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利用者:Takenari Higuchi/sandbox2

ヨルダン川西岸地区
イギリス委任統治領パレスチナ 1958年 - 1967年 イスラエルによるヨルダン川西岸地区の占領
西岸の国旗 西岸の国章
ヨルダンの国旗ヨルダンの国章
西岸の位置
1955年のヨルダンの地図
公用語 アラビア語
首都 アンマン
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
第一次中東戦争の開始 1948年5月15日
ヨルダンへの併合1950年4月24日
第三次中東戦争1967年6月5日-10日
領有権の放棄1988年7月31日
通貨ヨルダン・ディナール

ヨルダンによるヨルダン川西岸地区の併合は、1950年4月24日に公式に開始された。ヨルダンによる西岸の実効支配は1948年5月の第一次中東戦争に始まり、1967年6月に第三次中東戦争でイスラエルに軍事占領されるまで約20年間続いた。実効支配を喪失してからもヨルダンは西岸の領有権を主張していたが、1988年7月31日に領有権の放棄を宣言した。

背景[編集]

1947年11月10日にアブドゥッラー1世は後にイスラエル首相となるゴルダ・メイアと会見し、両者は国連分割決議案のアラブ領土をヨルダンが併合すること、ヨルダンはユダヤ人を攻撃しないこと、エルサレムの国際管理化を拒否することの3点を確認した[1]。1948年3月にはヨルダンのアブルフダー首相がアラブ軍団司令官であるジョン・バゴット・グラブと共にロンドンを訪れ、イギリスの外相アーネスト・ベヴィンからヨルダンによるアラブ領土併合に了解を与えた[2]

アブドゥッラー1世とメイアは1948年5月11日に再び面会したが、その時には既にアラブ連盟がユダヤ人に対して、独立宣言を行えば侵攻を行うことを決定していた[1]。アブドゥッラー1世はメイアに対して釈明するとともに、侵攻を回避するには分割決議案でユダヤ人に割り当てられた領土を一部ヨルダンに割譲するほかないと持ちかけたが、メイアはこれを拒絶した[1]

侵攻と併合[編集]

1948年5月15日にイスラエルが独立を宣言すると、ヨルダンを含むアラブ軍が侵攻を開始し、第一次中東戦争が始まった。ヨルダンは同日にヨルダン川東岸から西岸に侵攻して占領した[3]。分割決議案ではエルサレムは国際管理下に置かれることになっており、イギリスはヨルダンによるエルサレム占領を認めていなかった[2]。アラブ軍団司令官のグラブはこれを守ってエルサレムは占領しなかったが、アブドゥッラー1世がグラブにエルサレム占領を迫った[2]。グラブはアブドゥッラー1世との決裂を避けるため、5月18日に一個中隊約100人を投入してエルサレムを占領した[2]

アラブ諸国はヨルダンによる西岸占領を認めず、1948年9月22日にはエジプト支配下のガザに「全パレスチナ政府」を設けた[4]。9月29日には全パレスチナ政府に対抗し、ヨルダン政府の働きかけによってアンマンにおいて「第1回パレスチナ国民会議」が開催され、アブドゥッラー1世に忠誠を誓う声明が発表された[4]。12月1日には西岸のエリコで第2回パレスチナ国民会議が開催され、ヨルダンによる西岸併合を支持する決議が行われた[4]。1950年4月11日にはヨルダンの国民議会の総選挙が実施され、西岸でも投票が行われた[4]。4月24日には新たに選ばれた国民議会に正式に西岸を併合する法案が提出され、全会一致で併合が承認された[5]

ヨルダン施政下の西岸[編集]

国籍[編集]

1954年にヨルダンの国籍法が改正され、「ユダヤ人を除き、1949年12月10日から1954年2月16日まで正常にヨルダン・ハシミテ王国に在住していて、1948年5月15日以前にパレスチナ籍(イギリス委任統治領パレスチナ籍)を有していた者」を対象にヨルダン国籍が与えられた[6]

社会[編集]

ヨルダンは東側に偏重した開発を行っており、ヨルダン施政下の西岸では失業が深刻な問題となった[7]。そのため西岸ではヨルダンや湾岸諸国への出稼ぎが増加した[7]。また、一部の住民はヨルダンへ移住してパレスチナ系のコミュニティを形成した[8]。パレスチナ系住民は主に北部のアンマンを中心に居住しており、南部に多いヨルダン系住民と住み分けが行われた[9]

政治[編集]

実効支配の喪失[編集]

1967年6月に起こった第三次中東戦争(六日間戦争)でイスラエルは西岸を軍事占領した[10]。実効支配を喪失してからも、ヨルダンは西岸の領有権を主張していた[11]。1986年にはヨルダンは西岸やガザへの開発計画を打ち出し、13億ドルの予算を計上した[12]。しかし、1987年12月に始まったインティファーダを受け、1988年7月にヨルダンは西岸への開発計画を白紙撤回すると同時に、西岸に対する領有権を放棄すると宣言した[12]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c 野田 1983, p. 141.
  2. ^ a b c d 野田 1983, p. 142.
  3. ^ 浦野 1983, p. 66.
  4. ^ a b c d 野田 1983, p. 145.
  5. ^ 臼杵 1988, p. 117.
  6. ^ 北澤 2001, p. 82.
  7. ^ a b 臼杵 1988, p. 115.
  8. ^ 北澤 2001, p. 84.
  9. ^ 北澤 2000, p. 51.
  10. ^ 浦野 1983, p. 73.
  11. ^ 北澤 2000, p. 56.
  12. ^ a b 鈴木 2016, p. 55.

参考文献[編集]

  • 臼杵 陽「ヨルダン現代史に関する覚書:スレイマーン・アン・ナーブルシー内閣の試み」『日本中東学会年報』第3巻第2号、1988年、110-143頁、doi:10.24498/ajames.3.2_110 
  • 北澤 義之「構造調整とヨルダンの「民主化」」『国際政治』第125号、2000年、45-60頁、doi:10.11375/kokusaiseiji1957.125_45 
  • 北澤 義之「4 ヨルダンの民族「共存」」『日本比較政治学会年報』第3巻、2001年、79-99頁、doi:10.11193/hikakuseiji1999.3.79 
  • 野田 謙吉「パレスチナ戦争の戦後処理 -一九四九年一月~五〇年四月-」『国際政治』第73号、1983年、135-151頁、doi:10.11375/kokusaiseiji1957.73_135