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●内田博年譜 本名、内田弘喜智。明治四十二年福岡県大牟田下里(現、大牟田市元町)生。第二尋常小学校卒。モの頃より家運傾き、ために年少時よりさまざまな為事に従事する。昭和七年、友、西原正巻、大久保実と共に日本プロレタリア作家同盟員となる。九年以降「詩精神」「短歌評論」などの同人となる。十年以降「大牟田阪本研究会」文学前「収穫」その他の仕事を推進する。日中戦争下「九州文学」太平洋戦争下、同前及び [詩と詩人」などに関係。現在、京都「煙】同人。「コスモス」同人。詩誌「耕」発行。新日本文学会、日本現代詩人会、福岡県詩人会々員。
一九〇九年(明治四二年) 本名弘喜智。十月十九日、福岡県三池郡大牟田町大字大牟田二〇六番地にて、父内田小三郎(四三歳)、母ハツ(二九歳)の三男四女の次男として生まれる。両親は福岡県山門郡柳川沖の端(現在・柳川市沖の端)出身。当時の家業は果物屋と石鹸屋。森醤油屋の借家だった。祖父梅次郎は柳川団十郎といわれる美男。妻カヨ(旧姓坂井)、長男小三郎、長女おわさを捨て、愛人と大牟田(新地町)へ駆け落ちするもコレラで死亡。カヨは森益太郎と再婚。兄妹は、長男孝實、三男俊秋、長女トシ、次女タカ、三女古松、四女辰子、五女ツルヱ。孝實、トシ、タカは柳川生まれ。
一九一二年(大正元年) 生涯の友となる古賀兼吉、沖の端に生まれる。父は漁師。三池炭坑に就職した父と共に大牟田へ。私立三井尋常小学校入学・高等小学校卒業後、博の兄(孝實)の経営するフタバ図案社に入る。三年修業後、大牟田町大字大牟田二○六番地に開業。なお長兄古賀一は斎藤一郎と『福岡文芸』(昭和四~五年頃・三号終刊)を発行する。
一九一六年(大正五年) 六歳 大牟田町立第二尋常小学校(現在・市立大牟田小学校)に入学。兄孝實は級長だったが博の成績はあまり芳しくはなかった。(妹ツルヱ談)
一九二二年(大正十一年) 十二歳 三月、同校卒業。
一九二六年 大正十五年 十六歳 本屋(副島松山堂・「文学史」は松山堂書店)の丁稚などを経て、兄孝實の開業したフタバ図案社の見習となる。古賀兼吉も同じく見習として入る。
一九二七年(昭和二年) 十七歳 古賀兼吉、森常夫(本名恒夫・昭和七年大連聖病院没)と油絵を始める。
一九二九年( 昭和四年) 十九歳 「小さな文学史」(三池文学会・博著。以下「文学史」と略)によれば、副島松山堂のウィンドーで見た啄木の歌(全集の広告ポスター)に、「いきなり丸太ん棒でどやしつけられた」ような衝撃を受け、処女詩「秋・風景詩」を西海毎日新聞(「文学史」は西海日日新聞)に投稿、掲載される。以後、大牟田毎日新聞(「文学史」は大牟田日日新聞)へも村山三郎(村山知義のもじり)の筆名で投稿する。それは博の絵の別れと重なる。「絵画への深入りの道筋から、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンなどの伝記、絵画論といったものを初めて読んだのであった。皮肉なことに、その絵画上の学問的な第一歩が、絵筆を捨てさせることになった」
一九三〇年(昭和五年) 二○歳 日本プロレタリア作家同盟大牟田支部の仕事を推進する。西海毎日新聞社にいた桑原録郎が指導し、西原竜吉(本名・正春)、大久保実がいた。それは冬(月日不明)の戦旗大牟田支局事件(『戦旗』支局所在地・西宮浦町)となり桑原(リーダー)、西原は捕えられる。支局メンバーは他に、山口高徳(配布責任者)・石田豊・雪野政行・竹本和夫・松本蔵一・山崎斎・内野実・森幸光・村田正勝ほか。大久保は読者だった。 松本蔵一、繁兄弟、大牟田初のメーデーを行う。 木下杢三郎編集『辻馬車』に、「石川啄木の死」を書く。
一九三一年(昭和六年) 二一歳 春、戦旗大牟田支局再建される。 大牟田初のプロレタリア文学誌『街の文学』大牟田郷土文芸家協会発行(元町・新大牟田毎日新聞社内)を桑原、大久保、井上巽らと創刊。三一年~二年にかけて二冊発行。いずれも発禁をくらう。二号は西原、大久保が福岡に留置中のため内田等が発行。他のメンバーは斎藤一郎・佐藤尚・鷲尾不二夫・黒田幸長・中条鉄男(古賀兼吉)ほか。前年のテロルで杖をついていた西原(十九歳)を識る。 西原正春=三川町船津生・父亀次郎。昭和五~六年にかけて船津地区青年団を中心に『巣立ち』、『くろ土』(堤実・片山汀ほか)を発行。西原の「三川・社会科学研究会」(宮本某主催)参加により『くろ土』自然廃刊。「三川・社会科学研究会」は、後の「日本プロレタリア科学者同盟・大牟田支部」(十一月創立)の母体となる。メンバーには家永勝之亮ほか。なお、宮本某は「満州」で特務機関員となり、どさくさの中で殺されたと博は語っている。桑原、『西海毎日新聞』に「吼えろ大牟田」を書いて逮捕される。 十月八日三池全協事件。田尻(全協オルグ)桑原・西原・山崎・雪野・山口・大久保・鍋田惣一・松本蔵一、繁兄弟他、女性二名を含む十八人逮捕され、大久保、西原は四十数日テロルを受く。博は逮捕をまぬがれる。桑原は偽装転向し、後のもっとも困難な時代に、関西で日本共産党中央再建準備委員会の調査部を担当する。 『新人群』第一巻第二号十二月号(編集発行木下杢三郎・大牟田文芸研究会・有明町五二)に戯歌。 同ゴシップ欄に「内田博 向ふ息の強い男。夜の二時頃写生に出かけるという愛すべき青年であるが、やりちらかす嫌いあり。しかしながら竜湖瀬氏や、井上光二氏などを動員させる奇策の持ち主だ。あらゆるものをやるが、短歌が一番うまい。近頃は詩がまとまりかけたが、自分で何もかも放棄してしまいそうな気配を示している。わたしが彼の兄貴であったら、「ひろしあわてるな」と叱るところだが──」と紹介がある。 詩「水」「魚」「蒼い風景」を書く。 六月二九日祖母カヨ逝去。八三歳・釈尼妙道信女。
一九三二年(昭和七年) 二二歳 「一九三二年度、大牟田文芸界批判、我々は何をしたか」を村山三郎の名で新大牟田毎日新聞(「文学史」では新大牟田紙となっている)に書く。 日本プロレタリア作家同盟員に、博・西原・大久保なる。 二月十日、大牟田署に勾留。
一九三三年(昭和八年) 二三歳 二月十日、博留置される。弾圧厳しく文学を棄てかかる。 秋、西原正春、大牟田を逃れ大阪へ。
一九三四年(昭和九年) 二四歳 短編小説「小年行商人」(福岡日日新聞 二月十二日) 『詩精神』一巻一号創刊号・二月(前奏社・編集発行・内野郁子)出る。それは博にとって、新井徹・遠地輝武・伊藤正斎・船方一・松永浩介・田木繁・鈴木泰治・渡辺順三らとの詩的遭遇になる。二冊買い、一冊を在大阪の西原へ送る。 『詩精神』一巻三号四月号に、森山啓選で「救世軍と少女」、槙本楠郎選で童謡「こわいおじさん」、渡辺順三選で短歌四首「友に」が掲載される。 春、西原を追って大阪へ。渡辺順三の紹介で大蔵宏之を識り、田木繁・大元清二郎・児玉誠・森本宗二・宮西直輝らと交流。 『短歌評論』(短歌評論社・東京市世田谷二の一七二一石川方)二巻五号五月発行に、短歌五首「眼!」(まだ在大牟田の母と妹の歌)。 『詩精神』一巻五号六月号に、井上康文選で童謡「馬の目」、また槙本選で童謡、遠地輝武選で風刺詩が誌面の都合で保留になっている。編集後記に博はA級推薦作とある。 『詩精神』一巻六号七月号に、詩「春を切る」。投稿詩選評で北川冬彦が、「『大阪の記』内田博……あんまり平凡だ。常識だ」と批判している。亀井勝一郎選の評論で「告白の通じる道」が佳作。編集部附記に『詩精神集団』三号に掲載するとある。 『詩精神』一巻七号八月号に、詩「坑内」。槙本選の童謡「海」。西原、新短歌三首「失業苦の歌」(歌に大阪へ来て一年とある)。 『福岡日日新聞』(八月二○日)に「無名作家の手紙」。 『短歌評論』二巻七号八月発行に、短歌八首「失業苦の中から」(水を飲むなという母からの手紙。天王寺公園などと在大阪を証している)。同ページに伊藤正斎の長歌「母」がある。 『詩精神』一巻八号九月号に、渡辺順三選で短歌六首「外交員になる」(注・店舗内装)。「『詩精神』前号の短歌」。西原、渡辺選で短歌四首「檻に歌う」。新井徹選で、詩「死んだ照雄」。 『短歌評論』二巻六号に三首。 『啄木研究』(啄木研究会・編集発行・大蔵宏之・大阪市住吉区西今川町六ノ三三)一巻五号八月発行に詩「母」、「佐藤宏之氏の『坊やとお風呂』の感想」。同号に西原正春、新歌十一首「相剋」。 『短歌評論』二巻八号九月発行に、短歌四首「父」(大阪へ発つ息子の荷造りをする六十六歳の父の手はふるえているとある)。 『詩精神』一巻九号十月号に、西原、渡辺選で短歌三首「帰郷」。 『詩精神集団』十月号に、「「坑内」に就て」。 『文学評論』十月号(ナウカ社)に、詩「死と眼と!」(副題、逝ける常夫へ、一九三四・五月作の日付)。「自己克服、闘争精神」。 「年刊一九三四年詩集」(前奏社)十月二十日発行に、「坑内」収載。 『文学評論』十一月号に、「『新聞配達夫』に就て」。 『詩精神』一巻十一号十一月号に、松田解子選で短歌三首「秋」。西一夫が「内田博に捧げる炭鉱山詩篇」の副題で、詩「坑内」。新井徹の文中に、博は社友とある。(注・同人、準同人、社友)。 『九州文化』十月号に詩「同志松本に」。 『啄木研究』一巻六号十月発行に短歌「秋十首」。前号作品評「苦難に克つ意志」。同号に西原正春、新歌五首「落盤」、大久保実、「動かぬ俺」。 『鋲』一巻二号十一月号(鋲社・岡山市内山下丸ノ内入)に、短歌「生活の端から」。 『文学評論』十二月号に、詩「肉體の歌」。(一九三五・三・六作の日付) 『短歌評論』二巻十号十二月発行に、短歌七首「帰郷」(息子の帰郷を喜んでいる老いた父のことなど。博の在大阪時代は三月から十月)。「現実のきしみを歌うこと」。 『詩精神』一巻十一号十二月号に、渡辺順三選で短歌三首「帰郷」。同じく西原三首「弟に!」。
一九三五年(昭和十年) 二五歳 『九州文化』新年号に詩「蟷螂」。 『詩精神』二巻一号新年号に、短歌四首「ふと思う」。西原も五首「死んだひとり」。 『啄木研究』二巻一号一月発行に短歌八首「憎む」(留置所の歌あり)。感想「『高度』と『言葉』」。詩「大牟田港」。西原五首「共同墓地」(亡き母と故郷の父を偲ぶ歌)。なお同誌広告欄に『短歌詩派』(短歌詩社・岡山県浅口郡鴨方町小阪)同人として、博、大蔵、榎南謙一、織本唯夫などの名がある。同じく文学雑誌『新精神』(文学書院・大阪市外布施町高井田一五)の広告にも博、大蔵、足立公平、鈴木泰治の名がある。 『短歌評論』三巻一号一月発行に、短歌三首「憎悪」。 『詩精神』二巻二号二月号に、詩「新しき命のために」。短歌四首「歪められた少年」。(注・『啄木研究』の歌「憎む」と同じ題材)。 『短歌評論』三巻二号二月発行に、「技術に関して・其他」。七首。 『短歌評論』三巻三号三月発行に、短歌六首「一日の歌」。 『短歌評論』三巻四号四月発行に、短歌五首「友のことなど」(病床の松本蔵一のことなど)。『詩精神』二巻四号四月新人号に、詩「肉體」。新人号応募作品選評で北川冬彦は「内田博の『肉體』では、暗い生活が感覚的に生彩を放っている」と評している。小熊秀雄は選外にしている。 『詩精神』二巻五号五月号に、詩「煙幕」。 『短歌評論』三巻五号五月発行に、「短歌への態度」。また同誌には「内田博・西原正春両人の世話で大牟田短評支部が新設された。メンバーは内田・西原の他に山崎斎・中島凡夫(注・戦後共産党市議)・山口高徳・大久保実等。なお内田・西原両君は短評同人になる」とある。(したがって『煙』四四号年譜に同人を九人とあるのは誤り)『短歌評論』三巻六号六月発行に、短歌七首「琉球の子供達」。「福田米三郎氏に」。 『詩精神』二巻六号六月号に、詩「身がまえ」(一九三四・四・二八作付)。 『詩精神』二巻七月号に、詩「夜の踏切で」(昭和十年作)。西原、詩「部屋で」(一九三五・六・二日作)。 『短歌評論』三巻七号七月発行に、短歌八首「苦悶・希望・生活」。 『短歌実験』創刊号七月発行(『啄木研究』をこの号だけ改題)に、短歌十首「病む友」。西原「内田博に就て」。山崎斎「三井工場地帯」。 『短歌評論』三巻八号十首。三巻十号二首エッセー。三巻十一号四首。 『詩精神』二巻八号九月号に、詩「失業」(一九三五・七・八作)。 『詩精神』二巻九号十月号に、詩「帰郷」(一九三五・六・二八作)。 『啄木研究』二巻二号十月発行に随筆「芥川竜之介のこと」。 『詩精神』二巻十号十一・二月合併号(『詩精神』は終刊、火を継ぐものとして『詩人』が翌年一月より刊行される)に、詩「性格」(一九三五・九・二五作)。 新井徹「詩作家六十四人論」は、博を労働者詩人として「内田博もペンキ工であるらしいが、この詩人もさまざまの労働経験を持つているのではないか。さまざまの取材の多様性を示している。そしてインテリ的と思える様な技巧をみせる。第一回新人号の『肉體』は三好十郎も褒めて来ていたが、この労働者詩人ほど智的な表現を採る者は少ない。前年度まではその詩風に動揺を見せていたが、近来真直ぐな自己の道を切りひらいている。技巧負けのしないことを祈りたいが、今のところ十分信用してよい」と論じている。同人広告に博の名がある。 『啄木研究』二巻四号十二月発行に、短歌十一首「肉體の悲しみ」。「高く、美しい愛萩原大助君へ」。なお同文中に「『萩原大助小論』を月刊創作(注・大阪市北区)十二月号に送った」とある。
一九三六年(昭和十一年) 二六歳 『九州文化』新年号に「大元清二郎(船方一のこと)」。 『九州文化』三月号に詩「娼婦に落ちた女に」。 『詩精神』改題『詩人』第三巻一号に詩「無題」を。 │ 『啄木研究』三巻一号一月発行に、謹賀新年の同人広告。西原の名はない。 『啄木研究』三巻二号三月発行に、短歌四首「愛情譜」。「最近の感想」(恋愛歌を書けといっている)。 『収穫』(大牟田)を、西原・山崎斎らと出す。詩「金魚」。南達雄(内海繁)・榎南謙一・鈴木泰治ら寄稿してくれる。三号で廃刊。 文学同人誌『九州文学』を西原、山崎らと出す。“躍進第二号”は三月六日納本。博は詩「少年」「朝」、感想「ユリーリベデインスキーの『一週間』について」を書いている。 四号で潰れたとされるこの雑誌は二号が残っているだけで、編集人発行所は内田方(大牟田市上町一ノ一九)だが実際は飯塚市にいた山崎が担当、表紙絵は兄の孝實。後記に大蔵宏之(一九九四年没・八五才)が同人参加とある。博は次男(十八年誕生)に宏之と名付けた。火野葦平たちの『九州文学』は遅れて十三年九月創刊。 歌集『集団行進』(渡辺順三編・文泉閣版・五月三十一日発行)に、短歌「雪のふる日」。西原も「鞭に抗する」。なお、文泉閣取扱図書として、『夜の踏切で』の広告掲載。 『啄木研究』三巻四号六月発行に、「詩歌集を世に問わんとして」。「夜の踏切で」の一ページ広告もある。跋は山崎ではなく嶽原達次となっている。渡辺順三「内田博の作品に就て感じたこと」。 『短歌評論』四巻六号六月発行に、短歌三首「試作抒情歌」。 第一詩歌集「夜の踏切で」(九州文学社・六月五日発行・序文、新井徹、渡辺順三・跋文、西原正春、山崎斎)を出す。装丁装画は兄の孝實。 『啄木研究』三巻五号七月発行に、短歌七首「妹」。 『詩人』第三巻九号に詩「武器」を。 『四季』十月号に詩「夜半」を。萩原朔太郎に四季同人に誘われるも母を大牟田に残すことになるので断る(この件、博が麟太郎に語る)。
一九三七年(昭和十二年) 二七歳 七月、反戦統一戦線の件で逮捕され久留米署に送られる。転向声明をする。 『啄木研究』四巻六号十月発行の「ポスト」という通信欄に、大牟田より「収穫」四号が印刷屋の間違いで遅れていること、四号で廃刊にすること、女房をもちたいとある。 『啄木研究』四巻八号十二月発行に、「啄木に就ての走り書き的感想」。 竹本和夫(本名加津夫)の妹ハルノと結婚。ハルノ父は竹本文蔵(理髪師・没年昭和十四年七月十五日六七歳)、母はサツ(石割手伝い・没年昭和十六年八月六日六九歳)。『遺言』四三号(一九八一年八月一日・黒痴社刊)に、編集同人の中島康允が「大牟田市上官町にあったフタバ看板店に、詩誌『収穫』(内田博編集・発行)を買い行ったのは、一九三七年のことである」と書いている。
一九三八年(昭和十三年) 二八歳 『啄木研究』(終刊号)巻号不明一月発行の「ポスト」に、新井徹たちの季刊詩誌(注・新井が企画し実現しなかった『ツバサ』であろう)に参加したとある。謹賀新年の名刺広告の住所は大牟田市上町一ノ一九。西原は本町二丁目松本蔵一方とある。 このことから一年ほどあったという博の西原、松本との共同生活は前年の結婚までと推定される。松永浩介の名刺広告もある。 九月、第二期『九州文学』(編集発行・原田種夫・「九州文学」「九州藝術」「とらんしっと」「文學会議」を合併)創刊。博、強引に西原を誘って参加。西原、福岡・東宝ニュース劇場にて働く。 長女有子誕生。
一九三九年(昭和十四年) 二九歳 『九州文学』一月号。詩「哀歌」。 『九州文学』二月号。創作「天上少女」。このなかで博を思わせる「山田君」の小学二年生の成績は全生徒の中で中位とある。 『九州文学』三月号。詩「悲しき幻覚」。 三月、松本蔵一(三八歳)逝く。博・松本繁・西原・山崎斎らで棺を担ぐ。西原、福岡・第一劇場へ移る。 有子逝く。 『九州文学』四月号。随筆「自傳の影」。 このなかで「私の家は大きく広かった。家の半分は果実商であり半分は石鹸屋であった。・・六歳の頃であったろう。ある日、いかめしい人達が来て、ベタベタ紙を貼りつ けた」「二十一歳から二十二歳の終わりにかけて幾つかの幼い短編を書いている。・・「少年行商人」「初恋の記」「肺を病む少女」「綾江の話」。・・「少年行商人」は、福岡日日新聞に出して貰った」とある。同四月号の「大小有議」欄に「二月号の記」。この中で「菊岡久利詩集「時の玩具」を読み・・。日本がこの詩人をもったことは、ともかく誇りとすべきであろう。・・しかし、ある一点に於いて、私と菊岡は対立する」とある。 『九州文学』六月号。詩「忘春詩集(そのⅡ)」。 『九州文学』八月号。詩「白い花」(亡き松本蔵一に)。 『九州文学』十月号。詩「少年」「月夜」。 『九州文学』十一月号。詩「秋の日に」。短歌十八首「冬夜小憤」「黄き蝶」「魂床冷ゆ」。 『九州文学』十二月号。詩「少詩片々」。 『詩と詩人』(詩と詩人社・編集発行・浅井十三郎・新潟県北魚沼郡広瀬村並柳乙二九・創刊六月)に、二号より西原正春と共に同人となる。 『詩と詩人』第二巻第四号・十月五日発行。詩「夕闇の列車」。西原正春は詩「北」。 一九四○年(昭和十五年) 三○歳 『九州文学』一月号。詩「秋」二篇。詩友、鈴木泰治、北支戦線にて戦死(二十九歳)。 『九州文学』二月号。詩「春の日に」。 『九州文学』三月号。詩「祈願」。短歌十五首「冬光」「幼子に」。 『九州文学』四月号。「余燼」欄に短歌十八首「冬光(その4)」「松本蔵一に」。 『九州文学』五月号。詩「夜半」。短歌二十二首「浅春」「未知の友の死に」。 『九州文学』六月号。詩「春の雪」。随筆「雑記」「誤植のことなど」。人の詩業を書いてみたい人として、小野十三郎、金子光晴、田木繁、菊岡久利、草野心平、北川冬彦、壷井繁治、中野重治、三好達治、中原中也などがある。同号に西原正春の詩「裏町の貌」。 『九州文学』七月号。詩「落日」。短歌十首。 『九州文学』八月号。詩「いつもここにやって来る」「君」。同号に西原正春の詩「野辺のひかりに」。 『九州文学』九月号。詩「幻想」「雨天」。随筆「寒駅」。 『九州文学』十月号。詩「真夏の夜の詩」。 『九州文学』十一月号。詩「童謡その1」「童謡その2」「私生児」。
一九四一年 昭和十六年 古賀兼吉の紹介で荒尾マツヤ映画劇場(支配人・片山玄風)に入る。入社に「天皇制を認める」という転向声明を出し、館内の小屋に住む。この声明は博の生活を心配した、兼吉と玄風の小さな陰謀だった。後、熊本県荒尾市大島94番地5に借家。二月十一日、長男麟太郎生まれる。出生届けは大牟田市上町一丁目19番地。 『詩と詩人』第三巻第一号・一月一日発行。詩「煙」「やはりそれは俺だったのかも知れぬ」。西原正春も詩「哀しい父を視るな」。 『詩と詩人』第三巻第七号・九月一日発行。詩「十年」。 『九州文学』一月号。詩「秋」「秋 二題目」。同号に西原正春の詩「花びらの如く」。 『九州文学』二月号。評論「小熊秀雄氏の死」。 『九州文学』四月号。詩「向日葵」。評論「明日の天才を葬るな」。西原正春の詩「悲しきままで眠れ」 『九州文学』七月号。詩「風景」。 『九州文学』十月号。詩「真夏の夜の詩」「私生児」「風景」。 『九州文学』十二月号。詩「外には雪が降っている」。西原正春の詩「旅の夢より」。 「現代愛国詩集」(日本青年詩人連盟編纂・山雅房発行)。作品は不明。 「興亜詩集」(編集・日本青年詩人聯名)十一月十日発行に、詩「風景(西原正春に)」
一九四二年(昭和十七年) 三二歳 『九州文学』一月号。詩「雪の夜道で」。西原正春の詩「冬の雨」。 『九州文学』三月号。(愛国詩特集)に詩「わかれの歌」を書く。西原正春の詩は「神々の供へに」。 『九州文学』四月号。詩「蝶」。 『九州文学』六月号。詩「無風炎天」。西原正春の詩「駅」。 『九州文学』七月号。「地獄極楽」。西原正春の詩「沼」。 『九州文学』九月号。詩「春」。 『九州文学』十月号。詩「友おくる歌 西原正春に」。 『九州文学』十一月号。詩「こどもたち」。 『九州文学』十二月。詩「朝」。 『詩と詩人』四巻一号一月発行に、詩「幼な子よ(わが子麟太郎へ送る譜)」、「天邪鬼」。 『詩と詩人』四巻二号三月発行に、詩「仏壇の歌(亡児有子に捧ぐ)」。 『大東亜戦争決戦詩集』(日本青年詩人聯盟編・玉川学園出版部・二月十一日発行)に詩。作品名不明。 『詩と詩人』四巻三号四月発行に、詩「朝の日ざしに」、「氷」(友に)、「手紙」(友に、昭和十七年一月作)。 『詩と詩人』四巻四号五月発行に、詩「冬の夜の歌」、「生と死と」。 『詩と詩人』四巻五号六月発行に、詩「冬景色」。 『詩と詩人』四巻六号七月発行に、詩「発見(釣日記の内)」。雑記。 『詩と詩人』四巻七号九月発行に、詩「柿」、回想「不死身の源太君」。 『詩と詩人』四巻八号十月発行に、詩「白い蝶」、「無題」。「内野健児氏の歌」、「雲其他」。 『詩と詩人』四巻九号十一月発行に、詩「郷愁」(十七年作)。「映画館生活」。 『詩と詩人』の若い同人群より「童謡詩篇」は、「旧左翼の偽装転向、聖戦に対する認識不足」と、衝かれる。岩上順一が同誌で弁護してくれる。博は戦後来牟した岩上にそのお礼をいったが、その評論には疑義を持っていた。 第二詩集「悲しい矜恃」(京都・臼井書房発行・十二月十日発行)。序文、小野十三郎・跋文、臼井喜之介。 『満州詩人』に榎南謙一が、『詩風土』に、壷井、窪川、中野が(中野は私信でも「仏壇の歌」をほめてくる)、『詩と詩人』に大滝清雄らが、それぞれ詩集評を書いてくれる。小野、金子光晴よりも私信があった。初頭、西原正春「朝の歌」(序文・菊岡久利)京都、第一芸文社より刊行決まるも、召集にて未刊となる。山崎斎。博、古賀兼吉、片山玄風の努力で荒尾マツヤ映画劇場に入る。 二月八日、父小三郎(七十六歳)逝く。釈忍証信士位。
一九四三年(昭和十八年) 三三歳 『九州文学』一月号。詩「魚信」「想い出」。 『九州文学』二月号。詩「水面」。 『九州文学』四月号。詩「やさしい呼吸」。 『九州文学』五月号。詩「虹 友への手紙」。 『九州文学』六月号。詩「眠ラレヌ夜」。 『九州文学』七月号。「花はくれなゐ」。「釣魚記」。 『詩と詩人』二月号に、詩「冬夜獨居」(十七年)。「友への手紙(その一)」。 『現代文学』三月号に、詩「三月開花」。 『詩と詩人』三月号に、詩「ひと隅の記」。「『家紋』について(菊池正兄への手紙)」。 『詩と詩人』四月号に、詩「残雪」。「友への手紙(その二)」。 『詩と詩人』五月号に、詩「早春」。寸感「蘭の国にて(田村兄へ)」。 春、兄孝實に召集令状。 弟俊秋五月十五日八幡製鉄で徴用死、二十四歳。 『詩と詩人』六月号に、詩「四月寒冷」。「小野十三郎序論」。 『詩と詩人』七月号に、詩「お父さんの武運を祈ろう」。随筆「郷土」(五月五日記)。『詩と詩人』八月号に、詩「ひと日」。「田木繁に関する覚書」(五月二十七日記)。 八月、博に召集令状。久留米の部隊へ。七○日ほどして隊の半数が深夜密かに出発。隊員を乗せた輸送船は台湾沖で撃沈された。博は九○余日で帰省。 『詩と詩人』九月号に、詩「愛別」。 『詩と詩人』十一・十二月合併号に、詩「星空」。
一九四四年(昭和十九年) 三四歳 『九州文学』新年号。(特輯 師団演習従軍記)詩「兵舎の朝々に」。 『九州文学』三月号。詩「声」。 『九州文学』五月号。(特輯増炭促進)詩「歌」。 『九州文学』(特輯海軍軍事講習)七月号の同人名に内田博の名前なし。退会か? 以降名前なし。 『詩と詩人』一月号に、詩「月明」(十八年作)。 『詩と詩人』二月号に、詩「出陣」。 『詩と詩人』三月号に、詩「その虹をも」。 「詩と詩人詩集」(浅井十三郎編・装丁棟方志功・日本百科全書刊行會・三月二○日発行)に、「愛別」「仏壇の歌」「星空」を収載。西原正春は「朝の歌」を。 『詩と詩人』六月号に、詩「静謐」。
戦時下の博=小野十三郎『大阪』、金子光晴『鮫』『南京虫』は造本が崩れるほどに。中野重治「浦島太郎」、また、小熊秀雄、北川冬彦、遠地輝武らの評論も繰り返し読んでいた。ことに中野の『茂吉ノオト』には体が震え、茂吉『赤光』、坪野哲久『百花』を精読した。しかし保田與重郎『万葉の精神』は三分の一も読めず、秋山清の存在は知らなかった。大江満雄、壷井繁治、岡本潤などを雑誌で散見していた。
一九四五年(昭和二○年) 三五歳 初頭、片山玄風に教育召集令状。 三月。家族を熊本県菊池郡東郷村(現・菊水町)へ疎開させる。 夏、山崎に召集令状。 六月十五日兄孝實沖縄で戦死、三十八歳。(看板職人に生まれてきたように絵も文字も名人だった。博談)。 六月十七日、三池第一次空襲。 七月二十七日三池第二次空襲。マツヤ映画館、西原留守宅、博借家など全焼。書籍、雑誌、書信のすべてを失う。 敗戦のどさくさに、詩友西原正春の戦死公報を受け取る。
一九四六年(昭和二一年) 三六歳 『詩と詩人』第八巻第一号(復刊号)三月一日発行。詩花々のゆれ」「たそがれの歌」。四十四年、戦時下に書かれていた旧作。 一月十九日、熊本市、桝添勇宅にて、南九州文化連盟第一回地方代表者協議会開催。桝添からの連絡で大牟田より博・大久保参加。月刊『赤い広場』の創刊決定。だが、この日、もっとも重大ことは日本共産党機関誌アカハタの件であったと大久保は語っている。やがて別ルートでアカハタ売りをしていた大淵正気が大久保方に同居、博も参画して日本共産党大牟田地区委員会建設への協働作業が始まる。 二月・中野重治来牟。 『文化草原』(『赤い広場』改題・四月二三日発行)に、博は雑感「坪野哲久の『百花 』」(二月五日記)、詩「歳月──二」。大久保は詩「生きている小林多喜二」、読み物「長岡忠治郎伝」を書く。 夏、家なく素堀の防空壕(金毘羅宮下)に住む。 大牟田市中島町七で双葉看板店を開く(従業員なし)。 『詩と詩人』三月復刊号に、詩「花々のゆれ」、「たそがれの歌」(十九年作中より)。 四月三日、一浦町・真言宗・西高野山菩提寺(正覚寺?・※田中清見の証言は上官町の宇宙館の裏の寺であったとする)にて<日本共産党大牟田地区委員会確立される(大久保実資料に拠る)。地区委員、博・大淵正気・木下武信・山田厚・上甲米太郎・野仲光雄・城戸喜久雄・大久保・松本繁など十一名。但し大久保は『アカハタ』分局に専念。博は荒尾の闇市でトコロテン、文具と併せてアカハタの立ち売りをしながら、中野『日本文学の諸問題』(五月・新生社発行)を読む。河口司提供の「大牟田地区委員会年表第一回補足」(六全協にもとずき開かれた地区大会で配布)によれば、日本共産党大牟田地区委員会の確立は二月十日となっている。『福岡民報』(一九八三・十一・十三)の「たたかいの思い出」によれば、金子政喜は大牟田地区委員会は一九四六年筑後地区委員会より分離独立したとしている。このことについて鍋田惣一も大久保も史実無根とする。
一九四七年(昭和二二年) 三七歳 三月十日・妻ハルノ逝く(二八歳)中島町四○の一。淳心院釈尼妙涼。 『光源』(新日本文学大牟田支部)を創刊。六月より『始良野』(星塚敬愛園)の詩欄担当を始める。
一九四八年(昭和二三年) 三八歳 三月二九日博実生まれる(父弘喜智、母マルエ)。 五月五日吉田マルエ(大正七年八月三〇日鹿児島県薩摩郡上甑村平良二百二〇番地出生。父中村善喜、母セン)と結婚。 博には麟太郎、宏之。マルエには信之、建作のそれぞれ二児あり。大牟田市大正町一丁目七番地(あかつき商店街)に看板店を移す。開店資金はマルエの旧宅の売却金三八万円より。[マルエの先夫・吉田巽は大正六年一月十日(三池郡大牟田町大字大牟田。現、大牟田市大正町四丁目。父、吉田金五郎。母、トキ。)生まれ。昭和二○年十一月四日、熊本県鹿本郡山鹿町の(会社三井の療養所)で結核にて逝去。博と文学を語る人であった。巽とマルエとの結婚は、昭和十五年一月。 『詩と詩人』五月号に、詩「父子問答(一)」。 『詩と詩人』六月号に、詩「父子問答(ニ)」「友への手紙(雑記)」。
一九四九年(昭和二四年) 三九歳 一月三日博宅で新日本文学支部大会(『文学通信』支部発行の広告による)。三池合染労組歌の選をする。 『詩と詩人』二月号に、詩「富士」。 『詩と詩人』四月号に、詩(戦争中の詩から)「雲」、「手紙、「月明」。 『詩と詩人』五月号に、詩「冬の夜の自画像」。「友への手紙(その一)」。 『詩と詩人』六月号に、れたあん・ぽすとかあど「壷井繁治兄へ(内田)」、「よそゆきの返事(壷井)」。 七月五日党員芸術家会議に上京(四日、壷井宅泊)。初めて松永浩介、舟方一と会う。(黒川洋作成の松永浩介年譜によれば「八月・吉祥寺前進座にて内田博に初めて会う」となっている。 『詩と詩人』七月号に、詩「妻」。れたあん・ぽすとかあど「再び壷井兄へ」、「叙事詩その他について(内田君への手紙)」。 『詩と詩人』八月号に、詩「回想」。 『詩と詩人』九月号に、詩「五月の夜に」。 『詩と詩人』十月号に、「詩と詩人の会・福岡支部」。 『詩と詩人』十一月号に、博・山本俊・松森イサム・藤井早苗が作品を出す。博の詩は「富士」。 『新日本詩人』(新日本文学会)十月創刊に、大牟田支部より、博・河口司・古賀美智子が作品を出す。 『光源』(新日本文学大牟田支部機関誌)は、暮れから五○年一月の間に創刊されたと推定される(木下浩)。刊行期間はほぼ一年間。支部メンバー、博・木下・河口司・小宮隆弘・藤井早苗・古賀兼吉・井出正孝・松森イサムほか、賛助会員国崎望久太郎らを加え三三名。二号に、詩「老母」。 第一ガリ版刷り詩集「哀しい子」。発行月日不明。
一九五〇年(昭和二五年) 四○歳 第二ガリ版詩集「雨」。七月発行(新日本文学会大牟田支部、所在地/大牟田市大正町一-五・四六ページ。 三○部・非売品)。八月末、第三ガリ版詩集「蟹」(同・三九ページ・三〇部・非売品)を出す。 「日本解放詩集」(新日本詩人刊行会・遠地・壷井編・三月十日発行)に、「冬」収載。『詩と詩人』四月号に、詩「街角」「雨」。 『三池文学』第一次五月号で詩の選をする。 『始良野』(星塚敬愛園)三巻三号八月七日発行文芸特集号の詩謡部門の選を、木下浩と担当。選評は木下。 『抵抗線』人民文学サークル大牟田支部機関誌、八月創刊(刊行月、木下浩推定)に参画。 『詩と詩人』十月号に、詩「冬手紙(暗い谷間より)」。 十一月二八日、新日本文学大牟田支部は機関誌の不買、誌代の滞納放置に入る。博、誌代納入に奔走。年末、五月橋周辺に「中野重治、壷井繁治は国際的スパイ」のポスター。
一九五一年(昭和二六年) 四一歳 『抵抗線』六号一月二八日発行に、「埋草に」を書き、中野重治、佐多稲子を弁護する。中野、宮本百合子をスパイと認めず、日本共産党を除名される。細胞キャップは河口司。“表”の地区委員長として森田収蔵(小宮隆弘証言)が参加する。この前後、博は党内グループ統一委員会ラインで、田代文久、桑原録郎、大西巨人、谷(ペンネーム・博の母宅に同居)らと動く。 『方向』第一冊母音社(丸山豊主宰)に「反逆と肯定」。 二月二二日、多喜二祭で「多喜二と現代」(人民文学大牟田支局・新日本文学同支部共催)を講演する。この件、『芽ばえ』二号に広告あり。 『詩と詩人』三月号に、本年度編集委員十名中に博の名がある。 『詩と詩人』四月号、詩(内田博作品集)「歳月」「眼」「泥んこの足」「途上」。 『詩と詩人』七月号に、詩「街」(五○年二月作記)。アンケート「われわれは何故詩を書くか」。 『詩と詩人』八月号に、詩「父子問答(三)」。 『はなたば』二号(八月十五日・発行元不明)に、詩「天上の西原正春」。 『詩と詩人』十一月号(通巻百五号)に、詩「おとなしい友」。(注・『詩と詩人』は浅井の死亡により百十一号で廃刊となる) 六男・博志誕生。 『芽ばえ』(一号発行月日不明)二号十二月発行は、官憲に掠奪される。
一九五二年(昭和二七年) 四二歳 二月、『人民文学』の凋落もあり、新日本文学会第六回大会をもって、『新日本文学』『人民文学』の対立終わる。 第三詩集『父子問答』(詩と詩人社・七月三〇日発行)。序文・壷井繁治。表紙装画・古賀兼吉。発行は詩と詩人社(新潟・浅井十三郎)だが、事実は大牟田で自費出版。 「日本ヒューマニズム詩集」(日本ヒューマニズム詩集編集委員会・九月十日発行)に、壷井繁治選で「途上」収載。 「日本詩人全集(七)」(創元文庫十二月二○日発行)に、「冬」収載。 『大牟田毎日新聞』七四六号に「吉田美千雄詩集『八月十五日』の『あとがき』に触れて」。同七五○号「『わが祖国の詩』紹介」。 『新日本文学』十一月号に「おとなしいい友」。
一九五三年(昭和二八年) 四三歳 『文化タイムス』(大牟田市有明町四八・出海渓也発行)九月二五日に、詩「女優」。『文化タイムス』十月二一日に、詩「映像」。 『文学の広場』(編集人・出海渓也・文化タイムス社内・創刊日時不明)の会員となる。 『芽生え』(二次。月日不明)に、『父子問答ノート』。
一九五四年(昭和二九年) 四四歳 「日本現代詩体系(八)」(河出書房)七月十五日発行に、「坑内」収載。 『文化タイムス』八月七日、座談会「怪談を語る」に出席。
一九五五年(昭和三〇年) 四五歳 『現代詩』(新日本文学会詩委員会・代表岡本潤)三月号に、詩「荒廃」。 日本共産党第六回全国協議会(七月二八日)の決議に従い復党する。 第二次『三池文学』創刊九月十五日・新日本文学大牟田支部(注・博に係わって語られる『三池文学』はこの二次から始まる)。役員・武藤泰春・森啓助・長山不美男・立屋敷正一・河口司。博は旧稿「鈴木泰治のこと」。
一九六○年(昭和三五年) 五○歳 詩「詩碑」(『芸林』五月号) 詩「友をうたう」(『芸林』六月号) 詩「紙屑詩集」(『芸林』九月号) 詩「歯こぼれの詩」(『芸林』十月号) 博は、五五年の六全協により日本共産党へ復党したものの久しく詩を書けないでいた。そんな日、手にした遠地輝武『現代詩の体験』(五七年・酒井書店)は、博を『新日本詩人』に参加させる。 『新日本詩人』新日本詩人社。八月七号に詩「雨」。ルポルタージュ「三池短信」。 一月・三池炭鉱労働組合無期限ストに入る。
一九六一年(昭和三六年) 五一歳 詩「正月二日」(『芸林』四月号) 詩「夜の詩」(『芸林』五月号) 詩「筑豊の鶏」(『芸林』七月号) 詩「猫について」(『芸林』八月号) 詩「古賀兼吉」(『芸林』九月号) 詩「八月の歌」(『芸林』十月号) 詩「こどもの唄」(『芸林』十二月号) 『新日本詩人』一月八号に詩「「老母に」。五月九号に詩「元旦の歌」。十月十号に詩「雨季」。随想「船方一・断章」。 『母船』母船短歌会・長山不美男。三・四月合併号二号に詩「夜の波」。博は三号より賛助員になる。
一九六二年(昭和三七年) 五二歳 詩「画室」(『芸林』一月号) 詩「猫について」(『芸林』二月号) 詩「年末雑感」(『芸林』三月号) 詩「軍国酒場」(『芸林』四月号) 詩「春」(『芸林』六月号) 詩「骨片─わがざれ唄」(『芸林』七月号) 詩「眼」(『芸林』八月号) 詩「墓」(『芸林』九月号) 詩「不知火」(『芸林』十月号) 詩「白秋祭」(『芸林』十二月号) 新日本詩人新年会(遠地輝武宅)に上京。西杉夫、片羽登呂平、村田正夫と初めて会う。松永浩介と十二年ぶりに再会。 『姶良野』陽春号4月1日発行/発行人・林一夫(星塚敬愛園機関誌)に「上京記」。このなかに「二五年一月、『コミンフオルムの日共比判もあり、党関係思想問題に分裂のきざしあり』このもっとも不幸な事件に私も巻き込まれ、それ以後、私個人は久しく詩筆を絶つ結果を招来したのであった」とある。 『新日本詩人』八月十二号に詩「「夜桜」。十二月十三号に詩「夜明け前」。
一九六三年(昭和三八年) 五三歳 詩集「にがい河」新日本詩人社・二月十五日刊。 「にがい河」江島寿雄(『芸林』四月号) 『新日本詩人』五月十四号に「地方における政治と詩」。 『母船』五月十七号に詩「筑豊の鶏」。裏表紙に「にがい河」の広告。 『母船』十八号に長山不美男『「抵抗詩人の反骨─詩集「にがい河」』。 『コスモス』(三次・三号・七月)吉田欣一「書評・内田博詩集『にがい河』」 十一月・三井三池炭鉱爆発事故(死者四五八人、重軽傷者八三九人)。
一九六四年(昭和三九年) 五四歳 詩「黒い砂漠」(『芸林』六月号) 随想「平明さの弁」(『芸林』八月号) 詩「筑豊の夜」(『芸林』十月号) 「オリンピックの詩 書けざるの記」(『芸林』十一月号No102) 『新日本詩人』七月十六号に「『詩精神』前後」。 『新日本詩人』十二月十七号に詩「筑豊の冬」。 『九州文学』十二月号に詩「ある孤独」。
一九六五年(昭和四〇年) 五五歳 『母船』一月二六号に詩「筑豊の春」。 『新日本詩人』四月十八号に詩「三池の冬」。 『母船』三月二七号に詩「「夜の汽車」。手紙「長山さんへの手紙」。 『母船』六月二八号に詩「筑豊の夏」。
一九六六年(昭和四一年) 五六歳 『新日本詩人』五月二〇号に詩「筑豊山々」。 『母船』一月三一号に「中野重治断片2」。
一九六九年(昭和四四年) 五九歳 『新日本文学』六月号に書評「黛元男『ぼくらの地方』」。
一九七〇年(昭和四五年) 六〇歳 『三池文学』二一号に松永浩介との往復書簡。
一九七一年(昭和四六年) 六一歳 三月、三池文学会を退会する。
一九七二年(昭和四七年) 六二歳 『母船』一月六一号に詩「みかん」。 『新日本文学』三月号に「列島通信『三池のあり方』」。同八月号に詩「戯詩」。 『三池文化』第二号(三池評論社・代表松石秀介・新勝立町五丁目・二月二三日)座談会「三池における全協事件とプロレタリア文学運動」に大久保、鍋田、井上巽と出席。同誌に詩「大牟田港ちかく」。表紙とカットは古賀兼吉。 『母船』五月六三号に詩「葉桜」。 六月十八日、大牟田の空襲を記録する会発足。前田義則を中心に、下川真剛、中村和民、博ほか。 『大牟田の空襲』(大牟田の空襲を記録する会発行・第一集・八月十日)に詩「ネコについて」(その2・その4)。 『母船』八月六四号に『歌集「共振」批評』。
一九七三年(昭和四八年) 六三歳 『煙』二○号(四月十六日)に、詩「鍋田先生」。 『母船』四月六八号に詩「夜の歌」。 『母船』七月六九号に詩「愚かな奴が」。同、九月七〇号に詩「夜の歌」。 『風雪』百九号(十月二○日・発行元不明)に、詩「夜の歌」。 『煙』二一号(十一月七日)に、詩「夜の歌」。 『大牟田の空襲』(第二集・八月十日)に体験記「二十年七月二十七日夜」。「表紙絵について」(古賀兼吉の絵の解説)。
一九七四年(昭和四九年) 六四歳 『煙』二二号(三月十八日)に、詩「初冬暮色」。 『煙』二三号(八月十五日)に、詩「夜の歌」。 『母船』三月七二号に詩「夜の歌」。七三号に詩「涕」。七四号に詩「暗い夜の記憶」。七五号に詩「夜の歌」。七六号に詩「夜の歌」。 『煙』二四号(十二月三一日)に、詩「二月十一日」。
一九七五年(昭和五○年) 六五歳 『煙』二五号(四月十六日)に、詩「夜の歌」。 七月、中島康允(本名・昇)、畠中真一と『遺言』を創刊。 『大牟田の空襲』(第三集・八月十日)に、詩「茫然としてそこに」と「第三集発刊のことば」。 『煙』二六号(八月十五日)に、詩「夜の歌」。 『母船』七七号に詩「飛ぶ火」。七九号に詩「夜の歌」。八○号に詩「夜の歌」。 一九七六年(昭和五一年) 六六歳 『煙』二八号、特集・鈴木泰治(五月一日・煙同人社発行・発行者児玉誠)に、詩「波 」、「闊達な反逆精神」(副題・緒方唯史詩集─いたち─小感)。 十月五日、福岡県解放運動旧友会創立総会(福岡農民会館)に参加。博は原田三友、松本繁、西村桜東洋ら二十四名の発起人の一人。 『大牟田の空襲』第四集・七月一九日に、詩「歳月」。 『母船』八六号に、『「赤道祭」小感』。
一九七七年(昭和五二年) 六七歳 『方方』九号(八月一日・方方の会発行・内田麟太郎方)に、麟太郎「悲しき矜恃・その情を撃て―内田博小論」あり。 『大牟田の空襲』(第五集・七月二五日)に詩「二十年・春」。 『煙』三一号(十二月三○日)に、詩「福岡帰り」。 『母船』九○号に詩「老醜惨々」。
一九七八年(昭和五三年) 六八歳 『大牟田の空襲』(第六集・七月一五日)に詩「八月十五日」。 『煙』三二号(八月一日)に、詩「早春」。 『遺言』九号(八月十五日)に、『「転向」─無名者たち』。 「『詩精神』解題・回想記」(戦旗復刻版刊行会・復刻『詩精神』付録・十一月二五日・編者・伊藤信吉、秋山清)に、「「詩精神」小記」を。 十一月二五日・東京上野公園花山亭にて「内田博全詩集を祝う会」。 世話人、コスモス社、方方の会。司会・八代信。秋山清、伊藤信吉、大江満雄、松永浩介、菅原克巳、上林猷夫、大滝清雄、片羽登呂平、野口清子、中正敏、出海渓也ほか。翌日、伊藤正斎、吉田欣一、錦米次郎、麟太郎と中野重治を訪ねる。麟太郎は道案内。
一九七九年(昭和五四年) 六九歳 『内田麟太郎詩集』(二月十五日・青磁社・解説八代信)。 『コスモス』(四次・二二号・二月)吉田欣一「雑記・内田博全詩集の会」 『煙』三四号(三月十八日)に、詩「朝」。小田切秀雄「『内田博全詩集』』について」。 八月二十四日、師としていた中野重治逝く。翌日、秋山清、吉田欣一、岡田孝一・麟太郎らと弔問。 『煙』三五号(八月十五日)に、詩「童説─うすぐらいゆれの中から」。 『通信方位』(東京・有声社)九月二○日に、「中野重治・断章(六全協進行の中で)」。 『コスモス』(中野重治記念)六五号十月五日に、「茂吉ノオト寸言」。 『母船』一○○号に詩「広瀬常彦」。「百号感想─特別の思い」。 『遺言』十二号(四月)より博参画。 『遺言』十四号(九月十五日)悼・小山一二に、詩「雨天」(注・『暗河』より再録)。 「埋め草に─中野重治・寸言」。 『遺言』十五号(十一月二○日)に、「手紙」(注・『コスモス』中野記念号のことなど)。 『新日本文学』十二月号(特集・中野重治)に、「私的なことを─中野重治・断章」。 『煙』三六号(十二月二四日)追悼・中野重治に、詩「追悼・中野重治」、「私的なことを」(副題、中野重治・断章)。
一九八〇年(昭和五五年) 七○歳 「3・15・中野重治を偲ぶ会」(大阪)に、児玉誠、堀鋭之助、麟太郎と参加。 『煙』三七号(三月十五日)に、詩「冬の夜、「田木繁・断章」。 『あしあと』七○号(七月十日・発行元不明)に、詩「かすかに音が」。 『遺言』刊行同人懇親会(七月二六日・玉名市・三井炭坑保養所)。博ほか編集同人全八名参加。 『煙』三八号(八月十五日)に、詩「かすみ草」「童説──とんこ柿」。 九月十五日『コスモス』同人集会に小宮隆弘と上京。二○日、「中野重治没後一周年記念の集会」(全電通ホール)に秋山清、麟太郎と参加。佐多稲子、石堂清倫などと会う。 『遺言』十七号に、「往復書簡・中野重治をめぐって」を書く。往信は堀鋭之助。 『煙』三七号に、田木繁・断章」。 『遠地輝武研究』(野口清子編集)に、「なつかしき遠地輝武・断章」。
一九八一年(昭和五六年) 七一歳 春、『有明新報』(有明新報社・大牟田市)に、「文学史・簡略メモ」連載。 『短歌現代』六月号に、秋山清が「内田博を考える」を書く。 『遺言』三五号(二月一日)に、「岡本潤・小記」。 『遺言』三七号(四月一日)、特集・文学─1930年代に、転向文学に関する「感想」「桝添勇さんへの手紙」。 『大牟田の空襲』(第九集・七月一五日)に詩「語りつげそのことを」。 『遺言』四三号(八月一日)、特集・横顔の内田博に、詩「夜の街」「友ひとり」「みかん」。藤川英明「内田博のこと」、阿部圭司「私の好きな内田父子断片」、小宮隆弘「内田博について」、桝添勇「内田博さんの詩」、中島庚允「内田さん、そして転向のこと」。 八月五日、腹部に激痛。井上内科を経て、大牟田市立病院へ入院。午後四時開腹。肝癌末期でそのまま閉じる。麟太郎、六日朝見舞う。直ちに詩集『童説』(青磁社)の編集に入る。 『遺言』四十四号(八月十五日)、特集・横顔の内田博に、失名氏との「楽しき雑談1」。中正敏「ポピュラスの抒情─内田博の優しいまなざし」。
一九八二年(昭和五七年) 七二歳 『新日本文学』一月号、伊藤正斉の「内田博の『童説』を読む」を掲載。 『遺言』五十三号(一月十五日)、「田木繁・断章」を『煙』三十七号より、「文学史・簡略メモ」を『有明新報』より再録。 『遺言』六十二号(七月一日)「往復書簡」に、「春信」。松永浩介「返信」(注・『京浜文学』六十二年八月号より再録)。 二月二十五日午後九時五十分、肝癌のため大牟田市立病院にて死去。弟たちの配慮により麟太郎ひとり最後を看取る。
追悼詩「風ぐるまのまわる唄」(二月)片羽登呂平(詩集『身辺詩抄』収録) 『コスモス』(四次・三十七号・四月)に吉田欣一「追悼・内田博」。 『煙』四十四号(十一月七日)追悼・内田博に、詩「天上の正春へ」「夜の歌」「かすかな音が」再録。秋山清「追想・内田博」・牛島春子「内田博さんを思う」・小宮隆弘「病床の内田博」・木下浩「内田博のこと・私的回想」・中島康允「内田さんのこと」・吉田欣一「詩人・内田博の死をいたむ」・のまけいこ「詩・追悼・内田博」・『有明新報』より、諸岡研介、是木龍雄、伊藤隆造、長山不美男、井上巽など再録・児玉誠「追悼・内田博」・麟太郎「内田博年譜」「せめて総天然色映画を」「元祖へっぽこ詩人店」。 『方方』十九号(十二月)、大久保実「内田博さんの追憶」・木川夏(浩)「内田博と『詩と詩人』」・速水琉「戦時下詩人の心のにごりと戦後詩の自立」・池原重一「詩人の魂」・東川絹子「初恋の詩人です」・つきだまさし「一篇の詩との出会いは」・内田恵美子「私の見た内田博」・阿部圭司「至極大事なその一つ」・麟太郎「もう一人の党員詩人・内田博」。
一九八六年 『母船』百三十六号(一月一日)に、詩「夜半」再録。小宮隆弘「内田博のこと4」。 一月十五日、岐阜県海津郡養老町圓満寺霊園に、山田宏之(博の次男。山田家は養子先)は義父正行と墓を建立、博の分骨を納める。墓は山田家之墓。博の戒名は慈光院釋弘道信士。
一九八七年 「日本プロレタリア文学集39」(新日本出版社・六月三○日発行)に、「救世軍と少女」「坑内」「肉体」を収載。
一九八八年 「日本プロレタリア文学集40」(十一月三○日)に、短歌三首「雪のふる日」他を収載。
一九九四年 「ふるさと文学館」第四六巻福岡Ⅰ(ぎょうせい・海老井英次編集・一月刊)に詩「冬物語」集載。
一九九五年 「ふるさと文学館」第四七巻福岡Ⅱ(ぎょうせい・海老井英次編集・七月刊)に詩「筑豊山々」「筑豊の冬」「筑豊の冬(その2)」集載。
二〇〇六年 『筑紫の詩人たち』(野田宇太郎文学資料館・ブックレット6)に「内田博とプロレタリア文学」坂口博。
二〇〇七年 「大牟田市に起こった『爆発赤痢』のナゾに迫る」第二巻に「詩人内田博と爆発赤痢」(宮原陽光・大牟田「(いわゆる)爆発赤痢」研究会)」5月5日発行) 「そぞろおもい」(中原澄子・石風社・5月20日発行)─戦時下の思想統制に従うことを拒んだ詩─として「わかれの歌」を挙げる。 「内田博 詩と人生」(阿部圭司編・無極堂・8月30日発行) 「『内田博 詩と人生』読後感」(新井知次・第4次『京浜文学』第11号12月 25日発行)
年譜作成に当たっては、天野仁、内田恵美子、牛島美智子、大久保実、川口司、木下浩、黒川洋、暮尾淳、小宮弘隆、中原澄子の諸氏に、ご助言および資料のご提供を受けた。 また『九州文化』『芸林』は坂口博氏作成の公開資料を参照させていただいた。感謝するとともに、誤りがれば内田麟太郎の責任であることを記しておく。
二〇〇八年 [書評]阿部圭司編『内田博 詩と人生』「ん? プロレタリア詩とはなにか」(八代信『トスキアナ』発売・皓星社・第七号・四月十五日発行)
二○○九年 『福岡教育問題月報』(福岡県教育問題総合研究所)№250・2009年5月に「九州プロレタリア詩人ノート(3)炭鉱の町の詩人・内田博」草倉哲夫
二○十一年 詩誌『侃侃』(発行所・書肆侃侃房)№16・2011年8月16日に「─内田博詩集『童説』─」田島安江
二○十三年 五月二十六日 詩人内田博を顕彰する(代表阿津坂秀人)と大牟田近代家顕彰家(代表大城美知信)により内田博詩碑「悲しき幻覚」を大牟田市岬町、諏訪公園(郷土の丘)に建立。