利用者:Syouhatiman

上野殿御返事に云く

「ただをかせ給へ・梵天・帝釈等の御計(はからい)として日本国・一時に信ずる事あるべし、爾(その)時 我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほ(多)くをはせずらんめとおぼえ候。」

日蓮の弟子の少輔房といい、能登房といい、名越の尼などという者達は、欲深く、心は臆病で、愚癡でありながら、しかも智者であると名乗っていた連中だったので、事が起こったときには機会を得て多くの人を退転させたのである。

殿も攻め落とされるならば、駿河の国で少々信じているような者も、また信じようと思っている人人も皆、法華経を捨てるであろう。

それゆえ、この甲斐の国にも少々信じようという人々はいるけれども、はっきりしないうちは入信させないでいる。 なまじっかな人が信心しているような格好をして、いいかげんなことをしていくときには、人の信心をも破ってしまうのである。

 ただ放って置きなさい。梵天や帝釈等のおはからいとして日本国の人々が一度に信ずることがあるであろう。その時、私も本(もと)から信じていた、という人が多くいるであろうと思われる。



下種本仏成道御書に云く

「さては十二日の夜、武蔵守殿のあづ(預)かりにて、夜半に及び頚を切らんがために鎌倉をいでしに、わかみやこうぢ(若宮小路)にうちいでて四方に兵(つわもの)のうちつつみて・ありしかども、

日蓮云く、各各さわ(騒)がせ給うな、べち(別)の事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて、馬よりさしをりて高声に申すやう、

いかに八幡大菩薩はまこと(実)の神か

さて十二日の夜は、武蔵守宣時(のぶとき)の預かりで夜半に達し、それから首を斬るために鎌倉を出発したが、若宮小路に出たとき、四方を兵士が取り囲んでいたけれども日蓮は

「みんな騒ぎなさるな、ほかのことはない、八幡大菩薩に最後にいうべきことがある」といって馬からおりて大高声で次のようにいった。

「本当に八幡大菩薩はまことの神であるか。和気清磨呂が道鏡の策謀によって首を斬られようとしたときはたけ一丈の月と顕われて守護し、伝教大師が宇佐八幡宮の神宮寺で法華経を講じられたときは紫の袈裟をお布施としておさずけになった。

今日蓮は日本第一の法華経の行者である。その上身に一分の過失もない。いま法のために首を斬られようとしているがこれは日本の国のいっさいの衆生が法華経を誹謗して無間大城に堕ちるべき者を助けようとして申している法門である。

また大蒙古国からこの国を攻めるならば天照太神・正八幡であっても安穏ではおられようか。

その上、釈迦仏が法華経を説いたときには多宝仏・十方の諸仏・菩薩が集まって、そのありさまが日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とを並べたようになったとき、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人が集まったとき、仏に『おのおの法華経の行者に対して疎略(そりゃく)な守護をいたしませんという誓状を差し出しなさい』と責められて一人一人の誓状を立てたではないか。

である以上は日蓮が申すまでもない。大いそぎで誓状の宿願を果たすべきであるのにどうして此の大難の場所には来合わせないのか」

と朗々と申しわたした。そして最後には

「日蓮が今夜首を切られて霊山浄土へ参ったときには、まず、天照太神・正八幡こそ起請を用いない神であったと名をさしきって教主釈尊に申し上げよう。それを痛い(つらい)と自覚されるならば、大至急お計らいなされ」と𠮟ってまた馬に乗った。



佐渡御書に云く

「これはさてをきぬ 日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならず かへりて日蓮を教訓して 我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事 不便とも申す計りなし」

 これはさておく。日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのように大難にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分の方が賢いなどと思っている。このような僻人等が、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちることは、不便としかいいようがない。  修羅は仏は十八界を説くが、自分は十九界を説くといい、外道が仏は一究竟道、自分は九十五究竟道といったように、このような僻人等が日蓮御房は師匠ではあるが、あまりにも強すぎる。われわれは柔らかに法華経を弘めようというのは、螢火が日月を笑い、蟻塚が華山を見下し、井戸や小川が河や海を軽侮し、烏鵲が鸞鳳を笑うようなものである。南無妙法蓮華経。

 文永九年太歳壬申三月二十日         日 蓮  花 押

 日蓮の弟子檀那等の御中へ