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無鄰菴会議(むりんあんかいぎ)とは日露開戦の約10か月前の1903年4月21日、山縣有朋別荘無鄰菴で対露方針が検討された会議
会議の参加者
[編集]元老山縣有朋 政友会総裁伊藤博文 総理大臣桂太郎 外務大臣小村寿太郎
議論の内容
[編集]無鄰菴会議の内容は当時秘密であり、内容を知るものはなかったが、桂太郎によって書かれた自伝により通俗的には本会議で日露戦争開戦方針が決まったと書かれてあることが多い。
経過
[編集]明治外交史上の第一級史料と言われる明治時代の外務大臣陸奥宗光が執筆した外交記録『蹇々録(けんけんろく、蹇蹇録)』(1895年・明治28年成立、1929年・昭和4年刊)によれば、交渉は以下のように進んだ。
1894年11月上旬から米、英、露が調停のための斡旋を開始する。しかし12月4日、伊藤博文内閣は「威海衛を衝き台湾を略すべき方略」を大本営に提出。実際に台湾を占領しなければ、世論に応え、台湾の譲与を和平条約の要件として盛り込むことはできないと確認した[1]。
1895年1月31日、清国使節の張蔭桓と邵友濂が講和のために広島に到着したが、陸奥宗光は翌2月1日の会談において、両者の持っている書簡は全権委任状ではなく、地位についても不十分なので、講和を結ぶことができないとした。伊藤博文は清国使節団の随員伍廷芳に李鴻章か恭親王を全権大使として求め、第一回の使節団は2月12日、長崎を離れ帰国した。
3月19日、全権大臣の李鴻章と甥の李経方が下関に到着。翌20日、全権委任状を持っていることをお互いに確認、同地の割烹旅館・春帆楼で講和会議が始まる。清側はまず休戦を求めるが、21日、日本側は徹底した譲歩を要求した条件提示したので休戦は先延ばしとなった。23日、日本側は歩兵一個旅団を台湾島西方の澎湖諸島に上陸させた。
24日、清国側は休戦よりも講和条約の締結を望み、条約の条項に他国の干渉を招くような項目を控えるように望んだ。この会談の帰途に李鴻章は小山豊太郎に襲われ負傷する。これによって各国の同情が清に集まることとなり、休戦の先延ばしが困難になる。
28日、日本側は休戦条約の草案を清側に提示するが、「台湾、澎湖列島およびその付近において交戦に従事する所の遠征軍を除く他」などという文面を清側が訂正を求める。日本側は「日清両帝国政府は盛京省、直隷省、山東省地方に在て下に記する所の條項に従ひ両国海陸軍の休戦を約す」という文面に変更し、30日に休戦定約が締結される。
4月1日、講和条約の草案を日本側が提示する。5日、清側は草案について以下のような修正を望む。(1) 朝鮮の独立については、清側だけでなく両国が認めるという形に訂正すること、(2) 割譲地は全面拒否、(3) 賠償金の大幅な減額、(4) 開港場所の見直し他
8日から、負傷した李鴻章に加えて李経方が欽差全権大臣として交渉の席につく。9日の清側による訂正案は、(1) 前回と同様、(2) 割譲地は奉天省内の安東県、寛甸県、鳳凰県、岫巌州、澎湖列島にとどめ、台湾を除くこと、(3) 賠償金は無利子の1億両他などが出された。
10日、陸奥は(1) 朝鮮については訂正を許さず、(2) 台湾は絶対の条件だということ、(3) 賠償金は2億両、(4) 新規開港の数は減らすなどの訂正案を提示し、これについて受諾かどうかのみを問うた。清側は (2) 台湾は武力で占領されたものではないので受け入れ不可、奉天省内も営口を除くこと、(3) さらなる賠償金の減額を求めた。11日にも清側はかさねて (2) 台湾の除外と (3) 賠償金のさらなる減額を求めたが、日本側はこれを退けた。
15日、割譲地の微細な変更や支払いの方法等の調整がなされ、17日に講和条約が結ばれた。
参考図書
[編集]- ^ 当時、海軍では台湾全島を望む上で遼東半島は朝鮮に任せてもよいという意見が主流であり、逆に陸軍では最も血を流した遼東半島は無論のこと山東省も希望していた。