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利用者:Revolution will/李氏朝鮮/人物記事原型

文臣原型
{{基礎情報 李氏朝鮮の朝臣
|名=金安老
|爵位=
|官階=
|官職=[[左議政]]
|画像=
|説明=
|本貫=[[延安金氏]]
|続柄=[[金訢]]第三子
|諱=金安老
|諱諺文=김안로
|諱発音=キム・アルロ
|称号=
|初名=
|字=漢字:頤叔<br/>諺文:이숙<br/>発音:イスク
|号=漢字:龍泉<br/>諺文:용천<br/>発音:ヨンチョン
|雅号=漢字:希楽堂・退斎<br/>諺文:희락당・퇴재<br/>発音:フィラクタン・テジェ
|諡号=
|生年=[[1481年]]
|出生地=[[漢城府]]
|没年=[[1537年]][[11月29日]]
|没死地=
|死因=賜薬
|生父=
|生母=
|父=[[金訢]]
|母=海平尹氏([[尹墀]]の娘)
|配偶者=崔氏
|子女=[[金祺]]<br/>'''[[孝恵公主]]'''<br/>'''[[金禧]]'''<br/>[[金徽]]<br/>[[金提]]
|墓=
|埋葬地=
|注釈=
}}
'''金安老'''(김안로、キム・アルロ・[[1481年]] - [[1537年]][[11月29日]])は[[李氏朝鮮]]中期の戚臣、文臣、儒学者、思想家、作家、詩人、学者。字は「頤叔」、号は「龍泉」、雅号は「'''希楽堂'''」「退斎」。本貫は[[延安金氏]]。[[金訢]]の三男。母は[[尹墀]]の娘。[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]の長女[[孝恵公主]]の[[駙馬]]延城尉[[金禧]]を次男として持ち、王の至親として権勢を振りかざした。呼称は「'''希楽堂大監'''」である。

[[1501年]][[進士]]となり、[[1506年]][[5月8日]]文科に及第し<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wja_11204016_006&tabid=w 『燕山君日記』巻第62 12年([[1506年]][[丙寅]]/[[正徳]][[1506年|1年]]) [[旧暦4月16日]](乙丑)六項目]</ref>[[賜暇読書]](湖堂制度)を賜り、[[弘文館]]と[[司諌院]]など要職を経て[[大司諌]]を務めた。諫官にありながら、各制度を是正する事を提唱したが、反対派に抑えられた。 [[1519年]][[己卯士禍]]で[[趙光祖]]一派と共に追放されたが次男[[金禧]]が[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]の長女[[孝恵公主]]の[[駙馬]]になることで赦免された。[[1522年]][[1月25日]]に[[弘文館]][[弘文館副提学|副提学]]、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11612028_003&tabid=w 『中宗実録』巻第43 16年([[1521年]][[辛巳]]/[[正徳]][[1521年|16年]]) [[旧暦12月28日]](丙午)三項目]</ref>[[1524年]][[7月9日]]には[[大司憲]]、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11906008_003&tabid=w 『中宗実録』巻第51 19年([[1524年]][[甲申]]/[[嘉靖]][[1524年|3年]]) [[旧暦6月8日]](辛丑)三項目]</ref>[[8月4日]]には[[吏曹判書]]になった。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11907005_003&tabid=w 『中宗実録』巻第51 19年([[1524年]][[甲申]]/[[嘉靖]][[1524年|3年]]) [[旧暦7月5日]](戊辰)三項目]</ref>次男[[金禧]]が[[孝恵公主]]の[[駙馬]]となってから、職権乱用が常習化すると[[領議政]][[南袞]]・[[大司憲]][[李沆]]らの弾劾を受け豊徳に流刑となったが次男[[金禧]]の[[仁宗 (朝鮮王)|王世子]](後の[[仁宗 (朝鮮王)|仁宗]])を背景にした嘆願で釈放された。

1530年には[[灼鼠の変]]により[[南袞]]・[[沈貞]]一派を追放して大権を掌握し、その折に[[文定王后]]の弟である[[尹元衡]]・[[尹元老]]などと対立し[[章敬王后]]の兄で[[仁宗 (朝鮮王)|王世子]]の後見人[[尹任]]と提携し、[[仁宗 (朝鮮王)|王世子]]を保護する事を大義名分として[[士林派]]と[[尹元衡]]一派を粛清した。以来、[[右議政]]と<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_12911022_004&tabid=w 『中宗実録』巻第78 29年([[1534年]][[甲午]]/[[嘉靖]][[1534年|13年]]) [[旧暦11月22日]](甲申)四項目]</ref>[[左議政]]を務めた。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_13004011_001&tabid=w 『中宗実録』巻第79 30年([[1535年]][[乙未]]/[[嘉靖]][[1535年|14年]]) [[旧暦4月11日]](辛丑)一項目]</ref>[[1537年]][[文定王后]]の廃妃を企んだが失敗し[[尹安仁]]と[[大司憲]][[梁淵]]らに排撃を受けて流刑され賜薬を下された。

==生涯==
===出生と家系===
金安老は[[1481年]][[漢城府]]にて出生した。[[祖父]]は郡守を勤めた[[金友臣]]で、父は[[工曹参議]][[金訢]]であり、母尹氏は[[尹墀]]の娘である。また[[領議政]]を勤めた[[金詮]]を叔父に持つ。[[金詮]]は[[士林派]]出身の政治家であり、[[仁穆王后]]の[[高祖父]]にあたり[[金悌男]]の[[曽祖父]]である。また自らは[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]の継妃[[章敬王后]]の姻戚であり、[[文定王后]]一家とも姻戚関係であった。金安老の姪は[[文定王后]]の弟[[尹元衡]]の正妻であり、孫娘は[[文定王后]]の弟尹元老の息子[[尹百源]]に出嫁した。また[[宣祖]]の継妃[[仁穆王后]]の再従祖父にあたる。

[[1501年]][[進士試]]に及第して[[成均館]]で学んだ後に[[1506年]][[別試]][[文科]]に[[状元]]及第<ref group="註">首席合格を意味する</ref>した。[[成均館典籍]]に叙任した翌年の[[1507年]][[1月15日]]に王命で文学の士に選抜され[[弘文館校理]][[李荇]]・[[金世弼]]、[[弘文館副校理]][[金安国]]、[[成均館直講]][[洪彦忠]]、[[都摠府都事]][[申鏛]]、[[吏曹佐郞]][[柳雲]]、[[芸文館検閲]][[金瑛]]・[[李希曽]]等と共に[[浄業院]](青竜寺)にて[[賜暇読書]]を賜った。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10112003_009&tabid=w 『中宗実録』巻第1 1年([[1506年]][[丙寅]]/[[正徳]][[1506年|1年]]) [[旧暦12月3日]](丁未)九項目]</ref>

===官僚生活===
====初期活動====
[[1507年]]2月[[賜暇読書]]によって[[刑曹佐郞]]に異動され、[[2月23日]]に[[弘文館校理]][[金世弼]]、[[弘文館副校理]][[金安国]]、[[都摠府都事]][[申鏛]]等と共に寺院建設に反対する上訴を上げた。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10201012_007&tabid=w 『中宗実録』巻第2 2年([[1507年]][[丁卯]]/[[正徳]][[1507年|2年]]) [[旧暦1月12日]](丙戌)七項目]</ref>[[2月26日]]には[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]が読書堂に親臨し御酒を授かった。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10201016_002&tabid=w 『中宗実録』巻第2 2年([[1507年]][[丁卯]]/[[正徳]][[1507年|2年]]) [[旧暦1月16日]](庚寅)二項目]</ref>[[6月3日]][[弘文館修撰]]となって[[吏曹正郞]][[金世弼]]・都摠府都事[[申鏛]]・[[吏曹佐郞]][[柳雲]]と共に[[柳子光]]を極刑に処することを上訴したが、[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]は[[柳子光]]が翊戴の功(翊戴一等功臣)があるとしてこれを容認しなかった。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10204023_006&tabid=w 『中宗実録』巻第2 2年([[1507年]][[丁卯]]/[[正徳]][[1507年|2年]]) [[旧暦4月23日]](丙申)六項目]</ref>[[11月8日]]には検討官、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10210004_001&tabid=w 『中宗実録』巻第4 2年([[1507年]][[丁卯]]/[[正徳]][[1507年|2年]]) [[旧暦10月4日]](甲戌)一項目]</ref>[[12月7日]]には[[司諫院正言]]、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10211004_004&tabid=w 『中宗実録』巻第4 2年([[1507年]][[丁卯]]/[[正徳]][[1507年|2年]]) [[旧暦10月4日]](甲戌)一項目]</ref>[[1508年]][[1月1日]][[安潤徳]]の作弊を論劾し、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10211029_001&tabid=w 『中宗実録』巻第4 2年([[1507年]][[丁卯]]/[[正徳]][[1507年|2年]]) [[旧暦11月29日]](戊辰)一項目]</ref>[[1月21日]]までに[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]に[[台諫]]<ref group="註" name="台諫">[[司憲府]]・[[司諫院]]の総称</ref>を批評する[[朴永文]]を問責し[[安潤徳]]を4度弾劾したが[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]は一度も聞き入れず、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10212007_001&tabid=w 『中宗実録』巻第4 2年([[1507年]][[丁卯]]/[[正徳]][[1507年|2年]]) [[旧暦12月7日]](丙子)一項目]</ref><ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10212013_001&tabid=w 『中宗実録』巻第4 2年([[1507年]][[丁卯]]/[[正徳]][[1507年|2年]]) [[旧暦12月13日]](壬午)一項目]</ref><ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10212016_001&tabid=w 『中宗実録』巻第4 2年([[1507年]][[丁卯]]/[[正徳]][[1507年|2年]]) [[旧暦12月16日]](乙酉)一項目]</ref><ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10212019_001&tabid=w 『中宗実録』巻第4 2年([[1507年]][[丁卯]]/[[正徳]][[1507年|2年]]) [[旧暦12月19日]](戊子)一項目]</ref>[[2月18日]]には功臣に与えられる褒賞の内に[[蔭叙制]]の部分が不正だとして取り上げたが[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]は允許しなかった。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10301018_001&tabid=w 『中宗実録』巻第5 3年([[1508年]][[戊辰]]/[[正徳]][[1508年|3年]]) [[旧暦1月18日]](丙辰)一項目]</ref>[[2月20日]]病人の母の介護の為に給暇を賜った。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10301020_002&tabid=w 『中宗実録』巻第5 3年([[1508年]][[戊辰]]/[[正徳]][[1508年|3年]]) [[旧暦1月20日]](戊午)二項目]</ref>[[1508年]][[10月31日]]から[[弘文館副校理]]、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10310008_003&tabid=w 『中宗実録』巻第7 3年([[1508年]][[戊辰]]/[[正徳]][[1508年|3年]]) [[旧暦10月8日]](壬申)三項目]</ref>[[12月31日]]朝講にて[[侍読官]]を務めた。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10312010_001&tabid=w 『中宗実録』巻第7 3年([[1508年]][[戊辰]]/[[正徳]][[1508年|3年]]) [[旧暦12月10日]](癸酉)一項目]</ref>[[1510年]][[5月13日]]に正郎に異動し、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10504006_006&tabid=w 『中宗実録』巻第11 5年([[1510年]][[庚午]]/[[正徳]][[1510年|5年]]) [[旧暦4月6日]](辛卯)六項目]</ref>[[1511年]][[5月2日]][[京畿道]]の弊端を調査するため[[暗行御史]]として出て[[衿川県]]にて官吏の不法行為を摘発したが叔父が官職にあり[[永登浦区|衿川県監]]が嗾けて断念し朝講(国王の講義)にて[[尹希仁]]の弾劾を受けた。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10604005_002&tabid=w 『中宗実録』巻第13 6年([[1511年]][[辛未]]/[[正徳]][[1511年|6年]]) [[旧暦4月5日]](甲申)二項目]</ref>[[5月21日]][[侍講官]]となり、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10604024_003&tabid=w 『中宗実録』巻第13 6年([[1511年]][[辛未]]/[[正徳]][[1511年|6年]]) [[旧暦4月24日]](癸卯)三項目]</ref>[[11月4日]][[吏曹]]と[[礼曹]]が議定して[[賜暇読書]]の文臣候補に[[李荇]]・[[柳雲]]等と共に揀択された。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10610014_005&tabid=w 『中宗実録』巻第14 6年([[1511年]][[辛未]]/[[正徳]][[1511年|6年]]) [[旧暦10月14日]](辛卯)五項目]</ref>[[6月27日]]には[[台諫]]に弾劾された臣下達が集まり[[台諫]]に恨みがあると[[台諫]]を問責すると、これを以下のように糾弾した。<ref name="金安老0">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10606003_001&tabid=w 『中宗実録』巻第14 6年([[1511年]][[辛未]]/[[正徳]][[1511年|6年]]) [[旧暦11月11日]](辛巳)一項目]</ref>
{{quotation|;原文
近來少被臺諫論劾則輒懷怨望唱言曰某臺諫與我有私嫌奸細之徒紛紜告語務相傾軋雖宰相大臣偏聽以信至啓上前此豈美事廢朝時李克均成俊爲政丞厭苦言者而其時臺諫無一言弘文館論劾盡遞朴誾時爲弘文館官員克均成俊言曰朴誾之父聃孫爲水原判官臺官推考而罷之此必朴誾中傷而然也以此馴致殄殲士類之禍今此沙汰人怨望之語大臣侍從信聽以達上前使上有疑臺諫之心甚非美事
----
;現代語訳
近頃少しでも[[台諫]]<ref group="註" name="台諫">[[司憲府]]・[[司諫院]]の総称</ref>に論劾されると、その度に恨みを抱き、声を揃えて「某氏が[[台諫]]に関与して私(我)は嫌である」と卑しい輩<ref group="註">または「奸細の輩」。意味は狡猾な臣下</ref>が入り乱れた言葉で告げて、相互が嫉妬心で簡策を企てることを<ref group="註">または「傾軋」</ref>しました。とはいえども宰相や大臣までもが信じて素直に聞き御前で申し上げて、これがどうしてすばらしい事なのでしょうか。[[燕山君|燕山代]]に[[李克均]]と[[成俊]]が政丞([[議政府|議政]])にありながら苦言を呈する者を嫌っておりましたが、そしてその時[[台諫]]は一言も言わなかったので、[[弘文館]]が論劾を尽くし[[台諫]]の官吏をすべて人事異動<ref group="註">[[逓児職]](체아직)に異動</ref>させました。この時[[朴誾]]は[[弘文館]]の官吏であり、[[李克均]]と[[成俊]]が「[[朴誾]]の父[[朴聃孫]]が[[水原府]]判官に在任中に[[司憲府]]の官吏の推考で官職を罷免されました」と言いいました。これは必ず[[朴誾]]を中傷したものです。これがきっかけで進士類を皆殺しにする災いがもたらされました。今この事態の人々の恨みの言葉を、大臣と侍従が信じて素直に聞き、すぐに御前で申し上げ、殿下を使って[[台諫]]の忠心を疑うようになることは、非常にすばらしくない出来事です。
|金安老|『中宗実録』巻第14 6年([[1511年]][[辛未]]/[[正徳]][[1511年|6年]]) [[旧暦6月3日]](辛巳)一項目<ref name="金安老0">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10606003_001&tabid=w 『中宗実録』巻第14 6年([[1511年]][[辛未]]/[[正徳]][[1511年|6年]]) [[旧暦11月11日]](辛巳)一項目]</ref>}}
[[1511年]][[11月4日]][[吏曹]]と[[礼曹]]の[[賜暇読書]]の文臣候補の1人に選ばれた。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10610014_005&tabid=w 『中宗実録』巻第14 6年([[1511年]][[辛未]]/[[正徳]][[1511年|6年]]) [[旧暦10月14日]](辛卯)五項目]</ref>[[1513年]][[3月31日]][[儀賓府]]経歴として復帰し、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10802024_002&tabid=w 『中宗実録』巻第17 8年([[1513年]][[癸酉]]/[[正徳]][[1513年|8年]]) [[旧暦2月24日]](癸亥)二項目]</ref>王命を受け教書の作成を担った。[[1514年]][[10月10日]][[賜暇読書]]によって[[議政府]]舍人となった。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10909022_001&tabid=w 『中宗実録』巻第20 9年([[1514年]][[甲戌]]/[[正徳]][[1514年|9年]]) [[旧暦9月22日]](辛巳)一項目]</ref>[[10月17日]]訪問した[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]が読書堂に親臨し御酒を授かった。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10909029_002&tabid=w 『中宗実録』巻第20 9年([[1514年]][[甲戌]]/[[正徳]][[1514年|9年]]) [[旧暦9月29日]](戊子)二項目]</ref>[[10月19日]]には文学に良く務めているとのことで[[左議政]][[鄭光弼]]からの推薦を受けた。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10910002_003&tabid=w 『中宗実録』巻第21 9年([[1514年]][[甲戌]]/[[正徳]][[1514年|9年]]) [[旧暦10月2日]](辛卯)三項目]</ref>[[10月29日]][[弘文館]]典翰に昇進し、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10910012_002&tabid=w 『中宗実録』巻第21 9年([[1514年]][[甲戌]]/[[正徳]][[1514年|9年]]) [[旧暦10月12日]]([[辛丑]])二項目]</ref>[[12月25日]]朝講で[[侍読官]]を務めた。<ref name="金安老1">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10912010_001&tabid=w 『中宗実録』巻第21 9年([[1514年]][[甲戌]]/[[正徳]][[1514年|9年]]) [[旧暦12月10日]]([[戊戌]])一項目]</ref>その際に[[侍読官]]として[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]に[[慶尚道]]の治安悪化と[[孔子廟]]の復元を以下のように論じた。
{{quotation|;原文
聞慶尙道安東風俗至惡奴殺其主者頗多其傍近如義城等處無賴者多聚爲刺客之事人皆畏其報復雖守令亦未能剪除國家宜別立禁制之條
----
;現代語訳
聞くところによると[[慶尚道]][[安東府]]は、風俗が非常に悪く、下劣の輩が仕えた主人を殺した者が偏って多いそうです。その近辺の[[義城県]]なども、無職の者達<ref group="註">または「無頼の輩」</ref>が多く集まって、刺客の仕事をしようとする為に、人々は皆報復に怯え、守令<ref group="註">地方自治体長官。ここでは[[義城県]]長官(県令)</ref>とはいえども、除去するのはまた不可能ですから、国から別に禁制させる法律が必要であります。
|金安老|『中宗実録』巻第21 9年([[1514年]][[甲戌]]/[[正徳]][[1514年|9年]]) [[旧暦12月10日]]([[戊戌]])一項目<ref name="金安老1">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10912010_001&tabid=w 『中宗実録』巻第21 9年([[1514年]][[甲戌]]/[[正徳]][[1514年|9年]]) [[旧暦12月10日]]([[戊戌]])一項目]</ref>}}
{{quotation|;原文
尊經閣在孔子廟庭而盡焚無餘至爲驚動雖已遣官致祭而不可以此塞警懼之實也當親擧盛禮慰安先聖以示崇尙禮義振起斯文之意
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;現代語訳
[[尊経閣]]は[[孔子]]の廟庭があるにもかかわらず、ことごとく燃えて残ったものがなく、その為まことに驚動いたしました。とはいえどもやむを得ず官吏を派遣し祭礼を行わない事これに、恐れている実情を塞ぐことはできません。当然殿下が盛大な祭礼を挙行され、孔子を慰安し、礼儀を崇め、[[儒教]]の振作の意味を示さなければなりません。
|金安老|『中宗実録』巻第14 6年([[1511年]][[辛未]]/[[正徳]][[1511年|6年]]) [[旧暦6月3日]](辛巳)一項目<ref name="金安老1">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10912010_001&tabid=w 『中宗実録』巻第21 9年([[1514年]][[甲戌]]/[[正徳]][[1514年|9年]]) [[旧暦12月10日]]([[戊戌]])一項目]</ref>}}

[[1515年]][[1月20日]]には[[芸文館]]応教を[[弘文館]]典翰と兼帯し、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11001006_004&tabid=w 『中宗実録』巻第21 10年([[1515年]][[乙亥]]/[[正徳]][[1515年|10年]]) [[旧暦1月6日]]([[甲子]])四項目]</ref>[[3月1日]][[弘文館]][[直提学]]に異動し、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11002016_001&tabid=w 『中宗実録』巻第21 10年([[1515年]][[乙亥]]/[[正徳]][[1515年|10年]]) [[旧暦2月16日]]([[甲辰]])一項目]</ref>[[4月20日]]に薨去した[[章敬王后]]の[[誌文]]を作成するよう懇願したが[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]は辞譲した。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11003007_002&tabid=w 『中宗実録』巻第21 10年([[1515年]][[乙亥]]/[[正徳]][[1515年|10年]]) [[旧暦3月7日]]([[甲子]])四項目]</ref>[[5月6日]][[章敬王后]]の[[誌文]]が完成した。<ref name="金安老2">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11003023_002&tabid=w 『中宗実録』巻第21 10年([[1515年]][[乙亥]]/[[正徳]][[1515年|10年]]) [[旧暦3月23日]]([[庚辰]])二項目]</ref>[[5月11日]]に[[弘文館]][[大提学]][[申用漑]]・[[成均館]]大司成[[崔淑生]]が[[諡冊文]]<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11003023_001&tabid=w 『中宗実録』巻第21 10年([[1515年]][[乙亥]]/[[正徳]][[1515年|10年]]) [[旧暦3月28日]]([[乙酉]])一項目]</ref>の「'''属代邸龍興'''」<ref group="註">邸とは王子を意味し、龍興とは王に即位することを意味し代は廃王に代わる事を意味し属はその妻になって従ったことを意味する。ここでは[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]が王位に上がった際に[[貞顕王后]]の命で[[王妃 (朝鮮)|王妃]]になったことをいう。</ref>即ち王子として王位に上った事が[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]の自称に関わり不適切だと指摘し、これを改定する句として「'''属中闈之闕位屬協元吉而定祥'''」<ref group="註">中闈は[[王妃 (朝鮮)|王妃]]の位を意味し、闕位はその地位が空白であること、即ち[[王妃 (朝鮮)|王妃]]の地位が空白になっていることを意味する。</ref>即ち[[王妃 (朝鮮)|王妃]]の地位が空白となり[[王妃 (朝鮮)|王妃]]に冊封され吉運を助けめでたいとすることを議論した。して金安老も加わり[[誌文]]<ref name="金安老2">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11003023_002&tabid=w 『中宗実録』巻第21 10年([[1515年]][[乙亥]]/[[正徳]][[1515年|10年]]) [[旧暦3月23日]]([[庚辰]])二項目]</ref>の「'''御白衣素膳'''」の句は[[朝鮮王朝]]歴代では必ず載っていて、同様のケースとして[[昭憲王后]]の[[誌文]]にもあるとして改定する必要がないと正して尚且つ「'''早失賢助神迷心乱罔知攸措'''」<ref group="註">早くに内助を失ない、精神が昏迷して、心が乱れ途方にくれない</ref>は過剰な表現だとして必要ないと定義した。[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]はこの二件を承諾した。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11003028_001&tabid=w 『中宗実録』巻第21 10年([[1515年]][[乙亥]]/[[正徳]][[1515年|10年]]) [[旧暦3月28日]]([[乙酉]])一項目]</ref>[[6月5日]][[司憲府]]の論駁を受けて[[弘文館]]一同辞職して嫌疑を避けるように懇願を5回行ったが[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]は允許せず、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11004123_004&tabid=w 『中宗実録』巻第22 10年([[1515年]][[乙亥]]/[[正徳]][[1515年|10年]]) 閏[[旧暦4月23日]]([[庚辰]])四項目]</ref>同日読書堂にいた官吏が[[司憲府]]に論劾されたが自分は不能な人間だと称し嫌疑を持たないように再度懇願し[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]は[[司憲府]]と[[該司]]に金安老が適任かを調査するよう命じた。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_11004123_006&tabid=w 『中宗実録』巻第22 10年([[1515年]][[乙亥]]/[[正徳]][[1515年|10年]]) 閏[[旧暦4月23日]]([[庚辰]])六項目]</ref>

====諫官として====
[[6月16日]][[吏曹]]と[[礼曹]]と各[[大提学]]により[[賜暇読書]]の文臣候補の1人に選ばれた。[[11月14日]]昼講の際に[[侍講官]]となった。
{{quotation|;原文
求言欲弭災變也當使人人爭陳所懷用其可用者而不用其不可用可也朴祥金淨應求言 上封事之後以其謬妄罪之雖當然人皆必以言事爲戒矣大抵人之所見有邪正而計較之或有所失雖賢者亦不能免焉朴祥等今雖放之誰不知其所失哉
----
;現代語訳
臣下の直言は変乱を終わらせるためのものです。人たびに先を争って考えを申し上げもので、その中で書くべきことは、書いて書くことも当然ないことは書かないとされるが、
|金安老|『中宗実録』巻第21 9年([[1514年]][[甲戌]]/[[正徳]][[1514年|9年]]) [[旧暦12月10日]]([[戊戌]])一項目<ref name="金安老1">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10912010_001&tabid=w 『中宗実録』巻第21 9年([[1514年]][[甲戌]]/[[正徳]][[1514年|9年]]) [[旧暦12月10日]]([[戊戌]])一項目]</ref>}}

































====王位====
===出生と家系===
====王位====
====王位====
====王位====
===出生と家系===
====王位====
====王位====
====王位====
===出生と家系===
===出生と家系===

==家系==
{|class="wikitable" style="font-size:85%;"
!colspan="4"|続柄!!諱!!爵位!!存命期間!!備考
|- style="text-align:center;"
|colspan="4" style="border-bottom-style:none;"|祖父||[[金友臣]]||||[[1424年]] - [[1510年]]||
|- style="text-align:center;"
|colspan="4" style="border-bottom-style:none;"|母后||||'''[[章敬王后]]'''||[[1491年]] - [[1515年]]||
|- style="text-align:center;"
|colspan="4" style="border-bottom-style:none;"|祖父||[[金訢]]||||||
|- style="text-align:center;"
|colspan="4" style="border-bottom-style:none;"|父||[[金安老]]||||[[1481年]] - [[1537年]]||
|- style="text-align:center;"
|colspan="4" style="border-bottom-style:none;"|正妻||[[李玉荷]]||[[孝恵公主]]||[[1511年]][[5月18日]] - [[1531年]]||
|-
|rowspan="2" style="border-top-style:none;"| 
|colspan="3"|一女||[[金善玉]]||||||
|-
|colspan="3"|婿||[[尹百源]]||||||[[文定王后]]の弟[[尹元老]]の息子
|-
|}
==外部リンク==
*[http://sillok.history.go.kr/inspection/inspection.jsp?mState=2&mTree=0&clsName=&searchType=a&keyword=%E9%87%91%E5%AE%89%E8%80%81 朝鮮王朝実録サイト"金安老"検索結果]
*[http://sjw.history.go.kr/inspection/search_result_list.jsp?oflag=0&M=0&query=%E9%87%91%E5%AE%89%E8%80%81&selK=1&selT=1&query_ime=%3Cspan+class%3D%22newbatang%22%3E%E9%87%91%E5%AE%89%E8%80%81%3Cbr+%2F%3E%3C%2Fspan%3E 承政院日記サイト"金安老"検索結果]
*[http://www.koreanhistory.or.kr/srchservice/total/procSrchService.jsp?pSearchType=&pURL=&pSearchMainClassID=&pSearchSubClassID=&pPageLine=&pOrderByType=&url=http%3A%2F%2Fthesaurus.history.go.kr&method=SearchSrv&code=UTF-8&return=%2Fthesaurus%2FlistMainThesaurusSearch.jsp&param=&pSearchWord=%E9%87%91%E5%AE%89%E8%80%81&x=0&y=0 韓国歴史統合システム"金安老"検索結果]
*[http://db.history.go.kr/front2010/srchservice/srcFrameSet.jsp?pSearchWord=%E9%87%91%E5%AE%89%E8%80%81&pSearchWordList=%E9%87%91%E5%AE%89%E8%80%81&pSetID=-1&pTotalCount=0&pSearchType=1&pMainSearchType=2&pQuery=%28BI%3A%28%E9%87%91%E5%AE%89%E8%80%81%29%29&pSearchClassName=&oid=&url=&method=&lang=&code=&searchword=&return= 韓国史データベース"金安老"検索結果]
*[http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Contents?contents_id=E0009722 韓国学中央研究院-金安老]
==脚注==
{{Reflist|2}}
==注釈==
{{Reflist|group=註}}
[[Category:李氏朝鮮の文臣]]
王族原型
{{基礎情報 李氏朝鮮の王族
|名=南延君
|爵位=正二品君
|宗親階=承憲大夫<ref>大典会通では資憲大夫。位階正二品相当。</ref>
|画像=
|説明=
|璿源=[[荘祖]]
|代数=二
|続柄=[[李秉源]]第二子
|諱=李球
|諱諺文=이구
|諱発音=イ・グ
|号=
|称号=南延君
|称号諺文=남연군
|称号発音=ナンミョングン
|初名=漢字:采重<br/>諺文:채중<br/>発音:チェジュン
|諡号=漢字:栄僖・忠正<br/>諺文:영희・충정<br/>発音:ヨンヒ・チュンジョン
|官職=[[守園官]]・[[守陵官]]
|生年=[[1788年]]
|没年=[[1836年]]
|生父=[[李秉源]]
|父=[[恩信君]]
|母=南陽洪氏
|配偶者=郡夫人驪興閔氏
|子女=[[興寧君]]<br/>[[興完君]]<br/>[[興寅君]]<br/>[[興宣大院君]]
|墓=[[南延君墓]]
|埋葬地=[[忠清南道]][[礼山郡]][[伽倻山]][[報徳寺]]
|注釈=<references />
}}

'''南延君'''(남연군、ナミョングン、[[1788年]] - [[1836年]])は[[李氏朝鮮時代]]後期の王族、儒学者。字は「時伯」、諡号は「栄僖」、「忠正」、本名は李球(이구、イ・グ)。父[[李秉源]]と母南陽洪氏の次男である。すでに曾祖父の代で王族としての待遇は終わっており、父李秉源は[[常民]]同様の暮らしをしていたとされる。[[両班]]以下の暮らしを南延君も過ごしていたが、恩信君の家督の復権により封君された。とはいえ[[勢道政治]]期に官職に任官したので、[[守園官]]などの末端職しか経験していない。しかし他の王族は凋落しており、時の王族を代表したの南延君であり、純祖から保護を受けた。四男に[[興宣大院君]]がおり、四男以降の血統は王統となっている。また死後、[[徳山郡]]にあった自らの墓の副葬品をドイツ商人オッペルトに毀損された事でも知られる。

==生涯==
===出生と家系===
[[1788年]]に[[李秉源]]と[[南陽洪氏]]の次男として南延君は出生する。家系は[[仁祖]]の三男の[[麟坪大君]]の直系にあたる子孫であった。ちなみに五代祖の[[福寧君]]は粛宗期の激しい権力闘争に呑み込まれずに王族としての身分を維持していたが、王族の待遇は曾祖父[[安興君]]の代で終わっており、祖父[[李鎮翼]]はなんとか官職に就けたが、父李秉源は進士どまりであった。後に大院君などによって李秉源は贈領議政となるがいづれも常民同様の生活をしていた。とはいえ父から少々漢学を学んだ。

===璿派人時代===
[[1815年]][[旧暦12月19日]]の[[恩信君]]の死後、判敦寧府事[[李彦植]]が親戚を含む三家の門長を集めて会合した結果、采重(南延君)は譜冊に登録され、「采重」から「球」に改名し、「'''南延君'''」の爵号を受けて家督を承襲することになった。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=kwa_11512019_005&tabid=k 朝鮮王朝実録 純祖 18卷, 15年(乙亥 / (嘉慶) 20年) 12月 19日(己巳) 5件目]</ref>翌日[[旧暦12月20日]]に[[純祖]]に召見されて堂上し、[[永祐園]]の移動の議論<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wwa_11512020_001&tabid=w 朝鮮王朝実録 純祖 18卷, 15年(乙亥 / (嘉慶) 20年) 12月 20日(庚午) 1件目]</ref>の後に、[[守園官]]に選出され、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wwa_11512020_005&tabid=w 朝鮮王朝実録 純祖 18卷, 16年(乙亥 / (嘉慶) 20年) 12月 20日(庚午) 5件目]</ref>翌年[[1816年]][[旧暦7月13日]]に前正言李履熙が南延君の[[守園官]]としての悪行を咎め上疏された時は<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wwa_11607013_001&tabid=w 朝鮮王朝実録 純祖 19卷, 15年(丙子 / (嘉慶) 21年)  7月 13日(庚申) 1件目]</ref>、席藁待罪して、[[旧暦7月15日]]に純祖は刑を与えないとした。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wwa_11607015_002&tabid=w 朝鮮王朝実録 純祖 19卷, 15年(丙子 / (嘉慶) 21年)  7月 15日(丙子) 2件目]</ref>[[1817年]][[旧暦12月15日]]には承憲大夫<ref>大典会通では資憲大夫。位階正二品相当。</ref>に加資され、鞍具馬・奴婢・田結を下賜された。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wwa_11712015_002&tabid=w 朝鮮王朝実録 純祖 20卷, 17年(丁丑 / (嘉慶) 22年) 12月 15日(甲申) 2件目]</ref>[[1819年]][[旧暦12月9日]]には[[守陵官]]に昇格したが、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wwa_12103009_004&tabid=w 朝鮮王朝実録 純祖 23卷, 21年(辛巳 / (道光)  1年)  3月  9日(己未) 4件目]</ref>1822年[[旧暦12月15日]]に事故に遭遇した為に退官した。<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wwa_12211013_001&tabid=w 朝鮮王朝実録 純祖 25卷, 22年(壬午 / (道光)  2年) 11月 13日(己未) 1件目]</ref>[[1823年]][[旧暦3月11日]]には熟馬を加資され、[[1825年]]には六代祖麟坪大君の遺稿である[[松渓集]]を先大王が下賜した祭文などを加えて出版することを上疏して受諾され、<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wwa_12506011_003&tabid=w 朝鮮王朝実録 純祖 27卷, 25年(乙酉 / (道光)  5年)  6月 11日(丁卯) 3件目]</ref>[[1828年]][[旧暦4月13日]]陳賀正使となり辭陛して清に赴いた。また宗親府謄錄を編纂したり、1834年[[旧暦11月13日]]に宗戚執事に選出されるなど、王族としての元来の責務を果たした。郡夫人驪興閔氏と婚姻し、4人の男子を儲けた。その中で四男李昰応(興宣大院君)の才能が長けていることに気づき、恩信君の従兄弟であった名士金正喜に頼み込み李昰応を門下生にしてもらった。1836年に病死する。

===死後===
死後は京畿道漣川郡に埋葬され父母喪と三年喪終えた後に風水師によって忠清南道礼山郡伽倻山の石塔に移される。後に高宗によって伽倻山に報徳寺を建立された。他にも1866年にドイツ商人オッペルトが墓の副葬品を盗掘して開国をせまる事件が起こった。だがオッペルトは副葬品を守る巨大な石によってさえぎられ、帰路で朝鮮の兵士にめぐり合わせ脱出し、帰国後罪科に問われるが、四男の大院君は激怒し、棺を純祖の廟庭に配向され、鎖国・攘夷政策を強化するに至った。墓地は1989年12月29日忠清南道記念物第80号に指定された。

==家系==
===祖先===
{| style="font-size: 85%" class="wikitable" 
|-
!続柄 || 称号 || 称号諺文 || 名 || 名諺文 || 存命期間 || 備考
|-
|六代祖
|'''[[麟坪大君]]'''
|인평대군
|李濬
|이요
|1622年 - 1658年
|仁祖の三男
|- 
|五代祖
|[[福寧君]]
|복녕군
|李栯
|이유
|1639年 - 1670年
|
|-
|高祖父
|[[義原君]]
|의원군
|李爀
|이혁
|1661年 - 1722年
|
|-
|曾祖父
|[[安興君]]
|안흥군
|李琡
|이숙
|1693年 - 1763年
|
|-
|祖父
|
|
|[[李鎮翼]]
|이진익
|1728年 - ?
|
|-
|実父
|
|
|[[李秉源]]
|이병원
|1756年 - 1822年
|
|-
|養父
|[[恩信君]]
|은신군
|李禛
|이진
|1755年 - 1771年
|
|-
|母
|
|
|南陽洪氏
|남양홍씨
|
|
|-
|}

===妻子===
{| style="font-size: 85%" class="wikitable" 
|-
!続柄 || 称号 || 称号諺文 || 名 || 名諺文 || 存命期間 || 備考
|-
|正妻
|[[郡夫人]]
|군부인
|驪興閔氏
|여흥민씨
|
|
|- 
|長男
|[[興寧君]]
|흥녕군
|李昌応
|이창응
|1809年 - 1828年
|
|-
|次男
|[[興完君]]
|흥완군
|李晸応
|이정응
|1815年 - 1848年
|
|-
|三男
|[[興寅君]]
|흥인군
|李最応
|이최응
|1815年 - 1882年
|
|-
|四男
|[[興宣大院君]]
|흥선대원군
|李昰応
|이하응
|1820年 - 1898年
|
|-
|娘
|
|
|李氏
|
|
|
|-
|}
== 系図 ==
南延君の親類・近親・祖先の詳細
{{Template:璿源譜略/荘祖}}
{{李氏朝鮮後期系図}}

==外部リンク==
*[http://sillok.history.go.kr/inspection/inspection.jsp?mState=2&mTree=0&clsName=&searchType=a&query_ime=%EB%82%A8%EC%97%B0%EA%B5%B0&keyword=%EB%82%A8%EC%97%B0%EA%B5%B0 朝鮮王朝実録サイト"南延君"検索結果]
*[http://sjw.history.go.kr/inspection/search_result_list.jsp?oflag=0&M=0&query=%E5%8D%97%E5%BB%B6%E5%90%9B&selK=1&selT=1&query_ime=%3Ch1+id%3D%22firstHeading%22+class%3D%22firstHeading%22+lang%3D%22ja%22%3E%3Cspan+dir%3D%22auto%22%3E%E5%8D%97%E5%BB%B6%E5%90%9B%3C%2Fspan%3E%3C%2Fh1%3E 承政院日記サイト"南延君"検索結果]
*[http://www.koreanhistory.or.kr/srchservice/total/procSrchService.jsp?pTitle=&url=http%3A%2F%2Fthesaurus.history.go.kr&method=SearchSrv&code=UTF-8&return=%2Fthesaurus%2FlistMainThesaurusSearch.jsp&param=&pSearchWord=%E5%8D%97%E5%BB%B6%E5%90%9B&x=0&y=0 韓国歴史統合システム"南延君"検索結果]
*[http://db.history.go.kr/front2010/srchservice/srcFrameSet.jsp?pSearchWord=%E5%8D%97%E5%BB%B6%E5%90%9B&pSearchWordList=%E5%8D%97%E5%BB%B6%E5%90%9B&pSetID=-1&pTotalCount=2&pSearchType=1&pMainSearchType=2&pQuery=%28BI%3A%28%E5%8D%97%E5%BB%B6%E5%90%9B%29%29&pSearchClassName=&oid=&url=&method=&lang=&code=&searchword=&return= 韓国史データベース"南延君"検索結果]

==脚注==
{{Reflist}}

{{DEFAULTSORT:なんえんくん}}
[[Category:李氏朝鮮の王族]]