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神社非宗教論(じんじゃひしゅうきょうろん)とは「神社は宗教でない」という命題である。明治憲法下の宗教行政でいわれた[1]。明治以降の神社行政の沿革は複雑であるが、行政上は基本的に神社を国家の祭祀として他の宗教と区別して取り扱った。1900年、内務省における神社局と宗教局との分立によって神社非宗教論が確立したとされる[2]

非宗教論と神非宗教論は同じものではない[3]。神道非宗教論は神道のあり方を問い直すものであり、これによって改革された制度を説明するものが神社非宗教論であった。制度改革の背後には仏教勢の自由獲得という目的があった[4]。仏教の浄土真宗は神道非宗教論を唱えて大教院からの独立運動に成功した。一方、神道界は政教一致と神祇官復興を目指して運動し、浄土真宗の神道非宗教論と競合したが、みずからの要求を実現することができなかった[5]。そして、神道界が祭神論争で内部紛争にあけくれるに至って、浄土真宗は神道を批判し始めた。その結果、神道は変化を余儀なくされた。変化後の神道に関して言われたのが神社非宗教論であった[3]

神社が宗教でなく専ら道徳として解釈されるようになったのは、キリスト教に対する政策の関係があったと考えられていた。キリスト教という外来宗教から神社が軽侮されないように、神社を宗教でないと説明したのである[6]

仏教界や神道界が神社非宗教論を主張して政府に働きかけたのは、キリスト教への警戒のため、国民国家建設のため、教団の安定化のためであった。そして、国体や神社非宗教論などのイデオロギーを明文化したのが帝国憲法と教育勅語であった。神社参拝は、宮城遥拝や教育勅語奉読や伊勢神宮式年遷宮などとともに非宗教として意味付けられた。一方で、国のために戦死した英霊を祭ったり、神聖不可侵の天皇を崇拝したりする宗教的側面も併せ持っていた[7]

神社非宗教論は、信教の自由を保証する明治憲法の規定と、事実上神社を国教として扱っていた現実との間を解消するためのものだと説明されることがある。しかし、政府が国民に神社への礼拝を強要しても信教の自由に反しないとは憲法制定者たちは考えていなかった[1]。明治国家は神社非宗教論にもとづく政教分離とともに、帝国憲法で信教自由を保障することにより、諸宗教の統制を可能にした。キリスト教界や仏教界は政府と衝突するのを避け、政府の政教分離を支持した[8]

神道非宗教論の起源[編集]

神道非宗教論の由来は江戸時代に遡る。復古神道家や儒学者が仏教を排斥して神道の道徳面のみを鼓吹したのが後世に影響したのである[9]藤田東湖が「いわゆる神道者流は陰陽五行に附会したり暗に儒教を取り入れたりして神道を設けた。しかし我が主君(徳川斉昭)の唱える神道はそれとは違う。天地の初めより応神天皇の時まで異国の教が渡ってこなかった時代の有り様が皇朝の道である。異国の道が伝わる前なので神道と名づけるまでもなかった(よって弘道館記には斯道としか書いていない)。しかし漢や天竺の道が伝わって紛らわしくなったので、やむを得ず神道と名づけたのである。したがって神道といわなくても、皇朝の道とか大和の道とか皇道とか大道とか呼んでもいいのである」と言ったのも、また藤中渓が「神道は日本の大道であって、古く異教の渡来する前は、この道が天然の民俗となって、万事みな神道のままに尊み敬み、君臣・父子・夫婦の道はもちろん、日々の動静も何でも神道であった」と言ったのも、神道を道徳面から見たものである[10]

祭政一致と祭教分離の概略[編集]

神社非宗教と祭政一致は、諸外国と異なる近代日本独自の国家の特色である。これを確立させたのが、祭祀と宗教との分離という意味での祭教分離であった[11]。明治国家は王政復古と神武創業の理念にもとづき祭政一致国家を整備した。天皇みずから祭祀を執り行う親祭と、天皇みずから政治を執り行う親政とを理想とした。これを成立させる基本概念が祭教分離、すなわち祭祀と宗教の分離であった。神社は行政において非宗教とされた。神社非宗教論は西洋における宗教概念と交錯した[12]

祭教分離は3段階で行われた[11]

  • 第1次祭教分離は、祭祀と宣教の分離である。1872年の神祇省廃止に伴い太政官式部寮と教部省とが分立し、それぞれ祭祀行政と神社行政を分掌した[13]
  • 第2次祭教分離は、神社における祭祀と宗教の分離である。1882年の神官教導職分離により、伊勢神宮・官国幣社の神官の教化活動や葬儀関与が禁止された。教化活動も分離された[13]。さらに1884年、教導職を廃止して管長制を設けた。神道教師の進退することは総て管長に委任することにした[4]
  • 第3次祭教分離は、神社行政と宗教行政との分離である。1890年、内務省社寺局が神社局と宗教局とに分けられ、神社局が特立した[13]

3度の祭教分離は、神社や神道のあり方、国家や社会との関係を転換させた[13]

祭政一致[編集]

1872年に皇室祭祀と神社行政とが分離された。これと密接にかかわるのが維新直後に祭政一致の理念により再興された神祇官であった。近代祭政一致国家の基盤形成の過程であった[11]

明治初年、平田派国学者らが古代律令制さながらの神祇官の特立を求めて運動を展開した結果、明治2年(1869年)7月に太政官外に神祇官が特立した。これは古代神祇官と異なり、宣教使と諸陵寮という2つ外局をもっていた。宣教使は、幕末以来の懸案であるキリスト教対策のために宣教を行うものであった。諸陵寮は天皇陵の復興を管掌した。同年12月、古来の八神殿のほかに神祇官神殿を設け、皇霊と天神地祇を祭った[14]。翌年1月3日、二つの詔が発せられた。鎮祭の詔では神祇官神殿をもって国民に孝敬を垂れるとされた。大教宣布の詔では宣教使により治教を明らかにして大教を宣揚するとされた。神祇官が祭祀と教化の中心としても位置付けられたのである。その背景には津和野派国学者の構想があった。祭政一致に国民教化を結び付けた祭政教一致の構想であった[15]。この間、神祇官附属の諸陵寮は、山稜祭祀を核とした皇霊祭祀制度を整備した。皇霊に対する天皇の孝の体現を制度化した[16]。こうして神祇官時代に皇霊祭祀が確立した。忠臣祭祀と合わせて、忠孝にもとづく祭祀の儒教化が進んだ[17]

しかし単なる復古は文明開化の時勢に適さなかった。明治3年(1871年)、8月大納言岩倉具視が「建国策」を示して国体昭明の政策構想を指示した。これを機に福羽美鈴ら神祇官僚たちが動き出した。皇室祭祀に基づき全国統一の国家祭祀制度・神社制度を確立するとともに敬神の政教を布告するという祭政教一致の構想により、近代神社制度を整備した[18]。翌年(1871年)1月、藤波家の神宮祭主職を免じ、伊勢神宮改革を始めた。5月14日、全国の神社を国家ノ宗祀と位置づけ、神官の世襲を廃止し、官社以下定額及神官職制規則を定めて、近代社格制度の原型を整えた[19]。ただし宮中において天照大神を祀る賢所については、維新後しばらく白川家が祭祀を独占していた。東京に遷座した後も、白川家と女官が奉祀した。また宮中では歴代皇霊を仏式で祀る旧態のままであった。神祇官は関与できなかった[20]

平田派を除く国学者は福羽美鈴を中心として神祇官の廃止を図った。天皇と太政官との一元化による祭政一致体制を実現するためであった。神祇官は明治4年(1871年)8月に廃止され太政官下の神祇省に改組された[14]。10月29日、神祇省は四時祭典定則と地方祭典定則を定め、皇室祭祀と神社祭祀を連動させた体系的な国家祭祀制度の成立を図った。皇室祭祀は宮中祭祀のほか、伊勢神宮や官幣社の勅祭を含んでいた[21]。12月17日には白川・吉田などの各家に残された権能がすべて廃止された[22]。翌年初、四時祭典定則により初めて行われた元始祭では天皇が親拝と玉串奉奠を行った[22]

皇室祭祀と国民教化との分離[編集]

明治政府は神祇省を廃止し教部省を設置し教導職を置いて神仏儒による国民教化に乗り出した。これまで神道のみで行ってきた国民教化が不振であったことを反省したことによる政策であった[23]

政府は明治5年(1872年)3月、神祇省を廃止して教部省を新設し、神仏教導職を管掌させた。また神祇省の祭祀関係の官職と事務を全て太政官式部寮に移管した。これにより第一次祭教分離を果たした。同月、神祇省神殿の八神・天神地祇を宮中に遷座した[22]

福羽美鈴らにとって、教部省設置は、キリスト教の蔓延を防ぐ目的で、仏教をも動員した国民教化体制を確立するため、宣教に特化した官衙の設置を期したものだった。これによる祭教分離は管轄上の分離であって、実質的には祭政教一致体制を整えたものと福羽らは捉えていた[24]。しかし祭政分離は管轄上の分離だけでなく、実質的な分離に繋がった[25]。祭祀に関する事項を独占した式部寮は独自の動きをみせ、祭祀制度を改変していった[24]。11月、式部寮は八神と天神地祇とを合祀して神殿と称し、賢所・皇霊・神殿から成る宮中三殿の原型を整備した[22]。これは式部寮が教部省に無断で行ったものであった。教部省は詰問したが、式部寮は取り合わなかった[24]。翌1873年の元始祭からは、天皇が玉串奉奠・親拝をするほかに、みずから御告文を奏上することになった[25]。ここに、祭祀に関する大臣輔弼は消滅した。祭政教一致は崩壊し、祭政一致と祭教分離が併存する形になった。これは西洋の近代政教分離体制を取り入れる素地となり、結果的には、祭政一致と政教分離とを両立させるための措置として捉えられるようになる[26]

式部寮は1875年から1877年にかけて所管が変わり、最終的に宮内省の管轄になった。祭祀は天皇のもとに集中することになっていゆく[27]

第1次祭教分離によって天皇親祭を更に徹底する新体制へ転換していくことになった[27]。第1次祭教分離は結果的に祭祀行政と神社行政を分離しただけだった。このため神社界は近代を通じて祭祀行政と神社行政の一致を唱え、運動を展開して行くことになる[28]

西本願寺の神道非宗教論[編集]

国民教化については、神道者のみの宣教使が不振であったこともあって、仏教者を参加させる体制に向かった[14]。仏教諸宗は各宗合同機関の設置を請願し、大教院が設置された。しかし薩摩派(反仏教)の進出により大教院は神道中心の布教機関に変貌した。一方、政府は外交問題を考慮して、1873年2月24日にキリスト教禁止の高札を撤廃した。キリスト教の信仰を認めたものではなかったが、信仰自由論が唱えられる契機になった[23]

教部省は独自の神殿を持てなかった。教導職らは布教拠点の大教院に旧八神殿を遷して神殿を設け、天照大神と造化三神を祀った。八神でなく造化三神を祀ったのは、造化三神を中心とする宇宙観を教義としたからであった。この競技はキリスト教対策のための国民教化の上で重要なものと考えられていた[26]。しかし浄土真宗からみれば、造化三神の尊奉は一部の神道者流が古事記に依って近ごろ唱え始めた私説にすぎなかった[29]。浄土真宗は、神道主導の教導職活動に反対し、大教院分離運動をおこした[26]

同年7月、島地黙雷が海外視察から帰国した。まもなく真宗が大教院から独立すべく運動を始めた。神道主導の大教院は寺院を神社に転化するものだとしてこれを批判した真宗は、大教院から分離して独自の布教を行うことを主張した。その根拠が神道非宗教論であった。建白書で次のように述べた[30](大意)。

宗教というものは死後の世界を語るものである。見聞できない世界の因果を説き、人々を善導し、死後の安心を得させるものである。一神教と多神教の違いがあっても、宗教は神に祀るものであって人を祀るものではない。人畜草木を祀るのは未開野蛮であって論じるに足りない。しかし我が国の神道はそうではない。歴代天皇から臣民賢哲に至るまで神として祭る。死後の世界を説かず、禍福の因果を説くものでない。ただ忠孝信義の至誠をもって君父や功労者の霊魂を祭るものである。人々に死後を語ってこれを安心させるものではない[30]

浄土真宗は神道非宗教論を根拠として、仏教と神道の所管庁を分離し、布教の自由を認めることを主張した。一方、このころ神祇官復興運動を行っていた神官らは、政教一致を中心に主張していたが、神道非宗教論を祭政一致の根拠にするには至らなかった。祭政一致という点では僧侶も神官も一致していた。政教関係については、僧侶は政教分離論、神官は政教一致論というように対立していた。間に立った政府は僧侶の政教分離論に傾いた[23]。とどめは真宗西本願寺派門主大谷光尊が、島地黙雷の起草による「宗門教義上相戻大義」を太政大臣三条実美に提出したことだった[31]。次のようにいう(大意)。

天照大神は皇室の宗廟であるので、どの宗派もこれを崇敬する。このことは本邦が始まってから定まっている制度である。国体の基づくところは決して魂神付与や来世救済などの教上の問題ではない。もとより真宗は国体を崇敬している。しかし、造化三神の件は、近ごろ一種の神道者流が古事記によって特にこれを尊奉し、家説の教本としていることなので、これは必ずしも国体の問題に関係なく、当然に宗教に相当する[29]

これは西本願寺が神道非宗教論を初めて公式表明するものであった。西本願寺は信教自由を主張するけれど神道を軽んじるものではないと表明した。これは大教院解体・独自布教の決定打になった。政府にとっても祭政一致の建前を崩さずに信教自由を認めることができたからである[31]

政府は信教自由・政教分離に動き出した[26]。1875年、政府は大教院を解体し、各宗派に対し三条教則の遵守を条件につけて各宗派独自の布教を認めた。また信教の自由保障の口達を神仏各管長に発した。以後、単純な政教一致論は政府に通用しなくなった。神官らが神道と国家との結びつきを主張するには政教分離に配慮しなければならなくなった。また、真宗は神道非宗教論に依拠して信教自由を要求するようになった[31]

西本願寺の神道非宗教論は、儒教的倫理を神道のあるべき姿として描いていたが、それは神道の実態に即したものではなかった。実際には神官らは平田国学にもとづいて布教していた。西本願寺は布教の自由の獲得に満足し、神道の改革にまでは立ち入らなかった。政府は各宗派の教義や布教を管長に任せ、これに直接関与するを差し控えるようになった。征韓論などで政府が分裂の危機に瀕していても、神仏各宗派は互いに抗争して政府の足を引っ張るだけであった。政府はこれを関与するのを避けていった[31]

祭神論争の余波[編集]

1875年、大教院が解散し、政府は信教自由保障の口達を出した[26]。神社界は単独で教化活動を行うことになり、神道事務局を設置した[27]。1877年には教部省が廃止され、神社行政は内務省に新設された社寺局が管轄することになった。以後宣教に特化した官衙は存在しなくなった[26]。神道界では神道事務局の神殿に奉斎する祭神について論争が生じた。いわゆる祭神論争である[27]

神道界の神道非宗教論[編集]

祭神論争の過程で大教官構想が台頭した。これは、神道内部の論争を防ぐために、天皇がみずから大本を掌握し、朝廷に大教官を置き、教義の大権を政治の大権とともに執るべし、という意見で[5]、「我が大道(神道)は大教なので、他の諸教をも統括し、教権や教律を制定し、冠婚葬祭を訂し、暦を頒布し、忠臣・孝子・義僕・節婦・殊勲・異功の者を表彰する特別な権限を与える」という構想であった。この構想の根拠となったのが神道非宗教論であった[32]。曰く(大意)、

祭政一訓は百教の本である。神孫の天皇が継承して基本を執る。これは天然の皇道、即ち神道である。倫理と国体はこれによって立つ。これを惟神の道という。もとより人智で捏造した宗教と同じではない。我が神道は各宗教と大いに異なり、神道は即ち帝道、帝道は即ち神ながらの大道である。我が神道は宗教などではない[32]

神官たちが当時の神道をありのまま非宗教と見なして、国家制度として神道を強化しようとするものであった。したがって神道と教導職は一体のものと考えられていた。神官が神道非宗教論を用いたのは、それだけ既に政教分離論が広まっていたためと考えられる[32]

祭神論争は1881年に天皇の勅裁を以て終結した。神道事務局は宮中三殿を遥拝することになった。神道事務局神殿は廃止された[27]

神官と教導職の分離[編集]

東本願寺僧侶らは松方正義内務卿に宛てて建白書を差し出した。建白書ではまず従来の神道非宗教論を述べ[32]、続いて次のようにいった(大意)。

神道の布教や新葬祭が国の制度として行われることになったことは、神道の宗教化を意味する。神道が宗教になると、人民がこれを信じることを強制することはできないので、かえって人民が国体を軽侮することになりかねない。またキリスト教は一神教なので神道を宗教視すれば天祖皇祖をも侮辱することに至るであろう。神官流の神道非宗教論は現状を無視した誤魔化しである。神仏各宗派の教導職を廃止して、神道で宗旨の形をとるものも一切廃止して、神職には専ら祭祀の事を掌らせ、僧侶には大僧正以下の僧官を復して各自の宗教を宣布させ、もって国家の大典と宗教との区別を明白にすべきである[33]

僧侶らは、以上のほかに神葬祭の禁止、神道と仏教の所轄官庁の分離などを要求した。神道は宗教との関係を絶ち、国家の大典に専念すれば、神道と宗教は共存共栄できるという主張であった[33]。こうして対立する神仏2種の神道非宗教論の間に挟まれた政府は、真宗側の主張を採用する方向に傾いた[33]。内務卿山田顕義の太政大臣上申「神官ならび教導職の取り扱いを変更し司祭官と神道教導職とを区分するの儀」にいう[34]

明治五年(1872年)以来、神官は総て教導職を兼ねているが、司祭たる神官と宗教者たる教導職とでは性質が異なる。宗教者をすべて同一に扱うべきとする今日の状況にそぐわない。祭典と教務を混同したままではまた祭神論のような論争がおこりかねない。また教導職試補以上は徴兵免除の特権があり、17万もの神社の神官が教導職を兼ねているのは兵制上も得策でない[34]

そして、今後神官は教導職の兼補を廃し葬儀に関与しないものとするという布告案を内務省が作成した。これは、太政官における審議の過程で、府県社以下は当分従来の通りという但し書きが加えられた[34]。つまり一般の神社では当分従来通り神官が教導職を兼務することを許された。神官と教導職との分離は伊勢神宮と官国幣社に限られた。1882年1月24日、このことが内務省達乙第7号により発布された。これは真宗による神道非宗教論を政府が公式に採用したことを意味していた。布教と葬儀が宗教行為と見なされることになった。こうして神道非宗教論は神社非宗教論に転化した。この政策に対し神官たちは盛んに反対運動を展開したが、もはや挽回できなかった[4]

この第2次祭教分離によって、神社における祭祀と教化活動とが分離された[27]。神官と教導職との分離は、祭祀と宗教との分離でもあった。これは神社非宗教論の出発点であり、国家祭祀・道徳論としての神社神道の出発点であった[35]

井上毅の神事非宗教論[編集]

井上毅は神道非宗教論者であった。祖先を崇敬し宗廟を祭祀するのは、国法に属して教法に属さないことなので、これを礼拝や祈念の類と混同すべきでないとして、神道非宗教諭を展開していた[36]。国典・国学・神道を非宗教化して全国民に受け入れさせようとした[37]。1884年に教導職廃止を提案し、官幣社を宮内省所管として神道を非宗教の皇室の祭祀として位置づけた。こうした井上毅の一連の提案により、神仏教導職が全廃され、管長統制制度が確立した[38]。井上毅の神道非宗教論を前提とする信教自由論は、帝国憲法第28条に盛り込まれることになる[36]。井上毅の構想が一応完成したことは、帝国憲法の信教自由規定の性質や、後年の神社非宗教論への変貌を窺ううえで重要である[38]

1884年、井上毅は教導職の廃止を神道論・国学論から論じた[39]。教導職廃止を提案するにあたって「一には以って神事は宗教に非ざる旨を示し、二には漸くに仏教を羈絆の外に置き、その自由を得さしむべし」と述べて、神事非宗教論と宗教不干渉を説いた[40]。神官を教導職として僧官と同列に扱ったのは神道の本意でなく、また政略の得策でもないので、教導職を廃止するのは当然であるとした。その根拠については、仏教が衆生済度のために説法勧化するようなことは神道では有り得ないはずであり、国学の本意はただ祭政一致を人民に示すことだからなのだとしている。井上毅の狙いは国学・神道の普遍化であった。このことは1888年の皇典講究所関係者に対する演説にも現われている。「国典は国家の政治のため必要である。国民の教育のためも必要である。しかし宗教のためには必要でない」という演説である。宗教に必要ではない理由は「もったいない」「残念なこと」だからである。すなわち「国典に載する所のものを敷衍して一つの宗教的の論理を為して」、さらに言えば「これをもって宗教的の看板におしたてて仏法または耶蘇宗を攻撃するための旗じるしにするような事は、もったいないことである」といい、これは「御国の神ながらの道の本意に背いて残念なことである」という[41]

また井上毅はロシアや英国のような国教主義も完全に否定した[39]。さらに、欧州各国は憲法で信教自由を規定しているが、実際にはトレランス、すなわち寛容主義であって、宗教の扱いに差別を設けていると指摘した。欧州各国がトレランスを採るのは治安の必要によるものであると説いた[39]。井上毅の意見は、宗教と政治は領域を異にするものの両者が無関係でいいわけない、政教が分離しつつ互いに支えあうものにするためには政治が宗教を統御する必要がある、そうしなければ宗教を政治を混乱させる、というものであった。政教関係を確定するには欧州のトレランスに学ぶべきであるとし、その原則は、法律上信教の自由を認めるが行政上は認可教と不認可教とを区別すること、国家にとって宗教の教義内容はどうでもよいので国民多数の信じる宗教を治安の道具とすること、宗教を政略と調和させるには国内に旧来の宗教を用いることであった[42]

以上のような井上毅の考えは、1884年8月11日に行われた神仏教導職の全廃と、神仏各派の管長制度の確立という形で実現した。また1889年の大日本帝国憲法第28条の信仰自由ははこの考えに基づいて規定された[43]。こうして神社非宗教が政府の神社政策の基本方針として確立するのである[27]

シュタインの教示[編集]

ローレンツ・フォン・シュタインウィーン大学教授の国家学者であり、伊藤博文が欧州憲法調査において彼に師事したことで知られる[44]。1887年、元老院議官海江田信義が伊藤博文の紹介により、宮内省図書助丸山作楽らとともにウィーンを訪れてシュタインの講義を受けた[45]。シュタインは海江田らに対し神道を非宗教的な国家道徳とすべしと教示した[46]。次のようにいった(大意)。

神道は国体を維持するに必要であるから、これを宗教に代用して、おのずと宗教の外に立て、国家精神の帰趨するところを指し示すべきである。儒教・仏教・キリスト教は人民自由の思想に任せ、法律の範囲内でこれを保護するのであって、教義に干渉すべきでない。神道の教義は、忠孝節義の道徳を本とする。儒教や仏教と並び行われるにせよ、神代以来皇室に密着した神道であって、外国から輸入したものでないので、その軽重を問うべきでない。国礼をもって国教とみなし、これにより愛国心を養成すべきである。この点から論ずれば、政教は行政上は2つに分けても、無形の神を祭り有形の民を治める精神においては政教一致にならざるを得ない[46]

神道を非宗教的な国家道徳とするシュタインの提言は、神社非宗教論に通じるものであった。また、これは皇室を国家の機軸とする伊藤博文の構想(次節参照)に活かされた[47]

なお後にシュタインがウィーン郊外で死去した際、遠く日本において伊藤博文らが追悼会を催した。上記の講義を聴いた海江田信義や丸山作楽も出席した。追悼会では神道家の丸山作楽が祭主となって神道の祭式を執り行った。神道式を用いたわけは、たとえシュタイン先生がキリスト教徒であっても、我が神国において祭式を行うには神道式こそふさわしい、亡きシュタイン先生も喜んで受けるにちがない、という理由であった[44]

帝国憲法と神社非宗教論[編集]

伊藤博文や井上毅らは憲法を起草するにあたって、皇室を国家の基軸とする意図をもちつつ、近代立憲主義のために憲法上は国教主義を避け、神社非宗教論を前提として信教自由を採用した[48]。彼らは仏教や神道を国教として規定することを避けた。天皇が皇祖皇宗・歴代皇霊・天神地祇を祀る祭主として認識されていたのに、憲法の明文規定で国教を定めたり天皇の祭祀大権を定めたりしなかったことは、起草者たちの見識を示すものであった[47]

枢密院で憲法案の審議を始めるにあたり、枢密院議長伊藤博文が憲法の趣旨を演説した[49](現代語訳)。

そもそも欧洲においては憲法政治の萌芽して千年余り、単に人民がこの制度に習熟しているだけでなく、また宗教なる者があって、これが機軸をなって深く人心に浸潤し、人心がこれに帰一している。しかるに我が国にあっては宗教なる者はその力が微弱であって、一つも国家の機軸たるべきものがない。仏教は一たび隆盛の勢いを張り、上下の人心を繋いだけれども、今日に至っては既に衰退に傾いている。神道は、祖宗の遺訓を祖述するけれども、宗教として人心を帰向させる力に乏しい。我が国にあって機軸とすべきは皇室しかない。

帝国憲法第28条は宗教一般に関する根本規定であった。条文は「日本臣民は安寧秩序を妨げず、および臣民たるの義務に背かざる限りにおいて、信教の自由を有す」であった。この規定については、戦後、前段の限定条件を強調して、帝国憲法の信教の自由の不十分さを指摘する説が唱えられた。しかしこれは俗説である。井上毅による憲法起草の過程や、枢密院における憲法審議の過程を検証すると、この限定条件は一夫一婦制を公然と乱したり納税の義務を拒否したりするものに限られる。神社礼拝を拒否することは憲法上の信教の自由である。また国教制度も否定されていた[50]

井上毅が枢密院審議の参考のため執筆した逐条解説書「憲法説明」(のちの『憲法義解』)には、神社が国家の宗祀として法制上も事実上も認められていることについて一切触れていなかった。枢密院ではこの点が信教自由規定との関係で問題化した[51]。佐佐木高行は、官吏が信教自由を理由に宮中祭祀に拝礼しない場合を論じることで、神社祭祀に対する礼拝の自由を問題にした[52]。鳥尾小弥太も、少なくとも大臣や官僚には宮中祭祀への礼拝の義務があると主張した。議長の伊藤博文はこの問題について具体的な議論を避けた[53]。枢密院の憲法審議では、神社を非宗教と認めてはいるものの、それを具体的にどう扱うかについては意見が一致しなかった。そのことは憲法案の信教自由規定の採決において出席者22名のうち4名が反対したことからもうかがわれる[54]

神祇官設置運動[編集]

神官の中には逆に神社非宗教論を受け入れることで、失地回復を図る者も現れた。それが1889年以降の神祇官復興運動であった。府県社以下の神職を中心とした運動で、法律上の地位の不明確さを利用した運動であった。府県社以下の神官が私的な布教・神葬祭を行うことは猶予されていたが、府県社以下の神職は進んで布教や神葬祭を止め、神社の非宗教化を徹底することで国家と神社の結合を強化する神祇官を復興しようと図った[4]

明治初期の神祇官は宣教と祭祀と神社行政とを掌っていたが、神祇官設置派は「明治初めの宣教を主とする神祇官に倣わんとするものにあらず」というように、宣教の要素を宗教的なものとみなして、これを切り捨てて、祭祀と神社行政を掌る機関として神祇官を設置しようと考えていた[55]

神社神職らの神祇官復興運動は、第2次祭政分離で確立された神社非宗教にもとづき、神社行政を宗教行政から分離し、これを祭祀行政と同一官衙に管轄させることを目指した。非宗教である祭祀や神社と、宗教である神道教派や仏教との分離という意味での祭政分離を目指した。特に伊勢神宮と官国幣社を宮内省や式部寮に移管する構想が提起された。この構想は神社界を越えて広く賛同を得た[56]

一方、保守系の新聞『日本』は神祇官設立運動を批判した。同紙は、神祗官などという一大官庁を設置したならば、欧米諸国から、日本の国教は神道教であると思われて、神道教などという異教の国の法律に従えないと言われて条約改正交渉に支障をきたしかねないと指摘した[57]

政府部内の神祇院設置運動[編集]

1890年9月23日付けで神祇院設置建議が内閣で回覧された。社寺局長国重正文、元老院議官丸山作楽、同千家尊福、同海江田信義、宮内次官吉井友実、枢密顧問官佐野常民、同佐々木高行が連名で提出した[58]。司法大臣山田顕義を通じて総理大臣山県有朋に提出したものだった[59]。法制局長官井上毅らが調査を命じられた[60]。井上毅はこの建議について「神祇の祭祀は、国の礼典にして宗教にあらざるにより、社寺局をもって管理すべからず、よろしく神祇院を設けあるべし」という趣旨だと理解した[61]。井上毅は神祇院設置に反対し、これを骨抜きにする対案を作成した[60]

神祇院設置運動は暗礁に乗り上げた。設置派はいらだちを見せ始めた。11月に入ると佐々木高行が再度意見書を提出した[60]。意見書は神祇非宗教論に基づくものであった。意見書に曰く(大意)、

神祇の礼典は宗教の儀式と大いに異なる。神祇の礼典は祖宗に敬事することをいうのであって、骨肉血脈の関係がある。子々孫々がこれから離れられないことは、子弟の父兄に対するようなものである。宗教にこのような関係はない[62]

そもそも宗教には教祖があって、まず宗旨を定め、戒律・宗規・祭典・法具を完備して初めて宗教になるのである。仏教やキリスト教がそうである。しかし我が国は未だかつて教祖なく、また宗旨や戒律や経典を作ったこともない。我が国の神祇は、彼の教祖が説く神と異なり、いわゆる血をわけた祖宗である。ゆえに日本臣民たるものは、仏教やキリスト教を信じても、神祇を放任することはできない。しかも子孫永世にわたる神祇の礼典である。宗教の儀式と大差ある[62]

祭政一致とは、天皇が礼典を行って神祇に敬事し、政令を設け国を愛撫することをいう。祭政一致が我が国体である。憲法中に宗教自由の条文があるので、憲法施行前に神祇の礼典と宗教の儀式を判然分別しておかなれば困難が生じる[63]

明治5年(1872年)教部省を置き神官・僧侶を同じく教導職として三条教憲を授けて全国に布教させた。神祇と宗教とが混同される原因はここにある。今は内務省に社寺局を置き、神社と寺院との事務を区別していない。これも宗教と混同される傾向を生む。明治6年(1873年)の布告で府県社以下を人民の信仰帰依に任し、明治12年(1879年)太政官達で府県社以下の祠官祠掌の身分を一寺住職と同様とした。以上は神祇が宗教と思われてもやむを得ない事実であろう。ゆえに神祇の官衙を設置して、区分を判然とし、紛らわしさを絶つべきである。神祇は宗教の範囲外であることは疑いないが、区別を判然とする法令がなければ、宗教自由の規定を初めとして憲法上の大問題を来たすかもしれない。憲法実施後に至れば、賢所に敬拝することを拒む者が出ないとも限らない[64]

神社と教会とを分離すること(この場合の「教会」とは神道教派の宗教施設)。神祇は即ち祖宗である。祖宗に孝敬を尽すために、祭祀の社殿を建て、礼典を行い、修祓するなどしている。これは宗教の範囲ではない。徳川幕府の制度に宗旨改めがあったが、それは寺院と住職を記していた。神社や神主を問わなかった。これにより神社が宗教の範囲外であることが分かる。それが宗教の体をなしたのが、維新後の宣教使、教部省の教導職、のちの神道各教会である。明治15年(1882年)に「自今神官は教導職兼補を廃し葬儀に関せざるものとす」とあるので教会の範囲外であることは疑いない。但し書きに府県郷村社の神官は当分従前の通りとあり、未だ各神社に教会部があるから紛らわしい。そこでこの際、英断をもって神社と教会とを区別し、教会を宗教部に置き、教会は教会でその道を拡張すれば名分明らかに正しくして両全を得るだろう[65]

12月、司法大臣山田顕義が「神祇官設立に関する建議」を提出した[66]。神社非宗教論に基づく建議であった。建議に曰く(大意)、

信教の自由は憲法第28条をもってこれを許した。いま仮に神社を宗教とすれば、即ち伊勢神宮を初め宮中神殿その他国家の尊崇すべき神社も、仏教やキリスト教と共通ということになり、信じなくても信じなくてもいいことになる。これにより宗教の軋轢・紛争が起こるであろう。そして最終的に祖宗と国家の尊崇すべき神社に対し不敬を働くだろう。放置すれば大混乱に陥って収拾できなくなる。早く対処しなくてはなならない。これが神祇をもって宗教外に超然とさせて、祭神と宗教との区分を明らかにしなければならない理由である[67]

従来神道において祭神と宗教との区別が判然としなかったため、しばしば仏教者と神道者との間に軋轢を生じて互いに敵視していたが、神祇官設立によりこの区別が判明すれば仏教者はこれを喜ぶであろう。キリスト教者もこれと同感であろう。一方、神道教派の一部は従来の所説と異なることになるから、多少の困難を来たして不満の念を生ずるかもしれない[68]。しかし反対者は神道教師の一部に過ぎない。祭神と宗教の別が判然と定まれば皇室の葬儀も一定するであろう。ここにおいて従来の宗教上の疑義を正しく分明にするに至るだろう[69]

教部省を設け大教院を建て神仏混交の方法を始め、各々新主義を捏造させたため、結局は現在の衰退を来たした。政府がこれを遠ざけて顧みないのはこれを破壊しただけであって修理していないことになる。始末をつけるのは政府の重大責任である[69]

結局、神祇官設立運動は政府中枢の反対にあって実現しなかった[56]。明治天皇も反対していた。山田顕義が神祇崇敬説を主張していることを明治天皇は懸念していた。侍従長らを通じて山田顕義に対し、神祇崇敬説を差し控えるようにと間接的に注意した。山田顕義は二度と神祇官設置説を唱えないと答えた。明治天皇の反対は政府部内の神祇官設置運動に終止符を打った。政府の方針は、神祇官不設置と、神社改正ノ件(伊勢神宮以外の神社を国家財政から切り捨てる政策)で固まった[70]

加藤弘之「国家と宗教の関係」[編集]

この間の1890年10月、教育勅語が下された。教育勅語を起草した井上毅は、神道の国教化を避ける信念を持っていた。教育勅語が神道経典になることがないように、尊神や敬神、神霊などの語を特に避けた[71]。教育勅語渙発と同じ月、帝国大学総長加藤弘之国家学会雑誌に論文「国家と宗教の関係」を発表した[72]。学者の立場から神道非宗教論を唱えた。その哲学的根拠は唯物論であった[73]。論文に曰く(大意)、

神道は仏教やキリスト教に比べて宗教として最も劣るから、仏教やキリスト教に圧倒されるのは当然である。神道がこのように圧せられるは日本の国体と大いに関係がある。神道は天皇の祖先や人民の功労者を祭るものだからである。将来、神道が宗教としてキリスト教に圧倒されると、皇室の権威に関係するので事態は容易でない。このため、どこまでも従来のどおり神道を宗教の外に置く必要ある。キリスト教徒であっても天皇の先祖である神に拝礼することは主義に背くことにならないだろう[73]

帝国議会における神祇官設立運動[編集]

神祇官設置派が帝国議会開設より前に神祇官を設置するように急いだのは、議会に任せたら何をされるか分かったものではないという予想があったからだった。しかし予想は外れた。逆に議会から神祇官設置運動が起こってくるのである。神社神職は帝国議会議員に働きかける方向へ運動を転換していった。神祇官設置運動を支えたのが全国神官集議所であった。これは神官らが神祇官設置を目的に1890年9月25日に結成した組織であった。のちの全国神職会である[74](さらに後の神社本庁の母体の一つ)。

帝国議会開設直後の1891年1月に議員たちへ配布された陳情書では、内務省神社局と宮内省式部職掌典部を廃止すること、これらの事務を総括する独立官衙として神祇官を設けること、宗教については内務省に設ける宗教局でこれを処理することを提言していた[75]

帝国議会開設後、神祇官設立の上奏案や建議案が議会両院に幾度も提出されたが、審議にすら至らなかった。日清戦争中の1895年1月、議会開設以来初めて神祇官設立建議案が審議に至った。衆議院に提出された建議案は、神社と宗教とが混同されていることを歎き、独立の神祇官を設置することを提案した。しかし衆議院での審議の過程で、本件は臣下が口を挟むべきものでないとの反対意見が出て、結局否決された[76]

翌1896年3月神祇官復興建議案が衆議院で再び審議された。強い反対意見が出た。主な反対理由は、神祇官復興と言うことは明治初めの神祇官のように宣教を行うつもりであろうと疑ったことであった。設置派は宣教を行うつもりはないと弁明した。採決により起立者多数で建議が成立した。貴族院でも建議が成立した。両院の建議は内閣に回付されたが、何も反応がなかった[77]。政府は神祇官設置建議を無視した。その後議会から質問書が出でても目下調査中と答えて誤魔化した。政府は神祇官復興運動と一線を画していたのである。これに対し、神祇官設置派は1898年11月に全国神職会を創立した。神職の本格的全国組織であった[78](後に大日本神祇会と改称し、戦後、神社本庁の前身の一つになる)。

神社局と宗教局の分立[編集]

改正条約は宗教の自由を明文で認めていた。政府としては、条約改正実施前にキリスト教を宗教として公認する措置を採る必要があった[79]。1899年は改正条約の発効の年であった。1月、衆議院では、条約改正実施を理由に、神社非宗教論に基づいて神社行政官庁の独立を求める建議案が提出された。曰く[80](大意)、

神社は皇祖皇宗や国家の元勲を奉斎し、君民上下を挙げて崇敬する所である。いわゆる宗教に混同すべきものではない。このことは、歴代天皇の遺訓や、国史、制度によって明らかである。現行制度もこれを確認するところである。今や改正条約実施が迫り、神社と宗教との区別を厳格にすべき時である。依然その事務を社寺局に一括しているのは疑わしいことで、民心を迷わすことも少なくない。速やかに神社に関する特別な官衙を設置して名実をまっとうし、もって国家の基礎を固めることを願う[80]

この建議案が条約改正実施目前を理由に挙げたのは、条約改正実施によりキリスト教が宗教行政の対象となるからであった[80]。政府は5月、キリスト教の宣教を正式に認めた[81]。その翌6月付けで司法大臣清浦圭吾が『明治法制史』を刊行した[82]。条約改正問題を意識して、外国人に日本の法制を紹介することを企図した著書であった[83]。同書の中で神社非宗教論と神道宗教論とを唱えた。曰く(大意)、

神社と神官神職は宗教と混同されやすいが、法律上は宗教と全く関係ない。神官神職は皇室の祖宗や国家功臣の霊を祭祀する神社に奉仕する官吏である。神社は神霊を鎮祭して祭典を執行する神殿である。その起源は宗教と関係を有する場合があり、人民にもこれを宗教視する観念もなくもないが、ただ神社は神霊を鎮祭するものであり、これに奉仕する神官神職は宗教上の行為を行わない[84]

神宮司庁(伊勢神宮)に神官を置きその他の神社に神職を置く。神官と神職は共に国の祭祀を司る官吏であって同時に神社の管理者である[85]。神社は神霊を鎮祭して祭典を執行する神殿であり、各人民の礼拝の用に供し、人民が集まって古来慣行の祭典を行う場所をいう[86]。その目的行為は祖宗や国家功臣に対する崇敬を表わすにとどまり、法律上、宗教と関係するところがない[87]

これに対し神道(神道教派)は一種の宗教である。神道については神社とは別に制度を定めている[84]

翌7月、改正条約が発効した[88]。政府は宗教法案と神社法案を検討していた。12月9日、まず宗教法案を貴族院に提出した。これは神道・仏教・キリスト教の3宗教を公平に取り扱う法案であった(ここで「神道」とは上記で清浦圭吾のいう意味での神道、即ち宗教としての神道、後にいう教派神道)。すると仏教界が宗教法案に激しく反対した。この法案は現状を考えると相対的に仏教を冷遇しキリスト教を優遇するものだというのである。法案は貴族院で否決された。政府はセットで用意していた神社法案を提出せずに廃案にした。社寺局の分割に関する予算だけが議会を通過した。社寺局分割の理由は「神社行政と宗教行政とは従来社寺局において併掌してきたが、両者は性質を異にするため、これを混同して取り扱うのは整理上よろしくない」ということとされた。包括的な宗教行政構想が挫折したことで、社寺局の分割だけが行われたため、結果的に神社と宗教との分離を再確認するという側面だけが強調されるに至った[89]。主に仏教側から強い反対に合い成立しなかった宗教法案は、その後、宗教局が文部省に移管されるまで、再び帝国議会に提出されることはなかった[81]

神宮教・神宮奉斎会の問題[編集]

宗教法案提出直前の1899年9月4日、内務省は神宮教を解散すると同時に神宮奉斎会の設立を認可した[90]。背景に神宮教が宗教的な活動を行っていることに対する批判があった[91]。神宮奉斎会の設立動機の一つに祭教分離があった。神宮教は、霊魂を説く神道を宗教として、神道から離脱し、自己の活動を国民道徳と位置づけ直し、非宗教の立場の獲得を目指した。その結果、財団法人神宮奉斎会を設立した。神宮大麻(神札)やの頒布、戦没者祭祀といった宗教的な活動に新しい意味づけを必要とした[92]

明治維新当初、神宮大麻や暦は伊勢神宮の司庁から頒布していた。1871年に司庁を廃止し神宮から頒布することになったが、神宮が直接頒布することは難しいので、機関を以って頒布していた。頒布機関には変遷があるが、神宮教が頒布することで落ち着いた。しかし神宮教が宗教であることから、宗教が神宮の大麻を頒布するのは宜しくないと批判された[93]。国学者の渡辺重石丸らの雑誌『闇夜之灯』も神宮教を批判していた。伊勢神宮への崇敬は一宗一派に偏るべきでないという痛烈な批判であった。こうした問題意識は神宮教内部にも相当あって神宮教解散と神宮奉斎会設立に繋がったと考えられている。神宮教では日清戦争での従軍布教などにより宗教的な布教の情熱が高まってもいたが、非宗教化を目指すことになった。教団を解散し、財団法人を設立する方針が固まったのは1897年3月であった[91]

1898年に施行された民法は、第34条で法人の定義と法人の設立について示していた。条文では第1に「祭祀」の文言、第2に「宗教」の文言があった。民法施行の段階で、法人としての神社の法人格をどうするかという問題が生じた。その過程で、神宮教は神宮奉斎会として祭祀を目的とした財団法人に改組することになった。そこには神社の宗教・非宗教をめぐる問題があった。また前述の宗教法案の問題も関わっていた[94]

神宮奉斎会の寄附行為(定款)上の目的は、宗教に関する儀式を一切排除した。祭祀を行うほか、国典(日本の古典)を研究し、その成果を発信していくことになった。講演活動なども実施した。国礼については、神葬祭や神前結婚式などの祭典・儀式を行っていった。奉斎会の収益事業としては国礼(神前結婚式など)が重要であった。この国礼については一切の儀式を国典に準拠して行うことになった。つまり国典に準拠した祭祀を国礼とみなした。宗教・非宗教という点では、神葬祭などは宗教儀式に見えても、少なくとも国典に準拠して執り行う限りは宗教ではないという考えを採った。また、講演活動を神宮教院時代から引き続いて行い、これに力を入れた。講演においても宗教色を排除した。例えば講演で死後の問題に触れることを禁止した。従来は講演の柱として三条教則の奉読を行ってきたが、それも廃止した。そのかわりに勅語・勅諭を中心とする講演活動に力を入れていった。また祖霊殿の新設も禁止した[95]

大麻頒布が奉斎会の主要な活動として位置づけられた[95]。1890年に神部署の官制が出来て神宮大麻・暦の製造・頒布を掌ることになったが、頒布については神宮奉賛会が受託して、引き続きこれを行うことになった[93]

神宮奉斎会への批判と弁護[編集]

神宮奉賛会の外部からは、奉斎会という一民間法人で神宮の大麻頒布を扱うことが批判された。また奉斎会による国礼の執行も宗教行為に当たると批判された[96]

1906年、衆議院議員浜田国松は衆議院に「伊勢神宮大麻及暦頒布に関する建議案」を提出した[97]。その趣旨説明において、神宮奉斎会の神宮大麻頒布を批判した。伊勢神宮の尊厳を害し国体を汚すという批判であった[98]。その理由は次のようだった(大意)。

神宮教は伊勢神宮を本体とする宗教であった。はじめ田中頼庸らが組織した。伊勢神宮から委託を受けて神宮大麻を頒布していた。神宮大麻は伊勢神宮の神名を記した剣先である。神宮教は神宮大麻を宗教団体の力で頒布するから、これを宗教的に利用していた。世間は、伊勢神宮は皇室の祖廟であり国家の大廟であるから決して宗教の本尊となるべきものではないといって神宮教を攻撃した。神宮教は、神宮大麻を宗教的に利用して攻撃をうけたから、宗教的でなくして単純な敬神団体、民法上の財団法人として神宮奉斎会を立て、頒布を取り扱うこととすれば世論の攻撃を免れると考えたのが、神宮奉斎会の由来である[98]

神宮奉斎会は神道教に属する団体でないと自称するが、起源は神宮教という宗教を引き継いだ団体である。宗教的な臭味を帯びている。神宮奉賛会本部の日比谷神宮は新聞紙上で攻撃の的となっている。日比谷神宮では結婚式を取り扱っているが、これはキリスト教の教会で牧師が立ち会って結婚式を行うのと同じである。敬神団体の仕事ではなく、宗教的臭味を帯びている[99]。宗教臭味を帯びている神宮奉斎会に神宮大麻頒布を取り扱わせることは不当である。明治初年以来の大方針と違っている[100]

さらに、神宮奉斎会は講員の募集を行っている。神宮奉斎会本部役員が各町村に出張して、何月何日に伊勢神宮において太々神楽を奉奏するから参拝しろといって同志講員を募ることを、全国で多く行っている。これは神道教派の仕事に類似している。結果、奉斎会が宗教的な臭味を帯びるという謗りを招く。これが奉斎会が甚だ宗教主義にわたっていると攻撃する材料の一つである。また、講員が年になんぼか金を出すと年12回伊勢神宮に祈祷してもらえるということを奉賛会が講員に勧めるということがある。神道教派と同じようなことをしている。伊勢の本部でも困っていると聞く[101]

対する政府委員(神社局長)水野錬太郎は次のように答弁した(大意)。

神宮教は神道に属する宗派で、即ち宗教であった。宗教が神宮大麻や暦を掌るのはいかんというのはもっともであるから、神宮教を解散して神宮奉斎会が起った。同時に性質が変わった。寄附行為第1条の目的をみると「神宮の尊厳を欽迎し、皇祖の懿訓、皇上の聖勅を奉戴し、国典を攻究し、国体を講窮し、彝倫を講明し、国礼(宗教に亘る儀式を含まず)を修行し、神宮大麻及暦頒布の事に従う」とあり、目的上なんら宗教的臭味を帯びていない。即ちこれは宗教団体ではない。神宮の尊厳を欽仰するところの公益法人ということになっている[102]

宗教の臭味を帯びた行為があれば監督上矯正しなくてはならないし、そうさせないつもりである。結婚式については学問上難しい問題であるが、現に神社でもやっているところがあり、これは決して宗教の行為ではないと見ている。人生の大礼に参加するものであって宗教的行為ではない。よって政府は神宮奉斎会がこれを行うことを認めている。政府は神宮奉斎会が宗教の臭味を帯びているとは見ていない[102]

奉斎会の講員の募集については報告を受けていない。あれば取り締まらなければならないと思う。神社その他の所で宗教的行為をするということは禁じてある。もしそういうことがあれば厳重に取り締まるようにと地方官へ通達している[103]

神宮奉賛会を批判する浜田国松からみても、神宮奉賛会を弁護する神社局長からみても、宗教とは臭味を感じるものであった。そして神宮大麻頒布は非宗教であるべきであるとされていた[101][102]

偶像としての神社[編集]

キリスト教のうちカトリック教会は、神社に宗教的本質があると考え、カトリック信者が神社の儀礼に参加することを偶像崇拝として禁止していた[104]

一方で、神社を記念碑や銅像と同一視する者もいた。たとえば芳賀矢一は神社を銅像と同一視した[105]。1908年出版の『国民性十訓』で次のように述べた(大意)。

キリスト教徒は上帝(キリスト教の神)以外に頭を下げないと言って大神宮に参拝することを嫌う。これは恐らく我が国の宗廟を宗教と混同した誤解にもとづくものであって、我が国体を知らないからだと思う。どんな人でも親の前に頭を下げることを嫌がる理窟はない[106]

大神宮以外にも神社は数多い。いずれも先祖を尊ぶ主義から出たもので、その祭ってある人々は先祖の勲功ある人が多いのである[107]。勲功のあった先祖を祭ったものを尊ぶのは当然の措置である。キリスト教の信者などはこれを嫌うようであるが、これは東郷大将日本海海戦時の連合艦隊司令長官)の偉勲を認めてこれに敬礼するのと変わらない[106]

西洋では至る所で功臣の石像や銅像を立てて、都市の飾りとし尊敬の対象としている。その人の命日には花輪を供えて敬意を表する。我が国の神社はこれと同じである。そうであるのに、銅像に敬意を表しても神社に参拝しないというのは矛盾である。神社参拝を不見識だとか信仰に背くだとか言うのは、神という語に囚われて神社を宗教と混同する誤解から来ている[105]

神社非宗教の行政法学[編集]

明治の終わり[編集]

1912年2月25日、神道・仏教・キリスト教の三教会同が開催された。キリスト教が政府から国家主義の政策パートナーとして公認された象徴的な出来事であった[108]

チェンバレン「新宗教の発明」[編集]

バジル・ホール・チェンバレンは、1872年から日本に滞在し東京帝国大学教授を務めた日本学者である。帰国後1912年にロンドンで著した論文「新宗教の発明」(原題 "The Invention of a New Religion")で、忠君愛国を日本政府の官製宗教であると批判して次のように述べた[109](大意)。

天皇崇拝と日本崇拝は新しい宗教である。もちろん自発的に生じた現象ではない。忠君愛国という日本の宗教、まったく新しいものである。古来の思想を選り分けて変更し、新たに調合し、新しい効能に向け、重心を新たにしたからである。官僚が自己利益に役立てようとするものであり、付随的に国民一般の利益をはかるためのものである。神道は皇室と関係が深いため唯一尊崇されるべきであるとされる。表向き信教自由を掲げる制度のもとで、神道の祭礼に官僚が出席し、諸学校では毎年数度天皇の写真に拝礼するという式典が制定された。この間、日本は政治的にも軍事的にも大成功した。こうして復活した神道崇拝に大きな威名が加わった[110]

この論文は欧米知識人の日本観に大きな影響を与えた。後に『日本事物誌』に収録されたことで、第二次大戦前後における連合国の対日政策の材料となった。占領軍の国家神道理解の骨格を形成したといえる[111]

プロテスタントの神社非宗教論[編集]

政府の神社非宗教論はキリスト教界でも一般に受容されていった[108](本節においてキリスト教とはプロテスタントをいう)。

三教合同の翌年11月、文部省が三教の代表者を各個招待した。キリスト教代表の海老名弾正らは次の意見を述べた。「政府は宗教と神社を別個のものとしているが、国民は神社の祭神を宗教的礼拝の対象としている。両者の区別を徹底してほしい。かつて『陛下尊影の礼拝は宗教的礼拝にあらず』と言明した大木文相の告示を訓示してほしい」。この要望は、非宗教であるはずの国家神道から宗教性を徹底的に除去してほしいという意味であった[108]

海老名弾正は、神社非宗教論に即した国体論におけるキリスト教の貢献を強調した。神社非宗教論を最後まで積極的に受け入れた[112]。むしろ神社非宗教論に傾倒した。自由主義神学に影響されていたからであった。彼が積極的に受け入れたドイツ自由主義神学は、キリスト教を宗教よりも倫理・道徳として評価し、またイエス・キリストの神性よりも人性を評価しようとしたものだった[113]。このほか例えば日本メソヂスト教会の比屋根安定は「政府がしばしば説明したごとく、いわゆる宗派神道十三派と称せられるものは宗教であるが、神社は宗教ではなく、国家の宗祀である」と述べた[108]

近代日本のキリスト教界ではナショナリズムが多分にに共有されていた。また、神社参拝はキリスト教徒にとって信仰上のタブーである一方、これを拒否すれば国家を拒絶することを意味した。そのため神社非宗教論はキリスト教徒にとって必要不可欠なロジックであった。天皇崇敬や愛国心とキリスト教信仰との矛盾を解消する論理として捉えられていた。やがて日本的キリスト教というナショナリズムで理想化されたキリスト教像を生み出していった[114]

政府見解[編集]

政府は、神社非宗教の原則を確認して、1900年内務省の社寺局を廃止し、神社局と宗教局とを分立させた。神社と宗教との分離を一層明確にするため、1913年6月、宗教行政一般を内務省から文部省に移管した。文部省宗教局で全ての宗教団体を管轄することになった[115]

政府が神社を非宗教として扱っていた主な理由は、帝国憲法の信教自由の規定に関連してのことであった。神社は国家の宗祀であるが、もしこれを宗教とするならば崇敬するもしないも国民の自由ということになる。そうなっては国家の宗祀の主旨が失われると考えていた。そしてに国体の上から、仏教やキリスト教の歴史を考え、日本の宗教の現状を考え、神社は決してそういうものではないことを示すために、神社を非宗教として扱ったのである[116]

政府は神道について、大社教扶桑教御嶽教禊教神道本局神習教実行教黒住教金光教神理教大成教修成教天理教、以上十三派の神道宗派だけを宗教とみなして、これ以外に神道なるものは行政上認めていなかった。神社は宗教と区別して神社局で取り扱い、十三派の神道は宗教局で取り扱った。神社と神道とを明らかに区別した。宗教に分類した神道十三派をもって神道の全部のように取り扱い、神社は宗教と無関係であるとしたのである。これは行政上の区別であった[117]

1916年までに内務省神社局が示した見解は次のようなものであった(大意)。

神社崇敬については、宗教でないと見ている。一般民間人の考えでは宗教と同様に信仰の対象として神社を崇敬している者もいるだろうし、逆に、神社を銅像や記念碑などと同じようにみている者もいるだろう。解釈は民間人の自由に任すほかない。民間の思想信仰はどうであっても政府は神社を宗教と見ていない。神社に対する民間の思想解釈を一定しようとも思わない。ただ神社崇敬を奨励するのみである。仏教徒でもキリスト教徒でも皆これを崇敬し盛り立てていって少しも不都合もないはずである[118]

神社を宗教と同じだと信じる者が民間に少なくなくても、それもまた信仰の自由であって、政府の立ち入るべきところではない。政府がそれを防げばかえって不当な取扱いになる[118]

神官は、どの宗教家とも手を携えて神社崇敬に努めるべきと思う。どの宗教家も神社崇敬に反対すべきでないのは、教育勅語が国民一般に遵守されるべきであるのとよく似ている。神社制度をもって信教の自由と対立するものと考えるならば、その結果は大変なことになるが、そうなろうとは思いもよらないところである。政府としては神社を崇敬するようにしたいからこれを奨励し指導している。しかし政府としては未だかつて神社の崇敬や参拝を強制した事実はない[118]

同じく文部省宗教局の見解は次のようであった(大意)。

神社は宗教の対象となるべきものではない。いかなる宗教家もこれを崇敬すべき性質のものであると信じている。各個人の意見から神社に対して宗教的礼拝を捧げる者もいるだろうが、さりとて政府において神社崇敬を宗教と見なさなくても差し支えない[119]

いわゆる神道十三派は宗教に属し、これに神社と称する施設を許していない。神社の形をしていても祠宇や教会と称することになっている。たとえば出雲大社と大社教は密接な関係があるだろうけど、両者を混同しないように取り扱っている。かつ祠宇の新設を許さないで、総て教会として許すことになっている。神社神職が神道教師を兼ねることはいけないから是非これを禁じてくれという願いが出ている。官国幣社の神職が神道教師を兼ねることはできないことになっているが、その他は従来の慣例によってこれを許している。急に禁じると困難が生じるからである。ただし、神職としての職務と教師としての職務を明らかに区別して混同しないようにしてある[119]

仏教徒やキリスト教徒の中に神社崇敬を宗教だと主張する者がいることは理解できない。神社の中にはヘンな神体があるからこれを淘汰すべしとか、神体の不明なものを明らかにすべしとかいうことなら、一種の問題提起として考慮するが、神社を宗教だと言ったともしかたがない。仏教は長い間に神社崇敬と融和してきたのに、このことに今さら不平を言い出すのはどういうわけか分からない[119]

もし仮に神社がその性質上・理論上に宗教であるとしても、国家が神社を宗教でないとして保護することに対して何ともいえないと思われる。国家が神社崇敬を宗教として保護した場合には一種の国教になるが、それが憲法上の信教の自由を妨げるかどうかも問題である。神社を宗教として取り扱えば、かえって一般の宗教家に困難を来たすのではあるまいか。これを宗教外として取り扱うことが互いにとって善いことだと思われる[119]

元神社局長水野錬太郎は次のような見解を示していた(大意)。

政府においては内務省の社寺局を神社局と宗教局とに分離並立させる以前から、神社は宗教でないと見なしてきた。その方針は一貫している。これは行政上の取り扱いから出たものであって、神社について哲学上から論じれば様々な議論もあるに違いない。一般的に言って、神社を超人的権威を有するものとして、祈ったり願いを立てたりする者が多数ある。これは寺院参詣も神社参拝も同一であるとの観念に基づいたもので、このような民衆の信仰心に何やかんや面倒な理窟を付けなくてもよいと思う。しかしこれらのことまでも神社は宗教であると主張してあれこれ議論する人もいるようだが、そうなれば先決問題として宗教とは何なのか決めないといけない。これは学問上・哲学上から研究しなければならない。しかし神社の性質は十分に明らかでない。政府が行政上の取り扱いから神社は宗教でないと主張していることが、未だ徹底していない点があるようである。そのために色々な問題もおこるのだから、政府は十分に神社の性質を明らかにする必要があると思う[120]

政府の神社非宗教論への批判[編集]

明治天皇の崩御の後、明治天皇を追慕する国民の声が大きくなり明治神宮創建運動などが起った。くわえて大正天皇の即位礼と大嘗祭もあって、国民の間に敬神思想が広がった[121]。しかし政府の神社非宗教が問題になっていた。政府は、神社は宗教ではないから神社参拝の勧奨は信教の自由を侵害したことにはならないと弁解していた。このような政府の神社非宗教論は、神社の活力を減退させた。在野の神道家や敬神家らはこれを批判した[122]

また、大正の即位礼のころから神棚と注連縄の問題が本願寺に起った。郡長からの命令で神棚を設け注連縄を張れといわれて真宗信徒が反対して問題を引き起こした。真宗の盛んな安芸や石見などでは珍しいことではなかった。本願寺当局は信徒からの問い合わせに対し、神棚や注連縄の必要はないと答えた。真宗は阿弥陀仏以外の神仏を安置しないという宗規綱領を定め、政府もこれを認可していた。地方庁がこれを強いたので真宗としてこれに反抗したのである[123]

神社が宗教でないなら、神社は道徳的崇敬の意味において祭典儀式の執行に限るべきであり、信仰的な祈願祈祷をしてはならない、という議論もあった[124]

内務官僚の塚本清治は1915年から1921年にかけて神社局長を務めた[125]。神社宗教・非宗教論は塚本神社局長時代が最も喧しかった。キリスト教徒がいつも面会に来て「神社参拝を強いるのはいかんではないか、学校の生徒を率いて参拝することは私どものほうでは困る。どうにかしてくれ」とクレームを入れることが少なくなかった。非常に困惑した担当官もいた。宗教局の人が最も悩んでいた。「神社に参って祈願や祈祷をするのは困る。祈願するのは宗教ではないか、宗教ならば憲法によって信教の自由にさせねばならないでないのか。憲法違反ではないのか」というようなことを言われた。どうにも説明がつかないと感じていた[126]

政府が神社と神道とを区分して、神社を非宗教、神道を宗教としていたことについては宗教学の見地から批判が出た。哲学者で東京帝国大学教授の井上哲次郎は次のように指摘した。

政府は神社と神道とを区別し、神道は十三派の宗教としての神道に限定し、神社は宗教と無関係であるとしたのである。しかしそれは行政上の区別であって、宗教学上の区別ではない。宗教学上、近代の神道は3種類に分けられる。

第1に国体神道である。これは国体方面に現われた神道である。皇室を中心に成り立っている。皇室の儀式はすべてこの部類に属する。賢所や伊勢神宮の儀式、即位礼、大嘗祭その他の祭典は総て国体神道に入る。さらに日本の国体の淵源を宗教的に観て、宗教的感情をもって国体を維持発展してくところに国体神道が存在している[117]

第2に神社神道である。これは神社に顕れている神道をいう。神道の精神が神社という建造物を通じて顕れているのをいう。神社に祭る神々は殆ど国体に関係する神々である。即ち国体の維持発展に何らかの貢献をした神々である。それを共同して尊信して儀式を行うように建造物を拵えたのが神社である。神社は決して宗教を離れたものではない。宗教としての神道の機関であるとは、キリスト教の会堂、仏教の寺院に対応するものである。もし神社を神道から除いたら神道は不完全なものになってしまう[117][117]

第3に宗派神道は十三派の神道をいう[117]

国体神道と神社神道と宗派神道の3つを併せて神道の全体が分かる。重大なのは国体神道と神社神道で、宗派神道はこれに比べて価値において余程劣っている。国体神道は日々人民の眼に見えるような儀式を行っているわけではない。神社だけが最もよく社会に神道の精神を顕している。神社は国中どこにでもある[117]

神社神道は神道の精神を顕す重要な機関である。神社神道を神道と無関係なように見なすのは非常な間違いであると思う。神社を除けて神道を理解できない。十三派の神道だけをもって神道の全部のように取り扱ってきたことが非常な間違いである。この間違いが真の神道を誤解させた一大原因で、日本国家のため日本民族のため甚だ不都合な結果を来たしていると思う[117]

神道は宗教か非宗教かといえば、もちろん宗教である。宗教の要素は総て備わっている。宗教学上から言いえば神道を宗教と視なくてはならない。原始神道は崇祖神道と自然神道の2つある。その後だんだんと発達したのは崇祖神道である。国体神道も神社神道も主に崇祖神道の系統を引いている。そして宗教としては民族宗教である。シナの道教、インドのバラモン教・ヒンドゥー教、ユダヤのユダヤ教、これらはみな民族宗教である。キリスト教や仏教は何処に広まっても差し支えない世界宗教である。世界宗教だけが真の宗教で民族宗教が宗教でないとはいえない[117]

神社の中に稀に間違った考えで妙な神さまを祭っていることがある。平将門を祭っていると疑われるものもあるが、そういうのは間違いであるので、撲滅して一日も早く改造刷新していくのが神道の真精神である。稲荷も起原を辿れば宇賀御魂という立派な神様であるが、俗に祭っているお稲荷さんというのは狐である。狐をお稲荷さんといっているの淫祠邪教である[117]

以上まとめると、神社は神道の精神の顕れたもので、宗教的機関である。そうして宗教的儀式としては祓禊があり斎忌があり祈祷があり祭祀がある。すべて宗教的儀式がここにある。神社を宗教以外に置くということは断じて誤謬であることを明らかにしておきたい。これはよほど宗教界の注意を惹いている問題であるからここに立場を明らかにしておく[117]

東本願寺の学僧・前田慧雲は次のように政府見解を批判した。

政府は神社と神道とを区別しているが、画然と区別はできないと思う。政府としてはキリスト教に対する政策からも、神社と神道とを区別する必要があろうが、それは到底不可能ではあるまいか。現に神道者は神道を説くときに神社に即して説明している。政府としても神社と神道との区別を国民に対し未だ明瞭に徹底していない。国民の多数は依然として神社を宗教的に崇敬している。これがかえって効果をあげていることもある。かつて仏教者は神と仏と皇室の一致を説き、それで国民精神が統一されていた。それが日本の国家風教のうえで利益であった。しかし維新の当時、王政復古とともに俗神道が起り仏教を排斥し、このため宗教界に大混乱を来たした。神社と仏教に対する国民伝統の関係が破壊されてしまったから、神社と宗教の間に問題が起ることはやむをえない。為政者は注意しなければ国民精神上良からぬ影響を与えると思う[123]

国家的神道の概念を案出したことで知られる加藤玄智は、神社非宗教論について次のように述べた。

神道及び神社の宗教非宗教の問題については、これに道徳面と宗教面がある。道徳だけ見れば宗教でないともいえるが、宗教面も立派に存する。たとえ祭神が人間であっても、これを神社に祭る場合は人間以上の神の光を拝するところに神道及び神社の真精神が成立してくる。これは一般に神人同格教の一種にほかならないから、神道及び神社は明らかに宗教と言える。神道と神社は事実上、道徳面と宗教面が混然一体となっている。それを道徳面と宗教面を断ち切って分けてしまい、互いに無関係かのように取り扱ってしまうと、混然一体として働いていた時代と同等の成績を期待しても無理である[127]。 神社を宗教でないと言い切ってしまえば、神社のこうごうしい面、尊厳の性質はよほど薄まってしまう[128]。神社では宗教の特性というべき祈祷を行っている。祈年祭はその実例である。官国幣社にあっては府県知事が幣帛を捧げて参拝する。その年の秋の収穫を予め春に祈願して、目に見えぬ神の助けによって五穀豊穣を祈っておくのである。これは明らかに宗教上の祈祷である。新嘗祭も単なる道徳的な感謝を表すものではない。目に見えぬ神の助けに感謝する宗教行事である[129]

政府の調査会[編集]

神社行政制度の変遷を辿ると、国が神社と宗教とを区別して、その区別をできるだけ明確化しようとしていたことが分かる。明治維新の初めに神仏分離令を出したり、1900年に内務省の社寺局を神社局と宗教局とに分けたり、1913年に宗教局を文部省に移したりしたのがそれである。1926年に文部省に宗教制度調査会ができて、宗教法案を審議した際に、改めて神社宗教論と神社非宗教論とを討論した。内務省でも1929年に神社制度調査会ができて、神社非宗教論について研究討議を重ねた[130]。この間、昭和天皇の即位礼・大嘗祭や、神宮の式年遷宮などによって敬神観念が国民に浸透した[122]

宗教制度調査会[編集]

文部省は1926年に宗教制度調査会を設け、宗教法案の調査審議を進めた[115]。その十数年前から学者の間で神社宗教・非宗教論について議論されてきたところであったが、宗教制度調査会においても改めて専門家の間で様々な議論がなされた。新聞で報道され、世論を喚起した。文部省の当局者は根源を明治維新にとって神社非宗教論を唱えた。委員中の反対論者は、一部の学者と呼応して当局者への反論を新聞や雑誌に載せた。「これほど明白に神社は宗教であるのに当局は無理に制度に拘って神社非宗教論に固執している」として世論を煽って当局者を困らせた[131]

反対論者の意図は、神社が宗教であるとすれば信教の自由にさせろと言い、逆に神社を非宗教とすれば神社から宗教行為を取り去って銅像同然のものにしろと言う考えに外ならなかった。当局者は首尾一貫して神社非宗教をもって答弁した。反対論者は、当局者がただ頑迷に制度を盾にして非宗教を主張しているかように言いふらした[132]

文部省の宗教制度調査会との関連で、神宮奉斎会会長の今泉定助が神宮奉斎会本院(現東京大神宮)より『神社非宗教論』を発行した。印刷をもって謄写に代える非売品であった。

神社制度調査会[編集]

文部省の宗教制度調査調査会に続いて、内務省が1929年に神社制度調査会を設けた。神社非宗教論について研究討議を重ねた。終戦に至るまで繰り返し検討した。その間に神社が宗教であると論じた委員は一人しかいなかった。他の委員は全員が神社非宗教論であった。政府もまた神社非宗教論を終戦まで堅持した[130]

神社制度調査会において神社を宗教として論じた唯一人の委員は筧克彦であった。神社は宗教の上でも下でもなく中心であるなどと論じる筧克彦に対し、他の委員は彼が何を言いたいのか分からない、神社が宗教の中心だとか言ってみても裁判では通用しない、などと言って彼を相手にしなかった[133]

神社非宗教論に反対する宗教学者の岸本英夫は、戦後この件について、神社制度調査会は神社非宗教論を唱えればいいに決まっている場所なのに、それでも委員中に異論が残ったということは相当に強い反対意見が潜在していたと見るべきであると主張した[134]

昭和のキリスト教問題[編集]

美濃ミッション事件[編集]

美濃ミッション事件は、岐阜県在住のキリスト教徒の小学生が信仰上の理由により伊勢神宮参拝を拒否し、彼が所属していた美濃ミッションというキリスト教団体が地域社会から排撃されたという事件であった。排撃する側の中には別のプロテスタント教会の長老や牧師もいた。牧師は、美濃ミッションのメンバーが神社参拝を偶像崇拝と誤解していると指摘し、日本のキリスト教徒として当然に神社参拝を行うべきことを願った[135]。牧師らは神社と淫祠とを区別し、逆賊平将門や狐や狸の祠を拝まないが、伊勢神宮や明治神宮から村社に至るまでおよそ祖先や報国尽忠の士を祀る神社に対しては礼を厚くし、頭を下げて敬意を表することを怠らないし、そうすることがキリスト教信仰に少しも差支えないと考えた。政府が神社を宗教にあらずと断じ、神社を内務省の神社局にて扱い、神道を文部省の宗教局にて扱っているとも指摘した。美濃ミッションを非難するキリスト教徒の文章に共通するのは神社非宗教論の実践の指針であった。出自不明だったり人外だったり国家反逆者だったりするものを祀るような神社には信仰上の理由により参拝しないが、出自の明確な歴史上の人物で、忠義を尽くし国家へ貢献した人物を祀る神社は非宗教の神社であるので、ここに参拝することはキリスト教界として神社非宗教論を実践する上で具体的な指針となっていた[136]。一般に、満州事変以降の思想統制の中で、キリスト教徒が方便として神社非宗教論を利用して教会を守ったと考えられがちだが、実際はナショナリストのキリスト教徒が、むしろ神社非宗教論の実践により神社参拝を推進し、後の日本基督教団の結成に繋げていったのである[136]

上智大生靖国神社参拝拒否事件[編集]

1936年までのカトリック教会は、神社に宗教的本質があると考え、カトリック信者が神社の儀礼に参加することを偶像崇拝として禁止していた。この見解は1932年の上智大生靖国神社参拝拒否事件をきっかけに変わった[104]

1931年に満州事変が勃発して時勢が急転した翌年に、この事件は起こった。これを契機に、カトリック教会において神社参拝の是非が問題となった。カトリック学校の児童・生徒・学生は学校行事として神社へ参拝するよう求められた。参拝すれば十戒の第一戒(主が唯一の神であること)に背くことになるのではないかという問題が生じた[137]。カトリック教会は神社参拝の意味を文部省に問い合わせ、有識者の意見も聴取して、ローマの教皇庁布教聖省に問い合わせた[138]

その間の経緯をやや詳しくいうと次のようであった。1932年5月5日、上智大学配属の軍事教練将校が生徒数名を靖国神社へ連れて行った。その時、数人のカトリック信者の生徒が神社で敬礼を行わなかった。配属将校はこの件について上智大学学長ホフマンを問い詰めた[104]。ホフマン学長の返答は、生徒たちの敬礼拒否は神社に関する教会の立場と一致する、と断言するものであった。この返答を不満とした陸軍は上智大学での軍事教練を停止した。事件は広く報道され、上智大学の評判を傷つけた。このような危機に対応するべく、東京大司教ジャン・アレクシス・シャンボンは文部省に書簡を送った。文部省は9月30日に返答した。神社参拝は教育的な目的によるものであり、神社で生徒が求められる敬礼は、愛国心と忠誠とを現わすものに他ならない、という返答であった。これは、神社参拝は宗教的ではなく、市民的な愛国心の表明であると言っているものとして解釈された。そのためこの返答は、日本のカトリック教会が神社参拝に対する立場を変更する根拠となった[139]

1936年5月、ローマ教皇庁布教聖省長官ピエトロ・フマゾーニ・ビオンディ枢機卿は日本に指令を送り、カトリック教徒が神社参拝に参加することを許可すると指示した。その理由は、神社参拝は宗教的な行為でなく単なる愛国心と皇室への敬意の表明にすぎないためであるとされた[139]。布教聖省は、カトリック教徒が神社参拝することは許されるとして次のように回答した[140]

政府によって国家神道の神社として管理されている神社において通常なされる儀式は(政府が数回にわたって行った明らかな宣言から確実に分かるとおり)国家当局者によって、単なる愛国心のしるし、すなわち皇室や国の恩人たちに対する尊敬のしるしと見なされている。また、文化人たちの共通の見解も同様なものである。したがって、これらの儀式が単なる社会的な意味しかもっていないものになったので、カトリック信者がそれに参加し、他の国民と同じように振る舞うことが許される[140]

この問題はやがてカトリック教徒が学校行事でなく個人として神社に参拝することの是非に波及した。神社参拝が「許される」という布教聖省の見解は、日本の教会によって、参列するように「教える」という方向へ進んだ[141]。この後、1945年の終戦までカトリック教会の公式見解は日本政府と同じであった。すなわち、神社は主に市民的儀礼の場であって、宗教的崇拝の場ではないという見解であった[104]

昭和戦中期[編集]

1937年、日華事変が勃発した。多くの国民が徴兵された。出征の際には郷土の小学校や神社に集合した。出征先において故郷の神社を想うことが多々あった。兵士の間で神国意識が広がり、神葬祭を希望する者が増加した。内務省は、神社非宗教論が破れることを恐れ、従軍の布教や神葬祭への神職の関与を禁じた。戦場の葬儀はほとんど仏僧が行っていた。陸軍省が内務省に神職従軍の許可を求め、1939年に臨時の措置として許可された[71]

神社界は神祇特別官衙設置運動において八神奉斎論を提唱した。これは神籬磐境の神勅にもとづき八神祭祀を復活させ、あわせて神祇官を復興すべしという理論であった。祭祀官衙設置は実現しなかった。1940年に設立された神祇院は祭祀機能を一切有せず、祭祀行政も管掌しない機関になった。その後も神祇特別官衙設置運動は続いた。皇典講究所祭祀審議会において大典府が構想された。これは祭政一致の実を挙げるため、祭祀行政をはじめ各省分掌の神社行政をすべて統一して管掌するものとして構想された[56]。大典府構想は1944年に内閣総理大臣小磯国昭へ提示され、最終案もまとまったが、1945年の終戦により実現せずにおわった[142]

連合国の占領政策[編集]

米国政府の神道対策[編集]

太平洋戦争中の1943年後半、米国政府は日本占領を見越して、日本の神道への対応について検討を始めた。国務省特別調査部のヒュー・ボートンは、軍国主義が日本を支配するようになったのは神道を政治的利用したからであると考えていた。そして、天皇を神聖不可侵とするような近代神道の国家主義的教義を禁止すべきだと主張した[143]

1944年3月15日、国務省の委員会は日本の神道と信教の自由に関する基本政策文書をまとめた。この文書は神道を宗教と見なしていた。神道を超国家主義から区分するのが困難である場合、日本に信教の自由を許すべきか否かについて論じた[144]。本来無害なアニミズムである原始神道に国家主義的天皇崇拝カルトが接ぎ木されていると指摘した。約10万の神社を3つに分類した。第1類は古代由来の地域の守護神を祭る神社、第2類は伊勢神宮のように古代由来だが国家主義の象徴になっている神社、第3類は靖国神社や明治神宮や乃木神社のように近年設立された国家英雄を祭る神社であるとされた[143]。米国国務省「覚書―信仰の自由」にいう[145](大意)。

連合国は信教自由の原則に則る。神道を宗教とみなす。これを超国家主義から区別することが難しいが、神道に信教自由を許可すべきかどうかという問題に対処しなくてはならない[145]。好戦的国家主義の象徴である神社は、たとえば靖国神社、明治神宮、乃木神社、東郷神社などがある[146]。これらは信教自由の原則に全く違反せずに閉鎖できる。そのわけは、国家神道は宗教ではなくむしろ愛国心の表明であると日本政府が主張してきたからである。しかし、終戦直後に神社を強制的に閉鎖すると、かえって神社崇拝を強める結果になりかねない[147]

神社は非宗教的な場であるとされているため、これを閉鎖しても信教自由の原則に反しないというように考えられていた。つまり、日本政府の神社非宗教論を逆手にとれば、神社廃止を合法化することは可能であるとされた。しかしこの文書は神社が廃止された場合に起こりうる良からぬ結果に考慮すべきと警告していた[148]

日本降伏後の米国対日初期方針は、宗教の自由を占領後直ちに宣言しなければならないと考えたが、超国家主義的で軍国主義的な組織や運動が宗教を隠れ蓑にすることは決して許されないともしていた。軍政に関する基本指令は、日本の軍国主義的・超国家主義的イデオロギーの宣布を如何なる形でも禁止し、国家神道体制への財政その他の支援を停止するよう日本政府に要求する、というものであった[143]

占領軍の宗教政策[編集]

日本を占領した連合国軍は、占領当初から神社を宗教として取り扱った。宗教政策は連合国の占領施策の重点の一つであった。これは、(1)信教の自由、(2)政教分離、(3)軍国主義・超国家主義の除去という3原則に基づいていた。1945年12月「国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・監督・弘布の廃止に関する件」、いわゆる神道指令を下した。その趣旨は、軍国主義・超国家主義思想の根絶、信教自由と政教分離の徹底、神社神道の国家からの分離にあった。同月、宗教団体法が廃止され、宗教法人令(問答無用のポツダム命令)が公布・施行された。翌年2月の宗教法人令の改正等により神社は宗教法人となった[149]

GHQ民間情報教育局宗教課長のウィリアム・バンスが占領軍の宗教政策をほぼ全て立案した。バンスは神道指令の起草にあたって、東京帝国大学文学部助教授岸本英夫に顧問を依頼した。岸本は宗教学が専門で、米国留学の経験もあったことなどから選ばれた。CIE宗教課と日本側とを橋渡しした[144]。バンスはホルトムの主著『近代日本と神道ナショナリズム』を熱心に読んでいた[150]

当初、日本政府の前田文相は、いわゆる国家神道は宗教というには単純すぎるもので、いわば一種の国の習慣のようなものであるから、英米の国会が開会式で宗教的な儀式をするのと同じような軽い意味でcult(祭儀)として保存できると考えていた。神社参拝を強制するというような強制的な要素さえ取り除けば、神社は宗教でなく、従来の政府の神社非宗教論のように非宗教の国家的儀式ということで通ると思っていた。この点を宗教学者の姉崎正治(岸本英夫の岳父)に頼んで研究してもらった。しかし姉崎正治がGHQ当局と話をしたところ、そう簡単にいかないことが分かった。GHQ当局は国家神道を宗教とする見方を堅持していた。とくに太平洋戦争がおこったのも神道のファナティックな信仰から来ていると見なしていた[151]

結果的に神社は一つも閉鎖されなかったが、日本側は神社総数の半分くらい閉鎖されることになるだろうと予想した。そして伊勢神宮さえ守れれば他の神社の問題はどうにかなると考えていた。当初は伊勢神宮は皇室の最初の先祖の廟であるから閉鎖する理由はないはずだという論法で伊勢神宮を守るつもりであった[152]。しかし途中で日本側の解釈が変わった。伊勢神宮は単なる廟ではない、これは宗教機構なのだという解釈で交渉していくことになった。理由は経済的な事情であった。伊勢神宮の経済基盤は宗教的な活動によって支えられていたのである。神宮大麻を頒布したり、大神楽の奉納があったりする宗教的活動が重要な財源であった。したがって伊勢神宮の廟という点を強調しすぎると、宗教的活動を放棄しなければならず、そうなると伊勢神宮は立ち行かなくなる恐れがあった。こうした日本側の出方に対してGHQが出した結論は、伊勢神宮が宗教機構ならば国家から切り離すべきであり、切り離せば存続しても差し支えないということでなった[153]

神祇院の考えとしては、伊勢神宮と勅祭社、あるいは皇室と特に縁の深い官国幣社については、できれば宮内省でこれを所管して保存維持し、その他の神社については法人組織でもって全国の神社を結集して存続を図るという考えであった。GHQが伊勢神宮と勅祭社の特別待遇に反対したのでやむを得ず私的な宗教法人として出発することになったともいう。そして1946年1月25日、伊勢神宮および神社を宗教として取り扱い、その事務を文部省において所管するという決定がなされた[154]

神社は宗教であるとされた。神祇院が廃止となり、神社に関する法令も一切廃止された。神社もまた宗教法人令の適用を受けることとなり、神祇院はその事務を文部省に引継いだ。全国の神社は包括団体として神社本庁という一つの宗教法人を組織した[155]。各地の神社で神道指令違反が続出した。官吏の宗教儀式への参列、公葬の問題、それから神社経営を支えてきた氏子区域の町内会や隣組を通じて住民から奉納金や祭典費を取り立てるといった事案は、神道指令できつく取り締まられた[156]

靖国神社について、バンスが文部省に何度も言ったのは、靖国神社が存続するためには、震災記念堂のような、宗教儀式すなわち神道儀式から全く離れた立場に置いて、単なる記念堂のような各派共通の施設としてならば、靖国神社の存続ということも考えられるということであった[152]

神祇院副総裁の私見[編集]

占領当初、飯沼一省は神祇院の副総裁として神社行政の最高権威というべき地位にあった[157](神祇院総裁は内務大臣が兼務する定め[158])。神社制度が神社と宗教とを区別していたことについて、飯田一省の私見は次のようであった(大意)。

神社で最も大事な本質は祭祀である。祭祀の中心は祝詞の奏上である。祝詞は、天皇の治世を平らけく安らけく、そうして天下の大御宝(国民)が栄えて幸せに暮らすことができるようにと神明の加護を祈るものばかりである。決して一般の宗教のように個人の安心立命を祈るとか、絶対なものへの信仰とかではない。伊勢神宮や神社が御札を出しているから宗教であると指摘されることもあるが、これまで御札を強制的に押し売りをしたことは決してない。明治維新以来の政府の指導方針は祭政一致であった。神社行政は終戦に至るまで、神社は国家の宗祀であって宗教でないという建前で仕事をしてきた。

神社神道が超国家主義と言われる理由が分からない。確かに戦争中に神社で戦勝祈願をしていた。しかしどの国の国民も自国の勝利を祈ることは当然である。このために神社が軍国主義の背景であったと言われても承服でない。

神祇院としては、神社を宗教として説明することはどうしてもできなかった。宗教法人として仕事をすることはできない[155]

皇室祭祀の宗教[編集]

皇室祭祀を天皇個人の私的信仰として位置づけることについて、宮内省は深い疑問を抱いたが、神道指令はきわめて苛烈なものであったので今さらその点を争っても無益であった。むしろ国体に不測の災い(皇室廃止論)を招くおそれもあった。神道指令に個人の信仰は自由に保障されているという条項があったので、それを頼りに皇室祭祀令を改正した[159]。天皇の個人的な基本的人権として信仰の自由が守られるということを最後の拠り所として局面を切り抜けるしかなかった。当時の会議では「通俗的常識的にこれを一種の宗教と見て、各人自由なる信仰の対象となすを得るものとし、しかも皇室においては宮中三殿の奉賽することにおいて、神社宗教を奉ぜられるものとすること、局面上妥当なりと信ずる」という意味深長な発言があった。ここで「局面上」というのは敗戦後の占領下で神道指令を下された状況という意味であった[160]

大金宮内次官は、神社非宗教論に関して、宮中三殿・伊勢神宮・神社への参拝が天皇の個人的信仰・私的行事とされたことについて疑いを持った。「天皇が参拝するときの御告文(おつげぶみ)を見ても、ただひたすらに国家の安寧と世界の平和とを祈願している。これを個人的信仰・私的行事ということはできない」と考えた。皇室祭祀は新憲法に定める象徴としての天皇の行事であると思うことにした[161]

大石義雄の神社非宗教論[編集]

占領解除後の1956年、衆議院の特別委員会は、靖国神社における英霊合祀に関する問題について調査を進めていた。国家と宗教の憲法上の問題に関し、憲法の権威として京都大学教授大石義雄らを参考人として招致して意見を聴取した。特別委員会は、靖国神社に全英霊を合祀することは当然であると考え、合祀を完了させるために靖国神社へ国家財政から補助をすることとしたいが、宗教法人である靖国神社に国庫補助を行うと憲法違反の疑いが生じるので、特別法を制定して靖国神社を特別法人にして補助金を出すという説があるので、この説について意見を聴いた[162]。大石義男は神社非宗教論の立場から次のように答えた[163](大意)。

宗教生活は、各人の安心の拠り所として神を認める精神生活を本質とするから、信仰対象の神は信者によって千差万別である。近代国家において一般に信教の自由を憲法で保障する理由もここにある。一方、神社は、国民道徳の目標を示し、国家的施設であることをその普遍的性格とする。すなわち神社の普遍的性格は国民道徳的性格である。日本人が家に仏壇を置きながら神棚も備えるのは、意識的にしろ無意識にしろ神社の国民道徳的性格を認めているからである。旧憲法下において、憲法が信教の自由を認めていたにもかかわらず、国家が特定の神社を管理していたのは、神社の国民道徳的性格に着眼してのことであった。もし人間としての安心を得るための信仰の対象として神社の祭神を強要していれば、それは信教の自由の侵害となっていただろう。

靖国神社の祭神は、国家の命令に従って戦場において一身を国にささげた人々である。こられの人々の中には、仏教徒もキリスト教徒もその他の宗教徒もいるだろう。しかし、日本国民として日本国のために犠牲になった人々である点では、みな同じである。これらの人々を祭神とするのが靖国神社であるから、いやしくも日本国民であるならば、どの宗教徒であっても均しく祭神に対して崇敬の念を捧げるべきは、日本国民としての最小限の道徳的義務である。靖国神社は宗教とは関係ない、超宗教的であり、宗教を超越したものである。

もっともあらゆる神社が宗教的性格を全然伴わないというわけではない。神社を自己の安心の拠り所として礼拝する人もいるからである。この場合その神社はその信仰者との関係において宗教的性格を持つことになる。この意味において神社には国民道徳的性格と宗教的性格の両面がある。しかし、両面があるといっても、本質的には神社の宗教的性格は神社の普遍的性格ではなく、特殊的・偶然的な性格である。したがって神社の宗教的性格は神社によって多種多様である。

旧憲法時代においても、神社が宗教か否かについて様々な見解があったけれど、神社を他の一般の宗教と同じものとして説明した憲法学者は一人もいなかった。それなのに戦後になって神社は宗教であると説かれるようになったのは、占領軍当局の覚書(神道指令)を根拠とするものである。占領軍当局は、神社の普遍的性格を見誤まり、神社を単なる宗教的施設と見なした。現行の宗教法人法も、神社を宗教団体と定めている。それで現行制度においては神社に公金を利用できないわけである。公金を宗教的組織のために利用することは憲法第89条が禁じているからである。

神社を宗教団体と定めたのは宗教法人法であって、憲法自身がそう定めているわけではないから、神社が宗教的施設か否かは神社の客観的性格によって判断するほかない。従来わが国で国家的施設として管理してきた神社の客観的性格は、国民各個人の安心の拠り所ではないから、神社の普遍的性格が宗教的でないことは明らかである。特別法で特定の神社を宗教法人法上の神社から除外すれば、その神社に公金を支出することは違法でなくなる。

国家神道論[編集]

近代日本の政教関係に関して「国家神道」という用語がある。この用語には様々な意味がある。1つの用法は村上重良の「〈祭政一致〉をかかげて近代天皇制国家が政策的につくりあげた国家宗教で、神社神道を再編成して皇室神道に結び付けた祭祀中心の宗教」という用法である。宮中祭祀と神社祭祀の結合を国家神道の中心と見なす。この用法は事実に即さず、ものの役に立たない。また1つの用法は、神社非宗教論を中心に国家神道の概念を組み立てる。神社が事実上国教として扱われていることと、神社崇敬の義務とを分けて考え、これに神社非宗教論を合わせて用いる。しかし神社非宗教論が直ちに国教や神社崇敬に繋がるわけではないので、この用法にも注意を要する[164]

国家神道とは国家が強制した国教であったとする説がある。この説の源流を遡ると、村上重良の学説があり、GHQによる神道指令があり、加藤玄智の理想論がある。一君万民ナショナリズムを提唱した一学者による理想論に過ぎなかったのである[165]

堀井史観[編集]

1882年の神官教導職分離は神社非宗教論を決定し方向づけたとされる。教導職の廃止は宗教教団の自治を進めた。神社改正ノ件は国家と神社との分離を促そうとした。1900年4月27日に勅令第136号により内務省に神社局が新設され、社寺局が社寺局が宗教局となった。これにより行政上は神社は他の宗教と明確に区別された。社寺局は1877年以来、神祇行政・宗教行政を管掌してきた[121]

1879年には太政官達により府県社以下の一般神社については、祠官・祠掌の等級を廃し、身分の取扱は寺の住職と同様とされた。神社に関する政府の扱いは転換した。大きく変わった。1871年5月太政官布告で神社は国家の宗祀であって私有にすべきでないとされてから8年間で、神道を宗教と同様に扱う姿勢に転換した。政府は政教分離の原則によって神道を国家から切り離した[166]

官国幣社保存金制度は、官国幣社を国家財政から切り捨てるための手切れ金であった[71]


GHQは、1945年12月15日、国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・監督・弘布の廃止に関する件、いわゆる神道指令を発した。起草者は、GHQ民間情報教育局教育宗教課宗教班の責任者W.K.バンスであった。神道指令の目的は、国家指定の宗教・祭祀、すなわち国家神道に対する信仰・信仰告白の直接的間接的な強制から日本国民を解放するためであり、また、日本国民を欺いて侵略戦争へ誘導する目的で軍国主義・ウルトラ国家主義の宣伝に神道の教理・信仰を利用するようなことが再び起こらないようにするためであるなどとされた。神道指令を起草したW.K.バンスはD.C.ホルトムの主著『近代日本と神道ナショナリズム』を熱心に読んでいた[150]

官立神宮皇學館大學は占領軍の進駐により存亡の危機に瀕した。神道を建学の精神として、神職を養成し、国家神道の教学理念の中枢とみなされていた。同年12月の神道指令によって官立大学として存続することが絶望的となった。翌年3月には勅令によって廃学が決定した。卒業生らは「宗教神道として新発足せる神社」の神職の養成を目的として、同年9月、私立学校「伊勢専門学館」を館友会館に設立した。しかしGHQ三重県軍政部が11月1日に学館に乗り込みこれを解散させた。のち1959年7月、神宮皇學館大學復興後援会が発足した。会長は元首相の吉田茂で、発会式で「神ながらの道を軍国主義のシンボルみたいに考えたのは、占領軍の誤解であった」とし、「押しよせてくる共産主義の脅威に対処するためには、神道の確立、神宮皇学館の再建は時勢の急務であります」と期待を述べた。神宮皇學館大學は1962年4月に私立皇學館大學として再興した[165]

神道がGHQの定義による宗教であるとすれば、神宮皇學館や靖国神社などに対する占領軍の政策は宗教弾圧に相当する[167]

学制百年史[編集]

[81]明治元年3月、新政府は神仏分離を発令した。これをきっかけに各地で廃仏毀釈運動が起こり、仏教界に大打撃を与えた。新政府は祭政一致の方針を採り、神祇官を設置し、全国の神社を神祇官の管下に置いた[81]

廃藩置県後、中央集権的体制を固めるためには神道国教化政策では足らないとして、仏教諸宗派や神道諸教派の力を利用して皇道宣布運動を展開することにした。神祇官を明治4年(1871年)8月に神祇省へ改組し、さらに翌年3月に教部省へ改組した。皇道宣布運動の担い手として、中央に大教院、府県に中教院、地域に小教院を置いた。神職や僧職などを教導職に任命し、教化運動をすすめた。神仏合同の布教にはかなり無理があり、神仏互いに反発しあう傾向があった。この運動は上から押しつけられたと批判された。信教自由を求める声が高まるにつれて宣布運動は行き詰まった。1875年5月、大教院を解散し、以後、神仏がそれぞれ各自の教院で布教をすることにした[81]

明治4年(1871年)5月、神社は国家の宗祀であると宣言した。仏教については国家と分離する方針を採った。1873年2月、キリスト教禁制の高札を撤去し、キリスト教の宣教を事実上黙認することになった。1877年1月教部省を廃止した。その事務は内務省に新設した社寺局に所掌させることとなった。教部省は廃止されたが、教導職の制度は存続した。1875年11月、信教の自由保障の口達を発した[81]

1889年2月、大日本帝国憲法が発布された。第28条により信教自由の原則が保障された。それは国家の安寧秩序を妨げず、および国民たるの義務にそむかない限りにおいての自由であった[81]

幕末に欧米諸国と締結した不平等条約を改正することが、政府も国民も望むところであった。しかし条約改正で障害となったのは、キリスト教の処遇と神社の特別待遇であった。政府は1899年5月、キリスト教の宣教を正式に認めた。神社については、あくまで国家の宗祀であり、他の宗教と同一視すべきでないとした。神社と宗教を同じ社寺局で取り扱うべきではないということになり、1900年4月、内務省の社寺局を神社局と宗教局とに分割した。神社は一般宗教とは別であるという姿勢がとられるようになった[81]

1913年6月、内務省の宗教局を文部省に移した。神社を除く全国の宗教団体はすべて文部省宗教局が管轄した[81]

1940年11月、内務省神社局は神祇院に改組された[81]

社寺、教会、講社などに対する行政上の取り扱いについては、共通の法規に基づいていたが、法規が極めて繁雑であったので、宗教法が必要とされた。宗教法案は神社を除外していた。1899年12月、第2次山県有朋内閣が初めて宗教法案を貴族院に提出した。しかし主に仏教側から強い反対に合い成立しなかった。その後、宗教局が文部省に移管されるまで、宗教法案が再び提出されることはなかった[81]

1926年5月、文部省に宗教制度調査会が設置された。この調査会は宗教制度に関する重要事項を調査・審議・建議する機関であった。主に宗教法案・宗教団体法案について文部大臣の諮問に応じ調査・審議した。同年6月から8月にかけて宗教局で立案した宗教法案を調査会で審議し、一部修正のうえ1927年1月、貴族院へ提出した。しかし反対の声が多く審議未了で廃案となった。1929年これを宗教団体法案の名で調査会の審議を経て、貴族院に提出したが成立しなかった。1935年にまた宗教団体法草案を審議したが、議会提出に至らなかった。1939年4月にようやく宗教団体法が公布された。これまで神道教派と仏教宗派については1884年8月の太政官布達第19号が根本法であったが、キリスト教の包括団体は宗教法規の外に置かれていた。しかも法規上キリスト教を漠然と「神仏道以外の宗教」と表現していた。宗教団体法では基督教という文字を用い、その包括団体を教団として、従来の神道教派や仏教宗派と並べた。宗教団体法は公布の翌1940年4月から施行された。施行の際、神道教派は13、仏教宗派は56であった。これらは、そのまま宗教団体法により文部大臣の認可を受けた。宗教団体法によってキリスト教で教団の認可を得たものは、カトリックの日本天主公教とプロテスタントの日本基督教団の二つであった。従前の神仏各派の内部規則は文部大臣の認可を必要とした。そしてその規則認可の期限を前にして合同が促進された。神道教派では合同は行なわれず、仏教宗派で従来の56派が28派に半減した。またキリスト教では、プロテスタント系約30の包括団体が合同して日本基督教団を設立した。新興教団は行政上「類似宗教」と称された。類似宗教については、天理研究会、大本、ひとのみち、燈台社などの事件が起こった[81]

学制百廿年史[編集]

明治維新の初め、新政府は神道の優位性と独自性を明らかにするため神仏分離を実施した[115]

キリスト教を抑圧する政策が欧米諸国から非難されたため、政府は1883年年2月キリスト教の宣教を黙認した[115]

1877年1月教部省を廃止し、宗教行政を内務省社寺局に担当させた。帝国憲法の発布により、信教の自由が臣民の権利として承認された。それは「安寧秩序を妨げず、および臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」という限定付きであった[115]

条約改正の条件としてキリスト教の適正な処遇を欧米諸国から求められたので、政府は1899年5月キリスト教の宣教を正式に認めた。ただし同年8月に文部大臣訓令により、公認学校の授業時間内に宗教教育や宗教儀式を行うことを禁止した[115]

政府は、神社非宗教の原則を確認して、1900年内務省の社寺局を廃止し、神社局と宗教局とを分立させた。神社と宗教との分離を一層明確にするため、1913年6月、宗教行政一般が内務省から文部省に移管された。内務省は宗教局を廃止、文部省は新たに宗教局を設置し、全ての宗教団体を管轄することとした[115]

明治維新以来、宗教行政上の多種多様な法規がつくられた。それらを総合的に整備するとともに宗教団体を監督・指導するため、宗教法を立法する動きがあった。1899年、内務省は最初の宗教法案を帝国議会に提出したが、仏教勢の反対により成立しなかった[115]

文部省は1926年に宗教制度調査会を設け、宗教法案の調査審議を進めた。1927年と1929年にそれぞれ法案を帝国議会に提出したが、異論があって成立しなかった[115]

戦時体制下の1939年4月に宗教団体法が公布された。同法は、宗教行政上の諸法規を整理し、宗教団体に対する保護と監督を強化しようとするものであった。キリスト教の包括団体を教団と名付け、他の神道教派・仏教宗派と同格とした。宗教団体の認可にあたって包括団体の合同を進めた。神道教派は一三派のままとしたが、仏教宗派は56派から28派へ半減し、キリスト教団はプロテスタント約30団体を一つの日本基督教団に統合した[115]

宗教政策は連合国の占領政策の重点の一つであった。(1)信教の自由、(2)政教分離、(3)軍国主義・超国家主義の除去の3原則に基づいていた。1945年12月、国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・監督・弘布の廃止に関する件、いわゆる神道指令を下した。その趣旨は、軍国主義・超国家主義思想の根絶、信教自由と政教分離の徹底、神社神道の国家からの分離にあった。神社非宗教論に関しては、連合国軍は占領当初から神社を宗教として取り扱った。同月、宗教団体法が廃止された。同月に公布・施行された宗教法人令により、宗教法人の設立、規則変更、解散は自由化された。翌年2月の宗教法人令の改正等により神社は宗教法人となった[149]

材料[編集]

小川 (2006) 神道概念が不明。内容もちょっとおかしい。

[108]洪 (2014) 5頁。神社と宗教を分離した政府の説明とロジックは、キリスト教界でも一般に受容されていた。たとえば日本メソヂスト教会の比屋根安定は「政府がしばしば説明したごとく、いわゆる宗派神道十三派と称せられるものは宗教であるが、神社は宗教ではなく、国家の宗祀である」と述べている。1912年2月25日、神道、仏教、キリスト教の三教会同が開催された。教派神道とキリスト教がともに明治政府から国家主義の政策パートナーとして公認された象徴的な事件であった。翌年11月、文部省が神道・仏教・キリスト教の代表者を各個招待した。キリスト教代表は次の意見を述べた。「政府は宗教と神社を別個のものとしているが、国民は神社の祭神を宗教的礼拝の対象としている。両者の区別を徹底してほしい。かつて『陛下尊影の礼拝は宗教的礼拝にあらず』と言明した大木文相の告示を訓示してほしい。」この要求事項は、非宗教であるはずの国家神道に含まれる宗教性を徹底的に除去して区別してほしいという意味であった。

[112]洪 (2014) 8頁。海老名弾正は、神社非宗教論に即した国体論において、キリスト教の貢献を強調した。神社非宗教論を最後まで積極的に受け入れた。

[113]洪 (2014) 16頁。神社非宗教論に傾倒した。自由主義神学に影響されていたからであった。彼が積極的に受け入れたドイツ自由主義神学は、キリスト教を宗教としてよりも倫理・道徳として評価し、またイエス・キリストの神性よりも人性を評価しようとしたものだった、

[1]新田 (1988a) 22頁。神社非宗教論とは「神社は宗教でない」という命題である。これは明治憲法下の宗教行政にあった。明治憲法には信教の自由を保証する規定があり、それと、事実上神社を国教として扱っていた現実との間を解消するためのものだと説明されることがある。たとえば憲法学者宮沢俊義は(略)。しかし、政府が国民に神社への礼拝を強要しても信教の自由に反しないというようには憲法制定者たちは考えていなかった(例略)。また政府は、神社非宗教論にもとづいて神社にだけ特別扱いし、公的な地位を認めていたかというと、伊勢神宮や靖国神社・招魂社を除き、そういうことはない。官国幣社保存金制度に現われている。

[30]新田 (1988a) 23頁。この制度は明治20年以降15年間に限り官国幣社に保存金を給付し、それ以降は人々の信仰に任せて神社を自立させるという制度である。神社を信仰の自由の対象として取り扱うことを意図した制度であった。神社の大多数を占める府県社以下の神社は「民祭ノ神社」として扱われ、国家による特別の保護を受けていなかった。明治5年政府は神祇省を廃止し教部省を設置し教導職を置いて神仏儒による国民教化に乗り出した。これまで神道のみで行ってきた国民教化が不振であったことを反省し、また僧侶たちの希望を入れた政策であったという。仏教諸宗は各宗合同機関の設置を請願し、大教院が設置された。薩摩派の進出により次第に神道中心の布教機関になっていった。政府は、外交問題を考慮して、6年2月24日にキリスト教禁止の高札を撤廃した。キリスト教の信仰を認めたものではなかったが、信仰自由論が唱えられる契機になった。6年7月島地黙雷が海外視察から帰国した。まもなく真宗が大教院から分離する運動を始めた。神道主導の大教院は寺院を神社に転化するものとして批判したのである。大教院から分離して独自の布教を行うことを主張した。その根拠が神道非宗教論であった。建白書によると、宗教というものは死後の世界を語るものである。見聞できない世界の因果を語り、人々を善導し、死後の安心を得させるものである。一神教と多神教の違いがあっても、宗教は神に祀るものであって人を祀るものではない。人畜草木を祀るのは未開野蛮であって論じるに足りない。しかし我が国の神道はそうではない。歴代天皇から臣民賢哲に至るまで神として祭る。死後の世界を説かず、禍福の因果を説くものでない。ただ忠孝信義の至誠をもって君父や功労者の霊魂を祭るものである。人々に死後を語ってこれを安心させるものではない。

[23]新田 (1988a) 24頁。浄土真宗は神道非宗教論を根拠として、仏教と神道の所管庁を分離し、布教の自由を認めることを主張した。一方、神祇官復興運動を行っていた神官らは政教一致を中心に主張していたが、神道非宗教論を祭政一致の根拠にするには至っていない。僧侶も神官も祭政一致の点では一致していた。僧侶は政教分離論、神官は政教一致論であった。間に立った政府は黙雷らの主張を受け入れた。

[31]25頁。8年、政府は大教院を解体し三条教則の遵守を条件に各宗派独自の布教を認めた。信教の自由保障の口達を神仏各管長に発した。以後、単純な政教一致論は政府に通用しなくなった。神官らが神道と国家との結びつきを主張するには政教分離に配慮しなければならなくなった。また、神道非宗教論が真宗にとって有益であることが示された。以後神道非宗教論に依拠して要求していくことになる。真宗西本願寺派門主大谷光尊は島地黙雷の起草にかかる「宗門教義上相戻大義」を太政大臣三条実美に提出した。これは西本願寺が神道非宗教論を初めて公式表明するものであった。西本願寺は信教自由を主張するけれど神道を軽んじるものではないと表明した。これは大教院解体・独自布教の決定打になった。政府としては祭政一致の建前を崩さずに信教自由を認めることができたからである。西本願寺の神道非宗教論は、儒教的倫理を神道のあるべき姿として描いていたが、それは神道の実態に即したものではなかった。神官らは平田国学にもとづいて布教していた。西本願寺は布教の自由の獲得に満足し、神道の改革にまでは立ち入らなかった。政府は各宗派の教義や布教は管長に任せ、直接関与を差し控えるようになった。征韓論などで政府が分裂の危機に瀕していても、神仏各宗派は抗争して政府の足を引っ張るだけであった。これを関与するのを避けるのも当然であった。

[3]新田 (1988a) 26頁。神道非宗教論と神社非宗教論は同じものではない。神道の祭神論争で神道界が内紛するに至って、真宗は神道を批判し始めた。その結果、神道は変化を余儀なくされた。変化後の神道に関して言われたのが神社非宗教論であった。

[29]新田 (1988a) 注19。西本願寺の神道非宗教論「天照大神は皇室の宗廟につき宗派を問わず崇敬するのは、本邦始まって以来から定まった制であって、国体の基づくところは決して魂神付与や来世救済などの教上の問題ではないので、もとより真宗はこれを崇敬している。しかし、造化三神の件は、近ごろ一種の神道者流が古事記によって特にこれを尊奉し、家説の教本としていることなので、これは必ずしも国体の問題に関係なく、当然に宗教の立場に相当する」

[5]新田 (1988b) 40頁。真宗が神道非宗教論を唱え大教院分離運動に成功した。一方、神官らは政教一致と神祇官復興を目指して運動し、真宗の大教院分離運動と競合したが、要求を実現できなかった。祭神論争の過程で、論争を防ぐために、天皇がみずから大本を掌握し、朝廷に大教官を置き、教義の大権を政治の大権とともに執る必要があるという意見が台頭した。いわゆる大教官構想である。

[32]新田 (1988b) 41頁。我が大道(神道)は大教なので、他の諸教をも統括し、教権や教律を制定し、冠婚葬祭を訂し、暦を頒布し、忠臣・孝子・義僕・節婦・殊勲・異功の者を表彰するの特権を与える、という構想である。この構想の根拠となったのが神道非宗教論である。曰く、祭政一訓は百教の本である。神孫の天皇が継承して基本を執る。これは天然の皇道、即ち神道である。倫理と国体はこれによって立つ。これを惟神の道としう。もとより人智で捏造した宗教と同じではない。我が神道は各宗教と大いに異なり、神道は即ち帝道、帝道は即ち神ながらの大道である。我が神道は宗教などではない。云々。神官たちが当時の神道をそのまま非宗教と見なして、国家制度として神道を強化しようとするものであった。したがって神道と教導職は一体のものと考えられていた。神官が神道非宗教論を用いたのは、それだけ既に政教分離論が広まっていたためと考えられる。東本願寺僧侶らは松方正義内務卿に宛てて建白した。従来の神道非宗教論を述べ。

[33]新田 (1988b) 42頁。つづいて、神道の布教や新葬祭が国の制度として行われることになったことは、神道の宗教化を意味すると断じた。神道が宗教になると、人民がこれを信じることを強制することはできないので、かえって人民が国体を軽侮することになりかねず、またキリスト教は一神教なので神道を宗教視すれば天祖皇祖をも侮辱することに至るであろうという。神官流の神道非宗教論は現状を無視した誤魔化しであるという。焦慮たちの要求は、神仏各宗派の教導職を廃止して、神道で宗旨の形をとるものも一切廃止して、神職には専ら祭祀の事を掌らせ、僧侶は大僧正以下の僧官に復して各自の宗教を宣布させ、もって国家の大典と宗教との区別を明白にすべきである、といものである。ほか神葬祭の禁止、神道と仏教の所轄官庁の分離を要求したのである。神道は宗教との関係を絶ち、国家の大典に専念すれば、神道と宗教は共存共栄できるという。こうして対立する二つの神道非宗教論に挟まれた政府は、真宗側の主張を採用する方に向かう。

[34]新田 (1988b) 43頁。12月22日、新内務卿山田顕義の太政大臣上申「神官ならび教導職の取り扱いを変更し司祭官と神道教導職とを区分するの儀」にいう。明治5年以来、神官は総て教導職を兼ねているが、「司祭の職分」たる神官と、「宗教者に付する職名」たる教導職とは、性質が異なる。宗教者をすべて同一に扱うべきとする今日の状況にそぐわない。祭典と教務を混同したままではまた祭神論のような論争がおこりかねない。教導職試補以上は徴兵免除の特権があり、17万もの神社の神官が教導職を兼ねているのは兵制上も得策でない。そして、今後神官は教導職の兼補を廃し葬儀に関与しないものとするとの布告案がそれられた。太政官における審議の過程で布告案に、府県社以下は当分従来の通りという但し書きが加えられた。

[4]新田 (1988b) 44頁。一般の神社は神官が教導職を兼務したままで、両者の分離は官国幣社で実現されるにとどまった。15年1月24日このことが内務省達乙第七号により布しかれた。これは真宗の主張する意味での神道非宗教論を政府が公式に採用したことを意味していた。布教と葬儀が宗教行為と見なされることになった。神道六派が特立を申請し許可された。こうして神道非宗教論は神社非宗教論に転化した。この政策に対し神官たちは盛んに反対運動を展開したが、もはや挽回できなかった。17年8月11日教導職を廃止して管長制を設け、寺院の住職を任免し、神道教師の進退することは総て管長に委任することになった。さらに政府は官国幣社の修繕費の支給を打ち切り、手切れ金として15年間保存金を与えた後は、人々の信仰のうえに独立経営させるという官国幣社保存金制度を明治20年から実施した。神官の中には逆に神社非宗教論を受け入れることで、失地回復を図る者も現れた。22年以降の神祇官復興運動である。府県社以下の神職を中心とした運動であった。法律上の地位の不明確さを利用した運動であった。府県社以下の神官が私的な布教・神葬祭を行うことは猶予されている。府県社以下の神職は進んで布教や神葬祭を止め、神社非宗教の徹底を図ることで国家と神社の結合を強化する神祇官を復興しようと運動した。神道非宗教論は神道のあり方を問い直すものであった。神社非宗教論は、神道非宗教論によって改革された制度を説明するものであった。背後には仏教の自由獲得という目的があった。宗教という言葉(略)。

[11]齊藤 (2018) 要旨。神社非宗教は祭政一致とともに諸外国と異なる日本の近代国家形成の特色である。これを確立させたのが、祭祀と宗教との分離という意味で祭教分離である。祭教分離は3段階で行われた。第一次祭教分離は明治5年の祭祀行政と神社行政との分離である。これと密接にかかわるのが維新直後に神祇官が祭政一致の理念により再興され、廃止された過程である。近代祭政一致国家の基盤形成の過程であった。

[12]齊藤 (2018) 55頁。王政復古と神武創業の理念にもとづき天皇親祭(天皇みずから祭祀を行う)および天皇親政(天皇みずから政治を執る)による祭政一致国家が整備された。これを成立させる基本概念が祭教分離、すなわち祭祀と宗教の分離であった。神社は行政において非宗教とされた。西洋での宗教概念と交錯した。

[13]齊藤 (2018) 56頁。祭教分離は三段階ある。第1次祭教分離は祭祀と宣教の分離。明治5年神祇省廃止に伴い太政官式部寮と教部省とが分立し、それぞれ祭祀行政と神社行政を分掌した。第2次祭教分離は神社における祭祀と宗教の分離。明治15年神官教導職分離。伊勢神宮および官国幣社の神官の教化活動および葬儀関与の禁止に伴う。教化活動も分離された。第3次祭教分離は神社行政と宗教行政の分離である。明治33年内務省社寺局が神社局と宗教局とに分けられた。神社局が特立した。3度の祭教分離は、神社や神道のあり方、国家や社会との関係を転換させた。第1次祭教分離の実施は、その後の祭教分離体制確立の方向性を定めた。近代祭政一致国家成立過程においても重要な意味がある。維新直後に祭政一致の理念のもとづく神祇官の興廃と関わる。明治初年には神祇事務科や神祇事務局を経て太政官の下に神祇官を設けた。

[14]齊藤 (2018) 57頁。平田派国学者が古代律令制さながらの神祇官の特立を求めて運動を展開した結果、明治2年7月に太政官外に神祇官が特立した。これには古代神祇官と異なり、宣教使と諸陵寮という2つ外局が付属した。宣教使は、幕末以来の懸案であるキリスト教への対策のために宣教を行うものであった。諸陵寮は天皇陵の復興を管掌した。12月、古来の八神殿のほかに神祇官神殿を設け、皇霊と天神地祇を祭った。平田派を除く国学者は、福羽美鈴らの津和野派を中心に、路線変更を図った。天皇と太政官との一元化により、祭祀と政治を一致させる祭政一致体制を実現するため、神祇官の廃止を図った。神祇官は4年8月に廃止され太政官下の神祇省に改組された。宣教使の不振もあって、仏教勢を加えた国民教化体制確立に向かった。5年3月神祇省を廃止し、教部省を設置した。神道・仏教合同での教導職による国民教化を管掌した。この間、八神殿と神祇官神殿は宮中に順次遷座し、皇霊殿と神殿に再構成されて、賢所とともに宮中三殿の原型に整備された。

[15]齊藤 (2018) 61頁。2年12月17日太政官神殿鎮座、翌年1月3日、二つの詔が発せられた。鎮祭の詔では神祇官神殿をもって国民に孝敬を垂れ、大教宣布の詔では宣教使により治教を明らかにして大教を宣揚するとされた。神祇官が祭祀と教化の中心としても位置付けられた。その背景には津和野派の構想があった。祭政一致に国民教化を結び付けた祭政教一致の構想であった。

[20]齊藤 (2018) 62頁。天照大神を祀る賢所については、維新後も白川家が祭祀を独占した。東京に遷座した後も、白川家と女官が奉祀した。また宮中では歴代皇霊を仏式で祀る旧態のままであった。神祇官は関与できなかった、2年6月28日神祇官に行幸、八神・天神地祇とともに皇霊を降ろし、五箇条の御誓文以来の国是確立の奉告祭を斎行した。これにより皇霊の天皇親祭が実現した。

[16]齊藤 (2018) 63頁。諸陵寮は2年9月17日に設置されてから4年8月4日に廃止されるまでの間に、山稜祭祀を核とした皇霊祭祀制度が確立した。皇霊に向けての天皇の孝の体現が制度化された。

[19]齊藤 (2018) 65頁。4年5月14日、神祇官は全国の神社を国家ノ宗祀と位置づけ、神官の世襲を廃止し、官社以下定額及神官職制規則を定めて、近代社格制度の原型を整えた。4年1月には藤波家の神宮祭主職を免じ、伊勢神宮改革を始めた。

[17]齊藤 (2018) 66頁。神祇官時代に皇霊祭祀が確立した。忠臣祭祀と合わせて、忠孝にもとづく祭祀の儒教化が進んだ。

[18]齊藤 (2018) 67頁。3年、復古では時勢に適さない状況の中、8月大納言岩倉具視が建国策を示し国体昭明の政策構想を示した。これを機に福羽ら神祇官僚たちが動き出した。皇室祭祀に基づき全国統一の国家祭祀制度・神社制度を確立するとともに敬神の政教を布告するという祭政教一致の構想により、近代神社制度を整備した。

[21]齊藤 (2018) 69頁。4年10月29日、神祇省は四時祭典定則と地方祭典定則を定め、皇室祭祀と神社祭祀を連動させた体系的な国家祭祀制度の成立を図った。皇室祭祀は宮中祭祀のほか、伊勢神宮や官幣社の勅祭を含む。

[22]齊藤 (2018) 70頁。四時祭典定則により初めて行われた元始祭では天皇が親拝と玉串奉奠を行った。4年12月17日には白川・吉田など各家に残された権能をすべて廃止した。5年3月、神祇省を廃止して教部省を新設し、神仏教導職を管掌させた。また神祇省の祭祀関係の官職と事務を全て太政官式部寮に移管した。これにより第一次祭教分離を果たした。同月、神祇省神殿の八神・天神地祇を宮中に遷座し、11月八神・天神地祇を合祀して神殿と称し、賢所・皇霊・神殿から成る宮中三殿の原型を整備した。祭政一致国家の基盤が成立した。

[24]齊藤 (2018) 71頁。教部省設置は福羽にとって、キリスト教蔓延を防ぐため仏教をも動員した国民教化体制を確立する施策として、宣教に特化した官衙の設置を期したものだった。これによる祭教分離は、福羽らにとって管轄上の分離であって、実質的には祭政教一致体制を整えたものと捉えられていた。しかし祭祀に関する事項を式部寮が独占したことは、祭祀制度の改変に繋がった。11月式部寮は教部省に無断で八神・天神地祇を合祀した。教部省は詰問したが、式部寮は取り合わなかった。

[25]齊藤 (2018) 72頁。祭政分離は管轄上の分離だけでなく、実質的な分離に繋がった。翌6年の元始祭からは、天皇が、玉串奉奠・親拝するほかに、みずから御告文を奏上することになった。

[26]齊藤 (2018) 73頁。大臣による祭祀輔弼は消滅した。祭政教一致は崩壊し、祭政一致と祭教分離が併存する形になった。これは西洋の近代政教分離体制を取り入れる素地となり、結果的には、祭政一致と政教分離とを両立させるための措置として捉えられるようになる。教部省は独自の神殿を持てなかった。教導職らは拠点の大教院に旧八神殿を遷して神殿を設け、天照大神と造化三神を祀った。八神でなく造化三神を祀ったのは、造化三神を中心とする世界観をもって、キリスト教対策のための国民教化の上で重要な教義と位置づけたからだと考えられる。こうして神道色を強めた教導職活動に対し、浄土真宗が大教院分離運動をおこし、また政府内でも信教自由・政教分離に動き出したため、8年、大教院は解散し、政府は信教自由保障の口達を出した。10年には教部省を廃止、神社行政は内務省に新設された社寺局が管轄することになった。以後宣教に特化した官衙は存在しなくなる。

[27]齊藤 (2018) 74頁。式部寮は8年から10年にかけて所管が変わり、最終的に宮内省の管轄になった。祭祀は天皇のもとに集中することになっていゆく。神社界は単独で教化活動を行うことになり神道事務局を設置したが、奉斎する神殿に関して祭神論争が生じた。祭神論争は14年に天皇の勅裁を以て終結した。これにより宮中三殿を遥拝することになり神道事務局神殿は廃止された。翌15年神官教導職分離によって神官の教化活動や葬儀関与が禁止された。府県社以下は当面もとのまま。神社における祭祀と教化活動の分離、第2次祭教分離が実施された。2年後には教導職が廃止された。こうして神社非宗教が政府の神社政策の基本方針として確立した。第1次祭教分離によって天皇親祭を更に徹底する新体制へ転換していくことになった。祭祀を天皇に集中させた体制は、後に、国務大臣や宮内大臣の輔弼に属さず、天皇が最高の祭主として祭祀を行うという祭祀大権の考えにつながった(美濃部憲法撮要1923、222-224頁)。

[28]齊藤 (2018) 74-75頁。第1次祭教分離は結果的に祭祀行政と神社行政を分離しただけだった。このため神社界はこの後近代を通じて祭祀行政と神社行政の一致を唱え、運動を展開して行くことになる。

[56]齊藤 (2018) 75頁。明治20年前後には神祇官復興運動を行った。第2次祭政分離で確立された神社非宗教にもとづき、神社行政を宗教行政から分離し、再び祭祀行政と同一官衙で管轄させることを目指した。非宗教の祭祀・神社と、宗教の神道教派・仏教との分離という意味での祭政分離を目指した。特に伊勢神宮と官国幣社を宮内省や式部寮に移管する構想が提起された。この構想は神社界を越えて広く賛同を得て、神社を管轄する内務省も賛成したが、政府中枢の反対にあって実現しなかった。昭和前期にかけての神祇特別官衙設置運動において神社界は八神奉斎論を提唱した。これは神籬磐境の神勅にもとづき八神祭祀を復活させ、あわせて神祇官を復興すべしとの理論であった。祭祀官衙設置は顧みらえることなく、1940年設立の神祇院は祭祀機能を一切有せず、祭祀行政も管掌しない機関になった。その後も神祇官衙特別設置運動は続いた。皇典講究所祭祀審議会において大典府が構想された。これは祭政一致の実を挙げるため、祭祀行政をはじめ各省分掌の神社行政をすべて統一して管掌するものとして構想された。

[142]齊藤 (2018) 76頁。大典府構想は1944年に内閣総理大臣小磯国昭へ提示され、最終案もまとまったが、1945年の終戦により実現せずにおわった。

[55]山口 (1993) 4頁。明治初期の神祇官は、宣教、皇室祭祀、神社祭祀、神社行政を掌っていた。神祇官設置派は「明治初めの宣教を主とする神祇官に倣わんとするものにあらず」というように、宣教の要素を宗教的なものとみなして、これを神祇官から分離して、祭祀と神社行政を掌る機関として神祇官を設置しようと考えていた。

[50]山口 (1993) 5頁。宗教一般に関する規定は帝国憲法第28条「日本臣民は安寧秩序を妨げず、および臣民たるの義務に背かざる限りにおいて、信教の自由を有す」である。しばしば限定条件を重視して信教の自由の不十分さを指摘する俗説もある。しかし、憲法の起草や審議の過程を検証すると、この限定条件は一夫一婦制を公然と乱したり納税の義務を拒否したりするものに限られる。神社礼拝を拒否することは含まれない。また国教制度も否定されていた。

[168]山口 (1993) 7-8頁。司法大臣山田顕義を通じて総理大臣山県有朋に提出した。

[59]山口 (1993) 11頁。法制局長官井上毅らが調査を命じられた。井上毅は神祇院設置に反対であった。神祇院設置運動は暗礁に乗り上げた。設置派はいらだちを見せた。11月に入ると佐々木高行が再度意見書を提出した。11月28日佐々木、吉井、丸山の連名で建議書を提出した。これも回覧されずに終わった。

[57]山口 (1993) 12頁。明治23年神祇院設置運動については、新聞『日本』が批判した。同紙は、神祗官などという一大官庁を設置したならば、日本の国教は神道教であると外国に思われて、神道教などという異教の国の法律に従えないと言われて条約改正交渉に支障をきたしかねないと指摘した。

[70]山口 (1993) 13-14頁。明治天皇は神祇院設置運動に反対していた。山田顕義が神祇崇敬説を主張していることを明治天皇は懸念していた。神祇崇敬説を差し控えるようにと間接的に注意した。山田顕義は二度と神祇官設置説を唱えないと答えた。明治天皇の反対は政府部内の神祇官設置運動に終止符を打った。政府の方針は神祇官不設置と神社改正ノ件で固まった。

[74]山口 (1993) 14-15頁。神祇官設置派が、帝国議会開設より前に神祇官設置を急いだのは、議会に任せたら何をされるか分かったものではないという予想があったからであった。しかし、この予想は外れた。逆に議会から神祇官設置運動が起こってくるのである。神社神職は帝国議会議員に働きかける方向へ運動を転換していった。神祇官設置運動を支えたのが全国神官集議所であった。これは神官らが神祇官設置を目的に1890年9月25日に結成した組織であった。のちの全国神職会である(さらにのち大日本神祇会と改称、戦後、神社本庁の前身の一つになる)。

[75]山口 (1993) 16頁。帝国議会開設直後の1891年1月に、議員らに配布された陳情書では、内務省神社局と宮内省式部職掌典部を廃止し、これらの事務を総括する独立の神祇官を設けること、宗教については内務省に宗教局を設けて処理させることを提言していた。

[76]山口 (1993) 18頁。日清戦争中の1895年1月、帝国議会開設以来初めて神祇官設立建議案が審議に至った。衆議院に提出された建議案は神社と宗教とが混同されていることを歎き、独立の神祇官を設置することを提案した。しかし審議で、臣下が嘴を容れるべき件でないと反対意見が出て否決された。

[77]山口 (1993) 18-19頁。翌1896年3月神祇官復興建議案が衆議院で審議された。強い反対意見が出た。主な反対理由は、建議案を神祇官復興というならば明治初めの神祇官のように宣教を行うつもりであろうとの疑いであった。設置派は宣教を行うつもりはないと弁明した。採決により起立者多数で建議が成立した。貴族院でも賛成多数で建議が成立した。両院の建議は内閣に回付されたが反応はなかった。

[78]山口 (1993) 21頁。政府は神祇官設置建議を無視した。その後議会から質問書が出でても、目下調査中と答えて誤魔化した。神祇官復興運動とは一線を画していた。神祇官設置派は1898年11月、全国神職会を創立した。神職の本格的全国組織である。

[80]山口 (1993) 22頁。衆議院の建議案にいう。神社は皇祖皇宗や国家の元勲を奉斎し、君民上下を挙げて崇敬する所であって、いわゆる宗教に混同すべきものではないことは、歴代天皇の遺訓や、国史、制度によって明らかである。現行制度もこれを確認するところである。今や改正条約実施が迫り、神社と宗教との区別を厳格にすべき時である。依然その事務を社寺局に一括しているのは疑わしいことで、民心を迷わすことも少なくない。速やかに神社に関する特別な官衙を設置して名実を全うし、もって国家の基礎を固めることを願う。以上のように、この建議案は神社非宗教論に基づいて神社行政官庁の独立を求めていた。条約改正実施目前を理由に挙げたのはこれによりキリスト教が宗教行政の対象となるからであった。

[79]山口 (1993) 24頁。改正条約は宗教の自由を明文で認めていた。政府としては、条約改正実施前に是非ともキリスト教などの外教を宗教として認める措置を採る必要があった。

[89]山口 (1993) 25-26頁。1899年12月9日山県内閣は宗教法案を貴族院に提出した。神道(教派)・仏教・キリスト教の3宗教を公平に取り扱うものであった。しかし、仏教界が激しく反対した。現状を考えるとこの法案は相対的に仏教を冷遇しキリスト教を優遇するものだというのである。貴族院は法案を否決した。政府はセットで用意していた神社法案を提出せずに廃案にした。社寺局の分割に関する予算だけ通過した。理由は、神社に関する事務と、宗教に関する事務とは、従来社寺局において併掌してきたが、両者は性質を異にするため、これを混同して取り扱うのは整理上よろしくないし、またキリスト教に関する事務を管掌することになったので、社寺局の名称も妥当でなくなるとともに宗教に関する事務が増加し、また神社に関しては現行の規定が不完全なのでこれを整備する必要があるからだとされた。包括的な宗教行政構想が挫折したことで、社寺局の分割だけが行われたため、結果的に、神社と宗教との分離を再確認するという側面だけが強調されるに至った。

[164]山口 (1993) 27頁。近代日本の政教関係に関して「国家神道」という用語がある。意味は大きく分けて2つある。1つは村上重良の「〈祭政一致〉をかかげて近代天皇制国家が政策的につくりあげた国家宗教で、神社神道を再編成して皇室神道に結び付けた祭祀中心の宗教」という用法である。宮中祭祀と神社祭祀の結合を国家神道の中心と見なす。これの用法は事実に即さず、ものの役に立たない。もう1つは平野武による用法で、神社非宗教論を中心に国家神道の概念を組み立てる。神社が事実上国教として扱われていることと、神社崇敬の義務とを分けて考え、これに神社非宗教論を合わせて用いる。しかし神社非宗教論が直ちに国教や神社崇敬に繋がるわけではないので、この用法には注意を要する。

[41]中島 (1974) 38頁。井上毅は1884年「教導職廃止意見案」において、神官を教導職として僧官と同列に扱ったのは神道の本意でなく、また政略の得策でもないので、教導職を廃するのは当然のことであるとして、神官教導職分離政策の正当性を主張した。その根拠については、仏教が衆生済度のために説法勧化するようなことは神道では有り得ないはずであり、国学の本意はただ祭政一致を人民に示すことだからなのだとしている。井上毅の狙いは国学・神道の普遍化であった。このことは1888(明治21)年の皇典講究所関係者に対する演説に現れている。「国典は国家の政治のため必要である。ならびに国民の教育のために必要である。しかして宗教のために必要でない」。宗教のために必要ではない理由については「国典に載する所のものを敷衍して一つの宗教的の論理を為して、なお言わば、これをもって宗教的の看板におしたてて仏法または耶蘇宗を攻撃するための旗じるしにするような事は、もったいないことである」、これは「御国の神ながらの道の本意に背いて残念なことである」と説明している。

[43]中島 (1974) 41-42頁。「教導職廃止意見案」第三で、国家統治にとって宗教の教義内容は大した問題でないこと、統治者は国民多数が信仰する宗教を籠絡すべきこと、それを国内統治の手段、政略の武器に用いるべきことを主張した。そして、法律上は信教の自由を認めるが、行政上は認可教と不認可教とを区別し、仏教を認可教とし、これに各種の特権を与える。キリスト教は禁止しないが不認可教として特権を与えない。その指導者に平和主義をとるように働きかける。井上のこの提案は、同年8月11日の神仏教導職の全廃、管長制度の確立という形で実現した。1889年の大日本帝国憲法第28条の信仰自由規定はこのような理論に基づいて制定された。

[36]井上 (2003) 285頁。井上毅は神道非宗教論者である。祖先を崇敬し宗廟を祭杷するのは、国法に属して教法に属さないことなので、これを礼拝や祈念の類と混同すべきでないとして、神道非宗教諭を展開している。井上は非宗教に立脚する国家神道の実態に踏まえていた。井上の神道非宗教論を前提とする信教自由論は帝国憲法第28条に盛り込まれることになる。

[37]井上 (2003) 286頁。井上は国典・国学・神道を非宗教として全国民に受け入れさせようとした。

[169]麻生 (2020) 166頁。浄土真宗僧侶の島地黙雷は、西欧視察から帰国した後、西欧型の政教分離を参考にして、神社神道の非宗教化を政府に働きかけた。浄土真宗を宗教と規定する一方、神社神道を国家の祭祀を担う非宗教と規定して、両者を明確に区別した。こうして神社参拝・天皇崇拝・国体イデオロギーなどを世俗の非宗教的な要素として受け入れながら、浄土真宗の信仰を両立できるとした。島地の主張は、後に神社非宗教論として政府に受け入れられた。阪本是丸によれば、政府は「真宗教団に代表される社会的神社観を体現して神社崇敬を宣揚した」という。また、これとは別に政府はオーストリアの法学者の意見を参考にしつつ独自の神社非宗教論を考案しているところであった。 神社側も神社非宗教論を主張していた。複数の神社非宗教論が展開されていたのである。

[7]麻生 (2020) 167頁。仏教界や神道界は、キリスト教への警戒、国民国家建設、教団の安定化を図るため、神社非宗教論を主張して政府に働きかけた。そして、国体や神社非宗教論などのイデオロギーを明文化したのが帝国憲法と教育勅語であった。神社参拝は、宮城遥拝や教育勅語奉読や伊勢神宮式年遷宮などとともに非宗教として意味付けられた。一方で、国のために散った英霊を祭り、神聖不可侵の天皇崇拝といった宗教的側面も併せ持っていた。

[8]麻生 (2020) 173頁。明治国家は神社非宗教論という政教分離とともに帝国憲法で信教自由を保障することで、諸宗教の統制を可能にした。キリスト教界や仏教界は政府と衝突するのを避け、政府の政教分離を支持した。

[114]麻生 (2020) 175頁。近代日本のキリスト教界ではナショナリズムが多分にに共有されていた。また、神社参拝はキリスト教徒にとって信仰上のタブーである一方、これを拒否すれば国家を拒絶することを意味した。そのため、キリスト教徒にとって神社非宗教論は必要不可欠なロジックであった。天皇崇敬や愛国心とキリスト教信仰との矛盾を解消する論理として捉えていた。やがて日本的キリスト教というナショナリズムで理想化されたキリスト教像を生み出していった。

[135]麻生 (2020) 175頁。美濃ミッション事件は、岐阜県在住のキリスト教徒の小学生が信仰上の理由により伊勢神宮参拝を拒否し、彼が所属していた美濃ミッションというキリスト教団体が地域社会から排撃されたという事件である。排撃する側の中には別のプロテスタント教会の長老や牧師もいた。牧師は、美濃ミッションのメンバーが神社参拝を偶像崇拝と誤解していると指摘し、日本のキリスト教徒として当然の神社参拝を行うべきことを願った。

[136]麻生 (2020) 177頁。牧師らは神社と淫祠とを区別し、逆賊平将門や狐や狸の祠を拝まないが、伊勢神宮や明治神宮から村社に至るまでおよそ祖先や報国尽忠の士を祀る神社に対しては礼を厚くし、頭を下げて敬意を表することを怠らないし、そうすることがキリスト教信仰に少しも差支えないと考えた。政府は神社を宗教にあらずと断じ、神社を内務省の神社局にて扱い、神道を文部省の宗教局にて扱っているとも指摘した。美濃ミッションを非難するキリスト教徒の文章に共通するのは神社非宗教論の実践の指針であった。出自不明だったり人外だったり国家反逆者だったりするものを祀るような神社には信仰上の理由により参拝しないが、出自の明確な歴史上の人物で、忠義を尽くし国家へ貢献した人物を祀る神社は非宗教の神社であるので、ここに参拝することはキリスト教界として神社非宗教論を実践する上で具体的な指針となっていた。一般に、満州事変以降の思想統制の中で、キリスト教徒が方便として神社非宗教論を利用して教会を守ったと考えられがちだが、実際はナショナリストのキリスト教徒が、むしろ神社非宗教論の実践により神社参拝を推進し、後の日本基督教団の結成に繋げていったのである。

[90]『官報』1899年9月5日、内務省告示第99号「神宮奉斎会設立認可神宮教解散」、NDLJP:2948145/1。1899年9月4日、内務省は神宮教を解散すると同時に神宮奉斎会の設立を認可した。

[92]武田 (2018) 第5章「明治後期の神宮奉斎会と皇典講究所」。板井正斉「武田幸也著『近代の神宮と教化活動』」『宗教研究』第93巻第1号、日本宗教学会、2019年、163-167頁、doi:10.20716/rsjars.93.1_163ISSN 0387-3293 神宮奉斎会の設立動機の一つに祭教分離の影響があった。神宮教は、霊魂を説く神道を宗教として、そこから離脱し、自己の活動を国民道徳と位置づけ、非宗教の立場の獲得を目指した。その結果、財団法人神宮奉斎会を設立した。神宮大麻(神札)や暦の頒布、戦没者祭祀といった宗教的な活動に意味づけを必要とした。皇典講究所や國學院との関係で国典研究を行ってきた。学事(皇典講究所)は既に分離成立していた。

[94]神道文化会 (2016) 36頁。1898年施行された民法は、第34条で法人の定義と法人の設立について示していた。条文では第1に「祭祀」の文言、第2に「宗教」の文言があった。これには神社非宗教論が関わっていた。神社を統一的包括的に扱う神社法の制定、および宗教法の制定の問題が関わってきた。民法施行の段階で、法人としての神社の法人格をどうするかという問題が生じた。その過程で、神宮教は神宮奉斎会として祭祀を目的とした財団法人に改組することになった。そこには神社の宗教・非宗教をめぐる問題があった。神宮奉斎会の初代会長は藤岡好古。

[95]神道文化会 (2016) 37頁。寄附行為第1条の目的・方針は「神宮の尊厳を欽迎し、皇祖の遺訓、皇上の聖勅を奉戴し、国典を攻究し、国体を講明し、国礼(宗教に亘る儀式を含まず。以下同じ)修行、神宮大麻および暦頒布の事に従う」であった。宗教にわたる儀式を排除していた。祭祀を行うほか、国典(古典)を研究し、その成果を発信していくことになった。講演活動なども実施した。国礼については、神葬祭や神前結婚式などの祭典・儀式を行っていった。国典研究を重視した。奉斎会の収益事業としては国礼が重要であった。この国礼については一切の儀式を国典に準拠して行うことになった。つまり国典に準拠した祭祀を国礼とみなした。宗教・非宗教という点では、神葬祭などは宗教儀式に見えても、少なくとも国典に準拠して執り行う分は宗教ではないという考え方をしていた。講演活動を神宮教院時代から継続して行い、力を入れた。講演においても宗教色を排除した。例えば講演で死後の問題に触れることを禁止した。また祖霊殿の新設も禁止した。従来は講演の柱として三条教則の奉読を行ってきたが、それも明確に廃止された。そのかわりに勅語・勅諭を中心とする講演活動に力を入れていった。また大麻頒布が奉斎会の主要な活動として位置づけられた。

[96]神道文化会 (2016) 38頁。外部からは、奉斎会という一財団法人で神宮の大麻頒布を行うことが批判された。奉斎会の国礼の執行も宗教行為に当たると批判されたりした。

[91]神道文化会 (2016) 39頁。1897年3月になると、神宮教は教団を解散し、財団法人を設立する方針になった。背景に神宮教が宗教的な活動を行っていることに対する批判があった。国学者の渡辺重石丸らの雑誌『闇夜之灯』は神宮教について次のように批判した。「宗教神道は国家神道と並び行われて、あい悖るの理なし」、「皇祖皇宗をもってキリスト・釈迦・日蓮・親鸞・マホメツトの輩に対峙し奉る」。伊勢神宮への崇敬は一宗一派に偏るべきでないという痛烈な批判であった。この問題意識は神宮教内部にも相当あって神宮教解散と神宮奉斎会設立に繋がったと考えられる。日清戦争での従軍布教など宗教的な布教の情熱が高まる一方で、財団法人化・非宗教化が行われた。

帝国議会議事録[編集]

[97]「伊勢神宮大麻及暦頒布に関する建議案」、第22回帝国議会 衆議院 本会議 第20号 明治39年3月23日、(19)頁。

[98]神宮教は伊勢神宮を本体とする宗教であった。もとは田中頼庸らが組織した。伊勢神宮から委託を受けて神宮大麻を頒布していた。神宮大麻は伊勢神宮の神名を記した剣先であった。宗教団体の力で頒布するから神宮大麻の宗教的な利用が行われた。世間では、伊勢神宮は皇室の祖廟、国家の大廟であるから決して宗教の本尊となるべきものではないといって神宮教は攻撃した。神宮教は、宗教的に利用して攻撃をうけたから、宗教的でなくして単純な敬神団体、民法上の組織・財団法人として神宮奉斎会を立て、頒布を取り扱うこととすれば世論の攻撃を免れると考えたのが、神宮奉斎会の由来であった。

[99]第22回帝国議会 衆議院 伊勢神宮大麻及暦頒布に関する建議案委員会 第2号 明治39年3月25日、4頁。浜田国松は、神宮奉斎会の神宮大麻頒布が伊勢神宮の尊厳を害し国体を汚すと批判した。その理由は次のようだった。神宮奉斎会は神道教に属する団体でないと自称するが、起源は神宮教という宗教を引き継いだ団体である。宗教的な臭味を帯びている。神宮奉賛会本部の日比谷神宮は新聞紙上で攻撃の的となっている。日比谷神宮では上中下三等に分けて結婚式を取り扱っている。キリスト教の教会で牧師が立ち会って結婚式を行うのと同じである。敬神団体の仕事と見ることはできなく、宗教的臭味を帯びている。

[93]第22回帝国議会 衆議院 伊勢神宮大麻及暦頒布に関する建議案委員会 第2号 明治39年3月25日、5頁。政府委員(神社局長)水野錬太郎答弁。伊勢神宮の大麻・暦は元は伊勢神宮の司庁から頒布していたが、明治4年に司庁を廃止し神宮から頒布することになったが、直接頒布することは難しいので、やはり機関を以って頒布していた。神宮教に頒布させていた。しかし神宮教は宗教であることから、宗教が神宮の大麻を頒布するのは宜しくないということで、神宮教は1889年に解散し、神宮奉斎会が起った。1890年に神部署の官制が出来て神宮大麻・暦の製造・頒布を掌ることになった。頒布については神宮奉賛会を機関としてこれに委託して頒布させている。

[102]第22回帝国議会 衆議院 伊勢神宮大麻及暦頒布に関する建議案委員会 第2号 明治39年3月25日、6頁。浜田国松。宗教臭味を帯びている神宮奉斎会に神宮大麻頒布を取り扱わせることは不当である、明治初年以来の大方針と違っている。

[102]第22回帝国議会 衆議院 伊勢神宮大麻及暦頒布に関する建議案委員会 第2号 明治39年3月25日、6頁。水野錬太郎答弁。神宮教は神道に属する宗派で、即ち宗教であった。宗教が大麻・暦を掌るのはいかんというのはもっともであるから、神宮教を解散して神宮奉斎会が起った。同時に性質が変わった。寄附行為第1条の目的をみると「神宮の尊厳を欽迎し、皇祖の懿訓、皇上の聖勅を奉戴し、国典を攻究し、国体を講窮し、彝倫を講明し、国礼(宗教に亘る儀式を含まず)を修行し、神宮大麻及暦頒布の事に従う」とあり、目的上なんら宗教的臭味を帯びていない。即ちこれは宗教団体ではない。神宮の尊厳を欽仰するところの公益法人ということになっている。宗教の臭味を帯びた行為があれば監督上矯正しなくてはならないし、そうさせぬつもりである。結婚式については学問上難しい問題であるが、現に神社でもやっているところがある、これは決して宗教の行為ではないと見ている。人生の大礼に参加するものであって宗教的行為ではない。神宮奉斎会がこれを行うことを認めている。神宮奉斎会が宗教の臭味を帯びている団体と政府は見ていない。

[170]第22回帝国議会 衆議院 伊勢神宮大麻及暦頒布に関する建議案委員会 第3号 明治39年3月26日、11頁。一戸一戸に配る慣例になっている。それは不本意の者に受けさすという弊害になる。もともと大麻頒布は敬神思想から出ている。国家からいえば国体の維持とか皇室の威徳を国民の脳髄に結合するという神聖なる趣意から出ている。希望しない各戸について無理に授与する方針でない。明治11年に受けるも受けないも人民の自由であるとの達を内務省が出している。

[101]第22回帝国議会 衆議院 伊勢神宮大麻及暦頒布に関する建議案委員会 第3号 明治39年3月26日、12頁。講員の募集については、神宮奉斎会本部役員が各町村に出張して、何月何日に伊勢神宮において太々神楽を奉奏するから参拝しろといって同志講員を募る。全国で多く行っている。神道教派の仕事に類似する。結果、奉斎会が宗教的な臭味を帯びるという謗りを招く。これが奉斎会が甚だ宗教主義にわてっていると攻撃する材料の一つである。また講員が金を出すと年12回伊勢神宮に祈祷してもらうということを奉賛会が講員に勧めるということがある。神道教派と同じようなことをしている。伊勢の本部でも困っている。

[103]第22回帝国議会 衆議院 伊勢神宮大麻及暦頒布に関する建議案委員会 第3号 明治39年3月26日、12頁。水野錬太郎答弁。奉斎会のそのような行為については報告を受けていない。あれば取り締まらなければならないと思う。神社その他の所で宗教的行為をするということは禁じてある。もしそういうことがあれば厳重に取り締まるようにと地方官へ通達している。

追加材料[編集]

[2]春山 (2006) 注23。文化庁『明治以降宗教制度百年史』1970年、91-93頁。明治以降の神社行政の沿革は複雑であるが、基本的に、行政上は神社を国家の祭祀として他の宗教と区別して取り扱った。1900年、内務省における神社局と宗教局との分割によって確立したとされる。。

[109]春山 (2006) 54頁。バジル・ホール・チェンバレンは、1872年から日本に滞在し東京帝国大学教授を務めた日本学者である。1912年にロンドンで著した論文「新宗教の発明」(原題:"The Invention of a New Religion")で、忠君愛国を日本政府の官製宗教であると批判して次のように述べた。「天皇崇拝と日本崇拝は新しい宗教である。もちろん自発的に生じた現象ではない。忠君愛国という日本の宗教、まったく新しいものである。」

[111]春山 (2006) 55頁。「古来の思想を選り分けて変更し、新たに調合し、新しい効能に向け、重心を新たにしたからである。官僚が自己利益に役立てようとするものであり、付随的に国民一般の利益をはかるためのものである。神道は皇室と関係が深いため唯一尊崇されるべきである。表向き信教自由を掲げる制度のもとで、神道の祭礼に官僚が出席し、諸学校では毎年数度天皇の写真に拝礼するという式典が制定された。この間、日本は政治的にも軍事的にも大成功した。こうして復活した神道崇拝に大きな威名が加わった。」この論文は欧米知識人の日本観に大きな影響を与えた。さらに『日本事物誌』に収録されたことで、第二次大戦前後における連合国の対日政策の材料となった。占領軍の国家神道理解の骨格を形成したといえる。占領軍の神道政策への影響という点では、D.C.ホルトム(1884-1962)の神道に関する著書が最重要である。1910年、米国バプテスト教会の宣教師として来日し、神学校等で布教・教育にあたりつつ、日本の神道や皇室制度について研究した。1922年『現代神道の政治哲学―日本の国家宗教の研究』、1938年『日本の国家信仰―現代神道の研究』、特に重要なのは1943年にシカゴで刊行した『現代日本と神道ナショナリズム』である。

[144]春山 (2006) 57頁。日本占領中にGHQ民間情報教育局宗教課長W.K.バンスが占領軍の宗教政策をほぼ全て立案した。バンスは神道指令の起草にあたって、東京帝国大学文学部助教授岸本英夫に顧問を依頼した。岸本は宗教学が専門で、米国留学の経験もあったことなどから選ばれた。CIE宗教課と日本側との橋渡し役を担った。1943年後半、米国は対日占領政策に関して神道について検討を始めた。国務省特別調査部のヒュー・ボートン(1903年-1995年、コロンビア大学助教授、日本史)は、軍国主義が日本を支配するようになったのは神道を政治的利用したからであるとし、天皇を神聖不可侵とするような近代神道の国家主義的教義を禁止することを主張した。1944年3月15日、国務省の委員会は日本の神道と信教の自由に関する基本政策文書をまとめた。この文書は、神道を宗教として、超国家主義から区分するのが困難である場合、占領軍は日本に信教の自由を許すべきか否かという設問への回答であった。

[143]春山 (2006) 58頁。本来無害なアニミズムである原始神道に国家主義的天皇崇拝カルトが接ぎ木されていると指摘し、約10万の神社を3つに分類した。第1類は古代由来の地域の守護神を祭る神社、第2類は伊勢神宮のように古代由来だが国家主義の象徴になっている神社、第3類は靖国神社や明治神宮や乃木神社のように近年設立された国家英雄を祭る神社である。第3類の神社は、軍国主義的国家主義の神社であり、日本政府もこれらを宗教ではなく愛国主義の表現であると主張しているから、それらの閉鎖を命じても信教の自由に抵触しない。しかし現実的政策として強制的閉鎖は逆効果を招く恐れもあるので望ましくない。個人的信仰の対象としては存続を許されるものとする、と勧告した。日本降伏後の米国対日初期方針は、宗教の自由は占領後直ちに宣言されなければならないが、超国家主義的で軍国主義的な組織や運動が宗教を隠れ蓑にすることは決して許されない、としていた。軍政に関する基本指令は、日本の軍国主義的・超国家主義的イデオロギーの宣布を如何なる形でも禁止し、国家神道体制への財政その他の支援は停止されるするよう日本政府に要求する、というものであった。

[171]日本カトリック司教協議会 (2007) 20頁。国家神道は宗教でなかった。帝国憲法第28条の保証する信教自由のもと国家神道を宗教の枠に入れると、これを信じても信じなくても個人の自由ということになる。全国民に神社を参拝させることができなくなる。政府は、神社神道は宗教を超越した別格という扱いにして、これを宗教の枠から外した。

[172]日本カトリック司教協議会 (2007) 21頁。神道指令により、神社神道は国家神道でなくなった。宗教を超える存在から宗教の枠に入った。

[137]日本カトリック司教協議会 (2007) 60頁。1931年、満州事変が起った。その翌年に起った靖国神社参拝拒否事件を契機に、カトリック教会において神社参拝の是非が問題となった。カトリック学校の児童・生徒・学生は学校行事として神社へ参拝するよう求められた。参拝すれば十戒の第一戒(主が唯一の神であること)に背くことになるのではないかという問題が生じた。

[138]日本カトリック司教協議会 (2007) 60-61頁。カトリック教会は神社参拝の意味を文部省に問い合わせ、有識者の意見も聴取して、ローマの教皇庁布教聖省に問い合わせた。

[140]日本カトリック司教協議会 (2007) 61頁。布教聖省は、国家神道の神社参拝することは許されると回答した。「政府によって国家神道の神社として管理されている神社において通常なされる儀式は(政府が数回にわたって行った明らかな宣言から確実に分かるとおり)国家当局者によって、単なる愛国心のしるし、すなわち皇室や国の恩人たちに対する尊敬のしるしと見なされている。また、文化人たちの共通の見解も同様なものである。したがって、これらの儀式が単なる社会的な意味しかもっていないものになったので、カトリック信者がそれに参加し、他の国民と同じように振る舞うことが許される。」

[141]日本カトリック司教協議会 (2007) 62頁。この問題はやがてカトリック教徒が学校行事でなく個人として神社に参拝することの是非に波及した。神社参拝が「許される」という布教聖省の見解は、日本の教会によって、参列するように「教える」という方向へ進んだ。

[121]堀井 (2020) 113頁。1882年の神官教導職分離は神社非宗教論を決定し方向づけたとされる。教導職の廃止は宗教教団の自治を進めた。神社改正ノ件は国家と神社との分離を促そうとした。1900年4月27日に勅令第136号により内務省に神社局が新設され、社寺局が社寺局が宗教局となった。これにより行政上は神社は他の宗教と明確に区別された。社寺局は1877年以来、神祇行政・宗教行政を管掌してきた。明治天皇の崩御、大正天皇の即位礼と大嘗祭は神祇官衙設置運動や敬神思想の普及を促した。敬神思想の普及に関しては、明治天皇を追慕する国民の声が大きくなり明治神宮創建運動などが起った。

[122]堀井 (2020) 114頁。昭和天皇の即位礼・大嘗祭や、神宮の式年遷宮などによって敬神観念が国民に普及し浸透した。しかし神社非宗教は問題になっていた。政府は、神社は宗教ではないから神社参拝は信教の自由を侵害したことにはならないと弁解していた。このような政府の神社非宗教論は、神社の活力を減退させた。在野の神道家や敬神家らはこれを批判した。

[166]堀井 (2020) 115頁。1879年には太政官達により府県社以下の一般神社については、祠官・祠掌の等級を廃し、身分の取扱は寺の住職と同様とされた。神社に関する政府の扱いは転換した。大きく変わった。1871年5月太政官布告で神社は国家の宗祀であって私有にすべきでないとされてから8年間で宗教と同様に扱う姿勢に転換した。政府は政教分離の原則によって神道を国家から切り離したと考えられる。

[71]堀井 (2020) 116頁。官国幣社保存金制度は、官国幣社を国家財政から切り捨てるための手切れ金であった。教育勅語を起草した井上毅は、神道の国教化を避ける信念を持っており、教育勅語が神道経典になることがないように、尊神や敬神、神霊などの語を特に避けた。日華事変などで多くの国民が徴兵された。出征の際には郷土の小学校や神社に集合した。出征先において故郷の神社を想うことが多々あった。兵士の間で祖国神国意識が広がり、神葬祭を希望する者が増加した。内務省は神社非宗教論が破れることを恐れた。従軍の布教や神葬祭については、内務省は神職の関与を禁じた。ほとんどを仏僧が行っていた。陸軍省が内務省に神職従軍の許可を求め、1939年に臨時の措置として許可された。

[150]堀井 (2020) 118頁。GHQは、1945年12月15日、国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・監督・弘布の廃止に関する件、いわゆる神道指令を発した。起草者は、GHQ民間情報教育局教育宗教課宗教班の責任者W.K.バンスであった。神道指令の目的は、国家指定の宗教・祭祀、すなわち国家神道に対する信仰・信仰告白の直接的間接的な強制から日本国民を解放するためであり、また、日本国民を欺いて侵略戦争へ誘導する目的で軍国主義・ウルトラ国家主義の宣伝に神道の教理・信仰を利用するようなことが再び起こらないようにするためであるなどとされた。神道指令を起草したW.K.バンスはD.C.ホルトムの主著『近代日本と神道ナショナリズム』を熱心に読んでいた。国家神道は、政治・教育・宗教の三者が合体したもので、明治維新以来発展を続けた結果、前代未聞の強力なものとなったと書かれている著書であった。米軍の国家神道論に多大な影響を与えたのは加藤玄智であった、加藤は『神道の宗教学的新研究』の中で「現人神に対し奉って、宗教的熱情を以って発言する大和魂は、即ち神道の大精神であり、その最も大切な本質である」とした。天皇をキリスト教の唯一神と同一視し、これに絶対服従することが神道の本質であるという理念を繰り返した。ホルトムは、この加藤の理念をそのまま戦時下日本の現実かのように米国人に弘めた。

[165]堀井 (2020) 124頁。官立神宮皇學館大學は占領軍の進駐により存亡の危機に瀕した。神道を建学の精神として、神職を養成し、国家神道の教学理念の中枢とみなされていた。同年12月の神道指令によって官立大学として存続することが絶望的となった。翌年3月には勅令によって廃学が決定した。卒業生らは「宗教神道として新発足せる神社」の神職の養成を目的として、同年9月、私立学校「伊勢専門学館」を館友会館に設立した。しかしGHQ三重県軍政部が11月1日に学館に乗り込みこれを解散させた。のち1959年7月、神宮皇學館大學復興後援会が発足した。会長は元首相の吉田茂で、発会式で「神ながらの道を軍国主義のシンボルみたいに考えたのは、占領軍の誤解であった」とし、「押しよせてくる共産主義の脅威に対処するためには、神道の確立、神宮皇学館の再建は時勢の急務であります」と期待を述べた。神宮皇學館大學は1962年4月に私立皇學館大學として再興した。国家神道とは国家が強制した国教であったとする説がある。この説の源流を遡ると、村上重良の学説があり、GHQによる神道指令があり、加藤玄智の理想論がある。一君万民ナショナリズムを提唱した一学者による理想に過ぎなかったのである。

[167]堀井 (2020) 125頁。神道がGHQの定義による宗教であるとすれば、神宮皇學館や靖国神社などに対する占領軍の政策は宗教弾圧に相当する。

[104]マリンズ (2010) 7頁。1945年までトリック教会の公式見解は日本政府と同じであった。すなわち、神社は主に市民的儀礼の場であって、宗教的崇拝の場ではないという見解であった。1936年までカトリック教会は、神社に宗教的本質があると考え、カトリック信者が神社の儀礼に参加することを偶像崇拝として禁止していた。この見解は1932年の上智大生靖国神社参拝拒否事件をきっかけに変わった。1932年5月5日、上智大学配属の軍事教練将校が生徒数名を靖国神社へ連れて行った時、数人のカトリック信者の生徒が神社で敬礼を行わなかった。配属将校はこの件について上智大学学長ホフマンを問い詰めた。

[139]マリンズ (2010) 8頁。ホフマンの返答は、生徒たちの敬礼拒否は神社に関する教会の立場と一致する、と断言するものであった。この返答を不満とした陸軍は上智大学での軍事教練を停止した。事件は広く報道され、上智大学の評判を傷つけた。このような危機に対応するべく、東京大司教ジャン・アレクシス・シャンボンは文部省に書簡を送った、9月30日に文部省は次のように返答した。神社参拝は教育的な目的によるものであり、神社で生徒が求められる敬礼は、愛国心と忠誠とを現わすものに他ならない、という返答である。これは、神社参拝は宗教的ではなく、市民的な愛国心の表明であると言っていると解釈できる。そのためこの返答は、日本のカトリック教会が神社参拝に対する立場を変更する根拠となった。1936年5月、ローマ教皇庁布教聖省長官ピエトロ・フマゾーニ・ビオンディ枢機卿は日本に指令を送り、カトリック教徒が神社参拝に参加することを許可すると指示した。その理由は、神社参拝は宗教的な行為でなく単なる愛国心と皇室への敬意の表明にすぎないためであるとされた。国家神道を破壊すべしとの米国政府の声明にマッカーサーは悩んでいた。「何てこった! 国家神道は愛国心の表明以上の何物でもない。それは米国でアーリントンの無名戦士の墓に花輪を供えるようなものなんだ。それ以上のものじゃない!」

[145]マリンズ (2010) 12頁。米国国務省「覚書―信仰の自由」はいう。連合国は信教自由の原則に則る。神道を宗教とみなし、これをウルトラ国家主義から区別することが難しいが、神道に信教自由を許可すべきかどうかという問題に対処しなくてはならない。

[146]マリンズ (2010) 12-13頁。好戦的国家主義の象徴である神社は、たとえば靖国神社、明治神宮、乃木神社、東郷神社などがある。

[147]マリンズ (2010) 13頁。これらは信教自由の原則に全く違反せずに閉鎖できる。そのわけは、国家神道は宗教ではなくむしろ愛国心の表明であると日本政府が主張してきたからである。しかし、終戦直後に神社を強制的に閉鎖すると、かえって神社崇拝を強める結果になりかねない。

[148]マリンズ (2010) 15頁。神社は非宗教的な場であるため、これを閉鎖しても信教自由の原則に反しないと政策立案者は推測していた。日本政府による神社非宗教論を考慮しれば、神社廃止を合法化することは可能であった。しかし文書は神社廃止された場合に起こりうる良からぬ結果に考慮すべきと警告していた。

[46]尾崎 (1990) 7頁。シュタインは神道を非宗教的な国家道徳とすべしと教示した。「神道は国体を維持するに必要であるから、これを宗教に代用して、おのずと宗教の外に立て、国家精神の帰趨するところを指し示し、儒教・仏教・キリスト教は人民自由の思想に任せ、法律の範囲内でこれを保護し、教義上もとより干渉すべきでない。神道の教義は道徳上忠孝節義を本とする。儒教や仏教と並び行われるにせよ、神代以来皇室に密着した神道であって、外国から輸入したものでないので、その軽重を問うべきでない。国礼をもって国教とみなし、これにより愛国心を養成すべきである。この点から論ずれば、政教は行政事務上は2つに分けても、無形の神を祭り有形の民を治める精神においては政教一致にならざるを得ない」

[47]尾崎 (1990) 8頁。帝国憲法起草者たちは仏教や神道を国教として規定することを避けた。天皇が皇祖皇宗歴代皇霊天神地祇を祀る祭主として認識されていたのに、憲法上の明文規定で国教を定めたり天皇の祭祀大権を定めたりしなかったことは、伊藤博文や井上毅の見識を示すものであろう。神道を非宗教的な国家道徳とするシュタインの提言は、皇室を国家の機軸とする伊藤博文の構想に活かされ、また神社非宗教論と共通している。

[35]尾崎 (1990) 9頁。1882年の神官と教導職との分離は、祭祀と宗教との分離であった。神社非宗教論の出発点であり、国家祭祀・道徳論としての神社神道の出発点であった。

[173]尾崎 (1990) 10頁。1884年、井上毅は教導職の廃止を神道論・国学論から論じた。「国学では、仏教のように衆生済度のために説法勧化するようなことは有り得ないはずであって、ただ祭政一致を人民に示すことこそ本意である。したがって、神官を教導職として僧官と同列に扱ったのは神道の本意でなく、また政略の得策でもない。教導職を廃するのは当然である」。第二書略。第三書で宗教政策が国家統治上きわめて重要な問題であるとしている。

[39]尾崎 (1990) 11頁。(つづき)ロシアや英国の国教主義を完全否定する。欧州各国は憲法で信教自由を既定しているが、実際にはトレランス、すなわち容認主義であって、宗教の扱いに差別を設けていると説く。奥州各国がトレランスを採るのは治安の必要によるものであると説明する。すなわち、宗教が既に行われている時は政府は幾分かこの宗教の力を治安の道具とせざるを得ない。古来の英雄は宗教を籠絡することに努める。その心は他でもない、一国に盛んに行われ国民多数が信じる宗教を籠絡・敬重するに過ぎない。

[42]尾崎 (1990) 12頁。宗教と政治は領域を異にするが、両者が無関係でいいわけない。分離しつつ支えあうものにするためには、政治が宗教を統御する必要がある。そうしなければ宗教を政治を混乱させるというのが、井上毅の意見である。政教関係を確定するには欧州のトレランスに学ぶべきであるとし、その原則は、法律上信教の自由を認めるが、行政上は認可教と不認可教とをくべすること。国家にとって宗教の教義内容はどうでもよいので国民多数の信じる宗教を治安の道具とすること。宗教を政略と調和させるには、国内に旧来の宗教を用いることであった。

[40]尾崎 (1990) 13頁。井上毅は教導職廃止提案にあたって「一には以って神事は宗教に非ざる旨を示し、二には漸くに仏教を羈絆の外に置き、その自由を得さしむべし」と神事非宗教論と宗教への不干渉を説いた。

[38]尾崎 (1990) 14頁。井上毅は1884年に教導職廃止を提案し、官幣社を宮内省所管として神道を非宗教の皇室の祭祀として位置づけた。井上毅の論理化が一応完成したことは、帝国憲法の信教自由規定の性質や、後年の神社非宗教論への変貌を窺ううえで重要である。井上毅の一連提案により、神仏教導職が全廃され、管長統制制度が確立した。

[48]尾崎 (1990) 17-18頁。伊藤博文や井上毅らは憲法を起草するにあたって、皇室を国家の基軸とする意図をもちつつ、近代立憲主義のために憲法上は国教主義を避け、神社非宗教論を前提として信教自由を採用した。

[49]尾崎 (1990) 18頁。伊藤博文演説の皇室機軸論。

[51]尾崎 (1990) 19頁。井上毅が枢密院審議の参考に執筆した「憲法説明」(のち伊藤博文の名義で『憲法義解』として公刊)には、法制上も事実上も神社が国家の宗祀として認められていることに一切触れていなかった。このため枢密院審議ではこの点が信教自由規定との関係で問題化した。

[52]尾崎 (1990) 20頁。佐佐木高行は、官吏が信教自由を理由に宮中祭祀に拝礼しない場合を論じることで、神社祭祀に対する礼拝の自由を問題にした。

[53]尾崎 (1990) 21頁。鳥尾小弥太も少なくとも大臣や官僚には宮中祭祀への礼拝の義務があると主張した。枢密院議長伊藤博文はこの問題について具体的な議論を避けて済ました。

[54]尾崎 (1990) 23頁。枢密院の憲法審議では、神社を非宗教と認めてはいるものの、それを具体的にどう扱うかについては一致しなかった。そのことは憲法案の信教自由規定の採決で、出席者22名中4名が反対したことからもうかがわれる。

文部科学省学制何年史[編集]

[81]政府は明治元年年3月、神仏分離を命令した。これをきっかけに各地で廃仏毀釈運動が起こった。仏教界に大打撃を与えた。新政府は祭政一致の方針を採り、神祇官を設置し、全国の神社を神祇官の管下に置いた。廃藩置県後、中央集権的体制を固めるためには神道国教政策だけでは足らないとして、仏教諸宗派や神道諸教派の力を利用して皇道宣布運動を展開することにした。神祇官を1871年8月神祇省に、1872年3月教部省に改組した。皇道宣布運動の担い手として、中央に大教院、府県に中教院、地域に小教院を置いた。神職や僧職などを教導職に任命し、教化運動をすすめた。神仏合同の布教にはかなり無理があり、神仏互いに反発しあう傾向があった。この運動は上から押しつけられたと批判され、信教自由を求める運動が盛んになるにつれて行き詰まった。1875年5月、大教院を解散し、以後、神仏がそれぞれ各自の教院で布教をすることにした。明治4年(1871年)5月、神社は国家の宗祀であると宣言した。仏教については国家と分離する方針を採った。1873年2月、キリスト教禁制の高札を撤去し、キリスト教の宣教を事実上黙認することになった。1877年1月教部省を廃止し、その事務は、内務省に新たに設置した社寺局に所掌させることとなった。教部省は廃止されたが、教導職の制度は存続した。1875年11月、信教の自由保障の口達を発した。1889年2月、大日本帝国憲法が発布された。第28条により信教自由の原則が保障された。それは国家の安寧秩序を妨げず、および国民たるの義務にそむかない限りにおいての自由であった。幕末に欧米諸国と締結した不平等条約を改正することが、政府も国民も要望するところであった。しかし条約改正で障害となった、キリスト教の処遇と神社の特別待遇であった。政府は1899年5月、キリスト教の宣教を正式に認めた。神社については、あくまで国家の宗祀であり、他の宗教と同一視すべきでないとした[81]。神社と宗教を同じ社寺局で取り扱うべきではないことになり、1900年4月、内務省の社寺局を神社局と宗教局に分割した。神社は一般宗教とは別であるという姿勢がとられるようになった。1913年6月、内務省の宗教局を文部省に移し、1940年11月、内務省神社局は神祇院に改組された。神社を除く全国の宗教団体はすべて文部省宗教局が管轄した。社寺、教会、講社などに対する行政上の取り扱いについては、共通の法規に基づいていたが、法規が極めて繁雑であったので、宗教法が必要とされた。ただこの法案は神社を除外していた。1899年12月、第2次山県有朋内閣が初めて宗教法案を貴族院に提出した。しかし主に仏教側から強い反対に合い成立しなかった。その後、宗教局が文部省に移管されるまで、宗教法案が再び提出されることはなかった。1926年5月、文部省に宗教制度調査会が設置された。この調査会は宗教制度に関する重要事項を調査・審議・建議する機関であった。主に宗教法案・宗教団体法案について文部大臣の諮問に応じ調査・審議した。同年6月から8月にかけて宗教局で立案した宗教法案を調査会で審議し、一部修正のうえ1927年1月、貴族院へ提出した。しかし反対の声が多く審議未了で廃案となった。1929年これを宗教団体法案の名で調査会の審議を経て、貴族院に提出したが成立しなかった。1935年にまた宗教団体法草案を審議したが、議会提出に至らなかった。1939年4月にようやく宗教団体法が公布された。これまで神道教派と仏教宗派については1884年8月の太政官布達第19号が根本法であったが、キリスト教の包括団体は宗教法規の外に置かれていた。しかも法規上キリスト教を漠然と「神仏道以外の宗教」と表現していた。宗教団体法では基督教という文字を用い、その包括団体を教団として、従来の神道教派や仏教宗派と並べた。宗教団体法は公布の翌1940年4月から施行された。施行の際、神道教派は13、仏教宗派は56であった。これらは、そのまま宗教団体法により文部大臣の認可を受けた。宗教団体法によってキリスト教で教団の認可を得たものは、カトリックの日本天主公教とプロテスタントの日本基督教団の二つであった。従前の神仏各派の内部規則は文部大臣の認可を必要とした。そしてその規則認可の期限を前にして合同が促進された。神道教派では合同は行なわれず、仏教宗派で従来の56派が28派に半減した。またキリスト教では、プロテスタント系約30の包括団体が合同して日本基督教団を設立した。新興教団は行政上「類似宗教」と称された。類似宗教については、天理研究会、大本、ひとのみち、燈台社などの事件が起こった。

[115]明治維新の初め、新政府は神道の優位性と独自性を明らかにするため神仏分離を実施した。キリスト教を抑圧する政策が欧米諸国から非難されたため、政府は1883年年2月キリスト教の宣教を黙認した。1877年1月教部省を廃止し、宗教行政を内務省社寺局に担当させた。帝国憲法の発布により、信教の自由が臣民の権利として承認された。それは「安寧秩序を妨げず、および臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」という限定付きであった。条約改正の条件としてキリスト教の適正な処遇を欧米諸国から求められたので、政府は1899年5月キリスト教の宣教を正式に認めた。同年8月文部大臣訓令により、公認学校の授業時間内に宗教教育や宗教儀式を行うことを禁止した。また、政府は、神社非宗教の原則を確認して、1900年内務省の社寺局を廃止し、神社局と宗教局とを分立させた。神社と宗教との分離を一層明確にするため、1913年6月、宗教行政一般が内務省から文部省に移管された。内務省は宗教局を廃止、文部省は新たに宗教局を設置し、全ての宗教団体を管轄することとした。明治維新以来、宗教行政上の多種多様な法規がつくられた。それらを総合的に整備するとともに宗教団体を監督・指導するため、宗教法を立法する動きがあった。1899年、内務省は最初の宗教法案を帝国議会に提出したが、仏教勢の反対により成立しなかった。文部省は1926年に宗教制度調査会を設け、宗教法案の調査審議を進めた。1927年と1929年にそれぞれ法案を帝国議会に提出したが、異論があって成立しなかった。戦時体制下の1939年4月に宗教団体法が公布された。同法は、宗教行政上の諸法規を整理し、宗教団体に対する保護と監督を強化しようとするものであった。キリスト教の包括団体を教団と名付け、他の神道教派・仏教宗派と同格とした。宗教団体の認可にあたって包括団体の合同を進めた。神道教派は一三派のままとしたが、仏教宗派は56派から28派へ半減し、キリスト教団はプロテスタント約30団体を一つの日本基督教団に統合した。

[149]宗教政策は連合国の占領政策の重点の一つであった。(1)信教の自由、(2)政教分離、(3)軍国主義・超国家主義の除去の3原則に基づいていた。1945年12月、国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・監督・弘布の廃止に関する件、いわゆる神道指令が下された。その趣旨は、軍国主義・超国家主義思想の根絶、信教自由と政教分離の徹底、神社神道の国家からの分離にあった。神社非宗教論に関しては、連合国軍は占領当初から神社を宗教として取り扱った。同月、宗教団体法が廃止された。同月に公布・施行された宗教法人令により、宗教法人の設立、規則変更、解散は自由化された。翌年2月の宗教法人令の改正等により神社は宗教法人となった。

ほか[編集]

新編靖国神社問題資料集[編集]

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999337

9 第二期 昭和二〇(一九四五)年八月一五日から昭和二七(一九五二)年四月二七日まで. (一)宗教法人化関係. 【七九】~【一〇三】 0075-0112.pdf

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F999337&contentNo=9

14 第三期 昭和二七(一九五二)年四月二八日から昭和四九(一九七四)年まで. (一)宗教法人化関係. 【一七三】~【一七七】 0157-0191.pdf

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F999337&contentNo=14

  • 167頁。大石委員。明治憲法下において憲法学者は法制の上で神社を宗教だとは考えていなかつた。信教の自由が憲法上の権利として認められながら、憲法学者は神社を宗教的施設とは認めていなかった。

172頁~憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007)

  • [153]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 174頁、岸本参考人。結果的に神社は一つも閉鎖されなかったが、神道指令が出れば神社の半分くらいは閉鎖されるだろうと日本側は予想していた。伊勢神宮さえ守れれば他の神社の問題はおのずから解決すると考えていた。日本側の説明では、伊勢神宮は皇室の最初の先祖の廟であり、廟であるから閉鎖する理由はないはずだという論法で伊勢神宮を守る方針であった。途中で日本側の解釈が変わった。伊勢神宮は単なる廟ではない、これは宗教機構なのだという解釈で交渉していくことになった。理由は経済的な事情であった。伊勢神宮の経済的な基礎は宗教的活動によって支えられていたことが分かったのである。神宮大麻を頒布したり、大神楽の奉納があったりする宗教的活動が経済的基礎として重要であった。したがって伊勢神宮は廟という点を強調しすぎると、宗教的活動を放棄しなければならず、そうなると伊勢神宮は立ち行かなくなる恐れがあった。GHQの出した結論は、伊勢神宮が宗教機構ならば国家から切り離すべきであり、切り離せば存続しても差し支えないということになった。神道指令の線であった。
  • [151]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 175頁、前田公述人(元文部大臣)。いわゆる国家神道は宗教というには単純すぎるもので、いわば一種の国の習慣のようなものであるから、英米の国会が開会式で宗教的な儀式をするのと同じような軽い意味でカルトとして保存できると考えていた。神社参拝を強制するというような強制的な要素さえ取り除けば宗教でなく、従来政府の神社非宗教論のように非宗教の国家的儀式ということで通ると思っていた。この点を姉崎正治に頼んで研究してもらっていた。姉崎正治がGHQの人と話をしたところ、そう簡単にいかないことが分かった。GHQは国家神道を宗教とする見方を堅持していた。とくに太平洋戦争がおこったのも神道のファナティックな信仰から来ているとGHQは思い込んでいた。
  • [154]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 176頁上段、福田参考人(元文部省宗務課長)。神祇院の考えとしては、伊勢神宮と勅祭社、あるいは皇室と特に縁の深い官国幣社については、できれば宮内省でこれを所管して保存維持する。その他の神社については、法人組織でもって全国の神社を結集して存続を図るというものであった。GHQが伊勢神宮と勅祭社の特別待遇に反対したのでやむを得ず私的な宗教法人として出発することになった。1946年1月25日、伊勢神宮および神社を宗教として取り扱い、その事務を文部省において所管するという決定がなされた。
  • [156]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 176頁中段、福田参考人(元文部省宗務課長)。神道指令違反が続出した。官吏の宗教儀式への参列、公葬の問題、それから神社経営を支えてきた氏子区域の町内会や隣組を通じて住民から奉納金や祭典費を取り立てるといった問題は、神道指令できつく取り締まられた。
  • [152]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 176頁下段、福田参考人(元文部省宗務課長)。バンスが文部省に何度も言ったのは、靖国神社が存続するためには、震災記念堂のような、宗教儀式すなわち神道儀式から全く離れた立場に置いて、単なる記念堂のような各派共通の施設としてならば、靖国神社の存続ということも考えられるということであった。
  • [130]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、飯沼参考人(元神祇院副総裁)、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 177頁下段-178頁上段。神社行政制度の変遷を辿ると、国が神社と宗教とを区別して、その区別をできるだけ明確化しようとしていたことが分かる。明治元年の一連の神仏分離令、すなわち「神仏号の区別に関する件」「菩薩号廃止に関する件」「神仏号混淆廃止に関する件」というような指令を太政官達で出していた。1900年に内務省の社寺局を神社局と宗教局とに分けたのも、1913年に宗教局を文部省に移したのもそうである。1926年に文部省に宗教制度調査会ができて、宗教法案を審議した際に、改めて神社宗教論と神社非宗教論とが討論した。そこで内務省でも1929年から神社制度調査会ができて、神社非宗教論について研究討議を重ねた。終戦に至るまで繰り返し検討した。その間に神社が宗教であると議論をされた委員は一人しかいなかった。他は全員、神社非宗教論であった。したがって政府もまた神社非宗教論を終戦まで堅持した。
  • [155]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 178頁、飯沼参考人(元神祇院副総裁)。神道指令により神社もまた宗教であるとされた。神祇院が廃止となり、神社に関する法令も一切廃止された。神社もまた宗教法人法の適用を受けることとなり、その事務を文部省に引継いだ。全国の神社は包括団体として神社本庁という一つの宗教法人を組織して現在に至っている。神社制度が何ゆえに神社と宗教とを区別していたかということについて、私見を言えば次の通りである。神社で最も大事な本質は祭祀である。祭祀の中心は祝詞の奏上である。祝詞は、天皇の治世を平らけく安らけく、そうして天下の大御宝(国民)が栄えて幸せに暮らすことができるようにと神明の加護を祈るものばかりである。決して一般の宗教のように個人の安心立命を祈るとか、絶対なものへの信仰とかではない。伊勢神宮や神社が御札を出しているから宗教であると指摘されることもあるが、これまで御札を強制的に押し売りをしたことは決してない。明治維新以来の政府の指導方針は祭政一致であった。神社行政は終戦に至るまで、神社は国家の宗祀であって宗教でないという建前で仕事をしてきた。神社神道が超国家主義と言われる理由が分からない。戦争中も戦勝祈願はしていた。どの国の国民も自国の勝利を祈ることは当然である。このために神社が軍国主義の背景であったと言われても承服できなかった。神祇院としては、神社を宗教として説明することはどうしてもできなかった、宗教法人として仕事をすることはできなかった。
  • [159]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 179頁、大金参考人(元宮内次官)。宮内省としては天皇の祭祀が天皇個人の私的信仰か否かという点については深い疑問を持ったが、神道指令はきわめて苛烈なものであったので今さらその点を争っても無益であった。むしろ国体に不測の災いをかもすおそれもあった。神道指令に個人の信仰は自由に保障されているという条項があったので、それを頼りに皇室祭祀令を改正した。
  • [161]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 180頁、大金参考人(元宮内次官)。神社非宗教論に関して、宮中三殿や伊勢神宮・神社への参拝が天皇の個人的信仰・私的行事であるかということについては疑いを持たざるを得ない。天皇のの宮中三殿・神宮神社に参拝すときの御告文(おつげぶみ)を見ても、ただひたすらに国家の安寧と世界の平和とを祈願している。これを個人的信仰・私的行事ということはできない。日本国憲法に定める象徴としての天皇の行事だと思っている。
  • [160]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 181頁。高尾参考人。神道指令当時の情勢としては、天皇の個人的な基本的人権として信仰の自由が守られるということを最後の拠り所として局面を切り抜けるしかなかった。当時の会議の記録に「通俗的常識的にこれを一種の宗教と見て、各人自由なる信仰の対象となすを得るものとし、しかも皇室においては宮中三殿の奉賽することにおいて、神社宗教を奉ぜられるものとすること、局面上妥当なりと信ずる」と意味深なことが書いてある。局面上というのは敗戦後の占領下で神道指令を下された状況という意味である。
  • [174]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 181頁。館委員(靖国神社責任役員)。靖国神社は国のため命を捧げた人々の名を長く武蔵野に留めおきたい、それを長く慰めてやりたいという明治天皇の思し召しによりできたものである。宗教法人法にいう宗教団体の3項目にも当てはまらないものがあるし、靖国神社は宗教団体ではないと靖国神社関係者は考えている。国家が護持すべきものであるので運動を続けている。
  • 憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 182頁。一松委員。伊勢神宮や靖国神社を宗教から引き離し、伊勢神宮は皇室の先祖を祭るところ、靖国神社は国のため身を捧げた人々の霊を祭るところということを明らかにする必要がある。宗教法人でないということを明らかにすれば、憲法20条の対象からも除かれる。
  • 憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 182頁。岸本参考人。神道は宗教かという問題については、GHQとの関係で敗戦国だったから神道は宗教でないのに宗教だと言ったというだけの話であれば問題は比較的に簡単だが、問題はそれほど簡単ではない。憲法学の観点が欠かせない。問題は宗教の定義如何である。
  • [134]憲法調査会第3委員会第14回会議議事録、1960年3月9日、国立国会図書館調査及び立法考査局 (2007) 183頁、岸本参考人。神道は宗教かという問題については、GHQとの関係で敗戦国だったから神道は宗教でないのに宗教だと言ったというだけの話であれば問題は比較的に簡単だが、問題はそれほど簡単ではない。憲法学の観点が欠かせない。問題は宗教の定義如何である。明治以来、神道は宗教的性格が強いことを認めていた学者が多かったと思われる。内務省の神社制度調査会は、神社は宗教にあらずと言えばいいに決まっている委員会であるが、それでも異論が残ったのは、相当に強い反対意見が潜在していたこと見るべきである。宗教の定義は大別して3つある。普通の定義は、宗教とは神と人との関係であるという定義である。これは仏教の禅のように神を立てない宗教もあるので必ずしも適正な定義ではないと言われている。第2の見解は人間や社会の神聖性である。神々しさ、有り難さを強調する文化現象である。神道ほど神聖性を強調するものは珍しい。第3は「「人間の問題の究極的な解決を目指す営みを中心とした文化現象」という定義である。神を言わずに宗教を定義するものである。神道は神々を祀ることを重んじ、人間の問題は余り立入らない。人間の問題の解決ということが軽い。その意味で神道は特別な性格をもった宗教である。
  • 184頁。一松委員。宗教の定義は法律で決めておいて、そして伊勢神宮や靖国神社はそれに入らないと規定すれば靖国神社の目的は達する。
  • 185頁。飯沼参考人。

24 第四期 昭和五〇(一九七五)年から平成一二(二〇〇〇)年まで. (一)判決、質問主意書・答弁書、政府見解・談話等. 【四七五】~【四九六】 0561-0584.pdf

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F999337&contentNo=24

同時代[編集]

清水行政法各論https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789456/74https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789457/20

神社行政法講義https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/797639/39https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946652/40

国民道徳概論https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755460/84

神宮大麻と国民性https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925273/29

筧克彦https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980650/222

美濃部逐条https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280004/220

美濃部撮要https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267441/100

東西思想比較研究 第三節 國家的神道の宗教的性質 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021522/160

神社局時代を語る : 懇談会速記 神社制度調査会、神社は宗教なりや https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1057614/57

スタイン[編集]

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1215228/279

日本の在来の宗旨は神道・儒教・仏法がある。仏法は幽冥の因果応報を説いて社会に勢力がある。儒教は現世の倫理を説くにとどまり、宗旨といえないけれど、東洋教化に勢力あるのは宗教と共通である。神道も宗教でないといっても、顕幽を兼ねて神人の権義を教え、道徳上に安心立命を講明すべきである。日本には開闢以来相伝の神道があるにもかかわらず、儒教や仏法が渡来したため神道は他の輸入教に侵蝕され、根が枯れて枝葉が繁ったのであろう。中世の人民は朴訥質実淡白なほうで宗教的熱意が薄いから、三教が軋轢して兵乱を起すことがなかった。欧州は宗教のために数々の変乱戦争があった。

神道は国体を維持するに必要であるから、これを宗教に代用して、おのずから宗教の外に立て、国家精神の帰趨するところを指示し、儒教・仏教・キリスト教は人民自由の思想に任せ、法律の範囲内でこれを保護し、教義上もとより干渉すべきでない。そして国家の管理すべきものが3つある。宗教は内政・裁判・外交に関与しない。憲法制定の上は宗教が準拠すべきもの3つある。宗教法、国際条約、万国公法である。

神道の教義は道徳上忠孝節義を本とするけれど、安心立命も各自の信仰により、生死に疑いを入れない者もあろう。儒教や仏教と並び行われたにせよ、神代以来皇室に密着した神道であって、外国から輸入したものでないので、その軽重を問うべきでない。かつ天皇の祖先である天神というのは世界共通の造物主であろう。これ尊奉するには、皇室において、誕婚喪祭祝賀軍旅など一切を国礼で執行し、人民が向かうところの針路を指示し、知らず知らずに帰依させることが必要である。かつ知識の発達した現代において、道徳はもちろん安心立命も宗教によらずに哲理に帰する機運に再会しているから、神道は宗教の外なる国家の礼典として人民に執り行わせ、宗教は人民各自の自由に放任すべきである。

日本の御中主と西洋のゴッドとは同じものの異名であり、造化天神であることを信じる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1215228/280

西洋おいては帝王を始め官吏・軍人・議員・原告・被告など神に対して宣誓する儀式がある。自ら欺かないことを良心に質して疑いないものである。ついては国礼をもって国教とみなし、愛国の精神を養成するのは一大要務である。建議してみてはどうか。西洋では宗教で愛国の精神を養成し、人心を一致させている。戦陣に臨んで軍旗の向かうところ避けることなく、また内治外交に政略にこれに利用し、法律の及ばないところにおいて道徳の制裁を用いている。

(海江田の答え)先年、再度の建議をした。神祇官を復興し、国体に基づき祭政一致を形に顕し、無知な愚民に無類の国体を知らせ、上下一心を図ったのだが、力及ばず達成できなかった。神皇の道はシナ聖賢の教えと共通の名教であって決して宗旨ではない。しかし近年は仏法と共通の各自流派を立て、心得違いをする徒があって、弊害が生じている。

古代からの神祇の官庁があるとは国体上格別のことである。西洋にても帝王の即位で宝冠を捧げる儀式がある。国家礼典が一切関係しないということはない。ロシア皇帝のように君主みずから教権を握れば神祇を汚瀆する弊害も除けるだろう。神道を国教とみなして代用する主義であればあくまで賛成できる。志望を貫徹すべし。

佐々木枢密顧問官外六名建議神祇院設置ニ関スル件[編集]

佐々木枢密顧問官外六名建議神祇院設置ニ関スル件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000227004

[58]佐々木枢密顧問官外六名建議神祇院設置ニ関スル件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、2-3コマ目。神祇院設置建議。明治23年9月23日。社寺局長国重正文、元老院議官丸山作楽、同千家尊福、同海江田信義、宮内次官吉井友実、枢密顧問官佐野常民、同佐々木高行の連名。

[61]佐々木枢密顧問官外六名建議神祇院設置ニ関スル件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、47-48コマ目。法制局長官(井上毅)、23年10月27日閣議書、花押なし。「閣命により神祇院設置の建議を審査するに、その趣旨は神祇の祭祀は国の礼典にして宗教に非ざるにより社寺局を以って管理すべからず宜しく神祇院を設けあるべしというにあり。」

佐々木枢密顧問官外六名建議神祇院設置ニ関スル件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、48コマ目。大体において国務に属すかいうと、礼典は社会の事物であって国務の事物ではない。君主は国家の元首であるのみならず社会の師表である。礼典は皇室に属するべきであってこれを国務に混ぜてはならない。神祇院を設ける説は礼典だけでなく、おそらく敬祀祖宗、報本反始の大義に基づくものであろう。もしそうならこれは天皇がみずから如在(眼の前に神がいるかのように謹み畏むこと)の誠をつくすべきことである。祖宗の神事は皇室に属するべきであって国務に属するべきでない。

佐々木枢密顧問官外六名建議神祇院設置ニ関スル件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、49コマ目。伊勢神宮・熱田神宮その他の官国幣社を総て社寺局に委ねて管理させるのは祖宗の遺訓ではない。祖宗の宗祀を分別して宮中に掌典寮を置き敬神の大事に奉承する所とすべきである。その他祭祀敬神の道は我が国の古来の美俗であって人心・名教のよるところである。

[62]佐々木枢密顧問官外六名建議神祇院設置ニ関スル件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、76コマ目。(佐佐木高行)「意見書」。神祇の礼典は宗教の儀式と大いに異なること。神祇の礼典は祖宗に敬事することをいうのであって、骨肉血脈の関係があるので、子々孫々がこれから離れられないことは、子弟の父兄に対するようなものである。宗教にこのような関係はない。そもそも宗教には教祖があって、まず宗旨を定め、戒律・宗規・祭典・法具を完備して初めて宗教になるのである。仏教やキリスト教がそうである。しかし我が国は未だかつて教祖なく、また宗旨戒律経典を作ったこともない。我が国の神祇は、彼の教祖らが説く神と異なり、いわゆる血をわけた祖宗である。ゆえに日本臣民たるものは、仏教やキリスト教を信じても、神祇を放任することはできない。しかも子孫永世にわたる神祇の礼典である。宗教の儀式と大差ある。

[63]佐々木枢密顧問官外六名建議神祇院設置ニ関スル件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、77コマ目。祭政一致とは、(天皇が)礼典を行って神祇に敬事し、政令を設け国を愛することをいう。祭政は終始一つである。本邦のいわゆる国体とは祭政をいうにほかならない。憲法中に宗教は自由に任せるという条文がある。憲法施行にあたって神祇の礼典と宗教の儀式を判然分別していなければ困難を惹き起こす。

[64]佐々木枢密顧問官外六名建議神祇院設置ニ関スル件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、78コマ目。1872年教部省を置き神官・僧侶を同じく教導職として三条教憲を授けて全国に布教させた。これが宗教と混同された原因であろう。内務省に社寺局を置き、神社と寺院との事務を区別せず。これも宗教と混同される嫌いがある。1873年の布告に府県社以下を人民の信仰帰依に任すといい、1879年太政官達に府県社以下の祠官祠掌の身分は一寺住職と同様とした。これも宗教と混同視されても言い訳できない。以上は神祇を宗教と心得てもやむを得ない事実であろう。ゆえに神祇の官衙を設置して、区分を判然とし、紛らわしさを絶つべきである。神祇は宗教の範囲外であることは疑いないが、区別を判然とする法令がなければ、宗教自由の条文を初め憲法上の大問題を来たすかもしれない。憲法実施後に至れば賢所に敬拝することを辞する者がないとも限らない。

[65]佐々木枢密顧問官外六名建議神祇院設置ニ関スル件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、79コマ目。神社と教会を分離すること。神祇は即ち祖宗である。祖宗に孝敬を尽すために、祭祀の社殿を建て、礼典を行い、修祓するなどしている。これを宗教の範囲ではない。徳川幕府の制度に宗旨改めがあったが、それは寺院と住職を記していた。神社や神主は問わなかった。古来、神社は宗教の範囲外であることが分かる。それが宗教の体をなしたのは、維新後の宣教使、教部省の教導職、のちの神道各教会がこれである。1882年に「自今神官は教導職兼補を廃し葬儀に関せざるものとす」とあるので教会の範囲外であることは疑いない。但し書きに府県郷村社の神官は当分従前の通りとあり、各神社に教会部もあるから紛らわしい、そこでこの際英断ももって区別して教会を宗教部に置き、ますますその道を拡張すれば名分明らかに正しくして両全を得るだろう。

枢密顧問官伯爵佐々木高行外二名連署建議神祇職設置ノ件[編集]

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000227005

[66]枢密顧問官伯爵佐々木高行外二名連署建議神祇職設置ノ件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、14-15コマ目。明治23年12月山田顕義名「神祇官設立に関する建議」閣議決定を求めた。対案として出された。

[67]枢密顧問官伯爵佐々木高行外二名連署建議神祇職設置ノ件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、22-23コマ目。信教の自由は憲法第28条をもってこれを許した。いま仮に神社をもって宗教とすれば、即ち伊勢神宮を初め宮中神殿その他国家の尊崇すべき神社も仏教やキリスト教と共通で、信じなくても信じなくてもいいことになる。これにより宗教の軋轢・紛争が起こるであろう。そして最終的に祖宗と国家の尊崇すべき神社に対し不敬をなし、後日いうべからざる大害を醸成するかもしれない。そうなれば国家の統治と秩序は何に依って存立しようか。霜を履みて堅氷至る(小さい兆候を見逃せばやがて大きな災難に見舞われる)であろう。早くこれを処理しなくてはなならない。荏〓経過すれば潰裂四出、また収拾できなくなるだろう。「是れ神祇の宗教外に超然たらしめざるべからざる所以にして祭神と宗教との区分を判明にし臣民をして率由する所を知らしめざるべからざり所以なり」

[68]枢密顧問官伯爵佐々木高行外二名連署建議神祇職設置ノ件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、26コマ目。神祇官設立によって人民の受け止め方を予想する。第一に神道教導職の一部は神名を掲げて教旨の名としていたような者は、従来の所説と意義を異にするから、多少の困難を来たし、不満の念を生ずるかもしれない。また、仏教者は従来神道において祭神と宗教との区別が判然としなかったために往々神道教師らとの間に軋轢を生じて互いに敵視するように見えたが、この区別が判明すればこれを喜ぶであろう。キリスト教者もこれと同感であろう。

[69]枢密顧問官伯爵佐々木高行外二名連署建議神祇職設置ノ件」『公文雑纂』建白、明治23年、国立公文書館蔵、27コマ目。祭神と宗教の別が判然と定まれば皇室の葬儀も一定するであろう。ここにおいて従来の宗教上の疑義を正しく分明にするに至るであろう。反対意見は神道教師の一部に過ぎない。/教部省を設け大教院を建て神仏混交の方法を始め、ここにおいて各々新主義を捏造させ結局は現在の衰退を来たした。政府はこれを遠ざけて近づかず顧みないのはこれを破壊しただけであって修理していない。始めあって終わりないもので政府の責任は重大である。

清浦圭吾[編集]

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937118/183

[84]清浦 (1899) 338頁、NDLJP:2937118/183。神官神職および神社は宗教と混同しやすい。神官神職とは皇室の祖宗や国家功臣の霊を祭祀する神社に奉仕する官吏である。神社は神霊を鎮祭し、兼て祭典を執行する神殿である。その起源は宗教と関係を有する場合があり、人民にもこれを宗教視する観念もなくもないが、法律上は全く宗教と関係ない。神道は一種の宗教であり、これについては別に制度を定める。ただ神社は神霊を鎮祭し、神官神職はこれに奉仕するほかに、宗教上の行為を為さないものとする。

清浦 (1899) 339頁、NDLJP:2937118/183。維新前沿革。

[85]清浦 (1899) 339-340頁、NDLJP:2937118/183。神官神職沿革。神宮司庁(伊勢神宮)に神官を置きその他の神社に神職を置く。神官神職は共に国の祭祀を司る官吏であって同時に神社の管理者である。

[86]清浦 (1899) 341頁、NDLJP:2937118/184。神官の禁止事項。神社は神霊を鎮祭し、兼て祭典を執行する神殿であって、各人民の礼拝に供し、人民が集まって古来慣行の祭典を行う場所をいう。

[87]清浦 (1899) 341-342頁、NDLJP:2937118/184。その目的行為は祖宗や国家功臣に対する崇敬を表わすにとどまり、法律上宗教と関係するところがない。

芳賀矢一『国民性十論』[編集]

[107]芳賀 (1908) 43頁、NDLJP:798465/24。キリスト教徒は上帝(キリスト教の神)の外に頭を下げないと言って大神宮に参拝することを嫌う。これは恐らく我が国の宗廟を宗教と混同した誤解にもとづくものであって、我が国体を知らないからだと思う。どんな人でも親の前に頭を下げることを嫌がる理窟はない。大神宮以外にも神社は数多い。いずれも先祖を尊ぶ主義から出たもので、その祭ってある人々は先祖の勲功ある人が多いのである。

[106]芳賀 (1908) 44頁、NDLJP:798465/25。勲功のあった先祖を祭ったものを尊ぶのは当然の措置である。キリスト教の信者などはこれを嫌うようであるが、これは東郷大将(日本海海戦時の連合艦隊司令官)の偉勲を認めてこれに敬礼するのと変わらない。

つづきは加藤の引用で。

神社行政法講義[編集]

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/797639/39https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946652/40

宮尾・稲村 (1912) 53頁、NDLJP:946652/40。哲学上神社を宗教とするか否かは別問題として、国家の制度上は神社は決して宗教でない。

宮尾・稲村 (1912) 54頁、NDLJP:946652/41。明治維新後の神社の沿革は、維新の際に神仏分離を行い、神祇官を置いて神社に関する事務を管掌した。1871年に社格等差を定め、以後徐々に神社制度を整えた。宗教制度と趣旨が全然異なるのもみても、神社は単純な宗教施設でなくて、国法上は宗教以外に置かれたものであることは明らかである。しかし1872年に新設された教部省で社寺の事務を全て取り扱い、1878年に教部省を廃止して内務省に社寺局を置いて神社と宗教を同局で管掌することになり、行政事務上に神社と宗教を同一に取り扱い、同年の社寺取扱概則のように神社と寺院を共通して取り扱う規定も少なくなく、また一般に神社と神をあわせて社寺と称する等により、神社と宗教を混同する誤解を招いた。

宮尾・稲村 (1912) 55頁、NDLJP:946652/41。社寺局を廃止して新たに神社局と宗教局を置き、官制上に神社と宗教とを区別した。この区別については様々な理由があったが、主として神社非宗教の観点から神社行政と宗教行政を区分したのである。1872年4月神仏教導職を置き神官神職を教導職に兼任させ、僧侶と協力して教化布教のことに従わせ、また同年6月に人民の自葬を禁止して神官神職を葬儀に関与すべきものとしたことも、神社と宗教を混同する一因となった。1882年1月、神官神職は原則として宗教上の儀式を執行できなくなった。これは国家の制度上に神社と宗教とが明らかに区別されるきっかけとなった。

宮尾・稲村 (1912) 56頁、NDLJP:946652/42。任免に関しても寺院住職を任免し神仏教師を進退することは全て各管長がこれを執行するが、神官神職は行政官庁が進退任免する。身分についても、各宗派管長が勅任待遇であるのを除いて他の僧侶・神仏教師には公法上の身分がないのに対し、神官は官吏で神職は官吏待遇となっている。会計事務に関しても、宗教は自由であるのに対し、神社は国家の定める制度に拠る。信仰者についても寺院などではこれを信徒と言うのに対し、神社ではこれを崇敬者と呼んで区別している。忠魂碑や墓標などの建設については、寺院などではこれを建設できるが、神社ではこれを建設できない。など法規上においても神社と宗教は区別されている。神社は国家の神祇を祀り、祭典を執行し、公衆参拝の用に供する設備であって、その目的は祖宗もしくは皇室・国家に勲功ある神祇に崇敬を致すことである。宗教とは必ずしも相関しない。

宮尾・稲村 (1912) 56-57頁、NDLJP:946652/42。目的の点において、寺院や神道その他の宗教は宗教儀式を執行し宗教を宣布することを目的とするのに対し、神社の目的は全く異なる。

宮尾・稲村 (1912) 57頁、NDLJP:946652/42。また神官神職は神明に奉仕して祭祀を掌るとともに神社の管理者であるのに対し、寺院住職や神仏教師らが宗教の宣布や宗教上の儀式の執行に従事するのと異なる。国家の制度上、神社と宗教とは性質が異なり、神社は決して宗教上の設備でなく、また宗教的行為を為すものでなく。まったく宗教以外に特立しているものとする。神社と混同しやすいものは神道である。神道は宗教に属する。宗教上神道の主神は神社の祭る神と同じであり、信仰の形式も神社と異ならないものがある。神道各教派に属する教院・教会所・説教所など、特に祠宇は外見上神社に似た形態をなし、神道教師が神官神職と同じ行為をすることもある。

宮尾・稲村 (1912) 58頁、NDLJP:946652/43。神社と宗教上の神道とは、区別が正確でなく、しばしば両者の性質を混同する者も少なくない。神社と神道とは差異がある。宗教上の神道は宗教を宣布し宗教上の儀式を執行することを目的とする。この点において神社と宗教上の神道とは性質が全く異なる。また神道教師は神道各教派に属して教徒・信徒に説教し、葬儀に関与するなど、宗教の宣布または宗教上の儀式の執行に従事するものであるが、神社の神官神職はこれに関与できない。ただ府県社以下の神社の神職であって神道教師を兼ねる者に限りその資格で葬儀に関与できるのみである。

宮尾・稲村 (1912) 58-59頁、NDLJP:946652/43。神道は各教派に属する教院・教会・説教所などの室内に神坐を設けて主神を祭ることができるが、神社を擬装することはできない。ゆえに建物の形式において神社と異なる。

宮尾・稲村 (1912) 59頁、NDLJP:946652/43。神道は教徒・信徒である特殊の者にしか主神に礼拝させることできず、神社にように一般の公衆に参拝させることができない。要するに現在の制度において、神道は宗教に属して神社にあらず。神社は宗教ではなく、宗教上の神道と性質が全く異なる。宗教上の神道のように宗教的行為を為すものではない。

神社に紛らわしいもの[編集]

宮尾・稲村 (1912) 105頁、NDLJP:946652/66。遥拝所、教会所、祠宇などは神社に紛らわしいものである。

宮尾・稲村 (1912) 105-106頁、NDLJP:946652/66。遥拝所は文字通り神社を遙かに拝する場所であるので、祭神はそこに鎮座しない。それ自体が神社でないことは明らかである。

宮尾・稲村 (1912) 106頁、NDLJP:946652/67。遥拝所に建物がなければ神社に紛らわしいこともないので法規上の規制はない。建物を有する遥拝所が問題になる。拝所または遥拝殿は遥拝式を執行するにとどまるものであり、神社の拝殿とは構造が異なるべきものである。遥拝殿をもって神殿に紛らわしい装飾をして、あたかも祭神が鎮座するかのように見せて公衆をして拝礼させることはできない。

宮尾・稲村 (1912) 108-109頁、NDLJP:946652/68。遥拝所の創建は政府の許可を受ける必要がある。実際の取り扱いをみると、一般神社と同じく創立再興復旧などは許可しない原則であり、ただし移民地や特別の縁故ある場合は地方長官より内務大臣に伺出ることになっている。詳細な絵図面を添付し、維持方法を記載し、本社の承諾書を添えて地方長官に願い出る。

宮尾・稲村 (1912) 111頁、NDLJP:946652/69。祖霊社とは、一家累代の霊を祭って祠を建てたもの、または神葬式で葬儀を行った人々の霊を合祀した霊祠をいう。国家功労者とも限らず公に尽くした者でもない。祖霊社は一般神社の性質を有するものでなく、したがって神社でない。場合によっては公衆が参拝し、建物が似ていることもあって神社に紛らわしいので創設が禁止されている。私宅内に祖霊を祀るために建設する分には差し支えないが、公認もされない。

宮尾・稲村 (1912) 113頁、NDLJP:946652/70。私邸内神祠とは各個人の鎮祭する神祠である。公認ものではない。神社ではない。公衆に参拝させることはできない。公に祭典を執行することもできない。外国神を祭るのも淫祠を祀るのも自由である。

宮尾・稲村 (1912) 114頁、NDLJP:946652/71。私邸内神祠は祭神も設備も不明であり、一般公衆の参拝を許すと害があるかも知れないので、公衆が参拝すべきは公認の神社に限りものとして、私邸内の神祠にはその建設者以外の公衆の参拝を許可しないこととした。

宮尾・稲村 (1912) 115頁、NDLJP:946652/71。神道教派の教会所や祠宇なども神社に紛らわしい。教院・教会所・説教所などは本来宗教上の建物であって、目的は神道教義など宗教を宣布すること、および教徒の神葬式など宗教儀式を執行することにある。室内に神床を設けて主神を鎮祭し、教徒や信徒に限り拝礼させるのは別として、それ以外は祭典を執行することができない。公衆を参拝させて守札を配布するなどして神社の為すことを真似たり、神社に紛らわしい装飾をしたりできない。教院・教会所などは宗教上の設備であって、神社のように公の祭典を執行したり公衆の参拝の用に供したりできない。

宮尾・稲村 (1912) 116-117頁、NDLJP:946652/72。神道教派に属する教師が神社において布教するときは神社を宗教に混同させる恐れがあり、神社の管理に不都合なので、神社において布教を行うことは禁止されている(1898年)。祠宇とは神道教師が奉教の主義により主神を鎮祭し、教徒の葬儀を執行するために建設したものである。祠宇においては主神の為にする場合のほか祭典を執行することができず、また一般公衆の参拝を揺するべきものではない。これは神社と性質が異なる点である。しかし祠宇の構造や体裁は殆ど神社に類似するので、普段から公衆に参拝させたり祭典を執行したりするなど神社の行為をまねることがある。このため祠宇を神社と誤解されることもある。祠宇は神道教徒の葬儀執行に供用するためのもんであるが、1884年墓地及埋葬取締規則により教院・教会所・説教所などにおいても葬儀を執行できることになり、祠宇を建設する必要がなくなった。祠宇は外見が神社に紛らわしいので、一切創設を許されなくなった。

宮尾・稲村 (1912) 119頁、NDLJP:946652/73。「(明治三十一年二月二十二日社寺局管乙第二四五号通牒 道庁府県)教宗派に属する教師にして神社において布教を為すもの往々これあるかに相聞え候ところ、右は神社をもって宗教に混同する嫌あり、神社の管理上はなはだ不都合にそうろわば、以後神社において右等の所業これ無きよう取締方、特に御注意これ有りたく、命に依りこの段申し進め候なり

井上哲次郎[編集]

国民道徳概論https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755460/84

井上 (1912) 146-147頁、NDLJP:755460/84。神道は宗教であるに相違ない。ただし政策上、神社を宗教以外のものとするのもやむを得ないかもしれない。神社崇敬はただ日本古来の儀式であるとして、宗教としての神道と区別して、累を神社に及ぼさないようにする。しかし神社も決して宗教と無関係とはいえない。神社に神さまが祀ってあってそれに祈りを捧げるということもあり、様々な宗教的儀式がある。けれども宗教としての神道から神社を分離するということもやはり必要であろう。ただし神社の中に淫祠邪教も少なくない。それらは政策よって救い出す必要はない。

神崎[編集]

神崎 (1930) 83頁。明治維新の神仏分離は、神社と寺院とを別々に引き離した。このため神道は布教機関を失った。すなわち宗教としての宣伝機関がなくなった。そこで表面上は神道は宗教でないことになったが、それは単に制度上のことだけで、国民心理上の神道は依然として宗教信仰の対象であった。このため明治5~6年ごろに神道の講社ができて、これが明治8年には教会になり、明治15年には教派になった。神道十三派はこうしてできた。神道教派の成立は神仏分離の結果であって、しかも神社が布教機関を失いながら国家的のものとして残った結果、信教自由の原則に反することとなった。また、1884年、キリスト教宣教師の使用人がキリスト教式の葬儀を執行したことが露見して裁判の結果2円50銭の罰金となった。これをきっかけに問題が喧しくなり、ついに信教自由の布告が出た。その後キリスト教の教会も出来た。それ以来、神社を宗教としておくのは宜しくない、条約改正の達成のためにも不利であるとして、神社は宗教的対象でないということを宣言した。

加藤[編集]

[127]加藤 (1922) 331-332頁、NDLJP:969446/177。神道や神社が宗教であるかないかという問題については、これに道徳面と宗教面があって、道徳面ばかリ見れば宗教でないともいえる。しかし宗教面も立派に存する。たとえ祭神が人間であっても、これを神社に祭る場合は人間以上の神の光を拝するところに神道・神社の真精神が成立してくる。これは一般に神人同格教の一種にほかならないから、神道や神社は明らかに宗教と言える。神道と神社は事実上、道徳面と宗教面が混然一体となっている。それを道徳面と宗教面を断ち切って分けてしまい、互いに無関係かのように取り扱ってしまうと、混然一体として働いていた時代と同等の成績を期待しようとしても無理な注文である。

[9]加藤 (1922) 425頁、NDLJP:969446/224。神道や神社が宗教でないという説の由来を考えると、江戸時代に遡る。本居宣長や平田篤胤ら復古神道家や、あるいは儒学者が、仏教を排斥し、神道や神社を論じる時に、仏教との関係を絶とうとして神道・神社の道徳面のみを鼓吹したのが後世に影響した。

[10]加藤 (1922) 426-427頁、NDLJP:969446/225。藤田東湖が「いわゆる神道者流は陰陽五行に附会したり暗に儒教を取ったりして神道を設けたが、主君(徳川斉昭)が唱える神道はそれとは違う。天地の初めより応神天皇の時まで異国の教が渡ってこなかった時のさまが皇朝の道である。異国の道が伝わる前なので神道と名づけるまでもなかった(したがって弘道館記には斯道としか書いていない)。しかし漢や天竺の道が伝わって紛らわしくなったので、やむを得ず神道と名づけたのである。したがって神道といわなくても、皇朝の道とか大和の道とか皇道とか大道とか呼んでもいい。」と言ったのも、また藤中渓が「神道は日本の大道であって、古く異教の渡来する前は、この道が天然の民俗となって、万事みな神道のままに尊み敬み君臣父子夫婦の道はもちろん日用動静なんでも神道であった」といったのも、道徳面から神道を見たものである。

[6]加藤 (1922) 427頁、NDLJP:969446/225。神社が専ら道徳として解釈されるようになったのは、明治以来のキリスト教に対する政策の関係であったと思われる。キリスト教という外来宗教から神社の軽重を問われないように、神社を宗教でないと説明しているのである。

[73]加藤 (1922) 427-428頁、NDLJP:969446/225。かつて学者の立場から神道非宗教論を唱えたのは加藤弘之であった。哲学的根拠は唯物論であった。論文「国家と宗教の関係」にいう。訳「神道は仏教やキリスト教に比べて宗教として最も劣るから、仏教やキリスト教に圧倒されるのは当然である。神道がこのように圧せられるは日本の国体と大いに関係がある。神道は天皇の祖先や人民の功労者を祭るものだからである。将来、神道が宗教としてキリスト教に圧倒されると、皇室の権威に関係するので事態は容易でない。このため、どこまでも従来のどおり神道を宗教の外に置く必要ある。キリスト教徒であっても天皇の先祖である神に拝礼することは主義に背くことにならないだろう。」

[105]加藤 (1922) 428-429頁、NDLJP:969446/226。芳賀矢一は神社を記念碑や銅像と同一視した。大意に曰く「西洋では至る所で功臣の石像や銅像を立てて、都市の飾りとし尊敬の対象としている。その人の命日には花輪の供えて敬意を表する。我が国の神社はこれと同じである。そうであるのに銅像には敬意を表するが神社には参拝しないというのは矛盾である。神社参拝を不見識だとか信仰に背くだとか言うのは、神という語に囚われて神社を宗教と混同する誤解から来ている。」

加藤 (1922) 430-431頁、NDLJP:969446/227。元神社局長水野錬太郎はいう。抄「ネルソンの銅像の前に行けば自然に敬意を表する。しかしながらその観念は我が国の神の観念とは異なる。湊川神社(祭神楠木正成)に参拝する時の観念と、楠木正成公の銅像(二重橋前)の前にあるときの観念と違う。同じ方を或いは銅像とし或いは神社として祭ったのであるが、どうしても私は違うと思う。神社は宗教でないと思うのであるが、ある意味において神社には威霊があると思う。」威霊を認めて宗教でないとするのは苦しい強弁である。

加藤 (1922) 431-432頁、NDLJP:969446/227。新戸部稲造はいう。「靖国神社では戦没者がそのまま英霊として神として祭られる。子連れの未亡人が参拝するのを見たことがある。彼女はうやうやしく我が子に教えた。父の霊は見えないけれど確かにこの場におわすこと。さらに聞こえた。『よく見て、お父さん居るよ、見える?』」これが遺族の気持ちとすれば神社に宗教的意義があることは明らかである。

[128]加藤 (1922) 432-433頁、NDLJP:969446/228。神社を宗教でないと言い切ってしまえば、神社のこうごうしい面、尊厳の性質はよほど薄まってしまう。「何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という感涙は出てこなくなる。

[129]加藤 (1922) 434-435頁、NDLJP:969446/229。神社では宗教の特性というべき祈祷を行っている。祈年祭はその実例である。官国幣社にあっては府県知事が幣帛を捧げて参拝する。その年の秋の収穫を予め春に祈願して、目に見えぬ神の助けによって五穀豊穣を祈っておくのである。これは明らかに宗教上の祈祷である。新嘗祭も単なる道徳的な感謝を表すものではない。目に見えぬ神の助けに感謝する宗教行事である。

塚本清治[編集]

神社局長(1915年~1921年)[125]

[126]塚本 (1942) 128-129頁、NDLJP:1057614/74。神社が宗教か否かについては塚本局長時代が最も喧しかった。キリスト教徒がいつも面会を求めに来て「神社参拝を強いるのはいかんではないか、学校の生徒を率いて参拝することは私どものほうでは困る。どうにかしてくれ」とクレームを入れることが少なくなかった。非常に困惑した担当官もいた。宗教局の人が最も悩んでいた。どうにも説明がつかないと感じていた。「神社に参って祈願や祈祷をするのは困る。祈願するのは宗教ではないか、宗教ならば憲法によって信教の自由にさせねばならないでないのか。憲法違反ではないのか」というようなことを言った。

塚本 (1942) 130頁、NDLJP:1057614/75。塚本は地方改良講習会の講義の中で、「哲学上これを何と説明するかは知らないが、憲法上からいえば神社は宗教でないのであって、信教の自由でいうところの宗教ではない。そのわけは、思うに憲法制定当時にあっても日本国民の敬神の念は変わらない。皇室祭祀のことはさておき、国家が神社を祭って祈願や祈祷を行うことは法令上に明らかである。国民も神明の加護を切に祈っている。これは日本が始まってから歴史に現れている顕著な事実である。憲法制定当時もそうであったので、国民の自由に任せるはずがない。日本の民族が先祖を神として拝み、その庇護をうけて生活を営んできた。

塚本 (1942) 131頁、NDLJP:1057614/75。そして日本の国運は隆々としてきた。敬神は尊皇と共に日本の民族性である。敬神も尊皇も忠孝も同一物である。それを自由だと憲法が書くはずがない。それでキリスト教徒が来ても「この顕著な事実を動かすことはできない。それ以外について信教の自由を唱えるのはいいが、この精神は即ち国体精神である。これをどうしても養育しなくてならない。それが日本の国家が存在と発達を遂げてゆく所以である。誰が何と言おうともこれを動かすことはできない」と日本民族の信念を篤く説明した。今はもやはこんなことを問題とする者はいない。

今泉[編集]

[131]今泉 (1926) 1-2頁、NDLJP:917793/2。神社が宗教であるか否かは十数年前から学者の間で議論されてきた。近ごろ宗教制度調査会においても議論され新聞で報道された。専門家の間であれこれ議論があり、世論を惹起した。当局は、根源を明治維新にとって神社は宗教にあらずと言った。委員中の反対論者は一部の学者と呼応して、当局者への反論を新聞雑誌に載せた。これほど明白に神社は宗教であるのに、当局は無理に制度に拘って神社非宗教論に固執しているとして世論を煽って当局者を困らせた。

[132]今泉 (1926) 2-3頁、NDLJP:917793/3。神社を宗教であるとすれば信教の自由にさせろと言い、宗教にあらずとすれば神社から宗教行為を取り去って銅像同然のものにしろと言う魂胆に外ならなかった。当局は首尾一貫、断固として神社非宗教をもって答弁した。何が宗教か判然としないから神社も宗教であるのかないのか分からない。神と人との交渉を説けば宗教であるとか、神霊を認めれば宗教であるとか、祈願・祈祷・祭祀・葬儀みな宗教行為であるとかいう。では儒教も宗教かというと古来そうとは言わない。反対論者は当局がただ頑迷に制度を盾にして非宗教を主張しているように言いふらしていた。

今泉 (1926) 4-5頁、NDLJP:917793/4。神社神道と既成宗教の相違点を挙げれば次の通り。神社神道は国家的だが、既成宗教は個人的である。神道は現世を謳歌し礼賛するが、宗教は現世を罪穢れとみて来世の天国や極楽を説く。以下略。

今泉 (1926) 16-17頁、NDLJP:917793/10。神社と宗教の相違点は多々あるが、それでもあえて神社を宗教というならば、既成宗教を超越した一種の宗教といいたい。神社はあくまで宗教であると主張したり、神社から神霊を強制除去して単なる記念殿堂や銅像のように視て単にこれを保護してこれに敬意を表す設備にしようとしたり、神社に代えて皇室中心主義を以って神社無用論を唱えたり、いろいろある。神道十三派の中には本来宗教でないものが宗教とされているものもある。神宮教が神宮奉斎会になったように、大社教が大社奉斎会になったり、黒住教が神宮崇敬会になったりすれば、神道の上に矛盾がない。

今泉 (1926) 18頁、NDLJP:917793/11。摘発事項が挙げられている。由緒のいかがわしいもの、迷信を助長するもの、行事の風紀を乱すもの、などなど。いうほど堕落したものとは思われない。

当山[編集]

[116]当山 (1918) 127頁、NDLJP:943685/78。神社局が神社を宗教でないという主な理由は、帝国憲法の信教自由の規定に関連してのことで、神社は国家の宗祀であるがもしこれを宗教とするならば崇敬するもしないも国民の自由ということになる。そうなっては国家の宗祀の主旨が失われるからである。つぎに国体の上から、仏教やキリスト教の歴史を考え、日本のいわゆる宗教の現状を考え、神社は決してそういうものではないことを示すために、宗教でないとされているのである。

[124]当山 (1918) 128頁、NDLJP:943685/79。神社は宗教でないから道徳的崇敬の意味において祭典儀式の執行に限るべきであり、信仰的な祈願祈祷をするなということを、大正の即位礼の当時に議論した者があった。

引用[編集]

明治聖徳記念学会 (1916) 内務省神社局の意見。国学院雑誌より。

[118]

神社崇敬は宗教でないと見ている。一般民間人の考えでは宗教と同様に信仰の対象として神社を崇敬している者もいるだろうし、逆に、神社を銅像や記念碑などと同じようにみている者もいるだろう。解釈は民間人の自由に任すほかない。民間の思想信仰はどうであっても政府は神社を宗教と見ていない。神社に対する民間の思想解釈を一定しようとも思わない。ただ神社崇敬を奨励するのみである。仏教徒でもキリスト教徒でも皆これを崇敬し盛り立てていって少しも不都合もないはずである。神社を宗教と同じだと信じる者が民間に少なくなくても、それもまた信仰の自由であって、政府の立ち入るべきところではない。政府がそれを防げばかえって不当な取扱いになる。それから神官は、どの宗教家とも手を携えて共に神社崇敬に努めるべきと思う。どの宗教家も神社崇敬に反対すべきでないのは、教育勅語が国民一般に遵守されるべきであるのとよく似ている。神社制度をもって信教の自由と相容れないものと考えるならば、その結果は大変なことになるが、そういうことになろうとは思いもよらないところである。政府としては神社を崇敬するようにしたいからこれを奨励し指導している。しかし政府としては未だかつて神社の崇敬や参拝を強制した事実はない。

明治聖徳記念学会 (1916) 文部省宗教の意見。国学院雑誌より。 [119]

神社は宗教の対象となるべきものではない。いかなる宗教家もこれを崇敬すべき性質のものであると信じている。各個人の意見から神社に対して宗教的礼拝を捧げる者もいるだろうが、さりとて政府において神社崇敬を宗教と見なさなくても差し支えない。つぎに、いわゆる神道十三派は宗教に属し、これに神社と称するものを許していない。神社の形をしていても祠宇や教会と称することになっている。たとえば出雲大社と大社教は密接な関係があるだろうけど、これを混同しないように取り扱っている。かつ祠宇の新設を許さないで、総て教会として許すことになっている。神社神職が神道教師を兼ねることはいけないから是非これを禁じてくれという願いが出ている。官国幣社の神職が神道教師を兼ねることはできないことになっているが、その他は従来の慣例によってこれを許している。急に禁じると困難が生じるからである。ただし、神職としての職務と教師としての職務を明らかに区別して混同しないようにしてある。仏教徒やキリスト教徒の中に神社崇敬を宗教だと主張する者があることは理解できない。神社の中にはヘンな神体があるからこれを淘汰するがよいとか、神体の不明なものを明らかにせよということなら、一種の問題提起として考えるべきであるが、神社を宗教だと言ったともしかたがない。仏教は長い間に神社崇敬と融和してきたのに、このことに不平を言い出すのはどういうわけか分からない。もし仮に神社がその性質上・理論上に宗教であるとしても、国家が神社を宗教でないとして保護することに対して何ともいえないと思われる。国家が神社崇敬を宗教として保護した場合には一種の国教になるが、それが憲法上の信教の自由を妨げるかどうかも問題である。神社を宗教として取り扱えば、かえって一般の宗教家に困難を来たすのではあるまいか。これを宗教外として取り扱うことが互いにとって善いことだと思われる。

明治聖徳記念学会 (1916) 水野錬太郎の意見。政教公論より。 [120]

政府においては内務省の社寺局を神社局と宗教局とに分離並立させる以前から、神社は宗教でないと見なし来た。その方針は一貫している。神社が宗教でないと見なしてきたというのは行政上の取り扱いから出た者であって、神社について哲学上から論じれば様々な議論もあるに違いない。一般的に言って、神社を超人的権威を有するものとして、祈ったり願いを立てたりするものが多数ある。これは寺院参詣も神社参拝も同一であるとの観念に基づいたもので、このような民衆の信仰心に何やかんや面倒な理窟を付けなくてもよいと思う。しかしこれらのことまでも神社は宗教であると主張してあれこれ議論する人もいるようだが、そうなれば先決問題として宗教とは何なのか決めないといけない。これは学問上・哲学上から研究しなければならない。しかし神社の性質は十分に明らかでない。政府が行政上の取り扱いから神社は宗教でないと主張していることが、未だ徹底していない点があるようである。そのために色々な問題もおこるのだから、政府は十分に神社の性質を明らかにする必要があると思う。

明治聖徳記念学会 (1916) 前田慧雲の意見。政教公論より。 [123]

大正の即位礼の当時から神棚と注連縄の問題が本願寺に起っている。真宗の最も盛んな安芸と石見などでは珍しいことではない。明治初年に俗神道が起り、一時大勢力を占めたので、真宗信徒の中には神棚を作ったり注連縄を張ったりした者もあったが、真宗僧侶が巻き返してこれをやめさせた。郡長が命令して神棚を設け注連縄を張れといっても真宗信徒が反対して問題を引き起こしたのは当然である。本願寺当局がこれを不必要であるとするのも妥当である。神社の神体にも色々ある。中には崇敬する価値のないほど劣等なものも少なくない。内務省で調査したといってはいるが、それでもまだ、いかがわしいものがありという。こんなものに参拝しても別に先祖崇拝にもなあらないから参拝する必要はない。当局者は今後も神体を十分に調査する必要がある。真宗は阿弥陀仏以外の神仏を安置しないという宗規綱領そ定め政府もこれを認可している。政府なり地方庁なりがこれを強いるなら真宗としてこれに反抗しても仕方がない。神棚や注連縄問題について本願寺がその必要がないと答えたのもむしろ当然である。つぎに政府は神社と神道とを区別しているが、画然と区別はできないと思う。政府としてはキリスト教に対する政策からも、神社と神道とを区別する必要があろうが、それは到底不可能ではあるまいか。現に神道者は神道を説くに神社に即して説明している。政府としても神社と神道の区別を国民に対し未だ明瞭に徹底していない。国民の多数は依然として神社を宗教的に崇敬している。これがかえって効果をあげていることもある。かつて仏教者は神と仏と皇室の一致を説き、それで国民精神が統一されていた。それが日本の国家風教のうえで利益であった。しかし維新の当時、王政復古とともに俗神道(平田神道)が起り仏教を排斥し、このため宗教界に大混乱を来たした。神社と仏教に対する国民伝統の関係が破壊されてしまったから、神社と宗教の間に問題が起ることはやむをえあい。為政者は注意しなければ国民精神上良からぬ影響を与えると思う。

明治聖徳記念学会 (1916) 井上哲次郎の意見。東亜之光より。 [117]

大社教・扶桑教・御嶽教・禊教・神道本局・神習教・実行教・黒住教・金光教・神理教・大成教・修成教・天理教、以上十三派の神道宗派だけを宗教と視て、これ以外に神道なるものは行政上認めていない。神社は宗教と区別して神社局で取り扱い、十三派の神道は宗教局で取り扱う。神社と神道とを明らかに区別し、神道は十三派の宗教としての神道に限るので、神社は宗教と無関係であるとしたのである。しかしそれは行政上の区別であって、宗教上の区別ではない。現今の神道は三種類に分けられる。国体神道は国体方面に現われた神道である。皇室を中心に成り立っている。皇室の儀式はすべてこの部類に属する。賢所や伊勢神宮の儀式、即位礼、大嘗祭その他の祭典は総て国体神道に入る。さらに日本の国体の淵源を宗教的に観て、宗教的感情をもって国体を維持発展してくところに国体神道が存在している。つぎに神社神道は神社に顕れている神道をいう。神道の精神が神社という建造物を通じて顕れているのをいう。神社に祭る神々は殆ど国体に関係する神々である。即ち国体の維持発展に何らかの貢献をした神々である。それを共同して尊信して儀式を行うように建造物を拵えたのが神社である。神社は決して宗教を離れたものではない。宗教としての神道の機関であるとは、キリスト教の会堂、仏教の寺院に対応するものである。もし神社を神道から除いたら神道は不完全なものになってしまう。第三に宗派神道は十三派の神道をいう。国体神道と神社神道と宗派神道の3つを併せて神道の全体が分かる。重大なのは国体神道と神社神道で、宗派神道はこれに比べて価値において余程劣っている。国体神道は日々人民の眼に見えるような儀式が行われているわけではない。神社だけが最もよく社会に神道の精神を顕している。神社は国中何処にでもある。神社神道は神道の精神を顕す重要な機関である。神社神道を神道と無関係なように見なすのは非常な間違いであると思う。神道は宗教であるかどうかといえば、もちろん宗教である。宗教の要素は総て備わっている。宗教学上から言いえば神道を宗教と視なくてはならない。原始神道は崇祖神道と自然神道の2つある。その後だんだんと発達したのは崇祖神道である。国体神道も神社神道も主に崇祖神道の系統を引いている。そして宗教としては民族宗教である。シナの道教、インドのバラモン教・ヒンドゥー教、ユダヤのユダヤ教、これらはみな民族宗教である。キリスト教や仏教は何処に広まっても差し支えない世界宗教である。世界宗教だけが真の宗教で民族宗教が宗教でないとはいえない。(かなり略)神社の中に稀に間違った考えで妙な神さまを祭っていることがある。平将門を祭っていると疑われるものもあるが、そういうのは間違いであるので、撲滅して一日も早く改造刷新していくのが神道の真精神である。稲荷も淵源を辿れば宇賀御魂で立派な神様であるが、俗に祭っているお稲荷さんというのは狐である。狐をお稲荷さんといっているの淫祠邪教である。神社を除けて神道を理解できない。十三派の神道だけをもって神道の全部のように取り扱ってきたということは非常な間違いである。この間違いが真の神道を誤解させた一大原因で、日本国家のため日本民族のため甚だ不利な結果を来たしているともう。まとめると、神社は神道の精神の顕れたもので、宗教的機関である。そうして宗教的儀式としては祓禊があり斎忌があり祈祷があり祭祀がある。すべて宗教的儀式がここにある。神社を宗教以外に置くということは断じて誤謬であることを明らかにしておきたい。これはよほど宗教界の注意を惹いている問題であるからここに立場を明らかにしておく。

新聞記事[編集]

●「三教は平等に/新興宗教も保護監督/宗教法案と文相の説明」『大阪朝日新聞』1926年6月2日、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫蔵。

文部省は神社と宗教との区別について問われ、「神社は今日の制度では報本反始の誠をいたすために設けられた営造物と見ている、ゆえに神社は宗教ではないとの解釈をとっている」と答えた。

●「制度の上で判然たる神社宗教の別/調査会の疑義に対する神社局の見解」『東京朝日新聞』1926年6月4日、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫蔵。

宗教制度調査会における宗教法案の審議の冒頭で、神社と宗教との区別が問題となった。文部省は内務省と打ち合せると答えた。この問題を解決しなければ宗教法案の審議に重大な影響がおよぶと見られた。内務省神社局の意見は次のようであった。

わが国の神社は明治初年においては宗教と混同せられた形跡はないでもない。明治5年6月には遂に教部省は神職の葬祭執行を認めたばかりでなく、神職は教導職に補任せられ、あるいは教院説教所と神社と混同せられていた。しかるに11年1月教部省廃止とともに教導職は内務省社寺局に移り、政府の布教に対する態度は一変した。ついで15年1月には神官の教導職兼務を廃し、神官は葬儀に関与することを禁じ、神社と教院との区別を明瞭ならしめんとしたが、15年5月以来9月にわたり神道派は数派に分離し、そのうちには神官僧侶を合同し三条の布教に従事せしめんとする二三の神道派も生じ、政府の根本方針は崩されんとしたに鑑み、17年8月には遂に政府は教導職を廃止し神道教師は専ら神道管長の支配に属せしめ、神道各派は名実ともに宗教として神社の外に独立する事となった。かくて17年に至り、政府は宗教と祭祀との区別を判然として、国家の宗祀たる神社を、仏教あるいは宗派神道と混同する事なからしめたが、その時キリスト教の勢力は次第に発展し、外人牧師中には神社あるいは氏子制度に関する諒解を欠くものも生じたに鑑みて、政府はますます右両者の区別を明瞭にする必要に迫られたものである。しかるに一方神社に関しては特別官署を設置して、まず制度上にて両者の区別を明かにすべしとの議が帝国議会に建議され、即ち「神社は、皇祖皇宗もしくは国家の元勲を奉斎し、君臣上下の挙げて崇拝するところにして、いわゆる宗教に混同すべきものでない、しかるにその事務を宗教事務とともに社寺局にいれておくは民新に疑惑を生ぜしめ、区別を不明にするものである」との理由にて社寺局を分離すべしとの右建議は採択せられ、その結果33年4月には社寺局を廃止して神社宗教の2局を置き、神社局は神官・官国幣社・府県郷村社・招魂社その他神社に関する事項、および神官神職に関する事項を司り、宗教事務はこれを宗教局に属せしめ、ここに神社と宗教とは制度上混同すべきでないとの政府の態度は明瞭になった。しかして今日神職にして葬祭を行っている習慣を見るが、内務省ではこれは個人として執行しているものであるとしている。

●「宗教法案に修正意見/神仏耶夫々の異論」『時事新報』1926年6月12日、、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫蔵。

神社非宗教論に基づく宗教法案に対しては、神道も仏教もキリスト教も不満であったが、不満の理由はそれぞれ異なっていた。

神道は本当のところ、神道を神社に準じて取り扱ってほしいと希望していたが、これが難しい場合は次善の策として神社の宗教的行為を取り締るべしという意見であった。

一方、仏教側は、神社についてはこれを理論上宗教であると考えているが、もし神社を宗教として扱えば、憲法上の信教自由の規定により、国民が神社を崇敬するもしないも自由になって国体の基礎に由々しき不都合を生ずるので、神社の宗教的行為を取り締ることも一案であるというものであった。他に別案として皇室に関係する神社以外の神社を宗教として取り扱えばよい、という意見もあった。この問題については仏教外の宗教学者姉崎正治なども熱心な論者であった。

●「宗教法の制定は排仏毀釈を再現せぬ/神社は将来も宗教と認めぬ考え/政府当局の答弁=宗教制調査第四回総会」『大阪朝日新聞』1926年6月25日、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫蔵。

政府当局の答弁

  • 神社の祭神整理については、神社の中には神社制度確立前に出来たものがあるが、これらは合併・昇格・調査報告受領の機会において醇化していくように努めている。
  • 政府は神社に対して拘束力のある国法上の諸法規によって、神社を国の営造物として見なしている。そして神社崇敬はもっぱら道徳的観念に基礎をおき、皇祖皇宗や国家功臣に感謝して報本反始するところと考えている。その参拝の形式に関しても何ら法規で強制していない。
  • 祭神の中に道徳的欠陥ある人物もいるが、そうした人物についても、国家に対する功績が顕著な点を美化・醇化して祭る。祭神の個人的・政治的な面が見る人によって異なるのはしかたがない。
  • 神社で行っている「呪」「虫封」の類いについては、著しく迷信を助長するものは取り締るが、多くは神職が個人として行っているから一律には禁止できない。神社法制定の際に考慮する。
  • 新聞紙上に内務省某局長の「神社は宗教で報本反始はその一面に過ぎない」という談話が報道された件について、学問上宗教の定義次第で神社が宗教となるかもしれないが、政府としては、国法上、神社は宗教にあらずと決定している。その点については文部省も内務省も意見が全く一致している。そしてこの方針の下に神社法も立案する考えである。神職の宗教的な行為については神社法制定の際に混同のないように注意する
  • 宗教法に宗教の定義を立てても疑義をなくすることは不可能である。もし定義しても神社の問題は残る。
  • 神社参拝の形式は一定していない。自己の信ずる儀礼によって参拝しても何ら差し支えない。ただし特有の儀礼、たとえば幣帛供進使参向などを除く。
  • 府県社以下の神職が葬儀を執行するのを禁止することについては、神葬を希望する人々がある以上、他に適当な人がない場合、今すぐ禁止するのは困難である
  • 関東都督府の法規で神職が宗教教師の職務を兼ねるを禁じているが、政府としてのはこれを内地に及ぼすことは考慮の余地があると考えている。
  • 神社が呪符類を発売するのを禁止することについては、祈願・祈祷・祈念祭を許しているから、その印としての呪符の類いを禁じることができない。ただし弊害があれば神社法制定の際に差し止める。
  • キツネやタヌキなどを祭る神社については、漸次整理してゆく考えである。
  • 神社整理の際には祭神の由緒によって整理するので、日本特有の神社と仏教思想にもとづく神社とで区別する考えはない。
  • 「神社は宗教にあらずと政府はいうが、その沿革からいえば神社は国教主義の崩れではないか。ゆえに強いて政府の意思を貫けば再び明治維新当時の廃仏毀釈を再現するおそれはないか」という懸念は全く当たらない。宗教法案の精神は各教平等である。廃仏毀釈のようなことは夢にも思わない。
  • 神社の神体拝観禁止については、自由に神体を拝観させると神社冒涜に陥るおそれあるため、依然禁止する考えであるか。
  • 神職が神徳講演の名のもとで説教に類似したことを行うものを取り締る件については、神職が余暇に神徳発揚・思想善導のために講演するは宗教上の説教でなければいいと思う。
  • 神社非宗教論は将来も維持するつもりである。学問上はともかく行政上の必要から神社を非宗教としている。神社を中心として国民思想の帰趨を一つにするのは国の統一に必要である。

●「神社を精査したのち宗教法を作れ/神社は宗教でないと/十派管長から意見書」大阪朝日新聞 1926年8月22日、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫蔵。


宗教制度調査会において神社宗教・非宗教についての質疑に対し、文部省・内務省当局者は次のように表明した。

わが国神社の本質は、上は皇祖皇宗の偉績を顕彰し奉り、もって国体樹立の綱格を明かにし、下は名臣顕相の遺勲を光揚し、あるいは民族祖先の功労を表徴し、もって忠君愛国の精華を憬慕せしめ、国民思想の中堅を統一するゆえんにほかならずして、これは我が国特有の施設で、神社崇敬・良風美俗は宗教の異同を論ぜす、思想の左右を分たず、帝国臣民の億兆一致すべきところで、明治の当初神仏判然の令を下して神社国教の実を挙げようと企画したが、その後明治十七年(1884年)にいたり断然制度を更改して神社を宗教圏外に超脱せしめ、従来敬神に附随した宗教的部面はこれを宗教神道に分立せしめる国策を一定し、かくて国家の神社観念は明瞭になっている。

真宗本願寺派ほか仏教10派は連署して首相と文相に意見書を提出した。仏教側の主張によると、神社関係者や地方の役人の中には宗教観念をもって神社を取り扱って宗教的設備を置いたり行事を執り行ったりする者が少なくなく、それどころか学者の中には神社宗教説を公然と唱え神社国教主義を高調する者もおり、こうしたことが神社非宗教の国策を撹乱し、時には神社ハ国家ノ宗祀ナリと宗教を圧迫する傾向も生じさせている、という。仏教側はこうした状況を遺憾として、神社から不純分子(宗教性)を排除して、これを真に宗教圏外に超脱させることを切望するといって、神社法制定の時まで宗教法制定を延期することを主張した。

●「『神社は宗教に非ず』の明文規定は不要/宗教制度特別委員会で/下村宗教局長の答弁」『大阪朝日新聞』1926年8月29日、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫蔵。

仏教側の花田凌雲が宗教法第4条第2項に「神社は宗教でない」という明文規定をおくべしと主張したのに対し、宗教局長は「宗教にあらざる神社に関することを宗教を規律する本法において規定することは不必要である。また神職と宗教教師とを兼ねることを禁止することは今日の実状をもってしては不可能である。もちろん神職がほかの宗教団体の信仰を攪乱するような行為のあった場合は本法によって十分取締る」と答弁した。

●「各派の修正に当局の賛否表明/宗制特別委員会」『時事新報』1926年8月30日、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫蔵。

仏教側の花田洋雲から、(1) 神社は宗教団体にあらざるものと明記すること、(2) 神職が宗教教師と兼ねることを禁止すること、(3) 神職等の宗教上の行事類似行為を禁止すること、以上3点を主張した。宗教局長は左のように答弁した。(1) 神社と宗教とが異なることを何度も声明した。宗教法案はその趣旨によっている。神社が宗教団体でないことを規定する必要がないと考える。たとえば産業組合法に会社は産業組合にあらずと規定しないように、宗教法に神社は宗教団体にあらずと規定する必要がない。(2)(3) 地方によって神職が行わなければ葬儀など行えないところがあるから、これを禁止することは事実上不可能である。

神社局時代を語る[編集]

神祇院教務局調査課 (1942) 44頁、NDLJP:1057614/32。伊勢神宮に神宮教というものがあって、神道の中の宗教として扱われて神道の一派となっていた。これは宜しくない、不穏当であるということで、宮内省の賞典部からも神宮教をどうにかしたいという話があった。また神宮大麻・暦を神宮教が取り扱っていたことも色々と問題になった。一般人の神宮参拝と神宮大麻・暦の頒布とを扱うため神部署を設けることになった。神部署という名称も宮内省から持ってきた。神宮教を廃してこれを神宮奉斎会という公益法人にすることになった。結局、神宮奉斎会は大麻・暦の収入を失ったが、神前結婚式の収入で補った。宮中の儀式にあやかり、神宮奉斎会で神前結婚式を始めたのである。人々も神前結婚式を歓び非常に広まった。これも神社と宗教が離れた顕著な事である。

神祇院教務局調査課 (1942) 165-166頁、NDLJP:1057614/92。大正2年神職奉務規則に、神社は国家の宗祀であり、祭祀は国家彝倫の標準であって、神職は報本反始の誠を表すべしというようなことが規定された。このように神社から宗教味を抜いて、倫理化、あるいは報本反始一点張りで行く方向になった。しかしそれは神社局内部から生じたものではなかった。神社の非宗教化のために外部から起った問題であった。その頃それが最も激しかった。

神祇院教務局調査課 (1942) 176-177頁、NDLJP:1057614/98。大正の初めのころ神社倫理化運動というものがあったが、当時の神社局の空気としては積極的な考えはなかった。宗教と神社とを混同してはならないはずなのに神職が宗教的行為をしていることが問題になってきたという程度であった。この時代の神社局は受け身でいた。やかましく言ってくるのは、真宗とキリスト教、あるいは学者であった。昭和戦中期とは時代の空気が違っていた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 新田 (1988a) 22頁。
  2. ^ a b 春山 (2006) 注23。文化庁『明治以降宗教制度百年史』1970年、91-93頁。
  3. ^ a b c 新田 (1988a) 26頁。
  4. ^ a b c d e 新田 (1988b) 44頁。
  5. ^ a b c 新田 (1988b) 40頁。
  6. ^ a b 加藤 (1922) 427頁、NDLJP:969446/225
  7. ^ a b 麻生 (2020) 167頁。
  8. ^ a b 麻生 (2020) 173頁。
  9. ^ a b 加藤 (1922) 425頁、NDLJP:969446/224
  10. ^ a b 加藤 (1922) 426-427頁、NDLJP:969446/225
  11. ^ a b c d 齊藤 (2018) 要旨。
  12. ^ a b 齊藤 (2018) 55頁。
  13. ^ a b c d e 齊藤 (2018) 56頁。
  14. ^ a b c d 齊藤 (2018) 57頁。
  15. ^ a b 齊藤 (2018) 61頁。
  16. ^ a b 齊藤 (2018) 63頁。
  17. ^ a b 齊藤 (2018) 66頁。
  18. ^ a b 齊藤 (2018) 67頁。
  19. ^ a b 齊藤 (2018) 65頁。
  20. ^ a b 齊藤 (2018) 62頁。
  21. ^ a b 齊藤 (2018) 69頁。
  22. ^ a b c d e 齊藤 (2018) 70頁。
  23. ^ a b c d 新田 (1988a) 24頁。
  24. ^ a b c d 齊藤 (2018) 71頁。
  25. ^ a b c 齊藤 (2018) 72頁。
  26. ^ a b c d e f g 齊藤 (2018) 73頁。
  27. ^ a b c d e f g h 齊藤 (2018) 74頁。
  28. ^ a b 齊藤 (2018) 74-75頁。
  29. ^ a b c 新田 (1988a) 注19。
  30. ^ a b c 新田 (1988a) 23頁。
  31. ^ a b c d e 新田 (1988a) 25頁。
  32. ^ a b c d e 新田 (1988b) 41頁。
  33. ^ a b c d 新田 (1988b) 42頁。
  34. ^ a b c d 新田 (1988b) 43頁。
  35. ^ a b 尾崎 (1990) 9頁。
  36. ^ a b c 井上 (2003) 285頁。
  37. ^ a b 井上 (2003) 286頁。
  38. ^ a b c 尾崎 (1990) 14頁。
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