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ペロポネソス戦争
Πελοποννησιακός Πόλεμος

シケリアにおけるアテナイ軍の敗走(19世紀の画)
月日 - 月日
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衝突した勢力
デロス同盟 ペロポネソス同盟
トゥキュディデスは『戦史』においてペロポネソス戦争の経過を詳述した

第二次ペロポネソス戦争(古典ギリシア語:Πελοποννησιακός Πόλεμος/ペロポンネーシアコス・ポレモス,英語: Peloponnesian War)は,前431年から前404年にかけ,古代ギリシア世界[注 1]においてアテーナイ(アテネ)を中心とするデロス同盟と,スパルタ(ラケダイモーン)を中心とするペロポネソス同盟との間に行われた戦争.戦争の経過はトゥキュディデス『(ペロポネソス)戦史』,大戦末期の状況はクセノフォン『ギリシア史』にくわしい,

概要[編集]

じじつ,この争はギリシア世界にはかつてなき大動乱と化し,そして広範囲にわたる異民族諸国,極言すればほとんどすべての人間社会をその渦中に陥れることにさえなった. — トゥキュディデス(久保正彰訳),第1巻1章2節
しかし今次大戦では,その期間も長きにわたり,またそのため,これに匹敵する期間にはかつてギリシアが嘗めたこともないほどの惨害が全土におそいかかった.じじつ,これほど多数のポリスが,異民族やギリシア人自身の攻撃を受け,はては奪われ荒廃に帰した例はかつてなかった(またポリスのなかには,奪われたのち,べつの住民をむかえた例さえ幾つかある).この戦争や内乱の為に,未曽有の数の亡命者,多量の流血がくりかえされた.また,古くから言い伝えられていたが,実際の事象が比較的に稀であったために疑問視されていたようなことが,まごうことなき事実となって現れた例もある.たとえば,ギリシアのほとんど全土をゆさぶった強烈な地震がその一つ,また日蝕も古記録に残る事例よりもはるかに頻繁に重なって生じた.さらに,地方によっては甚だしい旱魃を生じ,そのための飢餓,そしてかの激しい破壊力をふるい少なからぬ命をうばった伝染性疫病もこれらに重なった.これらは皆いずれも,今次大戦とあいまって,威を恣にした. — トゥキュディデス(久保正彰訳),第1巻23章1-3節

自らもアテーナイの一将校として従軍した『戦史』の著者,トゥキュディデスは,本戦争を以上のように要約している.

ペロポネソス戦争は,ペルシア戦争以来ギリシア世界の覇権を競ってきたアテーナイとスパルタ(およびその同盟国)との,ギリシア世界全体を舞台にした全面対決であった.敗戦国であるアテーナイは滅亡こそ免れたが戦前の「アテーナイ帝国」とすら称される強大な国力を失い,戦勝国であるスパルタも後年ペルシア,テーバイ,そしてマケドニアに対してギリシアでの覇権を保つことは出来なかった.その他大半のポリスも,何らかの形でアテーナイ・スパルタのどちらかにつくことを余儀なくされた[注 2].ポリスの中にはケルキュラのように親アテーナイ派,親スパルタ派との間で苛烈な内戦が勃発した例,プラタイアイ,メロスのように文字通り完全に破壊され,住民は虐殺されるか奴隷にされるという例すらあった.さらに休戦期を挟みつつ約25年間にわたった戦争はギリシア世界を大きく疲弊させ,ポリス社会,ひいてはギリシア世界全体を衰退させる原因となった.

本戦争は前半期「アルキダモス戦争」,停戦期とアテーナイの第二次シケリア遠征,そして後半期「デケレイア戦争」の三期間に大別することができる.

アルキダモス戦争[編集]

エピダムノス戦争,メガラ封鎖,ポテイダイア包囲を直接の契機として,スパルタを中心とするペロポネソス同盟はアテーナイとの開戦を決定した.ペロポネソス側の戦略は陸上兵力によって毎年アッティカに侵攻,耕地を荒らしつつアテーナイを包囲することであったが,アテーナイはペリクレスの指導によりポリスと外港ペイライエウス(ピレウス)を結ぶ長城の中に籠城した.アテーナイ市内では疫病が流行し,ペリクレスをはじめとする犠牲者を出したものの,ペロポネソス側の封鎖が徹底さを欠いていたこともありアテーナイは持ちこたえることができた.またケルキュラでの内乱発生,レスボスの離反というアテーナイにとっての不利が続いたが,アテーナイは優勢な海軍力を持ってこれらの地方におけるペロポネソス側の勢力拡大を阻止した.

戦争は決定的な展開がないまま約6年続いたが,7年目(前425年),ペロポネソス半島南西部のピュロス島をアテーナイ軍が占領したことで戦況が動く.スパルタ軍はピュロス島奪回のため上陸部隊を差し向けたが撃退され,逆にスファクテリア島に撤退した,当時精強と呼ばれたスパルタ兵が攻撃を受け大敗するという事態になった.これを機にアテーナイはテーバイ,メガラ,ペロポネソス半島南東部のキュテラ島に侵攻するなど攻勢を強めたが,テーバイ,メガラへの侵攻は阻止され,その隙を突いたブラシダスによるトラキア侵入,アンフィポリス陥落によってピュロス島占領にはじまるアテーナイの成果は打ち消される形となった.ここに至って両陣営では停戦の気運が高まった.アテーナイではニキアス,スパルタではプレイストアナクスが中心となって両国の間に停戦条約(のちに同盟条約も)が結ばれた.

停戦期とアテーナイの第二次シケリア遠征[編集]

アテーナイとスパルタとの間に停戦条約が結ばれたのち,スパルタと対峙しながらもアルキダモス戦争の間中立を保っていたアルゴスは,ペロポネソス同盟を切り崩すべく独自の同盟を打ち立てた(ここでは便宜上「アルゴス同盟」と呼ぶ).アルゴス同盟にはペロポネソス同盟の加盟国が何国か離反して参加し,またアテーナイも,既に停戦関係が崩れ始めていたスパルタに対抗する目的からアルゴス同盟に参加することとなった.ついにペロポネソス同盟は,地峡地帯の要衝エピダウロスをめぐりアルゴス同盟との開戦に至った.ペロポネソス同盟軍はペロポネソス半島中央部,マンティネイアでアルゴス同盟軍を打ち破り,アルゴスとの講和を結んだ上でアルゴス同盟を解体させることに成功した.

一方,アテーナイは勢力拡大に努めた.依然として中立を保っていたメロス島を武力占領し,さらにシケリア島に侵攻,そこからイタリア・カルケドン(カルタゴ)も攻略して対スパルタの兵力と資源を確保しようとねらった.

原因[編集]

間接的要因[編集]

という訳は,この事件の真の動因は,一般におこなわれている説明によっては,捕捉されがたい性質を持つからである.あえて筆者の考を述べると,アテーナイ人の勢力が拡大し,ラケダイモーン人に恐怖を与えたので,やむなくラケダイモーン人は開戦にふみきったのである. — トゥキュディデス(久保正彰訳),第1巻23章6節
ラケダイモーン人が和訳は破られたと認め戦争開始を決議した理由は,同盟諸国の説得に動かされたことにも多少はよるにせよ,主たる理由はアテーナイがすでにひろくギリシア各地を支配下にしたがえているのを見て,それ以上のかれらの勢力拡大を恐れたことにある. — トゥキュディデス(久保正彰訳),第1巻88章
[注:サラミス海戦後のギリシア情勢を述べたくだりで] この時間と事件の歩みとともに,アテーナイ人はその支配権をますます強固な組織となし,彼らは著しい勢力拡張をとげた.しかしラケダイモーン人はこれに気づいていながら,干渉らしい干渉を見せず,殆んど終始して静観の態度を変えようとしなかった [中略] ついにアテーナイの勢力は衆目にも疑いないまでの発展を遂げ,ついにはペロポネーソス同盟をも侵蝕する事態となった.ここに至ってかれらはもはや看過するに忍びず,ただ全力を鼓舞して反撃すべきであるとし,なお出来うればアテーナイ勢力の潰滅を遂げんとして今次の大戦を起こしたのであった. — トゥキュディデス(久保正彰訳),第1巻118章


直接的要因[編集]

前半期:アルキダモス戦争[編集]

ペロポネソス戦争期のギリシア全図.もっとも,シケリア諸都市はほぼスパルタ側であり,マケドニアは時期によってアテーナイ・スパルタの両陣営を行き来していることに注意が必要である


ペロポネソス軍のアッティカ侵攻[編集]

アテーナイに疫病発生[編集]

デロス同盟諸都市の造反・内乱[編集]

海上作戦および諸作戦[編集]

ピュロス・スファクテリア[編集]

ブラシダスのトラキア戦役[編集]

ブラシダス(ピュロス上陸戦を描いた画).ペロポネソス戦争随一の名将であり,トゥキュディデスも彼の行動については詳述している.母アルギレオニスは,アンフィポリス人にブラシダス以上のスパルタ人はいないと言われたが「ブラシダスは立派だが,それ以上のスパルタ人は沢山いる」と応えたという.

[注 3]

停戦期のギリシア情勢[編集]

ここに終る大戦の経過年月は通算二十七年の長きに及んだ.その間には平和条約の介在した期間もあるが,この期間が戦争の名には値しないと考えるものがあれば,それは正当な根拠を欠いている.なぜなら,その期間がはたしてその前後の時期と異なっていたかどうか,事実をよく観察してみるがよい.これを平和期間とはとうてい見做しえないことにすぐ気付くてあろう. — トゥキュディデス(久保正彰訳),第5巻26章1-2節

休戦条約違反の続出[編集]

アルゴスの活動[編集]

ペロポネソス同盟の内部分裂[編集]

その他情勢[編集]

第二次シケリア遠征[編集]

(注:病死したペリクレスを評した部分で)これに比べて,かれの後の者たちは,能力において互いに殆んど優劣の差がなかったので,皆己こそ第一人者たらんとして民衆に媚び,政策の指導権を民衆の恣意にゆだねることとなった.このことが禍して,アテーナイのごとく大きいポリスを営み,支配圏を持つ国ではとうぜん,数多い政治的な過失が繰り返されることとなり,その最たるものがシケリア遠征であった.この失敗は,かれらが敵について致命的な誤算を犯したために生じたものではなく,遠征軍に対して本国の責任者たちが必要な応援を続けなかったことが大きい原因をなしていた.かれらは民衆指導権をめぐる個人的な中傷に明け暮れて,遠征軍の攻撃力をいちじるしく鈍らせ,また国内の政治的秩序を覆す最初の契機を作ったからである.しかしながら,シケリア遠征が挫折し,アテーナイは海軍力の大半を含む諸軍備を失い,内政は今や内乱状態に陥りながらも,なお三年間アテーナイ人の抗戦力は衰えなかった.

— トゥキュディデス(久保正彰訳),第2巻65章10-12節

ヘルマ像破壊事件[編集]

エピボライ高地の夜戦[編集]

後半期:デケレイア戦争[編集]

アッティカ封鎖[編集]

アイゴスポタモイ[編集]

略年表[編集]

アルキダモス戦争中の出来事
季節 ギリシア関連 シケリア関連 イオニア・ペルシア関連 その他
431年(1年目)
  • テーバイ軍,プラタイアイに侵攻
  • 第一次アッティカ侵攻
  • トゥキュディデス「開戦劈頭いらい…ただちに記述を始めた」
  • ペリクレス,メガラを攻撃
  • 日食(一回目)
  • アテーナイ,戦死者の国葬を行う
(ペリクレスの葬送演説)
430年(2年目)
  • 第二次アッティカ侵攻
  • アテーナイで疫病発生.ペリクレス病死
  • ペロポネソス同盟のペルシア使節団,
アテーナイにより拘束・処刑
  • フォルミオン,コリントス湾を封鎖
  • ポテイダイア陥落
429年(3年目)
  • ペロポネソス軍,プラタイアイを攻囲
  • クネモス,アカルナニア遠征
  • 第一次・第二次ナウパクトスの海戦
  • クネモス,ブラシダスら,
サラミス湾を襲撃
428年(4年目)
  • 第三次アッティカ侵攻
  • ミュティレネ市以下レスボス諸都市の反乱
  • ペロポネソス軍,準備不足により
アッティカ再侵入を中止
  • 一部プラタイアイ人,攻囲中の市内から脱出
  • (このころまでにアルキダモス病衰?)
427年(5年目)
  • 第四次アッティカ侵攻
  • ミュティレネ陥落
  • アテーナイ,ミュティレネ人の
処刑を一旦決めるも中止
  • プラタイアイ陥落・滅亡
  • ケルキュラで内乱
  • シケリアで内戦発生
  • アテーナイ,シケリアに部隊派遣
  • アテーナイで疫病再発
  • ギリシア各地で地震頻発
426年(6年目)
  • ギリシア各地で地震頻発のため
アッティカ侵攻中止
  • アテーナイ軍,メロス,
ボイオティア等で海上作戦を行う
  • デモステネス,アイトリアで大敗
  • スパルタ,ヘラクレイア市を建設
  • スパルタ,ナウパクドスへ進軍
  • アテーナイ,メッセネを攻略
  • アテーナイ,ロクリスを攻撃
  • エウボイアで津波発生
  • アテーナイ,デロス島を聖別
  • デモステネス,アムブラギアを攻略
  • アテーナイ,ピュトドロス指揮下に増援
  • エトナ山噴火
425年(7年目)
  • 第五次アッティカ侵攻
  • デモステネスら,シケリア増援に出発.
途中ピュロス島を占領
  • ピュロスの戦い
  • アテーナイとスパルタ,一時休戦
  • クレオン,スパルタからの
講話要請を拒否する
  • スファクテリア島封鎖,難航する
  • クレオン,ピュロス方面に増援
  • スファクテリア島の戦い
スパルタ兵捕虜になる
  • アテーナイ,コリントスを攻撃
  • シュラクサ,メッセネを奪回
  • ソフォクレス,エウリュメドン,
ピュロス占領隊と別れシケリアに増援
  • アテナイ,シュラクサとの海戦に勝利
  • キオス,アテーナイの要求により城壁を撤去
  • アテーナイ,ペルシアのスパルタ特使を拘束
424年(8年目)
  • このころアテーナイ攻勢に,スパルタ守勢に回る
  • ミュティレネ人,レスボス奪回を試みる
  • アテナイ,キュテラを攻略


  • ブラシダス,トラキアに侵入.アンフィポリス陥落
  • 日食(2回目)
デケレイア戦争中の出来事
季節 ギリシア関連 シケリア関連 イオニア・ペルシア関連 その他
411年(21年目)
  • トゥキュディデスの記述,終了する

[編集]

  1. ^ とくに主戦場がペロポネソス半島の内部に限定されていたわけではない点は注意を要する.
  2. ^ アルキダモス戦争の間中立を貫いたアルゴスも,のちにアテーナイの支援を受けてスパルタと対峙しているし,中立を押し通したメロスはアテーナイの武力進駐という憂き目に遭った.マケドニアに至ってはアテーナイ・スパルタと交互に同盟している.
  3. ^ このときタソス島近郊からからアンフィポリスの救援を試みたのがトゥキュディデスであった.トゥキュディデス自身は以降の経歴を『戦史』内で詳述していないが,アンフィポリス陥落の責任を取らされアテーナイを追放,著作に専念するようになったと伝えられる.

脚注[編集]

参考文献[編集]

古典資料[編集]

トゥキュディデス『戦史(ヒストリアイ)』
  • 久保正彰 訳『戦史(上・中・下)』岩波書店。 
クセノフォン『ギリシア史(ヘレニカ)』
  • 根本英世 訳『西洋古典叢書 ギリシア史 1』京都大学学術出版会、1998年。ISBN 4-87698-110-8 


アリストテレス『アテナイ人の国制』


(ミスナー, ソーン & ホイーラー 2011)


ヘロドトス『歴史(ヒストリアイ)』
プルタルコス『対比列伝』
シケリアのディオドロス『歴史叢書(ビブリオテーケー・ヒストリケー)』
アリストファネスの諸作品
スーダ『スーダ辞典』
  • Stoa Consortium. “The Suda on Line”. Suda On Line: Byzantine Lexicography. 2019年10月24日閲覧。

現代資料[編集]

  • 『古代ギリシア人の戦争 会戦事典』新紀元社、2003年。ISBN 4-7753-0113-6 
  • 『ギリシア史 (新版 世界各国史)』山川出版社、2005年。ISBN 978-4634414709 

外部リンク[編集]