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利用者:Rikugigcmen/sandbox

1.「吉保の隠居と晩年」の項

「綱吉がたびたび訪れた六義園・・・」とあるが、その根拠は何か?  将軍綱吉が柳沢吉保邸に58回もの御成をしたことは確かなようだが、それはすべて江戸城の大手門近くにある上邸であったと思われる。大手門付近は御曲輪内大名小路と呼ばれ、老中や若年寄・町奉行それに親藩などに割り当てられた。特に吉保は元禄4年2月に大手門に近い場所を拝領し、御成御殿まで造営した。同僚(後輩)の松平輝貞や黒田直邦また老中など、御成先の多くはこの一帯であったと思われ、ここへの御成は警護上の問題もほとんどない。また、江戸時代の大藩はほとんどが上邸・中邸・下邸を持っていたというのが常識であり、上邸への御成が下邸である「六義園」まで来たということにはならない。2021年3月5日 柳沢吉保ウォッチャー

2.柳沢吉保に関する噂  綱吉・吉保に関する悪評を、「俗説によれば」「一説には」と取上げて紹介し、後段で、噂話の出所が『護国女太平記』であろうと捉えて、「それは信憑性がないものとされることが多い」と評しているが、この解説の仕方は適切とはいえない。 『護国女太平記』はそもそも実記ではなく創作物であり、それも綱吉・吉保没後に作られ発刊されたと思われる。登場人物は実名ではなく、綱吉・吉保に仮託して書かれたようだが、それは両者を貶めようと悪意を持って書かれたと評するのが適当である。なお『護国女太平記』の流通は江戸時代にはまだ限定的であって(信鴻の遺した宴遊日記にはその影響は見られない)、おそらくは明治以降に、他のドラマや小説に引用されて広まったと思われる(「宴遊日記」参照)。『護国女太平記』から派生したであろう噂話を、「俗説によれば」「一説には」と一般化して解説するのは不適切である。2021年3月5日 柳沢吉保ウォッチャー

3.『鸚鵡籠中記』中の噂について  この部分は、福留真紀氏の著述の引用のようだが、吉里が謀反を企てていたとする噂が本当に流布していたとすれば、(尾張藩の下級武士の耳にも入ったのだから)それは当然幕府の耳にも届いたであろうと推測される。それが常識的な捉え方である。謀反はお家の取り潰しもあり得る重罪であり、それが事実とすれば(噂だけであっても)吉里は厳しい詮議を受けお咎めを受けたであろうと考えるのが自然である。実際には(公的世界では)そういう話は全く聞こえて来ない。逆に八代将軍吉宗から、吉里が甲斐から大和郡山へ転封となった際に、吉里の弟である経隆・時睦に対しても各1万石が与えられている。謀反の噂が流布していたということ自体、まったく信憑性に欠けるものである。 また、従来の社会では「噂は噂を呼び、尾ひれがついて話が膨らむ」のが常識である。老中・小笠原長重の50万石の話もその延長上にあるが、福留氏は著述の後段でその背景を記している。部分的に噂話だけを取り上げて他を省略するのは、噂話と同様大きな誤解をもたらすもので不適切である。2021年3月5日 柳沢吉保ウォッチャー

4.「その他」の項 『吉保の有名な言葉に「泰平の世の中で、出世をするのは、金と女を使うに限る」』とあるが、この言葉の出所は何か?典拠を明確に示してもらいたい。 仮に「護国女太平記」や「三王外記」等からの引用とすれば、これらは実記ではなく、これをさも本人が言ったかのような取り上げ方は吉保を冒涜する重大な問題である。 世間にはほとんど知られていないが、吉保が嫡男吉里に与えた「庭訓」をみれば、吉保はこの正反対の人物であったであろうと考えられる。(「吉里に与えた庭訓」は柳沢文庫蔵) 2021年3月5日 柳沢吉保ウォッチャー