利用者:Uryah/2016年1月8日
昔々、世界中で、「強い(※)」ものが強い、戦争に負けた部族は皆殺しか、男は労働奴隷、女は性奴隷に、という時代がありました。昔、たとえば日本でも、従わない仏門は焼き討ちに、という時代がありました。いま、それらの行為は「悪」ということになっています。 昔、戦争で負けた国は併呑されたり植民地になったりした時代がありました。いま、そのような行為は「悪」ということになっています。 昔、腕力の弱い女性と強い男性は男尊女卑になるという時代がありました。いま、そのような価値観は「悪」ということになっています。
この「流れ」を「是」とするなら、“個々の人格の尊重”は「是」だ。
いや「是」じゃないよ、そんなのは「架空の話」だよ、というなら、“人格の尊重”など、わけのわからない話だ。
「是」だ、「是」なわけない。
ところで、反知性主義。
- 日本の反知性主義
- 日本戦後史論 内田樹、白井聡 徳間書店 2015年2月28日初版の本のなかの一節。ポストモダン@Japan 以降の 反知性主義@Japan。
「 | (市民としての)成熟性の放棄 p.109,110、たとえばオタク文化の一部の「萌え漫画・アニメ」=「未成熟性のあられもない肯定」の出現=「反知性主義」p.180。1980年代のポストモダンとは、日本にあっては、たとえば、「差別の禁止・人権は絶対であるという物語が単なる建前として存在」していたことを意味していたのだと思われる。 「『人権なんて虚構だよね』って日本では言えてしまう。『虚構だよね』っていう指摘は、その虚構が社会に一定根づいているところでは批判的ポテンシャルを持ちえるのでしょうけれど、そもそもそれが社会的共通了解として定着していないところで虚構性を言い立てても意味がない」「こういう空転が日本のポストモダンだった」。明治維新以降のまたは戦後復興の日本の発展は、「西洋近代的な価値観」に則ってもしくは取り入れてのものだったと近代には思われていたのだが、「それは社会の実際の在り方とは遊離したものだった」「近代を乗り越えたどころか、最小限の近代性すら存在しな」かったことに気づいたのが、1980年代の日本におけるポストモダン。p.177, 178。 |
」 |
- 逃走論 浅田彰 ちくま文庫 1986年12月第1刷の本のなかの一節。 p.230。
「 | 岩井克人:例えばデリダでも、彼のまわりにあるいはなかに、ヘーゲルがありマルクスがあり、西洋形而上学の伝統の重さが常にある。その重さがあるから - ある意味でそれを本当に信じているから、ああいう『逃走的』なものを書き続けられるという気がしているんですね。柄谷さんがアメリカで元気になって日本へ帰ると元気がなくなるというのは、そういうことと若干関連があると思うんです。向こうでは西洋形而上学というか…。 柄谷行人:それを相手にしているときは非常に実在感があるんだけれども、日本に帰ってくると何もなくて、全然空疎に見えてくるわけですね。 |
」 |
では、精神状況@日本を描きだした本は何か?希望や願望や宣伝やプロパガンダではない、日本の「社会の実際の在り方」を描きだした、描こうとした本はどこにある?実際に日本に広がっている哲学的状況を捉えて書いた本は?たとえば、水槽のなかでどうやって憂さを晴らしたらいいかとスマトラが書いた本や、どうやって広い空間を確保しようかとネオンテトラが書いた本はあっても、水草があってスマトラとネオンテトラとカワエビとコリドラスが居る水槽の様子、を描こうとした本は?
※「言論の力」も「力」(である場所、とな(り得)る場所で)なら、知性は「架空」ではない?