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湯前城
熊本県
城郭構造 山城
築城主 不明
築城年 戦国時代末期
主な城主 東直政、竹下監物
廃城年 江戸時代初頭
遺構 堀切
位置 北緯32度17分12.3秒 東経130度59分14.7秒 / 北緯32.286750度 東経130.987417度 / 32.286750; 130.987417 (湯前城)座標: 北緯32度17分12.3秒 東経130度59分14.7秒 / 北緯32.286750度 東経130.987417度 / 32.286750; 130.987417 (湯前城)
地図
湯前城の位置(熊本県内)
湯前城
湯前城
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湯前城(ゆのまえじょう)は、熊本県肥後国上球磨)に存在した中世山城球磨郡湯前町大字下城字野首にある城趾で、現在は相良三十三観音霊場の25番札所の普門寺[1]および市房山神宮里宮神社となっている。

概要

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遺構などはほとんど残っておらず所在地の比定が難しい。『日本城郭大系』は市房山神宮里宮神社の北側背後の山が城趾である[2]とするが、現在の神社社屋の背後には、多少の傾斜地はあるが、山といえるようなものはない。

『球磨郡神社記』によれば、慶長9年(1604年)に「普門寺を湯前城内に移す」とあり、この時点ですでに廃城になっていたようで、17世紀初頭には城としては使われていなかったものと思われる。その後、普門寺[1]も廃寺になり、明治5年8月、市房山神宮の遙排ようはい[3]とされたが、明治16年6月に火事で焼失。昭和6年になって再建工事が始まり、3年後の昭和9年4月に完成した。再建された神社は南側裾部から一段上の山頂部に移されているので、城趾の一部(もしくは全部)は神社の下にあるらしい。山頂部分は楕円形の平坦地(東西70m、南北80m)となっていたというが、現在、神社の境内、道場、社務所、駐車場などがあり、北側背後は畦道と畑があるだけであるが、境内にある3つの平地はどれも曲輪のような形をしている。



『古城考』によれば東直政の居城という[2]

北の球磨川、南の都川(みやこがわ)、およびその支流・牧良川(まきらがわ)に囲まれた台地の上にある。

小山の北側の端は球磨川の断崖で、東側の鞍部に自然の谷を利用した堀切がある。堀切は途中で西に折れ曲がり、神社の南の裾部を空堀のように200メートル以上走っている。堀道をそのまま西に進むと下町橋と呼ばれる古い石橋にたどり着くが、現在はあまり使われていない旧道では、これが下城と古町を結ぶルートであった。

市房神社の別当寺である普門寺は、修験場であった水上村湯山にあったが、永正3年(1506年)に水上村岩野に移され、さらに慶長9年(1604年)に湯前城内に移されて再興された。


『求麻外史』によれば、東直政が居城していたが永禄2年(1559年)に没落、翌年に能登守が城主になったという


城跡は都川と球磨川の合流点にあって、野首の字名を残す山稜末端部(標高224.7m、北側麓の水田面よりの比高約45m)に位置している。

野首とは熊本(および宮崎など)で丘陵のくびれ部を意味する語句である[2]

城跡における最も顕著な遺構は東側鞍部を断切る長さ20伽の堀切(深さ3~4m)で、これは最終的に西側に折れ、里宮神社の南側下を走ることになる。西側延長部も同じく200mを計る大規模なものである。堀幅は広い所で30m程に達し、堀底は二段構えになっている。

城跡周辺には「下城」「「水ノ手」「古城」「上城」の字名をはじめとして、「蔵坂」「三助手路」等の小名が残っており、興味深い。南側麓の集落を「加古井」と称するが、「囲」の意をなすものであろうか[2]

南側麓の集落は「カロ古井」と称される。城跡の東側鞍部を断切る堀切が、竪堀となりそのま ま延長されて集落をめぐる事から、「加古井」という呼称が生じたのであろう。

脚注

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  1. ^ a b 施無畏山真言院普門寺。修験道の寺。
  2. ^ a b c d 阿蘇 1979, p. 368.
  3. ^ 「遙排」とは、遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむ場所のこと。市房山神宮の本宮は市房山の中腹にある。

参考文献

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関連項目

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