利用者:Snlf1/作業スペース1
船歴 | |
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建造所 | 川崎造船所[1] |
起工 | |
進水 | 1904年月[1] |
竣工 | 1904年11月8日 |
その後 | 1947年5月14日座礁全損 |
主要目 | |
総トン数 | 1,057トン(1907年)[2] |
純トン数 | 590トン[2] |
載貨重量 | |
排水量 | 1,600トン(1907年) 1,118トン(基準・1946年) |
登録長 | 67.1m(220ft) |
型幅 | 9.1m(30ft) |
登録深 | 9.3m(30.6ft) |
機関 | 三連成レシプロ機関 2基2軸 |
出力 | 185.4馬力(公称) 馬力(実馬力) |
速力 | 14.77ノット(最大) |
乗員 | 84人(1907年) |
兵装 | 保式47mm重速射砲×2(1907年) |
同型船 | |
備考 |
光済(こうさい)または光済号(こうさいごう、朝鮮語: 광제호)は、大韓帝国が1904年に竣工させた灯台見回り船・税関監視船である。日韓併合後は、日本の朝鮮総督府に所属して引き続き運用された後、さらに日本海軍に移管されて雑役船(曳船兼交通船)に類別された。太平洋戦争を生き延びたが、1947年に座礁事故で全損となった。
船歴
[編集]大韓帝国船として建造
[編集]本船は、大韓帝国により日本の川崎造船所へ発注され、1904年(明治37年)11月に神戸港で竣工した。「揚武」に続く大韓帝国軍で2隻目の軍艦とも数えられるが、税関監視や灯台見回り船が用途であり、武装も47mm速射砲2門と軽いものであった。韓国併合がされた1910年(明治43年)時点での所属は、大韓帝国の度支部(財務省に相当)となっている[3]。
1905年(明治38年)6月に建造地の神戸港から釜山港へ回航された。当初の乗員のうち船長・機関長・一等運転士(航海士)はイギリス人であったが、同年8月にイギリス人の財政顧問・総税務司ジョン・マクレヴィ・ブラウンが退任したのに従って辞職した。同年12月に日本の韓国統監府が設置されると、日本海軍の磯貝正吉少佐が船長として派遣された。1907年時点では乗員84人のうち士官の大部分が日本人で占められたが、運転士の一人には「揚武」元乗員の韓国人愼順晟が新たに採用されていた。下級船員には日本海軍の予備役下士官兵が乗船したほか、水夫や火夫等58人が韓国人であった。密輸取締、航路標識の地点選定や灯台への物資補給、漁業視察などの任務に従事したほか、韓国唯一の公船として韓国統監などの要人輸送にもしばしば用いられた。例えば1906年中には6回の航海を行っている。韓国併合直前の1910年8月には韓国船最初の無線電信設備を設置する改装工事が行われた(韓国併合後の同年9月に完了)[3]。
朝鮮総督府での運用
[編集]1910年(明治43年)に韓国併合が行われ、同年10月に朝鮮総督府の新官制が施行されると、本船は朝鮮総督府通信局(1912年以降は朝鮮総督府逓信局)の所属となった[3]。そして、灯台等の航路標識視察や税関監視任務、海軍艦船や官庁用の無線通信業務に引き続き従事した。1911年度(明治44年度)の運用実績は、航海距離14,902海里(約27,599km)に及んだ[4]。同任務で最後の運用となった1924年度(大正13年度)の航海距離は、7,119海里(約13,184km)と減っている[5]。
1925年(大正14年)に財政上の事情による行政整理のため、「光済丸」の灯台見回り船・税関監視船など公船としての任務は全て廃止となった[5]。そして、朝鮮総督府所属のまま朝鮮郵船株式会社に貸し出された。
日本海軍への移管
[編集]1930年(昭和5年)に「光済」は朝鮮総督府から日本海軍に移管され、雑役船の一種である曳船兼交通船に類別された。鎮海要港部(1941年に警備府昇格)に所属し、朝鮮半島の鎮海要港部と日本本土の佐世保鎮守府の間の連絡任務に使用された。1945年(昭和20年)8月の太平洋戦争の終戦時にも鎮海警備府の鎮海港務部に所属して健在であった。
太平洋戦争の終戦後、第二復員省の特別輸送艦に指定され、1947年(昭和22年)1月15日までには特別保管艦に変更された。救難船「栗橋」とともに旧軍港間の輸送任務などに従事したが、1947年5月14日に大阪港から横須賀港へ航行中、御前崎付近で座礁して全損となった。
脚注
[編集]注釈
[編集]
出典
[編集]参考文献
[編集]- 「海軍」編集委員会『海軍 11巻:小艦艇・特務艦艇・雑役船・特設艦船』誠文図書、1981年。
- 福井静夫『終戦と帝国艦艇―わが海軍の終焉と艦艇の帰趨』(復刻版)光人社、2010年。ISBN 978-4769814887。