利用者:Sarandora/試訳中記事5
ローマ皇帝 Roman emperor | |
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創設 | |
オクタウィアヌス | 紀元前27年 |
使用称号 | |
呼称 | 意味 |
インペラトル アウグストゥス カエサル プリンケプス ドミヌス・ノステル アウトクラトール |
軍司令官 尊厳ある者 カエサル家当主、副皇帝 元老院主席 我らが主 専制者 |
歴史 | |
ユリウス・クラウディウス朝 - 四皇帝の年 フラウィウス朝 ネルウァ=アントニヌス朝 - 五皇帝の年 セウェルス朝 軍人皇帝時代 テトラルキア時代 コンスタンティヌス朝 ウァレンティニアヌス朝 テオドシウス朝 - 西ローマ - 東ローマ |
BC27年-68年 69年-96年 96年-161年 193年-222年 223年-284年 284年-337年 306年-364年 364年-392年 379年-457年 -480年 -1453年 |
ローマ皇帝(英:Roman emperor)とは、古代ローマにおいてアウグストゥス以降に定着した個人による専制的な統治体制を指す歴史学上の用語。基本的には現代的な用法であり、必ずしも同時代の人間によってその様に呼称された訳ではない。またこの用語によって示される統治体制についても、時代によって変遷している為に一定ではない。
ローマ皇帝という概念は、紀元前27世紀から始まった帝政ローマ時代における国家の統治者を指している。しかし後世に皇帝と呼ばれる人々は皇帝という称号や役職を具体的に創設した訳ではなく、共和政時代の様々な官職を兼任したり、複数の名誉称号を受ける事で自らの権威を確立していた。特にアウグストゥス(尊厳者、尊き人)、インペラトル(軍総司令官)という称号は重要視され、「即位の宣言」はこの二つの称号の使用を宣言するのと同義であった。
他にプリンケプス(共和国元首)、プリンケプス・セナートゥス(元老院主席)、ポンティフィクス・マキシムス(最高神祇官)、コンスル(執政官)、カエサル(カエサル家当主、副皇帝)などの称号・官職が用いられる傾向にあった。総論から言えば、ローマ皇帝という権威は共和国時代の官職・称号の持つ権限と軍の指揮権によって成り立っていた。宗教上の権威は最高神祇官職によって担保されていたが、これは後にキリスト教国教化の際、ローマ教皇に与えられている。
地中海世界においては、既に専制的な権限を持つ君主や僭主という概念が存在していた。ローマも例外ではなく建国者ロムルスを祖とするローマ王の君主号が在ったが、アウグストゥスはローマ王も含めていかなる君主号も拒否する姿勢を貫いた[1]。君主制を廃止して始まった共和制時代の議会制度(元老院)を背景にして栄達したアウグストゥスは議会への配慮を優先して、(実情はともかく)表面的には共和制の指導者として振舞う事を心掛けていた。
次代ティベリウスは先帝の路線を引き継ぎ、自らの治世をあくまでも共和制の範疇であると説得力を持って主張する事が出来なかった[2]。それでも共和制時代の制度や称号に統治の根拠を置き続ける姿勢は維持された。この路線は後にその制度を引き継いだ歴代皇帝によっても概ね踏襲された。ディオクレティアヌス帝が台頭すると、彼は従来の伝統を断ち切って明確に専制的な統治者として振舞い始めたが[3]、それでも王などの君主との違いは維持された。この時代においても後継者は血縁から選びつつも、軍や官僚達の同意が絶対条件であった[4]。テトラルキア体制を経て東西分立の時代を迎えると、東ローマ側ではバシレイウスという称号が君主号として使用された。
歴史
[編集]前史
[編集]前期帝政
[編集]軍人皇帝時代
[編集]後期帝政
[編集]後期帝政を決定付ける改革を進めたディオクレティアヌス帝は数多くの称号を有していた。インペラトル、カエサル、ポンティフェクス・マクシムス、アウグストゥス、ピウス(慈悲深い者)、フェリクス(幸運な者)、インウィクトゥス(不敗者)、パートル・パトリアエ(国父)、複数の戦勝称号(ゲルマニクス・マクシムス、サルマティクス・マクシムス、ペルシクス・マクシムス、ブリタニクス・マクシムス、カルピクス・マクシムス、アルメニクス・マクシムス、メディクス・マクシムス、アディアベニクス・マクシムス)が残された史料から判明している[5]。
これらの称号の中でも特に軍事称号の個数は群を抜いており、最上位の名誉である「マクシムス」が付加されたものだけでも8種類に上っている。加えて同じ称号を複数回受けている(ゲルマニクス・マキシムス6回、サルマティクス・マキシムス4回、ペルシクス・マキシムス2回)為、合計で最上位の勝利称号を17回叙任されている[6]。この事は同時代における皇帝に求められる資質に関して、軍事的能力の重要性が高まっている事を示している[7]。またインウィクトゥスもユピテルの別称であると共に不敗の勝者である事を示す称号で、軍事的勝利に付随した概念である。
この傾向はディオクレティアヌス帝が成立させた分権制度(テトラルキア)の皇帝達に共通する要素と考えられる。勝利称号はマキシミアヌス帝が15回、ガレリウス帝が27回、最初のテトラルキア四皇帝の合計叙任数は76回にも及んでいる[8]。勝利称号にマクシムスを付加する習慣は恐らくマルクス・アウレリアヌス帝の時代に始まったと考えられるが[9]、アウレリウス帝やコンモドゥス帝、さらには軍事的背景を持っていたセプティミウス・セウェルス帝ですら1、2回程度しか叙任を受けていないのと明らかに対照的である。コンスタンティヌス朝の時代には逆に低下していくが、これは単に軍事的勝利を得る機会が失われたに過ぎず、軍事的な危機は続いていた[10]。
ユリアヌス帝が民衆の批判に対して文章で反論したという事跡は、前期帝政時代の懲罰布告とも似た「民衆に対する配慮」を含む処罰と解釈する意見もある[11]。この時代においても民衆はプリンケプスとしての君主を望み、ユリアヌス帝に関して言えばドミヌスの称号も使用を避けていた[12]。その点においては、依然として絶対君主制とは異なる前期帝政の慣習も残っていたと言える。
東西分立
[編集]皇帝号の使用
[編集]権力の根拠
[編集]称号
[編集]アウグストゥス
[編集]インペラトル
[編集]カエサル
[編集]プリンケプス
[編集]プリンケプス・セナートゥス
[編集]ドミヌス・ノステル
[編集]ディウス
[編集]マキシムス
[編集]アウトクラトール
[編集]官職
[編集]コンスル
[編集]ポンティフィクス・マキシムス
[編集]歴代皇帝
[編集]出典
[編集]- Galinsky, Karl (2005). The Cambridge companion to the Age of Augustus
- Alston, Richard (1998). Aspects of Roman history, AD 14-117
- Williams, Stephen (1997). Diocletian and the Roman recovery
- Heather, Peter (2005). The Fall of the Roman Empire
- 南雲奏輔『ユリアヌス帝の意識のなかのローマ皇帝像』
- 新田一郎『神君「divus」と大帝「maximus」の比較研究』
引用
[編集]- ^ Galinsky, Karl (2005). The Cambridge companion to the Age of Augustus. pp. 13–14. ISBN 978-0-521-80796-8 2011年8月3日閲覧。
- ^ Alston, Richard (1998). Aspects of Roman history, AD 14-117. p. 39. ISBN 978-0-415-13237-4 2011年8月3日閲覧。
- ^ Williams, Stephen (1997). Diocletian and the Roman recovery. p. 147. ISBN 978-0-415-91827-5 2011年8月3日閲覧。
- ^ Heather, Peter (2005). The Fall of the Roman Empire. p. 28. ISBN 978-0-330-49136-5 2011年8月3日閲覧。
- ^ 新田(1996年)
- ^ 新田(1996年)
- ^ 新田(1996年)
- ^ 新田(1996年)
- ^ 新田(1996年)
- ^ 新田(1996年)
- ^ 南雲(2006年)
- ^ 南雲(2006年)