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利用者:S kitahashi/ドラフト2

スコットランド啓蒙(-けいもう、the Scottish Enlightenment)とは、スコットランドにおける知的醸成が盛んだった1740年1800年の期間をさす。ヨーロッパにおける啓蒙思想の先駆となった。

1707年合同法いらい、スコットランドは劇的な変化をとげつつあった。スコットランドの大学出身の学者がヨーロッパ各地で教鞭をとり、教育分野で先進的存在となった。またイギリス帝国の拡大は、多様な思想をスコットランドに流入させることになり、哲学研究の発展をもたらした。

啓蒙の前提[編集]

ブリテン連合王国のなかで[編集]

18世紀初頭、ヨーロッパで最貧国ともいわれたスコットランドの知識人たちは、イングランドへの対抗意識にかわって、ブリテン連合王国の一員として、広がりつつあったヨーロッパ世界に目を向けつつあった。 18世紀中頃になって、ようやくイングランドとの合同による経済復興が実現し、高度成長を遂げていた。経済上の利益は、同時に知的発達をも誘引した。スコットランドは世界に先駆けて公的教育制度が整備された国であった。

こうした経済・知識両面の刺激は、当地の知識人たちに、いままで当然と考えられてきたことへの疑問と再検証をひきおこした。さらに「古い同盟」以来のフランスとの関係や啓蒙時代のヨーロッパの変動のなかで、スコットランド人たちはヒューマニズムから独自の実学分野を発展させ、ヴォルテールが「我々の文明へのアイデアのすべてはスコットランドによるものである」と言うまでになった。

各分野におけるスコットランド啓蒙[編集]

道徳哲学[編集]

スコットランド啓蒙の先駆的存在は哲学者フランシス・ハチソンとされる。ハチソンはグラスゴー大学1729年から1746年までの間教授職にあり、ホッブズヒュームに異議をとなえた道徳哲学論を展開した。ハチソンの主張は功利主義結果主義に基づき、この二つによって最大多数の最大幸福を実現できるとした。

代表的なスコットランド啓蒙の人物として挙げられるのがヒュームである。ヒュームの道徳哲学は、

歴史学[編集]

政治学[編集]

経済学[編集]

啓蒙の終焉[編集]

啓蒙思想はローマや旧約聖書など古典の軽視を包含していた。19世紀に入ると、ロマン主義キリスト教敬虔主義キリスト教根本主義が主流をなし、合理性を重んじる思想は傍流となった。さらにイングランドで保守的な動きが目立ち、スコットランドの大学に政治介入し、啓蒙思想家を教育機関から排除した。これによってジェームズ・ミルらは教鞭をとることができず、スコットランド啓蒙の動きは下火となった。

海外への波及[編集]

参考文献[編集]

en:Scottish Enlightenmentおよび、

  • 犬塚元「ヒュームの「完全な共和国」論:ローマ、ハリントン、政治対立」[1]
  • 坂本達哉「スコットランド啓蒙における学問の国と社交の国」、『一橋大学社会科学古典資料センター 年報』第22号、2002年。
  • 田中英夫『啓蒙と改革──ジョン・ミラー研究』、名古屋大学出版会、1999年。ISBN 4815803714

外部リンク[編集]