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光明寺 | |
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所在地 | 静岡県裾野市公文名343 |
山号 | 般若山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 地蔵菩薩 |
創建年 | 伝・大同3年(808年) |
開山 | 伝・空海 |
正式名 | 光明寺 |
公式サイト | 裾野 光明寺 |
光明寺(こうみょうじ)は、静岡県裾野市公文名にある曹洞宗の仏教寺院。山号は般若山。本尊は地蔵菩薩。平安時代後期の作と考えられている毘沙門天と不動明王など歴史的価値のある仏像が多数奉安されている。
歴史
[編集]光明寺は静岡県東部の裾野市公文名(くもみょう)に位置する。裾野市は、県内では三島市・御殿場市・駿東郡長泉町・富士市に隣接し、東側は神奈川県足柄下郡箱根町と隣接している。公文名のすぐ東側には箱根山があり、光明寺から芦ノ湖までは直線距離で8kmほどである。
『裾野市史』によれば、公文名からは縄文時代のものと推定される日向遺跡と丸山Ⅱ遺跡が発見されており、ちょうど光明寺の裏山にあたる場所にも丸山Ⅰ遺跡がある。丸山Ⅰ遺跡からは土器片が発掘されていることから、縄文時代終末期から弥生時代初頭の遺跡であると考えられている。公文名では中世までさかのぼることのできる集落の形成は確認することはできないが、佐野郷に含まれ葛山氏の支配を受けていた時期もあったとのことである。近世の公文名村は、寛永9年(1632年)から小田原藩領、宝永5年(1708年)から幕領、享保元年(1716年)から再び小田原藩領となり幕末まで続いたとのことである。
光明寺には残念ながら歴史的資料が残っておらず、寺史についてははっきりしたことがわかっていない。しかしながら、平安時代後期の作と考えられている毘沙門天と不動明王など歴史的価値のある仏像が多数奉安されていることもあり、「曹洞宗以前は真言宗の大寺院であった」ということと、「豊臣秀吉の小田原攻めの際に火を放たれた」ため歴史的資料が現存していないということが、地域で言い伝えられている。
この地域の歴史的資料である『駿河記』と『駿河志料』には、光明寺に関する以下の記述がある。
文政3年(1820年)に島田の桑原藤泰(黙斎)によって完成された地誌である『駿河記』巻三十二の公文名の項目を要約すると、「弘法大師が開基であり大同3年(808年)草創で旧真言宗であること」が記されている。文久元年(1861年)、新宮高平によって著された地誌『駿河志料』巻之六十七の公文名の項目を引用すると、「もと真言の古蹟にて、往時は七堂伽藍の大地なりしが、破頽せしを、永禄年中曹洞派の僧、明綱英震中興して後禅刹となれり」と真言宗時代の繁栄ぶりを窺うことができる。開山堂には「當寺元祖空海上人弘法大師 聖位」という古い位牌が残っており、曹洞宗以前は真言宗寺院であったことについてが分かる。また、開山堂には「光明寺殿天養圓心大居士 正和3(1314)年12月8日」の位牌があり、中興開基のものであると考えられるが、『駿河記』にも「誰人か未詳」とあり詳しいことは分かっていない。
その後、永禄元(1558)年に裾野市桃園にある本寺定輪寺7世の明綱英晨大和尚が開山となり、曹洞宗般若山光明寺となった。
現在は曹洞宗27代目の住職を松岡広也が務めている。