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許 世楷 | |
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プロフィール | |
出生: | 1934年7月7日(90歳) |
出身地: |
日本統治下台湾 台中州 (現: 台湾彰化県)彰化市 |
職業: | 国際政治学者 |
各種表記 | |
繁体字: | 許世楷 |
簡体字: | 许世楷 |
拼音: | Xŭ Shìjiĕ |
ラテン字: | Hsu Shih-kai |
和名表記: | きょ せいかい |
発音転記: | コー・セカイ |
英語名: | Koh Se-kai |
許 世楷(きょ せいかい、コー・セカイ[注 1]、英語: Koh Se-kai、1934年7月7日 - )は、台湾の国際政治学者、憲法学者。東京大学で法学博士取得。津田塾大学学芸学部教授、のち名誉教授。日本で30年以上の実質的な亡命生活を学者として過ごし、1993年に帰台した。2004年あらためて訪日、台北駐日経済文化代表処の代表として2008年まで実質上の駐日大使を務めた。台湾独立運動の中心的人物の一人。台湾独立建国連盟元代表(1987 - 1991)、台湾建国党元代表(1997 - 1998)。夫人は児童学者の盧千恵。2017年5月、旭日重光章を受章。
経歴
[編集]郷紳階級の出身で、一族には著名な政治運動家も含まれる。父親の許乃邦は京都帝国大学法学部、東京帝国大学経済学部で学んだ法律家、母親は東京女子医学専門学校卒の医者。祖父の許嘉種は台湾文化協会調査部長時代に台湾議会設置運動を行い日本警察に逮捕拘留されたことがある。伯父の許乃昌は陳独秀の推薦をうけソビエト連邦モスクワ中山大学で学んだ左派の政治運動家。1947年の二・二八事件では祖父、父、伯父が左翼分子として国民党から指名手配を受けた。また、日本留学中に知り合い、ともに台湾独立運動に関わってきた夫人の盧千恵は児童文学にまとまった著作がある。
日本での留学・学者生活
[編集]1934年台中生まれ。国立台湾師範大学附属高校(高級中学)を経て、1957年に国立台湾大学法学部卒業[注 2]。兵役に就いた後1959年、日本文部省の奨学金を得て留学、早稲田大学大学院政治研究科で修士課程修了、東京大学大学院法学政治学研究学科で博士課程修了(法学博士取得)。後述するように帰台が困難となり、日本の津田塾大学学芸学部で助教授、教授として約30年の教員生活を送り、同大学付属の国際関係研究所所長も兼任した。1972年に東京大学出版会より『日本統治下の台湾――抵抗と弾圧』を上梓。このなかで「植民地統治では差別待遇が必ずあり、偏見と圧迫の制度のなかで各種の抵抗運動が生まれる。それらの抵抗を根絶する道は、唯一植民地統治制度を徹底的に廃止することにほかならない」と記している。中国語版は2006年に出版されたが、台湾の学者からは「台湾政治史のバイブルとなる名著であり、台湾史を研究する者にとって必読の歴史専門書」と評されている[1]。
台湾独立運動への関与
[編集]日本留学直後の1960年に台湾独立運動団体「台湾青年社」(後に台湾青年会・台湾青年独立連盟に改組)に加入して以来、台湾独立運動に尽力。xxxx年中華民国政府から夫人とともに旅券を剥奪された。周囲の尽力により政治犯としての強制送還は免れたが、在外反政府分子としていわゆるブラックリストに掲載され、以降30年以上、事実上の亡命生活を送った。1970年「台湾独立連盟」の発足とともに中央委員に就任。1987年には、改組された「台湾独立建国連盟」の総本部主席を務めた。
1979年の美麗島事件や江南事件を経ながら、1980年代の後半、台湾は民主化への道を徐々に歩み始める。1986年の民進党結成は黙認され、1987年には38年間続いた戒厳令が解除された。1988年1月13日、蔣経国総統が死去し副総統の李登輝が後継者となった。しかし、のちには「民主先生」と呼ばれる李登輝だが、当時はまだ基盤は不安定で旧来の権力の反発も強かった。民進党にしても国民党の李登輝に対して全面的な信頼があるはずもなく、また民主派と台湾独立派とは共闘関係にはあっても同一ではない。各勢力が互いの意図を計り合うなかで1989年「」事件が起こった。
1988年、許は鄭南榕に請われ台湾の『自由時代』に「台湾共和国憲法草案」掲載を承諾。1988年12月の世界人権デーに発行された同誌は発禁処分となり、発行人の鄭は反乱罪に問われ召喚された。鄭は、召喚が独立運動についてではなく、『自由時代』の発行について罪を問われていることを指摘し、言論の自由への弾圧だと抗議し召還を拒否、1989年1月から編集室に立てこもった。4月警官隊の突入直前に抗議の焼身自殺を遂げた。
- 同じころ中華人民共和国では民主化運動が長期化していた。台湾人アーティストの曲が好んで歌われていた。1989年6月、六四天安門事件となった。
- 1990年三月学運(野百合学生運動)
- 翌91年には国家総動員法にあたる「動員戡乱時期臨時条款」が撤廃
- 1992年5月に刑法100条修正案が可決され、ブラックリストが解除された。
帰台後の政治活動
[編集]1992年台湾独立建国連盟の総本部中央委員会が初めて台湾で開催された。許はこれを機に33年ぶりに一時帰国した。翌93年6月帰台。その後、静宜大学教授、台湾文化学院院長、台湾憲政研究センター委員長などを務めた。
また、1993年12月に民進党に入党したが、1996年10月台湾建国党が民進党から分裂して成立すると1997年に主席に就任した( - 1998)。1995年と1998年に立法委員(国会議員に相当)選挙に立候補したが落選。2000年、陳水扁が総統に当選し、史上初の民進党政権が誕生すると、呂秀蓮副総統の求めに応じて総統府人権諮問小組の召集人(委員長)および呂副総統主宰の「台湾心会」台中分会会長に就任した。
駐日代表
[編集]2004年陳水扁が総統に再選すると、同年7月5日、台北駐日経済文化代表処代表(駐日代表)に就任、約4年間務めた。在任中は、「台湾人観光客の査証免除(ノービザ)の恒久化」、「運転免許証の日台相互承認」が実現。日台間で年間250万人が相互に行き来するようになった。 許の駐日代表赴任中、李登輝元総統は、2004年12月(~2015年1月)と2007年5月(~6月)の二度、日本を訪れている。特に査証免除が有効となった2007年の訪日では査証発給問題は発生しなかった。
また自身も
以前の日本語ができない駐日代表を批判
王毅との比較
2008年馬英九が総統選に当選、5月国民党政権が発足した。許は辞職届を提出したが、人事難航から当面の慰留を求められ受け入れた。親日的だった民進党政権と比べ日台関係の冷え込みが懸念されるなか、同年6月1日、日台関係60団体が「許代表夫妻を送る会」を都内で共同開催、安倍晋三、ジュディ・オング、櫻井よしこら約800人が集まり[2]許夫妻の長年にわたる友好活動を慰労した。
- 中国語版Wikipedia:岸総理との逸話を安倍晋三が披露
「士可殺不可辱」
[編集]同2008年6月10日未明、尖閣諸島沖で日本領海に侵入した台湾遊漁船と、海上保安庁巡視船「こしき」が衝突し、遊漁船「聯合号」が沈没する事故が発生した。6月13日許は交流協会を通じ日本政府に台湾の見解を訴えるとともに台湾メディアの取材にも応じた。外交部が許代表の召還を決定すると、6月15日台湾に戻り外交部長と約50分面談し状況を説明した。一方この期間台湾では日本へ強く抗議する論調が形成され、駐日代表の許に対しては許が日本の永住権を持っていることに対して国民党立法委員が「日本に近すぎる」「台奸(台湾の売国奴)」と発言するなど多くの非難が集まり罷免の声も上がった。許は16日午後2時30分に立法院外交委員会で事件の経緯を報告する予定だったが、午後1時30分、急きょ記者会見を開き、立法院出席を拒否、即日での辞任を要求した。会見の中で許は古典を引用し自身の姿勢を「士可殺不可辱」と発言、多くのメディアがこれをタイトルとして報道した。国民党の議員や閣僚から非難は続いたが、翌17日、馬英九総統は平和的な解決を宣言するとともに許の辞任を認め、事態は収束に向かった[3]。 沈没事故は領海侵入にはふれず双方に過失があったとして日本側が賠償を支払う形で収拾が図られた。許はいくつかの送別会に出席した後7月10日に離任し帰台。後任が決定するまでは副代表の羅坤燦が代表を代行することになった。離日直前の7月7日、産経新聞のインタビューでは「帰国後は一市民として、(台北ではなく出身地の)台中や彰化で地域のさらなる民主化促進に貢献したい」と話した[4]。
また、許の退任と同日、日本側でも代表の交代があり、斎藤台北事務所代表が着任した。
離任後
[編集]安倍前総理や麻生前総理のホスト役
2017年5月、旭日重光章を受章。
コメントアウト
[編集]著作
[編集]単行本
[編集]- 許世楷、1972、『日本統治下の台湾 : 抵抗と弾圧』、東京大学出版会 NCID BN01714143
- 許世楷、原彬久、南塚信吾(編著)、1976、『国際関係論基礎研究』、福村出版 NCID BN02009624
- 許世楷、1989、『台灣未來的描繪 : 新憲法草案之解説 附録: 台灣新憲法草案』第2版、津田塾大學國際關係研究所台灣學會 NCID BB07622611
- Yabu Syat, 許世楷, 施正鋒主編、2001、『霧社事件 : 台灣人的集體記憶』、霧社事件研究會 : 前衛出版社〈前衛政經文庫, 7〉 ISBN 9578012837 NCID BA79256704
- 許世楷, 施正鋒、布興・大立(編)、2001、『原住民族人權與自治』、前衛出版社〈前衛政經文庫, 14〉 ISBN 9578013027 NCID BA76343573
- 許世楷『日本統治下の台湾 : 抵抗と弾圧』東京大学出版会、1972年、2008年復刊(中国語版『日本統治下的台湾』玉山社、2006年)。
- 許世楷、原彬久、南塚信吾(編著)『国際関係論基礎研究』福村出版、1976年。BN02009624
- 許世楷、盧千惠『台湾は台湾人の国 :天になるごとく、地にもなさせたまえ』はまの出版、2005年。
- 『台湾という新しい国』まどか出版、2010年。増補改訂版
なお、原著の日本語版は2008年に復刊している。
論文・エッセイ
[編集]- 「台北駐日経済文化代表処代表 許世楷 もっと台日交流を身近なものに! 例えば、昔は台北と与那国島は自由に人々が行き来していた」『財界』 55(11)(通号1385)2004年、58~61ページ。
- 「台湾共和国誕生の日は近い」『中央公論』 108(5)、1993年、162~169ページ。
- 「台湾独立党 祖国に還る」『文藝春秋』 71(1)、1993年、364~374ページ。
- 「『朝日新聞』への質問状-台湾人を犠牲にするのか-」『自由』13(5)、1971年 、53~54ページ。
書評・文献紹介
[編集]- 「『台湾統治と阿片問題』劉明修著」『史学雑誌』93(4)、1984年、521~527ページ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 書評:『日本統治下の台湾』中文版は今なお台湾政治史のバイブル(『台湾週報』2006/2/10)
- ^ “辞令なき送別会に800人 台湾の許世楷・代表送別会”. 産経新聞. (2008年6月1日)
- ^ 長谷川周人 (2008年6月17日). “許世楷代表の辞任認める 台湾・馬英九総統”. 産経新聞 2011年4月7日閲覧。
- ^ “馬政権と与党間外交を-離任する台湾駐日代表 許世楷氏”. 産経新聞. (2008年7月8日)
関連項目
[編集]
儒有可親而不可劫也,可近而不可迫也,可殺而不可辱也。
鏊謂瑾曰:「士可殺,不可辱。今辱且殺之,吾尚何顏居此。」
- s:zh:明史/卷181#王鏊
- 志を持つものを殺すことはできても辱めることはできない
儒有可親而不可劫也,可近而不可迫也,可殺而不可辱也。— 礼記/儒行
鏊謂瑾曰:「士可殺,不可辱。今辱且殺之,吾尚何顏居此。」— 明史/王鏊
- CiNii Books 著者 - 許, 世楷
https://ci.nii.ac.jp/author/DA0197199X?count=20&sortorder=6
- 書評:『日本統治下の台湾』中文版は今なお台湾政治史のバイブル - 台湾週報 - 台北駐日経済文化代表処 台北駐日經濟文化代表處
- 許世楷著『日本統治下の台湾-抵抗と弾圧』/向山 寛夫/書評
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1972/47/1972_47_125/_article/-char/ja/
ウェード式
- 許世楷代表のインタビューを「週刊朝日」が掲載 | 日本李登輝友の会 愛知県支部
- 「シュイ・シーカイ」とわざわざ表記
外部リンク
[編集]- 許 世楷(キョ セイカイ)とは - コトバンク
- 許世楷・駐日代表 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分) - 駐日代表のご挨拶 - 台北駐日経済文化代表処 台北駐日經濟文化代表處
- 日本「平成29年〈2017年〉春季外國人叙勳」台灣3人獲得贈勳(2017-05-08) - 台北駐日經濟文化代表處
- 日華議員懇談会が許世楷・駐日代表夫妻の送別会を開催(2008-07-07) - 台北駐日経済文化代表処
- 台灣獨立運動的先行者:許世楷 < 其他文稿 - 施正鋒(淡江大学教授)
- Envoy to Tokyo defends policy toward Japan(2005-03-24) - Taipei Times
- 『台湾青年』は私達の精神的支柱だった 許世楷、『台湾青年』500号、2002年6月
リンク
[編集]- 書評-向山寛夫 - 許世楷著『日本統治下の台湾-抵抗と弾圧』
- 対中実質関係の拡大へ : 1992年の台湾 - アジア動向年報 1993年版 - アジア経済研究所学術研究リポジトリ ARRIDE
- page=3 李登輝が語る「天安門事件」が台湾の民主化に与えた影響 WEDGE Infinity(ウェッジ)
- 【話の肖像画】台湾元総統・陳水扁(69)(12)民主化へ「衝突、妥協、進歩」(1/2ページ) - 産経ニュース
- https://www.sankei.com/life/news/200403/lif2004030026-n1.html
20170510 許世楷元駐日代表「台湾は中国との関係考えるべき」=皇居で勲章伝達式出席 | 政治 | 中央社フォーカス台湾
許世楷氏と黄茂雄氏が皇居で旭日重光章受章の勲章と勲記の伝達式に臨席 | ニュース,台北事務所 | 日本李登輝友の会 │ 新しい日台交流にあなたの力を!
許世楷元代表、日本政府より「旭日重光章」受賞 - 台湾新聞
2020.4.17 【話の肖像画】台湾元総統・陳水扁(69)(25)日本に愛着、友との交流(2/2ページ) - 産経ニュース
2004年10月 許世楷vs王毅 朝日新聞アジアネットワーク(AAN):朝日新聞社インフォメーション
- 尖閣諸島周辺海域における中国公船等の動向と我が国の対処|外務省
- https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/page24_000162.html
- 2008年5月7日,日本を公式訪問した胡錦濤国家主席と福田康夫総理(肩書きはいずれも当時)は,「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明に署名
- しかし,その半年後の同年12月8日,中国公船(中国政府に所属する船舶)2隻が突如として尖閣諸島周辺の我が国領海内に初めて侵入
日台関係の動向(平成20年度/2008年度)|日本台湾交流協会
尖閣沖の台湾船沈没事故、日本側が船長に謝罪 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
- https://www.afpbb.com/articles/-/2408108
- 運輸安全委員会年報2009
- untitled
- 平成 19 年 8 月に那覇空港で発生した中華航空機の事故を受け、平成 20 年 5 月 5 日、財団法
人交流協会と亜東関係協会は、航空安全に関する取決めへの署名を行いました。