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利用者:Taisai429/sandbox/兪秀松

兪秀松
プロフィール
出生: 1899年8月1日
光緒25年6月25日)
死去: (1939-02-21) 1939年2月21日(39歳没)
出生地: 大清帝国浙江省諸曁県
中華人民共和国の旗 中華人民共和国浙江省諸曁市
死没地: ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦モスクワ
各種表記
簡体字 俞秀松
拼音 Yú Xiùsōng
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兪秀松(ゆ・しゅうしょう、ユー・シウソン、1899年8月1日 - 1939年2月21日)は、中国共産主義者政治家中国共産党の創建に加わった古参党員の一人で、中国共産主義青年団の前身である社会主義青年団の初代中央書記を務めた。新疆省コミンテルン要員として活動していたとき、新疆を支配する軍閥盛世才(兪秀松の義兄でもあった)によってトロツキストの嫌疑をかけられ、ソビエト連邦に送られて処刑された。

変名について[編集]

珍しいことではないが、彼は生涯を通じていくつかの名前を使い分けた。本項では便宜上統一して兪秀松と表記する。

出生名は兪寿松で、柏青族譜によって定められた一字を同世代の親族で共有する輩行字の慣行に従って、彼の世代はみな「寿」を字輩としている。例えば弟の名は寿喬、寿臧などといった。字の柏青はあまり用いていない[1]

兪秀松は彼の最もよく知られた名前だが、いつ頃からそう名乗ったのかは不明瞭である。1916年8月に臨浦高等小学校を卒業して浙江省立第一師範学校に入学した際、兪松寿という学生が他にいて紛らわしかったため、1918年に兪寿松から兪秀松へ改名したともいう。しかし「高三 秀松」という署名が近年発見されており、これは臨浦高等小学校在学中から秀松という名を用いていた可能性を示している。いずれにせよ、対外的には秀松と名乗ったが、家族に対しては寿松を用いることがあったようである。ソ連極東のハバロフスクで活動していた際など、単に「松」一字で署名することもあった。彼の死後、1962年に上海市民政局が発給した「烈士光栄紀念証」には兪秀松と表記されており、中国共産党史上の公式の名ということができる[1]

兪秀嵩は、1922年5月5日に開催された中国社会主義青年団第1回代表大会の出席簿の上で用いた。杭州代表として出席し「秀松」と署名したが、その右下に小さな文字で「兪秀嵩」と書き添えている。同じように施存統は「方国昌」と署名し、右下に「施存統」と書き添えている。兪秀嵩は彼の変名の一つであることは間違いないのだが、他に用例を見ない[1]

ルベン・ナリマノフ(Рубен Нариманов)は、1925年10月の2度目のソ連滞在以降用いた変名[1]

王寿成は、1935年6月にコミンテルン要員として新疆へ派遣された際の変名。生前最後に用いた名である[1]

于仁及び常青は、国共合作期の1925年11月、彼が中国国民党支部へ提出した党員調査票において、過去用いていた変名として記入されている。用例はまだ見つかっていない[1]

余寅初も変名の一つとして知られていたが誤りである。彼の学生時代の写真に「余寅初」の印が押してあったことから誤解を生んだようで、実際には杭州にあった写真館の撮影技師の印であった[1]

生涯[編集]

少年時代[編集]

浙江一師在学時の兪秀松(右)

1899年8月1日(農歴6月25日)、浙江省諸曁県大橋郷渓埭村(現浙江省諸曁市次塢鎮渓埭村)に生まれた[2]。父の兪韻琴は清朝末期に秀才になった人で、長年に渡って教育に携わり、この頃は私塾の教師や諸曁県勧学所の督学、所長を務めていた[3]

1908年、行余小学へ入学した[3]。兪韻琴が創立したこの学校は、四書五経などの伝統的な「経世済民の学」だけでなく国語・算数・地理といった西洋式の教育カリキュラムを取り入れた先進的な学校であった[2]

1912年、臨浦高等小学校へ入学[2]。在学中、「愚公移山論」や「遊説の士と任侠の士の相違点を論ずる」などの愛国主義的な文章を書いた[2]

自古成大业者,虽难而不惧。何也?盖其志坚耳。愚公移山事,以残年余力而欲移山,其志可谓不坚乎?又曰:“吾身虽死,有子在焉;子又生孙,孙又生子,子子孙孙,无穷匾也,而山不加增,何患不平乎?”此言足以为法矣。昔高祖之得夭下也,困于羽兵,几死鸿门,然卒能成帝业。呜呼!中国少年岂不及愚公乎?若人人有愚公之毅力,则中国何患不强乎?虽强大之国,吾何畏彼哉? 昔から、大業を成す者は困難を恐れなかった。なぜだろうか。それはその意志が固かったからに違いない。愚公は長くない余命を投げ打ってまで山を移そうとした。その意志を固いと言わずして何というのか。愚公は言う。「私が死んでも、子が残る。子が孫を生み、孫が子を生む。子々孫々絶えることはない。山は増えないのだから、どうして移せないことがあろうか」と。これこそ規範とすべき言葉だ。漢の高祖は項羽の兵に苦しめられ、鴻門で死の瀬戸際へと追いやられたが、ついには帝業を成すことができた。ああ! 中国の若者は愚公にも及ばないというのか。人々に愚公の精神があるのなら、中国が弱いままであるはずがないし、相手が強国だからといって恐れることもないだろう。 — 兪秀松「愚公移山论

1916年、杭州の浙江省立第一師範学校(浙江一師、杭州師範大学の前身)へ入学[3]。当時の浙江一師は、華北における北京大学と並んで華南に新思想や新文化を伝播する一大橋頭堡となっており、校長の経亨頤中国語版を筆頭に陳望道夏丏尊中国語版劉大白中国語版・李次九などの進歩的な教師陣を擁していた[4]。兪秀松はここで『新青年』・『民国日報中国語版』副刊「覚悟」・『時事新報中国語版』副刊「学灯」などの雑誌を読んで新思想に触れ、さらに『新青年』主編の陳独秀から紹介されて馬一浮中国語版とも知り合った[4]。米国留学経験を有し、カール・マルクスの『資本論』を中国に伝えた人でもある馬一浮からは、「搾取」や「剰余価値」といったマルクス主義の基本理論について教えられることになる[4]

浙江一師にいる間、兪秀松は群書を読み漁った[4]。自習室が消灯した後は街灯の光を借りて夜遅くまで読書をしていたので、酷い近視になった[5]。彼の何事にも深く追求しないではいられない性格を、同学の者たちは英語のWho, What, Whyから取って「三W主義」と名付けた[4]。1918年のある日、自習室に十数人が集まり演説練習を行った。兪秀松と同じ班の趙並歓という学生が「失敗は成功の母」と題した白話文の演説を行うと、翌日、兪秀松は趙並歓のもとを訪れて「君の演説は非常に興味深かった。これからあの言葉を私の座右の銘にするよ」と話したという[6]。当時、学生の間には八股文を退けて白話文を好む風潮があって、兪秀松の考えでは八股文は金持ちのものであり白話文こそが労働者大衆のものであった[6]

1919年初め頃、母が亡くなったので3日間だけ帰省した。再び杭州へ赴く際、見送りにきた弟の寿喬へ「私は行くが、次にいつ帰ってくるかわからない。私は人々が食事に困らないようにしたい。乞食をして飢える人がなくなれば、また帰るだろう」と話した。兪秀松はそのまま二度と家郷を訪れなかった[7][8]

五四運動と『浙江新潮』[編集]

1919年5月6日、五四運動勃発の報が杭州へもたらされると、9日には市内各校学生の代表が省教育会にて会議し、兪秀松も浙江一師代表として参加した[5]。この会議で、杭州学生連合救国会の結成、北京・上海で行われている学生運動への支援、杭州総商会に対する日貨販売の即日中止要請の3項目が決議された[5]。12日には市内14校の3000名あまりの学生が湖浜公衆運動場で集会を開催、帝国主義の侵略と軍閥政府の売国行為を非難、杭州学生連合会の結成が正式に宣言された[5]

同年10月10日には、省立第一中学と甲種工業専門学校の学生が協力して半月刊雑誌の『双十』を創刊。2号を出した後、浙江一師や宗文中学の学生も加わって陣容が拡大したので、週刊の『浙江新潮』に改められた[9]。兪秀松はその主編に就き『浙江新潮』11月1日号に発刊詞を載せた。それによれば、発刊の目的は「第一に、人類の――人類全体を指す――生活の幸福と進化を図ること」「第二に、社会を改造すること」「第三に、労働者の自覚と連合を促進すること」「第四に、現在の学生界と労働界に調査・批評・指導を行うこと」であった[10]。『浙江新潮』社には、省立第一中学からは査猛済・阮毅成中国語版・阮篤成の3人、甲種工業専門学校からは沈乃熙(後の夏衍)・蔡経銘・孫錦文・楊志祥・倪維熊・汪馥泉・猪保時の7人、浙江一師からは兪秀松・施存統・宣中華・周柏棣・傅彬然・張維湛ら14人、宗文中学からは数人が参加した[9][11]

ところが、『浙江新潮』はすぐに廃刊の憂き目を見ることになる。11月7日号に掲載された施存統の「非孝」と題する文章が大逆不道の邪説であるとして、浙江省当局を始めとする守旧派から猛烈な反発を受けたのである[5][12]。省当局による差し押さえから逃れるため、兪秀松は次号の原稿を上海へ持ち込み、『星期評論』社に印刷してもらってなんとか発行にこぎつけたものの、12月2日、ついに北京政府が発禁命令を下す[5]。浙江一師を追われた兪秀松・施存統・周柏棣・傅彬然は、その頃北京において少年中国学会中国語版王光祈中国語版が発起していた工読互助団に加わることにした[13]。1920年1月1日、兪秀松らは北京に向かう。すでに「非孝」事件で当時の進歩的青年に知られていた彼らの工読互助団への参加は、大きな社会的関心を集めた[12]

北京工読互助団参加当時
1931年、モスクワにて
1936年、盛世同とともに
1937年、新疆民衆反帝連合会の会員らとともに

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 刘雪芹 2015.
  2. ^ a b c d 俞秀松生平大事年表.
  3. ^ a b c 罗征敬 1985, p. 1.
  4. ^ a b c d e 罗征敬 1985, p. 2.
  5. ^ a b c d e f 蔡卫平 n.d.
  6. ^ a b 罗征敬 1985, pp. 2–3.
  7. ^ 罗征敬 1985, pp. 3–4.
  8. ^ 俞寿乔 (1981年). “秀松哥的童年”. 2019年4月23日閲覧。
  9. ^ a b 倪维熊. “《浙江新潮》的回忆”. 2019年4月23日閲覧。
  10. ^ 罗征敬 1985, pp. 4–5.
  11. ^ 中共浙江省委党史和文献研究室: “《浙江新潮》”. 2019年4月23日閲覧。
  12. ^ a b 石川禎浩「若き日の施存統 : 中国共産党創立期の「日本小組」を論じてその建党問題におよぶ」『東洋史研究』第53巻、第2号、東洋史研究会、284-315頁、1994年。doi:10.14989/154484 
  13. ^ 罗征敬 1985, p. 6.

参考資料[編集]