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安部 ヨリミ(あべ よりみ、1899年7月25日 - 1990年7月28日)は、日本の小説家・文筆家である。小説家として知られる安部公房の母である。安部よりみという表記もある。
生涯
[編集]結婚前の姓は井村(いむら)といい、北海道上川郡東鷹栖村(現:旭川市東鷹栖)に生まれた[1]。 。父・井村亀蔵と母・サクはともに現在の徳島県出身で、ヨリミは3人姉弟の次女であった[1]。
ヨリミは旭川高等女学校<現:旭川西高等学校)から東京女子師範学校<現:お茶の水女子大学)の国文学科に進んだ[1]。在学中のヨリミは日本初の社会主義的婦人団体である赤らん会(1921年4月結成)の思想に触れ、その活動に共鳴した[1]。彼女はその後援会のビラを掲示板に張り出し、それが原因となって退学処分を受けた[1]。
1922年、ヨリミは東京留学中の同郷の安部浅吉と結婚した[1][2]。 。井村家と安部家はともに東鷹栖村の入植者であり、入植の時期は井村家の方が早かった[1]。1923年1月6日から7日にかけて、故郷の東鷹栖村にて結婚披露宴を開催した[1]。
浅吉は同月11日、単身で奉天に戻ったが、5月には東京の国立栄養研究所に出向となった[1]。2人は西ヶ原に家を借り、安部家からの仕送り100円と南満州鉄道からの研究費100円で生計を立てた[1]。家賃は21円であったが、2人とも浪費癖があったため魚や味噌さえ買えないほどに困窮することもあった[1]。やがてヨリミは子(後の安部公房)を授かった[1][2]。
2人の生活を変えたのは、同年9月1日の関東大震災であった[1]。浅吉とヨリミは無事であったが、近所に住んでいた親切で上品な主人が朝鮮人であったために捕らえられて負傷して帰ってきたことに衝撃を受けたという[1]。
9月5日には北海道から安部勝三郎(浅吉の父)と亀蔵が2人とも死んだのかと案じて東京まで訪ねてきた[1]。勝三郎と亀蔵は生きている2人を見て祝杯を挙げた[1]。この情景に運命というものを痛切に感じた2人は生活態度を改め、月々の収入200円から貯金もできるようになっていた[1]。
ヨリミは同年10月から小説を書き始めた[1]。この小説は12月までに書きあがり、出版社に渡している。小説の題名は『スフィンクスは笑う』といった[1]。
著作
[編集]家族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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参考文献
[編集]- 鳥羽耕史『消しゴムで書く安部公房』 ミネルヴァ書房、2024年。ISBN 978-4-623ー09782ー1{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。
- 新潮日本文学アルバム『安部公房』 新潮社、1994年。ISBN 978-4-10ー620655ー2{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。
[1]。