利用者:Takobou/作業場2
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姫路市本町68番地(ひめじしほんまち68ばんち)は兵庫県姫路市の中心部にある地番で、その範囲は姫路城およびその周辺の総面積107.73ヘクタールに及ぶ。この中には姫路城の他に美術館・博物館・図書館・小学校・中学校・高等学校・病院・交番・消防署・商店街・公営住宅・一般住宅など多数の施設が含まれている。これは単独の地番としては、皇居のある東京都千代田区千代田1番地の約150ヘクタール[1]に次ぐ日本で2番目の広さである[2]。
歴史[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/96/Himeji_city_central.jpg/240px-Himeji_city_central.jpg)
江戸時代に姫路城が整備された際には、天守を中心に三重の城壁と堀が巡らされた。天守の周囲が「内曲輪(うちくるわ)」とされ、最外周の城壁の内側が「外曲輪(そとくるわ)」として下級武士や町人の居住区とされた。そしてその間に置かれたのが「中曲輪(なかくるわ)」と呼ばれた家老や上級武士の居住区であった。今日の姫路市本町は、内曲輪全体と中曲輪のうち姫路郵便局前交差点(旧姫路警察署前交差点)南東の「総社本町」を除き、国道2号と大手前通りの交差点南西の一部を含めた部分に相当する。そして本町から国道2号以南を除いた部分が「本町68番地」である。
この本町や総社本町にまたがる一帯に「本町遺跡」が存在し、最古期の遺構は古代の播磨国国府跡と推定されている。室町時代にはこの一帯は「国衙荘」と呼ばれる中に含まれた。江戸時代初期の池田輝政による姫路城整備の際には、姫山周辺の「宿村」「中村」、その周囲にあった「国府寺(こおでら)村」「辻川村」などを周辺地域に移動させて内曲輪と中曲輪を整備し、北側の広峰山麓を通っていた山陽道を城下に移動させている。
江戸時代における姫路の「本町」は、姫路城の中堀の南側、山陽道に沿った地域を指した。すなわち本町68番地の範囲は江戸時代の「本町」ではない。当時の本町は町人地の中心として、中門(なかのもん)前に高札場が置かれていた。一方で後の本町68番地に当たる中曲輪の内、大手門より南側の「大名町」「桜町」には藩主の一族や重臣達の屋敷が設けられ、東部の「岐阜町」「案内社」や北部の清水門内の一帯にはこれに次ぐクラスの屋敷が分布していた。時代が下ると中曲輪内に公用機関の設置が進み、そこにあった家老の下屋敷は外曲輪や城外へ移転されている。
明治維新の後、1871年(明治4年)に中曲輪内にあった武家地である案内社・岐阜町・桐馬場町・絵図裏・桜町・小桜町・大名町・市之橋・清水の各町が本町に合併された。1874年(明治7年)には姫路城三の丸に陸軍歩兵第10連隊が(後1925年(大正14年)に岡山へ移転)、1896年(明治29年)には姫路城南西に歩兵第39連隊(終戦まで姫路所在)が設置された。この際に内曲輪と中曲輪の建物の多くが取り壊され、軍の施設が建設された。今日の独立行政法人国立病院機構姫路医療センターはそれらの中の姫路衛戌(えいじゅ)病院に起源を持ち、姫路陸軍病院、国立姫路病院を経て現在に至る。明治20年頃までには中曲輪の侍屋敷の立ち退きがほぼ完了した。
1889年(明治22年)には土地台帳法が施行され、本町内にあった軍用地以外の場所に1番から67番までの地番が割り当てられ、残る軍用地全体が「本町68番地」とされた[3][4]。
姫路城南側には広大な練兵場が開設され、「城南練兵場」と呼ばれた。ここは軍事利用だけではなく市民の生活においても様々な行事に用いられ、特に1926年(大正15年)の「全国産業博覧会」や1936年(昭和11年)の「国防と資源大博覧会」では会場としても用いられた。
太平洋戦争末期の姫路大空襲によって姫路城の周囲は焼き払われ、残った軍の施設も一部が学校の仮校舎などとして一時用いられたほかはほとんどが取り壊された。今日残る当時の建物は、旧姫路市役所を経て姫路市立美術館として再利用された赤煉瓦造りの被服倉庫と、カトリック淳心会の本部として転用された第十連隊司令官官邸のみである[3]。
戦後復興期、1945年(昭和20年)には県立姫路高等女学校が姫路城東側の陸軍兵器支廠跡に移転し今日の兵庫県立姫路東高等学校の母体となる。1947年(昭和22年)には北条口(姫路駅南東)にて罹災した姫路市役所が被服倉庫跡に移転、他に保健所・裁判所・税務署なども設置された。城の南側では戦災で家を失った人たちや海外からの引き揚げ者などが国から市を通じて旧軍用地を借りて街を作り、このうち城南練兵場跡の大手前通りを挟んで東側北の地区が「お城本町」、東側南の地区が「大手前町」、西側が「白鷺町(はくろまち)」と通称されるようになった。戦後に本町68番地が分割されなかったのは、戦後の混乱で分割できなかったとの説や[5]住民らが姫路城と同じ68番地を望んだとの説がある[2]。このうちお城本町は、当初姫路駅近辺に広がっていた闇市を整理するために作られた仮設店舗「お城マート」を1954年(昭和29年)に改称したものである。1981年12月2日には、NHKの紀行番組『新日本紀行』で「戦後生まれの城下町 ―姫路市本町68番地―」として、お城本町に住む人々と版画家・岩田健三郎との交流が取り上げられた[6]。
後にそれぞれの地区で大規模な再開発が行われ、市役所が駅南に移転するなど官公庁は本町68番地の外へ移転された。これらの跡には、市役所跡を姫路市立美術館として整備するなど文化施設や公園が設けられている。お城本町の中央には再開発ビル「イーグレひめじ」が建設され、白鷺町の北半分は「家老屋敷跡公園」として整備された。さらに大手前町では再開発ビル2棟の建設が計画されている[7]。
2007年現在でも本町68番地には約400世帯が住む。学校や病院などで働く人たちを加えると、千数百人が同じ住所となり、郵便配達や宅配便の担当者を悩ませる。日本郵便姫路支店(姫路郵便局)ではこの地区の郵便配達にベテラン三名を充て、さらに郵便物がよく届く人の名前を控えた特別ファイルを作成して対応しているという[3]。
本町68番地内の施設[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Himeji_Castle_0804_1.jpg/200px-Himeji_Castle_0804_1.jpg)
右側括弧内は元の施設。
- 史跡
- 姫路城
- 三の丸広場(←中学校 ←第10聯隊)
- 公園
- 大手前公園(←城南練兵場)
- 家老屋敷跡公園(同上)
- シロトピア記念公園(←姫山住宅ほか ←射撃場)
- 姫山公園
- 東御屋敷跡公園(←裁判所・労働会館 ←練兵場)
- 城見台公園(←東税務署・商工会議所 ←憲兵隊)
- 文化施設
- 兵庫県立歴史博物館(←姫路市庁舎・中央保健所 ←射撃場)
- 姫路市立美術館(←姫路市役所 ←被服倉庫)
- 日本城郭研究センター(←拘置所 ←衛戌監獄)
- 姫路市立城内図書館(城郭研究センター内)
- 姫路市立動物園(←第10聯隊)
- 姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」(←西税務署・国鉄官舎ほか ←第39聯隊)
- 神社
- 姫路神社
- 兵庫縣姫路護國神社(戦後一時期「白鷺宮」と称する)
- 病院
- 独立行政法人国立病院機構姫路医療センター(←国立病院 ←陸軍病院 ←衛戌病院)
- 警察・消防・行政
- 学校
- 兵庫県立姫路東高等学校(←兵器支廠)
- 淳心学院中学校・高等学校(←兵器支廠倉庫)
- 賢明女子学院中学校・高等学校(←第10師団司令部)
- 兵庫県立姫路聴覚特別支援学校(←第39聯隊)
- 姫路市立白鷺小・中学校(←練兵場)
- 商業施設
- イーグレひめじ(←お城本町 ←お城マート ←練兵場)
- 本町商店街(←練兵場)
- 家老屋敷跡公園内の食堂・土産物店群(←白鷺町北部 ←練兵場)
- 住宅
- 県営本町住宅(←第39聯隊)
- 県職員住宅(←第39聯隊)
- その他
- 姫路中央自動車学院(自動車教習所)(←火薬庫)
- NTT西日本姫路支店(←練兵場)
- 神姫バス車庫(←第39聯隊)
- バス停:8カ所(他の町との境界上にあるものを含む)
- 公営駐車場:5カ所
- 大手門駐車場(←市民グラウンド ←練兵場)
- 姫山駐車場(←法務合同庁舎・本町花壇公園ほか)
- 城の北駐車場(城郭研究センター西隣)
- 大手前公園地下駐車場
- イ−グレ地下駐車場(お城本町地下駐車場)
- 姫路観光なぴポート(観光案内所、大手前町)(←練兵場)
本町68番地内の施設のギャラリー[編集]
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兵庫県立歴史博物館
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姫路市立美術館
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日本城郭研究センター
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好古園
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姫路市立動物園
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兵庫縣姫路護國神社
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旧姫路警察署(2009年に市内市之郷に移転、取壊し)
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カトリック淳心会本部
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純心学院
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賢明女子学院
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兵庫県立姫路東高校
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姫路市立白鷺小学校
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イーグレひめじ
脚注[編集]
- ^ 朝日新聞(2007年11月)では142ヘクタールとしている。
- ^ a b “【ふるさとNo.1】107.73ヘクタール 兵庫・姫路→本町68番地”. 産経新聞大阪朝刊. (2007年3月11日). p. 9
- ^ a b c “(週刊まちぶら)姫路市本町68番地 107ヘクタール、軍都の面影わずか /兵庫県”. 朝日新聞大阪地方版/兵庫. (2007年11月19日). p. 29
- ^ 1番から67番までの地番については、戦後に分割され3桁の地番となった部分がある。また68番地内においても、再開発に際して枝番が割り当てられた部分もある。
- ^ “日本で2番目に広い番地 本町68番地の謎に迫る”. 神戸新聞朝刊姫路版. (2004年2月13日). p. 26
- ^ NHK. “NHKアーカイブス 保存番組検索: 新日本紀行 戦後生まれの城下町~姫路市本町68番地~”. 1月26日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
- ^ “姫路・本町商店街の再開発:姫路城周辺を活性化 事業協同組合の設立認可 /兵庫”. 毎日新聞朝刊播磨・姫路版. (2005年3月31日). p. 27
参考文献[編集]
- 橋本政次『姫路市町名字考』姫路市、1956年(復刻『播磨考・姫路市町名字考』〈兵庫県郷土誌叢刊〉臨川書店、1987年)。
- 歩兵第十聯隊史刊行会(編)『歩兵第十聯隊史』歩兵第十聯隊史刊行会、岡山、1974年。
- 歩兵第三十九聨隊史編集委員会(編)『姫路歩兵第三十九聨隊史』歩兵第三十九聨隊軍旗奉賛会、姫路、1983年。
- 横山忠雄(編)『ふるさと城南ものがたり』城南地区連合自治会、姫路、1983年。
- 『日本名城集成 姫路城』小学館、1984年。
- 姫路市史編集専門委員会(編)『姫路市史 第14巻 別編 姫路城』姫路市、1988年。
- 『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』 角川書店、1991年。
- 『日本歴史地名大系 第29巻2 兵庫県の地名2』 平凡社、1999年。
- 都市問題経営研究所(編)『お城本町地区第一種市街地再開発事業事業記念誌』 お城本町地区市街地再開発組合、姫路、2003年。
- 播磨地名研究会(編著)『新・姫路市の町名』 神戸新聞総合出版センター、2007年。ISBN 978-4-343-00444-4。