利用者:Quark Logo/sandbox釜山鎮の戦い・加筆

釜山鎮の戦い
文禄の役・釜山城攻略
文禄の役・釜山城攻略/『釜山鎮殉節図』
(1709年初筆を1760年に模写)
戦争文禄・慶長の役
年月日文禄元年4月13日1592年5月24日
場所朝鮮半島釜山広域市
結果:日本側の大勝
交戦勢力
豊臣政権 李氏朝鮮
指導者・指揮官
一番隊
宗義智
松浦鎮信
ほか
鄭撥(釜山僉使)
李庭憲(副使)

朴泓(慶尚左水使)

戦力
不明
少なくとも15,000人
不明
少なくとも8,000人
損害
不明 斬首8,000、捕虜200[1]
または斬首1,200[2]
(諸説あり)
板屋船97隻を自沈
  • 鄭撥、李庭憲は戦死
  • 朴泓は山中へ逃亡
文禄の役(壬辰倭乱)

釜山鎮の戦い(ふざんちん[3]のたたかい、朝鮮語読みで釜山鎮はプサンジン)は、文禄元年4月13日1592年5月24日)、前日釜山浦に上陸した日本軍が釜山鎮城[4]を守る朝鮮軍を攻撃した攻城戦である。この戦いはほぼ同時に行われた多大鎮の戦いとともに、文禄・慶長の役における最初の戦闘であった。

背景[編集]

天正19年(1591年)1月20日、関白豊臣秀吉遠征の準備を始動させた。秀吉は対馬国宗氏に命じて、李氏朝鮮を帰順させようとしていたが、交渉は難航した。秀吉が重ねて朝鮮国王の入朝[5]を強く要求したために、交渉担当役となった宗義智はこの無理難題に窮し、その舅小西行長と共謀して、単なる祝賀の使節として派遣された朝鮮通信使がその服属使節であると偽って説明して、交渉の失敗を取り繕った。

秀吉は、黄允吉金誠一からなる朝鮮通信使に「征明嚮導」つまり朝鮮が征明遠征軍(日本軍)を先導をすることを命じる国書を与えて帰したが、朝鮮朝廷は党争[6]に明け暮れており、この交渉中にも西人派鄭澈が失脚[7]し、東人派柳成龍が左議政となっていて、日本の侵攻を警告する黄允吉(西人派)の意見を否定し、大事にはならないという金誠一(東人派)の意見を採用して、戦備を整えることを怠り、「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」と秀吉の野望が明記されていたにもかかわらず、国書を無視した。

12月には秀吉は関白職を秀次に譲って自らは太閤となり、翌天正20年には遠征軍の陣容も定めて、益々、外征に専心するようになった。2月、いよいよ開戦が迫ると行長らは焦って、「仮途入明」つまり遠征軍が明に攻め込むための進撃路を貸すように朝鮮を説得しようしたが、明の冊封国である朝鮮の立場は明確であり、これは拒否された。ここに至って行長は、帰服した朝鮮が変心したとの嘘を報告。秀吉は再交渉のために若干の猶予を与えたが、もはや遠征は延期できないとして、3月末までに良い返事がない場合には、まず朝鮮から「御退治あるべし」と出征の号令を出した。朝鮮が急に屈服することはあり得なかったため、この時点で征明軍は征韓軍へとその目的を変えた。

日本軍は九州北部の肥前名護屋城[8]から出航して、壱岐勝本、対馬厳原、大浦ですでに待機していた。当時の日本の航法は地乗り航法(沿岸航法)で、「山あて」と呼ばれる周囲の景色の重なり具合から自分の位置を知る方法が主流であった。船団が沿岸を目視できる範囲から離れることは危険で、濫りに大洋を横断することはできなかったので、最初の目標は釜山となった[9]。釜山は戦前より対馬との往来が盛んで、邦人が多く住み、倭戸あるいは麗倭と呼ばれていた。

概要[編集]

4月12日(1592年5月23日)の朝、対馬の大浦を出発した一番隊の700隻の軍船は順風に乗って夕方に釜山浦に到達した[10]。釜山僉使[11]であった鄭撥は、この時偶然に絶影島で遊覧しており、海一面に広がった和船の襲来に遭遇して、慌てて城に戻った[12]

対馬の領主で朝鮮の事情に詳しかった宗義智は最初に上陸したが、日が暮れたので、一旦、船に戻った。



先導役を務めた彼ら対馬衆の知識に基づいて戦略が練られることになった。


釜山鎮城に


攻撃前に城内に書状を送り「仮途入明」を要求したが、


朝鮮における橋頭堡を確保するとともに、釜山沿岸の制海権を得るため、


それは軍を分けて、釜山の本城及び、多大鎮及び西平浦の港にある砦に同時に攻撃をかけるというものであった。


『懲毖録』(柳成龍)においては、鄭撥は

渡海した日本軍は


辺将である鄭撥が黙殺したため、

翌13日朝6時、宗義智は釜山の城壁に攻め寄せた。他方、分かれた小西行長は、この時、多大鎮の砦の襲撃を率いていた。


鄭撥は味方の軍船を沈め、兵民とともに城に籠った。

日本軍は火縄銃[13]の援護を受けながら、城壁に梯子を掛けて攻め込み、いくさ経験豊富な日本兵は朝鮮側の防衛を圧倒した。宗義智による攻撃を受けた後、朝鮮軍は二次防衛線まで後退。朝鮮側の鄭撥は、弓手を再編成して反撃したが、この時はすでに朝鮮側は三次防衛線まで後退していた。数時間の戦闘の後、朝鮮軍は矢を使い果たし、日本軍も損害を受けたため部隊を再編成した後、攻撃を再開した。鄭撥が被弾して戦死し、朝鮮兵の間で戦意が失われていき、13日午前8時頃には城内に攻め入られ、釜山における朝鮮側の将兵は多くが打ち取られた。

朝鮮側の軍民はほとんど全て撫で斬りにあったと思われ、この戦いに参加していた松浦鎮信の家臣吉野甚五左衛門の従軍記『吉野日記』には、攻略後は戸板の下に隠れていた兵士も探し出して、ひれ伏した兵士も踏み殺し、「女男も犬猫もみなきりすて、きりくびは3萬ほど」[14]であったと生々しく書かれており、今思えば武士とは「鬼おそろしや」と感想を残している。

釜山とは山を隔てて反対側に位置する左水營を拠点とする水軍の将である慶尚左水使朴泓は、山頂から釜山城が攻撃されているのを見て驚愕し、救援には向かわず任地も軍船も放棄して、そのまま逃亡した。隣の管区の水軍の将で、巨済島の右水營から急行してきた慶尚右水使元均は、当地はパニック状態で兵士が集まらず戦うことは不可能と考え、慶尚道に属した2つ水軍の100隻あまりの軍艦と火砲を海に沈め、自らは側近と数隻の船に乗って、昆陽まで退却した。

こうして日本軍は釜山を占領した。この時から戦争が終結するまで、釜山は日本の輸送基地となり、対馬から兵員や食料を輸送し続けた。

その後[編集]

釜山陥落により、日本の第1軍はその最初の目標を達成した。しかし橋頭堡を守る為には釜山から数km北にある東莱城を攻略する必要があった。翌14日の早朝、宗義智は損害を受けた軍を率いて東莱城を攻撃した。この電撃的な攻撃が、文禄・慶長の役の火蓋を切ったのである。

異説[編集]

釜山僉使鄭撥の活躍は、宋時烈が撰した墓碣銘では、三隻の

上記のように述べられているが、朝鮮側史料に全く違う記録があり、『宣祖実録』においては、鄭撥は島にいて倭船を見たが敵とは思わず、また日本から使節が来たと思って防備をとらないでいたら、翌日、彼が城に帰り着く前に攻城戦が始まり、急行したものの乱戦で死亡したと書いてある[15]。彼が奮戦した内容があるのは『宣祖寶鑑』とそれを基にした書籍である。

鄭撥は後に忠烈公に叙されており、都合の悪い内容は改変された可能性も指摘される。『西征日記』によれば戦闘はわずか2時間であり、『寄斎雑記』(朴東亮[16])には「鄭撥は宿酔未だとけず、一矢も放たず死す」とも書かれており、奮戦は虚飾であるという説もある。

脚注・出典[編集]

  1. ^ 甫庵太閤記』より
  2. ^ 参謀本部(編)『国立国会図書館デジタルコレクション 朝鮮役 (本編・附記)』偕行社〈日本戰史〉、1924年、154頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936355/2 国立国会図書館デジタルコレクション 
  3. ^ 笠谷 & 黒田 2000, p.44
  4. ^ 現在の大韓民国釜山広域市東区佐川洞。
  5. ^ 日本の朝廷に参内し、献上品(入貢)を差し出して、屈服すること。
  6. ^ 朝鮮王朝時代に横行した官人たちの党派争いのこと。
  7. ^ 宣祖(李昖)は側室の仁嬪金氏を寵愛し、その息子の信城君を溺愛していたが、群臣は光海君に従っていた。鄭澈は仁嬪の弟・金公諒が専横の傾向があるので排除しようとしたが、李山海(東人派/北人派)の子を通じてその話が金公諒に漏れ、仁嬪が国王に泣きついたことから、宣祖は激怒して鄭澈の官職を剥ぎ、追放に処した。
  8. ^ 唐津市玄海町
  9. ^ 笠谷 & 黒田 2000, pp.21-23
  10. ^ 徳富 1935, p.348。池内 1936, p.8
  11. ^ 釜山僉節度使の略で、辺将とも言う。
  12. ^ 柳 & 長野 1921, p.22
  13. ^ 朝鮮側は前年の日朝交渉中に宗義智から火縄銃の献上を受けていたが、金時敏が朝鮮の兵器廠で火縄銃(鳥銃と朝鮮では呼んだ)の模造品を作らせるまでは、小銃を使っていなかった。中国にはすでに火縄銃があり、種子島に初めて伝わったものも中国製ポルトガル式狩猟銃であった。しかし朝鮮軍には独特の火砲はあったが、(朝鮮の民族的武器である)弓を尊ぶあまり、小火器は軽視していた。
  14. ^ 徳富 1935, pp.356-357
  15. ^ 徳富 1935, p.346
  16. ^ 宣祖の遺命を承った七人の臣下のうちの一人。

参考文献[編集]

  • 笠谷和比古; 黒田慶一『秀吉の野望と誤算 : 文禄・慶長の役と関ケ原合戦』文英堂、2000年。ISBN 4578129616 
  • 徳富猪一郎国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣氏時代 丁篇 朝鮮役 上巻』 第7、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、315-316, 346-351頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223744/193 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 池内宏国立国会図書館デジタルコレクション 文禄慶長の役 別編 第1』東洋文庫〈東洋文庫論叢 ; 第25〉、1936年、9-12頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048035/15 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 参謀本部 編『国立国会図書館デジタルコレクション 朝鮮役 (本編・附記)』偕行社〈日本戰史〉、1924年、152-155頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936355/86 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 柳成龍; 長野直彦(訳)「国立国会図書館デジタルコレクション 懲毖録」『通俗朝鮮文庫 第5輯』自由討究社、1921年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/968125/25 国立国会図書館デジタルコレクション