利用者:S kitahashi/修正削除主義

修正削除主義(しゅうせいさくじょしゅぎ、Modified Deletionism)とは、削除主義を批判的に継承したウィキフィロソフィーである。削除主義は百科事典としての質を高めようとするものであるとして一定の支持をしながらも、衆知の結集をより重んじ、開かれた百科事典としてのウィキペディアをめざす価値観である。

従来の削除主義への批判

削除主義は、十分な文献および調査に基づかない記事、短い記事はその存在を認めず、削除するのが望ましいとする。しかしこれは、ウィキペディアンを選別する面も有している。すべてのウィキペディアンが、始めから十分なリサーチの訓練を受けているわけではない。ウィキペディアにかかわるなかで、他者の執筆した記事に触発されたり、時には批判されたりしながら成長する。であれば、誤謬や論争および情報の不足を理由とする削除には、必ずしも賛同できるものではない。

ウィキペディアは既存の百科事典とは異なり、著作権フリーで、開かれている。この意味を軽視し、百科事典としての質を求めすぎる従来の削除主義を批判し、ウィキペディアの独自性を再評価することに一定の価値を置く。

継承的側面

いっぽうで修正削除主義は、そのままではないにしても、削除主義から継承したものも有している。削除主義が唱える百科事典としてのクオリティを求める姿勢そのものには賛同し、個々の記事の質を高めることに力点をおく。そのために基幹記事・衛星記事という概念を用いる。

削除主義が一見強権的ともとれる立場を表明するのは、論争の絶えない記事、信頼性の低い記事などの氾濫によって、ウィキペディアそのものの信頼性が押し下げられ、結果的に専門家からの距離をより遠ざけてしまうことを危惧するからである。この懸念そのものは考慮されるべきであるとする。

関連性の重視

トリビアやナレッジがウィズダムに昇華するのはふたつの場合がある。ひとつは知識が生活・行動に根ざしたときで、これは個々人の実生活に踏み込む議論となり、ウィキペディアの守備範囲を越える。より重視されるもうひとつのケースは、既存の知に結びつくかたちでのナレッジである。自分とは何か。世界とは何か。我々はどこから来て、どこへ行くのか。あらゆる学問の根源は、この3つに集約されるといわれる。これに答えるために知がある以上、既存の知を膨らませたり、時には再構成したりすることに新しい知の存在意義がある。このとき、記事を知の単位のひとつとすれば、それは既存の記事や知識と関連づけられることが望ましい。

包摂主義への批判

包摂主義においては、ウィキペディアにページ数の制限がないことなどの理由から、規模の拡大は何ら害を及ぼさないという姿勢が一般的である。修正削除主義が包摂主義に投げかける疑問はふたつである。#継承的側面で述べられた信頼性への懸念がひとつであり、いまひとつは「いつの日か加筆されるかもしれない」という執筆姿勢である。

記事を作成するのみで十分な記述がなく、衛星記事として作られたものでもないとなれば、これは屁のこき逃げに似ている。記事を立てる以上、執筆者は記事に対して、執筆能力に応じて一定の責任をもつべきである。すかし屁を公衆の面前で放ってしまったら、その場から立ち去らずに、自らが震源地であることを受容すべきである。同様に、立てた記事に対し、他人任せの姿勢を容認していては、スタブが林立するのみならず、当該ウィキペディアンの成長も望めない。

修正削除主義の独自概念

修正削除主義は、以下の記事概念を用いてウィキペディアの充実をはかる。

基幹記事
百科事典としての質が求められる記事。より削除主義的な記事概念といえる。十分な情報量、リファレンス、およびリテラシーが求められ、秀逸な記事に認められることもある。ある程度当該分野に通じた者の参加が求められる場合が多いが、いっぽうで初学者への配慮もなされているべきである。読者に予備知識を要求せず、高い可読性を有し、さらに理解を深めるためのリンクや文献も用意される必要がある。
衛星記事
基幹記事を補足する記事。基幹記事の理解を助けること、基幹記事のボリュームを抑制することなどに存在意義を有する。基幹記事の存在が前提とされているため、スタブでない限り、基幹記事ほどの厳しい基準設定はされない。ひとつの衛星記事は、複数の基幹記事に係る場合と、間接的に基幹記事に係る場合がある。基幹記事と間接的関係にある場合、孫衛星記事ともいう。

関連項目