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利用者:Revolution will/text/1

李朝二十三世 純祖の朝 (日本光格天皇享和元年・清仁宗嘉慶六年)

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正祖の第二子、諱は玜、字は公宝、在位三十四年、寿四十五、仁陵(広州に在り)に葬る。

〔一〕純祖の君道篇とご刑獄論

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正祖文治に励精し、大に為す有らんとせしに、在位二十四年四十九歳、未だ其抱負の一端
を行ふに過ぎずして薨ぜり、純祖幼冲なりと雖も、父王の気を享け文学に熱心し常に講筵に
御して曰く、先君の賢明予は素より及ばずと雖も、今日君臣上下の交を深くし、以て治国の
策無かる可らずと。知事金祖淳曰く、聖教此に及び覚へず欽仰すと。三年十二月、純祖
は自警の語を編して君道篇と云ひ、之を大臣に示す、其文に曰く。
一、敬天 二、愛民 三、慎祀 四、篤厚 五、節倹 六、任賢 七、納諫 八、慎刑
其敬天に曰く、天を敬するは誠に過ぐるは無し、誠は則ち宝に人君が天に法り、治を為さん

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と欲する也、誠を棄て何を以てせん哉、古人言ふ天の人君に警告するは、父の子を責むる
が如し。警は則ち之れ愛也、英廟五十年の御極は、敬天の二字を以て心に存じ、甞て大風
雨及ひ日気の和に乖く時を於て、夜と雖も必らず冠を整え、危坐して左右に告げて曰く、
或は予に過失有りて此警告を致す乎と、仍て潜かに口祝の辞を為す。皆自ら警むる也、静
摂中に頻りに臣僚と臥内に接し、天に語及すれば輙ち扶け起さしめ以て敬を致せり、予小
子は夙夜に継述せん哉と。
其愛民曰く、列聖相承け民を愛するを以て、国家の法と為す。民なる者は至愚にして神
也、人君は九重の中に処り仁義を行ひ、無私なれば則ち民歸す。君の行ふ所亳厘も盡さざ
れば則ち民背く。民の歸する民の背くは、水の流れの如く之を能く禦ぐ莫し、人君は天の
子也、民は君の子也、赤子飢寒すれば則ち其父母たる者は、之をして飢寒無からしむ、凡そ
人必らず鰥寡孤独を侮る者は他無し、弱ければ也、故に文王は此四者を先にす、古へより
帝王の民を愛するは、則ち四者を哀衿するを以て先と為す。故に其国治まると。
其慎祀に曰く、之を祭るに至誠を以てすれば、則ち其祖必らず饗す。我が英考及び先朝は祭

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享の時に当りて、小祀と雖も必らず衣を整へ端座し、享を撤する後始めて寝に就く、予甞
て先朝に仰視せし所也、敢て継述せざんらん哉と。
其篤厚に曰く、孝なる者は百行の源也、天下の人孝を捨てば以て人を為す可からず、况ん
や人君をや、我列聖至誠の孝は、養に当りては志を奉じ、喪に臨みては哀働す 英廟は誕
辰に当りて蓼莪章を宝慶堂に読む。堂は則ち英廟誕降の堂也、先廟は殿宮に事へて至孝に
して璿源殿景慕宮に展拜し、静摂の時と雖も 未だ曾て之を廃せず、予の目観する所、
敢て仰軆せざらん哉と。
其節倹に曰く、人君節倹して然る後天下も亦節倹す。著侈は中主の耻る所聖主の斥くる所
也、夙に我列聖は節倹を以て家法と為す。予も亦体念する也と。
其任賢に曰く、人君にして賢を用ひざれば則ち小人進み、賢を用ゆれば則ち小人退く。国
の治乱係ると。
其納諫に曰く、君心先づ正しく始めて言を聴く可し、君子の言は君の心に逆ふ、人君は以て
道に非ずと為す、小人の言は君の心に順ふ、人君以て忠を盡すと為す、惜まざる可けん哉諫

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を納るゝの逅は己れを虚ふするに在り、己れを虚ふするの道は克譲に在り、舜は温恭なり、
故に能く受く、丹朱が傲の戒の如き無くんば奚んぞ天下を平治せん、予一人以て述ぶと。
其慎刑に曰く、刑なる者は聖主の己むを得ずして用ゆる也、故に欽め哉欽め哉、惟れ刑を之
を恤ふ哉、我先朝は刑官の奉献するに当り、反覆商量し、必ず審かにし必ず慎み、夜の
四五鼓に至るも寝に就かず、必ず生かす可きの道を思ひ、軽き者は之を赦し、重罪も疑
はしきは惟れ軽くするの意有る也と。
純祖は更に国朝宝鑑を講じ、世祖の朝の刑獄を識するの事に至り、論じて曰く。
刑獄は情を得ること難くして、中を失ふこと易し、刑獄の官は文法に拘して其冤を知ると
雖も、而も敢て法を屈し原怒の論を為さず、何を以てせば文案の中に於て能く其冤状を察
せん耶、古語に曰く、皐陶曰く 殺さんと、帝曰く宥せと、盖し皐陶は殺を主とするを謂
ふ、而して張釋之の廷尉と為るや、乃ち蹕を驚かし、器を盗むの罪を寛怨せんと欲す、况
んや皐陶の賢者をや、過ちを宥すより大なるは無く、罪の疑はしきは惟れ軽くすとは、則
ち皐陶が舜を賛するの言なれば 則ち皐陶も亦未だ甞て寛厚に依らずんばあらず、今を以

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て之を観るに、常に文法に拘抳し輙ち鐡案なる者は何等の獄情ぞや、但
に殺獄のみならず、或は廰断不明にして滞囚の類有らば、則ち此れ安んぞ和気を傷損せざ
るを得ん乎と。

〔二〕純祖政事紀年

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元年、天主教大に滋蔓し教を奉ずる者日に加はる、純祖大に之を憂ひ其沈溺の尤もなる者を
誅し改め悔ゆる者は之を宥す、依て各道に命じて常に禁壓を加へしむ。
周文謨なる者は清国蘇州の人宣教師に従て潜かに来り男女を誘拐し法擅を設けて教習す、韓
廷之を捉へて軍門に梟首し、庶民を警む、韓人黄嗣永なる者亦天主教の信徒なるが、文謨捕へ
らるゝに及び機を見て亡命し、潜かに不軌を懐き洋艦を迎へんとするの謀あり、将に洋人を
伝送せんと欲す、是に於て事発覚し大逆律に中てらる。
二年夏四月、命じて仁寅の禍に死せる人金龍澤、李喜之、李天紀、沈尚吉、鄭麟重に特に褒
贈を賜ひ、後孫宮人墨世を録用し、旧第を贖還し移して其門に旌す。
三年、王は妹淑善主の下嫁するや、親ら女訓七篇女戒六章を製し以て之を賜ふ、進講に御し

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詩賓の初筳を講ず、領事李時秀曰く、此詩は即ち衛の武公が酒を飲み過ちを悔ひて作る也
と、奏未だ畢らざるに王曰く、是の若く過を悔て作らば、則ち失徳追悔の言有るに似たり、
而も一篇の中に初めより自反の句語無し、此れ悔過の作に非ず、乃ち垂戒の詩也と、時秀曰
く然り矣。
四年春五月、勧農の綸音を頒ちて曰く、国は民を以て本と為し民は農を以て本と為す、農の
本は勤に在り、人力を致さずして能く豊年を致すを聞かざる也、耕を省き不足を補ひ民時を
奪はざるは長吏の勤め也、南畝