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利用者:Tomoyakamimura

編集中[編集]

とてもよくわからないですが除々になれていきたいと思ってます。なにか書き込んでくださっても構いませんが、どうやって返信を書き込むのかこれから学んでいくので遅くなると思います。 Tomoyakamimura 2006年4月6日 (木) 15:09 (UTC)


文章の書き方[編集]

ここでは、まず文章の書き方を書きたいと思います。文章の書き方は、

  • 「である体」の文では、いつ、どこで、何が、どのように、よって○○した。だから、○○であるとしなくてはいけない。理由は単に「である」だと、なんで?っと突っ込まれてしまうからである。基本的に論文などは、であるで終始するのはこのためである。

文について編集中[編集]

文について ウィキペディアでは、「Wikipedia:基本方針とガイドライン」によると「中立的観点」「公正」が書かれている。中立、公平というキーワードは誤解しやすい。

「記事の信頼性に関わるもの (中立的観点を参照)

ウィキペディアは信頼のある記事の記述を理想としています。よって記述は中立的観点によってなされます。これは記事の記述から偏った意見を排除する、あるいは真実しか記述しないというものではありません。ウィキペディアにおける中立的観点とは、異なった見解や事実を「公正」に表現する。つまり異なった見解や事実の帰属を明記し、それについて賛成あるいは反対の立場をとらないというものです。一方で公正な記述とは全ての見解や事実を「平等」に記述するというものではなく、見解や事実を「内容の関連性」や「出典の信頼性」に基づいて差別化するというものです。よってウィキペディアの全ての記事の記述は「検証可能」なものでなければなりません。また参加者の「独自の調査・見解」に基づく記述などは含まれず、重要な記述は全て「出典が明記」されていなければなりません。」


上記を踏まえて、必ずしも、公平、中立に書く必要は無いときもある。例えば、主義、主張に関して社会主義の主張に対して、それだと不公平である資本主義も書けと主張するのは諒解不能である。

あくまで、辞典なので初めて見る人がこのような内容なのだ。と諒解するように書くべきである。通常、誤った点は、検閲の精神に於いて書くべきだが、反論は書くべきではない。 検閲とは、検閲イコール悪ではない。検閲(ここでは国家間も含めて、広義の意味で事前チェックも含まれる。)とは、そもそも国民に誤った情報を伝えないため、必要不可欠である。また。情報を書いた側が事前に告訴を免れるためにも不可欠である。尚、戦争時などは、基本的に国家が消滅する危機もあるため、戦意高揚を目的とした検閲をされるときもある。しかし、これはあくまでも非常時に限りである。

表現の自由とは、「外部に向かって思想・主張などを表現する自由。」(2005年の広辞苑電子辞書による)のことで、何もかも自由に表現してよいわけではない。尚、前述の通り国家間の戦争など国が消滅する危機にあるとき、この表現の自由は保障されない場合がる。例をあげると、大日本帝国時代、共産主義に対する検閲は、共産主義がソビエトと繋がっており、共産主義者が政権を取るとソビエトの影響下に下らざるおえないとし、国家の防衛として利用した。また、第二次世界大戦中、日本側が負けると、国が消滅の危機に陥るため、日本軍によって戦意高揚を阻害するものは検閲された。

法解釈について編集中[編集]

私たちは法律というルールの中で生活している。法治国家である。しかし、法律は絶対ではない。実は、法よりも一番重視するのは、常識という曖昧な概念や慣例に則ることが大切である。具体的には、 法解釈について

宗教の自由 常識、慣例 例えば重要文化財

実は、法よりも一番重視するのは、常識という曖昧な概念や慣例に則ることが大切である。

証言は証拠にはならない。例、虐殺

↓まだ、修正なし 証言は証拠になりません。これは私たちが法治国家に住んでることの証であるため、法に準拠し、挙証責任が発生する。例をあげると、小林よしのりはオウム真理教に殺されそうになった。オウム側も小林よしのりを殺そうとした。しかし、刑法201条殺人予備罪が適用されたかと言えばそうではない。証拠がないからです。 小林よしのりは「「証言」には思い込みや間違いや粉飾やウソやいろんなものが混じる。時間によって変形もし、証言を引き出す者との接触によっても歪みが出たり膨張が入ったり何度も話すうちに物語になってしまったりもする。法治国家に住む常識人なら認識しておかねばならない。」(戦争論、1998、P-177)と示している。

著作権について[編集]

ウィキペディアでは投降の際、「あなたが著作権を保持していない作品を許諾なしに投稿してはいけません! 他のウェブサイトや書籍などからの文書の転載(コピー)は避けてください。これはれっきとした犯罪です。」と出るが、特例として引用が認められている。その文に対してこの文は主観的ではないと主張するためにも、引用は不可欠である、尚、引用の項目すべてを満たさなければ引用してはならないというわけではない。引用があるのは、読者がこれは本当のことか、反証可能性をするために不可欠であるためでる。基本的に「文」(論文名、何年何月、ページ数)を書けばよい。ただし、「」の中身は一字一句変えてはならない。万が一、文が長すぎ略す場合には「文・・・(略)・・・文」とすべきである。尚、文を略しAに賛成を、あたかもAに不賛成であるかのように紹介する場合、著作権法違反になる場合がある。これは、本や文献自体にその人格が宿ってると解釈すればよい。

引用文については、基本的に本文の半分以上は超えてはいけない。半分以上を超えると著作権法に触れる可能性がある。ただし、これも微妙な問題を含んでいる。例えば、Aの論文とBの論文、Cの論文を合わせて別な可能性Dの論文を作成することも可能である。本や出版物、公文書は半分以上引用してはいけなく、論文においては超えても良いのではないかと思うのが私の個人的見解である。詳しくは著作権や引用の記事を参照せよ。

情報を正しく読む編集中[編集]

私たちは、通常何らかの書物を読みます。書物は何のためにあるのか。それは、国民の生活の質向上されるためにある。従って、書物を正しく読み解くには、その著者が最終的に何を訴えたいかを読み解くのが大切である。そのためのコツとしては最初の前文と後ろのあとがきを読んだあと、内容に触れると情報を正しく得られる。


文を書くにあたって[編集]

  • 「Wikipedia編集の仕方 - Wikipedia」にもあるように出典を明記しなくてはいけません。出典が明記できないのは、あなたの主義、主張を書いていると思われ削除の対象になります。
  • 「資料 - Wikipedia」にもあるように第一次史科史料から第三次史科史料までが資料として、有効となっています。
  • もし、あなたが、それは間違いであると主張を書き込む場合、自分が言ってるのは第三者意見であると明示しなくてはいけません。そのためには、公文書の何ページや引用や参考文献の資料を提示しなくてはいけません。
  • 証言は証拠になりません。これは私たちが法治国家に住んでることの証であるため、法に準拠し、挙証責任が発生する。例をあげると、小林よしのりはオウム真理教に殺されそうになった。オウム側も小林よしのりを殺そうとした。しかし、刑法201条殺人予備罪が適用されたかと言えばそうではない。証拠がないからです。

小林よしのりは「「証言」には思い込みや間違いや粉飾やウソやいろんなものが混じる。時間によって変形もし、証言を引き出す者とpの接触によっても歪みが出たり膨張が入ったり何度も話すうちに物語になってしまったりもする。法治国家に住む常識人なら認識しておかねばならない。」(戦争論、1998、P-177)と示している。

  • 他のローカルルールを参考に3日間提示後、話し合いがなされなければ最後に提示した見解が了解されたと解釈され変更されます。
  • ここは辞典です。ある特定の用語に対して、答えを用意する場です。
  • 主義、主張に対して反論を述べる人もいますが、ここはあなたの主義、主張を書く場所ではありません。これは経済の社会主義に対して、それはおかしい資本主義も書く必要があると主張するようなものです。主義、主張に対して正しいや間違ってるという概念を適用すべきではありません。ある観点からすれば正しく、ある観点からすれば間違っているからです。ある特定の用語に対して、定義や説明を書けばよいと私は考えています。どうしても主張や論に納得がいかないなら、他のホームページで行うべきです。

以上を順守し、話し合うことが大切であると思う。