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利用者:Uryah/20111103

自分がこの話題に関心を持ったのは、数十年前に某国へ1ヶ月滞在し帰ってきて成田に降り立った瞬間、周囲の見ず知らずの人たちから向けられたまるで「刺すような」視線に戸惑いを覚えたことがきっかけです(すぐに「慣れ」てしまいましたが)。滞在した1ヶ月間、一緒に行った人たちと繁華街に繰り出したり、1人冒険して街を散策したりしているとき、妙に気が楽だ、圧迫感がない、自由だと感じて、それは旅の開放感だろう、自分はいま旅の恥は掻き捨て状態にあるのだろうと思っていたのですが、どうも違う。すれ違う道行く人たちが妙にフレンドリーで、車に載っていると隣の車の窓が開いて「ハロー!」と言ってきたり、ポンコツの車が平気でたくさん走っていたり、なによりも印象に残ったのは、街路で人と人がすれ違うとき、感情的に実になんの負荷(たとえば勝ちとか負けとか)もかけない/かからないでいわばたたずまいとしてお互いに避けるのに接したことです。手や体が当たってしまった場合は、これまたなんの被害者感情(?)も加害者感情(?)も起きず、混雑のなかで当たってしまって、お互いアンラッキーでしたねと会釈を交わすといった風情で、「エクスキューズ・ミー」と声を掛け合う。おお、これは、と感動し始めていたところに帰国して成田で「刺すような」視線を感じたものだから(すぐに慣れましたが)、ああ、これが「日本文化に特有」といわれる「視線恐怖」の正体か、と思いました。彼の地で仕事に就いたり学校に通ったりしたわけではないので、そういう場、間柄・関係での「視線」がどうであるかは、経験がありません。

Uryah 2011年11月2日 (水) 21:22 (UTC)