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{{存命人物の出典明記|date=2018年11月}}

馮寄台
プロフィール
出生: (1947-11-17) 1947年11月17日(77歳)
出身地: 中華民国の旗 台湾高雄市
職業: 外交官
各種表記
繁体字 馮寄臺
簡体字 冯寄台
拼音 Féng Jítái
和名表記: ひょう きたい
発音転記: フォン ジータイ
英語名 John Feng
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馮寄台(ひょう きたい、繁体字中国語: 馮寄臺、フォン ジータイ、英語: John Feng1947年11月17日 - )は、中華民国(台湾)外交官。2009年から2013年まで、実質的な駐日大使である台北駐日経済文化代表処の代表を務めた。2011年東日本大震災東京で被災。2018年旭日重光章授章。

経歴

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出身は台湾高雄市だが、父親が外交官だったため、小学卒業は東京、中学卒業は台北、高校卒業はボリビアと国際色豊かな少年時代を過ごした。大学時代はアメリカノースダコタ州で過ごし、メイビル州立大学で数学学士、ノースダコタ州立大学で国際関係学修士を取得した。

外交部に入庁すると、北米司事務官として2年経験を積んだのち、1976年、駐米大使館に一等書記官として赴任した。当時は、1972年のニクソン訪中以降、日本をはじめ西側諸国、アジア諸国が順次中華人民共和国と国交を結んだものの、アメリカ自身はいまだ国交を樹立していないという状況だったが、1979年、米中国交正常化と断交が宣言された。大使館の閉鎖、実務関係を処理する団体である北米事務協調委員会の設立、大使館の実務は委員会北米事務所へ移行した。 馮の所属も大使館から北米事務所に変更された。おおきな変化の中、1984年に一等書記官から行政組長(課長)へと昇進。1989年まで、1976年の赴任から数えると約13年間にわたって、北米で外交官生活を送った。この間1987年にはハーバード大学で公共行政学修士を取得した

台湾に戻ってからはラジオ局中国広播公司の海外部部長、新聞社中央通訊社の編集局長、党機関紙的な新聞社中央日報の国際部長など公営メディアへ出向した。この間、野球協会である中華民国棒球協会国際部部長や国民党の中央青年局次長も兼任している。

1997年になると日本の儀典長に当たる外交部礼賓司の司長を2003年まで務めた。この間にはりとうき総統の退任と、ちんすいへんの民進党政権誕生により、中華民国史上初めての政権交代が起こった。

2003年ドミニカ共和国に特命全権大使として赴任。2006年帰台すると外交部から引退、2007年から馬英九・蕭万長正副総統選挙本部の国際事務部長となった。2008年1月の総統選勝利をうけて、5月に馬英九政権が発足した際には就任式典の総責任者である総召集人を務めた。

駐日代表

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帰台以降

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2018年旭日重光章授章の時には訪日して受章した。また平成から令和への改元にも産経新聞に寄稿、小学生時代や園遊会の思い出などを語っている。

エピソード

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{{出典の明記|section=1|date=2019年12月10日 (火) 15:07 (UTC)}}

  • 日本の小中学校に5年間通ったことがあるが、外交官になってからは日本と全く接点がなかったため、当初、駐日代表への就任要請を何度も断ったが、最終的に馬総統の懇請を受け入れたという。着任後の挨拶でも「内心では戦々恐々としている」と打ち明けた。英語、スペイン語が得意で、外国語の中では日本語が一番不得意のようだが、着任後必死に日本語を勉強中という。
  • 2008年9月12日、馬総統から「日本に行く前に、台湾人が日本人に抱く特別の感情を理解する必要がある」と指示を受け、日本統治時代の台湾南部で水利事業に尽力した日本人技師・八田與一の墓や烏山頭ダムを訪れた(馬総統も就任直前に墓前で手を合わせている)。
  • 2008年9月30日、日華議員懇談会会長の平沼赳夫元経済産業大臣を訪問し、馬総統からの親書を手渡す。その際、平沼会長の秘書の一人と同じ小学校卒業生(港区立笄小学校)であることが判明すると、馮代表が即席で校歌を披露した。
  • 2008年10月8日、都内で開かれた双十節祝賀レセプションで、初めての公式演説を日本語で行った。この中で「水原茂監督時代の読売巨人軍のラインアップは今でも覚えている」として選手名をそらんじ、小中学校時代に野球少年だったことを明かした。石原慎太郎東京都知事とも面会した。
  • 2008年11月18日王貞治氏と面会。大の巨人ファンであることを告白し、サインボールをもらった。
  • 2008年12月23日日本李登輝友の会主催のパーティーに出席し、来賓トップとして挨拶。流暢な日本語、ユーモア、日本国旗への敬礼など、国民党政権に警戒感を抱いている多くの参加者を驚かせた。「馬総統は日本のことを私の口から直接聞きたがっている」「日台は大切な関係。尖閣は難しい問題で、馬総統も答えがない」「王金平院長、江丙坤会長、呉伯雄主席の来日は全て馬総統の指示」などと、馬総統の日本重視を力説し、李登輝元総統との良好な関係もアピールした。「来年はもっと上手な日本語で話します」と締め括った。
  • 2008年2月17日朝日新聞の「私の視点」欄に寄稿。「馬英九総統 台湾・日本の協力促進めざす」と題して日台関係強化を呼びかけた。台湾駐日代表の投書が同紙に掲載されたのは初めてという。
  • 2009年10月15日、任期内に台北の国立故宮博物院の所蔵品の日本展示会を実現させたい意向を表明。
  • 2010年2月26日産経新聞に寄稿。「ハイチ支援を政治化させなかった台湾」との題で、中国と台湾の違いを強調。かつ、民進党政権の外交政策を批判した。
  • 2010年6月10日読売新聞に寄稿。日台FTAの早期締結を呼びかけた。
  • 2010年12月23日毎日新聞に寄稿。「教科書の台湾表記に危惧」と題し、日本の教科書で台湾が中華人民共和国の一部として扱わないよう要請した。

コメントアウト

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脚注

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注釈

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  • 名称は当時名称。北米事務協調委員会および北米事務協調委員会北米事務所は2021年現在それぞれ台湾米国事務委員会および駐米国台北経済文化代表処に改名している。

出典

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  • 朝日放送テレビ|海外支局通信

https://www.asahi.co.jp/shikyoku/old/taipei/2008/20080925.html

台湾人に愛された日本人
馮氏は八田技師の銅像に花を手向けた後、インタビューに応じ、「台湾人が日本人に抱く特別な感情を理解するために来た」

関連項目

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外部リンク

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data

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 1968  ボリビア インスティテュート・アメリカーノ高等学校卒業

  • Instituto Americano


中信金融管理學院董事長以及中信兄弟球團聘任之最高顧問

運営母体の中国信託フィナンシャルホールディングスは、中国信託商業銀行(CTBC Bank)を中核とする台湾の最大手金融グループ


  • 社團法人對外關係協會

第二屆常務理事 更新日期:104年9月23日


記事

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2011/10/05 蔡訪日馮寄台機場現身 接老婆就閃│蔡英文│TVBS新聞網

  • 謝謝台灣! 台湾への感謝メッセージ(2) 小笠原ホームページ(2012年5月13日)

http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/etc/thankyoutaiwan2.html

任期中の日台交流への尽力は評価に値すると思う[此中文文章是4月21日在我Facebook上發表的]

2018年04月29日 平成30年春の外国人叙勲における台湾の受章者 新着情報 | 公益財団法人日本台湾交流協会

https://www.koryu.or.jp/news/?ItemId=772&dispmid=5287

{{先代次代|[[台北駐日経済文化代表処|中華民国(台湾)駐日代表]]|<small>[[2008年]][[8月28日]] - [[2012年]][[5月30日]]</small>|[[許世楷]]|[[沈斯淳]]}}

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