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利用者:Quark Logo/sandbox柴田勝全

 
柴田勝全
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
別名 勝成、通称:源左衛門、佐渡守
主君 柴田勝家→不明→堀秀政福島正則
広島藩
氏族 柴田氏
父母 不明
正室:斎藤利三の長女
後室:斎藤利三の次女(故三上季直室)

女(堀直之正室)[1]、女(三上季正後室)、女(秋山正重正室)

養子: 直好[2]
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柴田 勝全(しばた かつまた)は、安土桃山時代武将江戸時代福島正則の仕えて広島藩士。通称は源左衛門で、同じく「柴田源左衛門」を称する柴田勝定とは、同一人物説があって経歴が混同されているが、別人である[3]

略歴

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出身も父母も不明だが、最初は柴田勝家に仕えていた。『橘栄一郎家文書』の天正9年(1581年)7月13日付の判物があり[4]、このときの勝全の花押が[5]、前述の勝定のものとは異なるという[6]。橘屋三郎左衛門尉は越前国北之庄で軽物(絹布)や唐物を扱う商人で、座の許可を安堵されているが、勝全が登場するのはこれっきりで、天正11年(1583年)になると、佐久間盛政に替わっている。

柴田勝家の重臣として多数の一次史料の判物が残る柴田勝定と違い、勝全の痕跡は非常に少なく、まだ格の低いの人物であったように思われ、年齢も若いのであれば、親子の関係であったのかもしれない。勝定の妻は明智秀満の妹で、勝全の妻は斎藤利三の長女というのは、重縁を結んだもののように見える。



堀秀政に属した。秀政の子の堀秀治の代になって、堀家の所領内(越後国内)で1万3000石を知行した。関ヶ原の戦いでは、上杉景勝の扇動した一揆勢と戦った(「上杉遺民一揆」)。しかし、老臣の堀直政と争いになって改易となり、以後は浪人したと伝わる。ただしこの山崎の戦い以降の経歴については、柴田勝全の経歴であるとされる。


脚注

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  1. ^ 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書、1923年、1200頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/609 国立国会図書館デジタルコレクション 
  2. ^ 堀直之の四男で、外孫にあたる。
  3. ^ 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、204頁。ISBN 4642027432 
  4. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 橘栄一郎家文書」『福井県史 資料編 3 (中・近世 1 福井市)』福井県、1982年、441頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9538848/252 国立国会図書館デジタルコレクション 
  5. ^ 東京大学史料編纂所.
  6. ^ 谷口 1995, p. 204.

参考文献

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