利用者:Rinden-4095/sandbox
幕末の安政2年(1855年)になると御用の量が半減し、文久2年(1862年)には木綿の進出で生産が激減する事態となった。綟子(つもじ)は、遅くとも江戸時代初期から2021年現在の三重県津市安濃地域周辺で明治時代頃まで綟り織(もじりおり)の手法で織られていた薄く透きとおる織物である。夏の衣料に適している。将軍家への献上品とされたり、庶民の普段着として幅広く着られた。材料として麻または苧麻などが使われた。
2021年現在、現存が確認されているものに、肩衣(三重県立総合博物館蔵1点、四日市市楠町郷土資料館蔵1点)、襦袢地(芸濃町椋本、旧駒田家)、つもじ布切れ(安濃町古川家)、黒羽織(津市安濃郷土資料館)がある。
2009年頃から、地元グループが津綟子を再現しようと活動している。
特徴
[編集]綟子(綟)とは織物組織の一種で搦み織ともよばれる。織り方の原理は2本の経糸が緯糸をはさんで綟る(ねじる)ようにして織られる。そのため織り目に一定の整然とした隙間が生じるようになり通気性が良い。現在のレースやカーテン地、網などにもこの方法が用いられている。[1]
津綟子は、江戸時代には全国的にも名産として「津綟子」「伊勢綟子」と呼ばれていた。[2]
三重県の県指定文化財(工芸品)に、「津綟子肩衣」があり、経糸に精緻に製糸された苧麻糸を2本、緯糸に絹糸1本が用いられ、布の反対側が透けて見えるほど細かい隙間が生じている。[3] 通気性が高いため夏の衣服に用いられ、武家の肩衣(かたぎぬ)、帷子(かたびら)、袴(はかま)、素襖(すおう)などに使用されたほか、蚊帳(かや)としての用途もあった。[4]
幕末の安政2年(1855年)になると御用の量が半減し、文久2年(1862年)には木綿の進出で生産が激減する事態となった。綟子(つもじ)は、遅くとも江戸時代初期から2021年現在の三重県津市安濃地域周辺で明治時代頃まで綟り織(もじりおり)の手法で織られていた薄く透きとおる織物である。夏の衣料に適している。将軍家への献上品とされたり、庶民の普段着として幅広く着られた。材料として麻または苧麻などが使われた。
2021年現在、現存が確認されているものに、肩衣(三重県立総合博物館蔵1点、四日市市楠町郷土資料館蔵1点)、襦袢地(芸濃町椋本、旧駒田家)、つもじ布切れ(安濃町古川家)、黒羽織(津市安濃郷土資料館)がある。
2009年頃から、地元グループが津綟子を再現しようと活動している。
特徴
[編集]綟子(綟)とは織物組織の一種で搦み織ともよばれる。織り方の原理は2本の経糸が緯糸をはさんで綟る(ねじる)ようにして織られる。そのため織り目に一定の整然とした隙間が生じるようになり通気性が良い。現在のレースやカーテン地、網などにもこの方法が用いられている。[5]
津綟子は、江戸時代には全国的にも名産として「津綟子」「伊勢綟子」と呼ばれていた。[6]
三重県の県指定文化財(工芸品)に、「津綟子肩衣」があり、経糸に精緻に製糸された苧麻糸を2本、緯糸に絹糸1本が用いられ、布の反対側が透けて見えるほど細かい隙間が生じている。[7] 通気性が高いため夏の衣服に用いられ、武家の肩衣(かたぎぬ)、帷子(かたびら)、袴(はかま)、素襖(すおう)などに使用されたほか、蚊帳(かや)としての用途もあった。[8]
- ^ 安濃町史編纂委員会『安濃町史 通史編』安濃町、1999年10月30日、p.300
- ^ 安濃町史編纂委員会『安濃町史 通史編』安濃町、1999年10月30日、p.298
- ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子ー歴史に見る郷土の技ー』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、p.2
- ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子ー歴史に見る郷土の技ー』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、p.2
- ^ 安濃町史編纂委員会『安濃町史 通史編』安濃町、1999年10月30日、p.300
- ^ 安濃町史編纂委員会『安濃町史 通史編』安濃町、1999年10月30日、p.298
- ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子ー歴史に見る郷土の技ー』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、p.2
- ^ 三重県伝統染織研究会『津綟子ー歴史に見る郷土の技ー』三重県伝統染織研究会、2010年3月1日、p.2