飛び領地となる。加藤清正は花岡山に石垣を巡らした近世の佐敷城を築き上げ、加藤重次を城代として置いた。
文禄元年(1592年)6月、城代の加藤重次が文禄の役に従軍して不在であることに乗じて島津歳久の家臣である梅北国兼が佐敷城を占拠したが、井上吉弘など留守役の働きで梅北国兼は討ち取られ、佐敷城は奪還された(梅北一揆)。
朝鮮の役から帰国した加藤氏は島津氏への押さえとして佐敷城のさらなる普請を行うが、はたして慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、西軍方の小西氏と島津氏に挟まれた葦北郡は孤立し、佐敷城は島津忠長の軍によって包囲される。加藤重次は、関ヶ原における西軍敗北の報が伝わり島津軍が兵を引くまでの約一ヵ月間佐敷城を守りきった。 その後も佐敷城の増改築は続けられたが、元和元年(1615年)に一国一城令が布告され、佐敷城は石垣を崩されて廃城となった。
現状
[編集]昭和54年(1979年)に石垣の一部が発見され、平成5年(1993年)から平成13年(2001年)にかけて発掘調査が行われた。詳細は不明ながら『肥後国絵図』に描かれた三層の天守閣を再現する公園整備案が持ち上がったが、発掘の結果天守の礎石は発見されなかった。学術的な復元を望む慎重意見が多く、町長選でも天守閣再建反対派の候補が当選したため、平成9年(1997年)より石垣の復元を中心として歴史公園の整備が行われることになる。
平成10年(1998年)3月、熊本県指定の史跡に指定され、城跡より出土した「天下泰平国土安穏」と彫られた瓦も同時に県指定の重要文化財に指定された。同年4月佐敷城跡城山公園として一般公開。平成20年(2008年)3月28日、「近世初頭頃の政治・軍事を理解するうえで重要な遺跡である」として、城跡の83,500m2が国の史跡指定を受けた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 矢野彩仙『肥後佐敷城史』、葦北史談会、1935年(昭和10年)初版。(青潮社により復刊、1982年)
- 児玉幸多, 坪井清足, 平井聖, 磯村幸男ほか 編『日本城郭大系, 福岡・熊本・鹿児島』 第18巻、新人物往来社、1979年、339-341頁。
- 熊本県教育会葦北郡支会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 葦北郡誌』田中城資、1926年 。