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LAPA[編集]

アルゼンチン・プライベート・エアラインズ(Líneas Aéreas Privadas Argentinas、LAPA)はかつて存在したアルゼンチンの航空会社である。

ブエノスアイレスを拠点として、全盛期にはアメリカウルグアイへの国際線およびアルゼンチン国内での広範な国内線を運航し、さらにチャーターサービスも行っていた。

国内線は主にホルヘ・ニューベリー空港から運航されていた一方、国際線はエセイサ空港での取り扱いが主であった。

LAPAはアルゼンチンにおけるアルゼンチン航空とその姉妹会社のアウストラル航空の独占市場を打ち破った最初の会社であった。

同社は2003年4月をもって運航を停止した。

歴史[編集]

この社はブエノスアイレス州内での航空サービスを提供することを目的として1977年に設立された。1978年にはチャーター便の運航が開始され、翌年には定期便も運航されるようになった

便は3機のYS-11Aパイパー・シャイアン英語版1機で構成され、コンコルディア、エセイサ空港、グアレグアイチュ英語版、ラプラタ、ネコチャ、オラバリア、パラナ、ペフアホ、サンニコラス、トレスアロヨスなどの国内の旅客・貨物便を運航していた。

コルニーロフ事件またはコルニーロフ反乱とは、ロシア帝国陸軍の将軍ラーヴル・コルニーロフロシア臨時政府に対して起こした反乱である。

コルニーロフは「ロシアの大地を守るため」、自身の配下の軍を首都ペトログラードに進軍させたものの、臨時政府の首班アレクサンドル・ケレンスキー七月蜂起で窮地に立たされていたボリシェヴィキらの抵抗に遭い、失敗。彼自身は逮捕された。

前史[編集]

革命と臨時政府の成立[編集]

第一次世界大戦中、ロシア帝国はその前時代的な体制と貧弱なインフラ、そして近代化されていない軍隊のために、ドイツ帝国オーストリア・ハンガリー帝国軍相手に敗戦と撤退を繰り返していた。そしてそれはロマノフ王朝に対するロシア国民の不満を募らせることとなった。

そんな中、食糧を要求するデモ隊に対して軍隊が皇帝ニコライ2世の命令により発砲を行うという事件が発生。この事件はデモ隊とストライキに入っていた労働者たちを怒らせ、革命へと繋がり、ロシア帝国政府は打倒された(二月革命)。

変わって権力を握ったのはロシア臨時政府であったが、大臣たちの多くは富裕層自由主義者であり、ペトログラード・ソビエト英語版に代表される社会主義者たちとは度々対立していた。

そこで頭角を表したのがケレンスキーである。彼は1881年にシンビルスク(現在のウリヤノフスク)で商人のもとに生まれ、サンクトペテルブルク大学を卒業したあと、ロシア第一革命での弁護人を担当し、彼自身もナロードニキ運動に加わっていた。1912年にはトルドヴィキからドゥーマに当選。改革派の議員として民衆に人気があり、二月革命後はペトログラード・ソビエトの副議長を務めた後にアレクサンドル・グチコフの後任の陸海軍相として臨時政府に入閣していた。

七月蜂起[編集]

7月16日にウクライナの処理をめぐる問題から内閣中のカデットの全大臣が辞職<ref group="注釈">このとき辞職しなかったニコライ・ネクラーソフはカデットを離党した。</ref>、臨時政府は大混乱に陥る。さらにこのとき、ケレンスキー攻勢の失敗によりペトログラードの兵士たちが反発。前線への移動命令を拒否した第一機関銃連隊が抵抗を始めると、民衆や他の連隊、クロンシュタットの水兵たちが加勢し、大きな勢力となった。ところが社会主義系政党の指導者たちは対応が別れてしまい<ref group="注釈">もっと組織化された行動でなければ政府を倒せないと考えていた者が多かった。レーニンは自制を呼びかけ、カーメネフジノヴィエフは民衆を鎮めさせるための説得にあたり、チェルノフに至っては民衆に拉致されかけたところをトロツキーに助けられた。また、アナーキストヨセフ・ブレイフマンは逆に蜂起を煽っていた。</ref>、蜂起は失敗に終わり、レーニンやトロツキーは地下に潜伏することを余儀なくされた(七月蜂起)。

内閣危機[編集]

これで臨時政府側がより主導権を握れるはずだったのだが、臨時政府内でもカデットとエスエルメンシェヴィキの対立や駆け引きがあり、七月蜂起でレーニンがドイツのスパイであるという情報を流した法相パーヴェル・ペレヴェルゼフが辞任、それに続いて農相チェルノフの「土地売買の禁止」という方針に反発した首相ゲオルギー・リヴォフ公が辞任してしまった。

首相が空位というわけには行かず、7月8日にケレンスキーが首相に就任。7月21日に連立の交渉が手詰まりとなったことに怒ったケレンスキーが姿を消すトラブルはあったものの、ネクラーソフが彼を呼び戻し、7月24日にエスエル・カデット・メンシェヴィキ・進歩党・人民社会党による第二次連立内閣が成立した。

前線の危機とコルニーロフ[編集]

首都で政府が危機に陥っている間、前線ではドイツ軍からの危機に瀕していた。特に革命以降、兵士の命令違反や気に入らない上官の殺害などが相次ぎ、軍規は緩みきっていた。その状況の中頭角を表したのがコルニーロフである。

コルニーロフ反乱

逮捕されたコルニーロフと側近たち
戦争第一次世界大戦(ロシア革命)
年月日1917年8月27日〜1917年10月13日
場所:ロシア
結果:臨時政府の勝利

・反乱の失敗

カデットの信用失墜

・ボリシェヴィキの復活

交戦勢力
ロシア帝国陸軍 ロシア臨時政府
指導者・指揮官
ラーヴル・コルニーロフ

ボリス・サヴィンコフ

アレクサンドル・クルイモフロシア語版

アレクサンドル・ケレンスキー
戦力
第3騎兵軍団 労働者たち
損害
自然消滅 不明
Template:Campaignbox ロシア革命

彼は二月革命の際、ペトログラード軍管区の総司令官であり、4月に発生した4月危機<ref group="注釈">外相パーヴェル・ミリュコーフ連合国の国々に対して戦争継続を約束したところ、厭戦気分が蔓延した民衆の怒りを買い、陸海軍相のグチコフとともに辞任した事件</ref>で、治安回復のために軍を出動させようとしたものの、ペトログラード・ソビエトの圧力によって命令を撤回させられ、更に「兵士に命令できるのはソビエトだけである。」という声明に憤慨し辞任して第8軍の司令官となった。