利用者:Takenari Higuchi/sandbox6
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江田 五月 えだ さつき | |
---|---|
内閣広報室より公表された肖像 | |
生年月日 | 1941年5月22日 |
出生地 | 日本 岡山県上道郡財田村(現・岡山市中区) |
没年月日 | 2021年7月28日(80歳没) |
死没地 | 日本 岡山県岡山市 |
出身校 |
東京大学法学部第3類卒業 オックスフォード大学大学院法学部法律証書科修士課程修了 |
前職 |
裁判官 弁護士 |
所属政党 |
(社会市民連合→) (社会民主連合→) (日本新党→) (新進党→) (無所属→) (民主党→) (民進党(菅G)→) (旧立憲民主党→) 立憲民主党 |
称号 |
従二位 桐花大綬章(2021年) 法学修士(オックスフォード大学・1971年) |
親族 | 父・江田三郎 |
公式サイト | 江田五月 新たな出発 |
第27代 参議院議長 | |
在任期間 | 2007年8月7日 - 2010年7月25日 |
天皇 | 明仁 |
第86代 法務大臣 | |
内閣 | 菅直人第2次改造内閣 |
在任期間 | 2011年1月14日 - 2011年9月2日 |
第16代 環境大臣 | |
内閣 | 菅直人第2次改造内閣 |
在任期間 | 2011年6月27日 - 2011年9月2日 |
第50代 科学技術庁長官 | |
内閣 | 細川内閣 |
在任期間 | 1993年8月9日 - 1994年4月28日 |
選挙区 |
(全国区→) 岡山県選挙区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1977年7月10日 - 1983年7月10日 1998年7月26日 - 2016年7月25日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (1983年12月19日 - 1996年9月27日) | |
第2代 社会民主連合代表 (1985年2月10日 - 1994年5月22日) |
江田 五月(えだ さつき、1941年〈昭和16年〉5月22日 - 2021年〈令和3年〉7月28日)は、日本の弁護士、裁判官、政治家。1977年から2016年まで衆議院議員と参議院議員をそれぞれ4期ずつ務めた。第50代科学技術庁長官、第27代参議院議長、第86代法務大臣と第16代環境大臣を歴任し、社会市民連合や社会民主連合の代表を務めた。
江田は1941年5月22日に江田三郎の長男として岡山県上道郡財田村(現在の岡山市中区)に誕生した。岡山朝日高校を経て東京大学に進学し、在学中には学生運動を指導した。1968年から約10年間裁判官として東京や千葉で勤務した。1977年に父である三郎が死去すると後を継いで社会市民連合(後の社会民主連合)公認で参議院議員に当選した。1983年には衆議院に鞍替えして旧岡山1区から社民連公認で当選し、1985年には社民連の代表に就任した。
1993年に非自民・非共産連立政権である細川内閣が誕生して社民連が与党となると、江田は科学技術庁長官として入閣した。1994年には社民連を解党して日本新党に合流し、江田は副代表に就任した。同年に自社さ連立政権が誕生して下野すると新進党の結成に参加した。1996年には衆議院議員を辞職し岡山県知事選挙に無所属で立候補するも自民党推薦の石井正弘に敗れた。その後は新進党に復党せず、民主党に入党し弁護士を行いながら政治活動を続けた。1998年には岡山県選挙区から参議院議員に当選し国政に復帰した。
2007年に民主党が参議院で第一党となると江田は1955年の自民党結党以来初めて野党の議員として参議院議長に就任した。2010年に参議院議長を退任すると2011年には菅直人第2次改造内閣で法務大臣と環境大臣を務めた。2016年の参議院議員選挙に立候補せず政界を引退した。引退後は立憲民主党岡山県連の顧問などを務め、2021年7月28日に肺炎のため80歳で死去した。
生涯
[編集]生い立ちと若年期
[編集]メーデーが行われる5月に生まれたことにちなんで「五月」と名付けられた[1]。高校時代は生徒会に所属していた[2]。1960年に東京大学に現役で合格した。自治委員の選挙に当選し、大学2年生の際には教養学部自治会の自治委員長に当選した[2]。江田は学生運動のなかで2度逮捕された[2]。1度目は1962年5月11日に起きた自民党総裁室占拠事件とも呼ばれる出来事で[2][3]、江田らが自民党本部に抗議に行った際に自民党総裁に会わせるよう要求すると自民党本部内の部屋に通され、そのまま住居侵入として逮捕された[2]。その際は処分保留で釈放され、後日不起訴となった[2][注釈 1]。2度目は大学管理法反対運動で逮捕され、当日の夜中に釈放された[2]。
司法修習の同期には神崎武法や高村正彦、横路孝弘がいた[4]。修了後、江田は1968年から東京や千葉、横浜の地方裁判所で判事補を務めた[5][6]。
政界入り
[編集]1977年5月22日に江田の父であり社会市民連合(社市連)の代表であった三郎が死去した[7]。社会市民連合は三郎が入院していた時期から三郎の回復は困難と考え、江田に立候補を要請していたが、江田は辞退していた[7]。これを受けて社会市民連合は江田の弟である拓也を擁立したが、三郎の死去を受け23日に江田は社市連に対し立候補の意思を伝え、同日に横浜地裁に辞表を出した[7]。江田は第11回参議院議員通常選挙に社市連公認で全国区から出馬し、全候補中第2位となる約139万票を得て初当選した[1]。
社民連代表
[編集]1985年2月6日、社民連の結党から7年間代表を務めていた田英夫が辞意を表明した[8]。これを受けて同月11日に行われた全国大会において、副代表であった江田が代表に昇格した[8]。代表に就任した江田は党勢の再建や野党間の協力を目指し、また、都市政策や年金、医療において社民連ならではの政策を追求すると表明した[8]。
1986年7月に行われた衆参同日選挙では中曽根政権が目指していた改憲の阻止、政治倫理の確立、管理教育の是正などの教育、行財政改革などを訴えた[9]。選挙結果は自民が躍進し野党は惨敗したが、社民連は衆議院で1議席増やした[10]。選挙後、江田は社会党と民社党の歴史的和解を目指すとし、社民連としての独自の会派を組まず、衆議院議員4人のうち江田を含む2人は社会党と、残りの2人は民社党と統一会派を結成した[11]。統一会派の結成にあたっては社会・民社両党からの党議拘束を受けないことや、3党で定期的な協議を行うことで合意した[11]。
科学技術庁長官
[編集]日本新党・新進党時代
[編集]岡山県知事選落選と国政復帰
[編集]民主党の「明日の内閣」においては法務大臣にあたる司法委員長に任命された[12]。
参議院議長
[編集]法務大臣・環境大臣
[編集]法務大臣として在任した7か月の間、江田は死刑執行に署名を行わなかった[5]。
その後の経歴
[編集]2012年12月にはメキシコの大統領に当選したエンリケ・ペーニャ・ニエトの就任式に特派大使として出席した[13]。
引退・死去
[編集]引退後は立憲民主党岡山県総支部連合(岡山県連)の顧問を務めた[14]。
江田は2021年7月28日に岡山市内の病院で肺炎のため80歳で死去した[15]。
政治的立場
[編集]また、第9条に関しても憲法制定当時の時代背景が表現されたものであり、手直しする部分があってもよいとしている[16]。一方で、戦争放棄は第二次世界大戦後の世界が共有した理想であり、その理想を放り出すことはすべきではないと述べている[16]。
評価・影響
[編集]江田は1980年代から1990年代にかけては「市民派リベラル」の旗印と目され、民主党時代には参議院議長や法務大臣などを務めつつ、長老として民主党政権を支える役目に回った[1]。また、引退後も立憲民主党の顧問を務め、岡山の旧民主党勢力の支柱と呼ばれた[17]。『朝日新聞』編集委員の三浦俊章は、江田を知性の政治家であるとし、穏やかな人柄によって慕われ周囲に担がれる人物であったが、参謀術数を厭わない剛腕ではなかったと評している[1]。
私生活
[編集]家族は妻と2人の息子、1人の娘がいる[18]。江田の趣味は水泳であり、岡山県の重要無形文化財に指定されている神伝流の9段だった[18][19]。また、日本水泳連盟の範士の資格を持っており[6]、岡山遊泳会の顧問も務めていた[19]。かつては喫煙者であったが、36歳の時に胃を悪くして3分の2ほどを切除し、それをきっかけに喫煙も辞めた[6]。
選挙歴
[編集]著書
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 引用エラー: 無効な
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タグです。「朝日新聞_20211218
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ a b c d e f g h “Vol.029 国会議員 江田 五月 参議院議員 「僕らのときは人生を賭けて何かやる、燃えるものがあった」”. ドットジェイピー (2003年8月1日). 2023年7月31日閲覧。
- ^ 日本教育新聞社 1962, p. 93.
- ^ 官界 1999a, p. 33.
- ^ a b “江田五月さんが死去、80歳 参院議長や法相を歴任”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社 (2021年7月28日). 2023年7月31日閲覧。
- ^ a b c 国会ニュース 2000, p. 41.
- ^ a b c 「江田氏の身代わり 長男五月氏が出馬 社市連、擁立を内定」『朝日新聞』1977年5月24日、朝刊、東京版、1面。
- ^ a b c 「江田・社民連が発足 書記長には阿部氏選出」『朝日新聞』1985年2月11日、朝刊、総合面、1頁。
- ^ 「86同日選・各党の政策と主張――社民連」『朝日新聞』1985年6月17日、朝刊、特集、7頁。
- ^ 「86同日選、野党惨敗がっくし 石橋委員長ら険しい顔」『朝日新聞』1985年7月7日、夕刊、社会面、10頁。
- ^ a b 「社民連が議員二分、社会・民社と統一会派 民社党が理事確保」『朝日新聞』1986年7月22日、夕刊、総合面、1頁。
- ^ 官界 1999b, p. 142.
- ^ “江田五月特派大使のメキシコ大統領就任式出席”. 外務省 (2012年12月4日). 2023年7月31日閲覧。
- ^ “江田五月”. 立憲民主党岡山県総支部連合会. 2023年7月31日閲覧。
- ^ “江田五月 元参院議長が死去 80歳”. NHK政治マガジン. NHK (2021年7月28日). 2023年7月31日閲覧。
- ^ a b 官界 1999b, p. 147.
- ^ 「6年の「野党共闘」岐路 立・国、保守票取り込みへ 参院選」『朝日新聞』2022年5月19日、朝刊、岡山全県版、1地方面、19頁。via 朝日新聞クロスサーチ
- ^ a b “法務大臣、環境大臣 江田五月”. 首相官邸. 2023年7月31日閲覧。
- ^ a b “江田五月元法相が死去 県内から驚き、悼む声”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社 (2021年7月29日). 2023年7月31日閲覧。
参考文献
[編集]- 『日本教育年鑑 1963年版』日本教育新聞社、1962年。doi:10.11501/9528549。
- 『官界』第25巻第8号、行研、1999年8月、doi:10.11501/2837908。
- 『官界』第25巻第11号、行研、1999年11月、doi:10.11501/2837911。
- 『国会ニュース』第60巻第4号、国会政経ニュース社、2000年4月、doi:10.11501/2859911。