利用者:Wakimasa/作業用めも
執筆のソース
- SKI JUMP DATABANK
- 宮様スキー大会七十年史(札幌スキー連盟発行、札幌市中央図書館蔵)
- 北海道のスキーとともに(大野精七著、札幌市中央図書館蔵)
- 雪印スキー部50年史(札幌市中央図書館蔵)
- 北海道新聞縮刷版
- スキー年鑑(北海道立図書館蔵)
- テレビ中継からの集計
- FIS、SAJ、SASその他のサイト
- 日本スキー意外史 =わが師わが友= /伊黒正次著/スキージャーナル社刊/1977年発行
- 北海道新聞1976年12月~1月夕刊連載 ”人脈北海道”ウインタースポーツ編
- 単行本 北海道新聞社編「人脈北海道」
- 伴素彦
北大入学後野球部に入るが、当時の野球部は冬になるとスキーをすることになっていたので伴もジャンプを始めた。 テニスでは40歳を過ぎて全日本選手権に出場した(日外アソシエーツ発行「北海道人物・人材情報リスト2007」による)
- 杉村鳳次郎
小樽中-北大-道庁
- 村本金弥
東京生まれで小学4年の時小樽へ移り住む 小樽中-北大-軍隊-東川農協-千歳高校教諭-酪農学園大学教授
- 緒方直光
神戸一中-北大 第2回全日本スキー選手権の覇者 弟の温光も神戸一中から北大
- 青山馨
札幌一中-北大水産 第3回全日本スキー選手権の覇者
- 神沢謙三
秋田中-北大-青森第八師団-北海道立衛生研究所技師 第6回全日本スキー選手権の覇者 第7回全日本スキー選手権では複合を制した。
- 山田四郎
札幌創成小学校-札幌一中-北海道帝国大学-軍隊 第4回全日本学生スキー選手権2位 第5回全日本学生スキー選手権優勝(43.5m、44.5m)
- 関口勇
北海商業-国鉄 後に宝塚市でゴルフ練習場を経営 1930年第8回全日本スキー選手権ジャンプ優勝 1935年第13回全日本スキー選手権ノルディック複合優勝 ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック複合代表(29位) 1937年第15回全日本スキー選手権回転、アルペン複合優勝、滑降3位
- 安達五郎
小樽奥沢小-小樽中-札鉄 もともとは野球選手として鳴らしていたが野口正二郎、伊黒正次に誘われてジャンプを始める。 北九州市小倉区の妻の実家のてんぷら屋を継ぐ。
- 伊黒正次
山形県生まれで7歳の時小樽の伊黒家に養子入りする。旧姓は松宮 1940年札幌オリンピックが幻に終わっとことを機に札鉄を退職して茨城県の日立製作所に転職、一時競技を離れた。 しかし、翌1941年の全日本選手権で優勝した。雪の無い茨城でひたすらイメージトレーニングを行って優勝につなげた。 大倉シャンツェ建設記念ジャンプ大会は通算4回優勝している。
- 龍田峻次
小樽中学では安達、伊黒の1年後輩 早稲田大学から毎日新聞に入社、のちには日本カーバイドに勤めた。 1935年、1937年の全日本学生スキー選手権優勝 1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに出場し、73.5m、77.0mを飛ぶがいずれも転倒、46位に終わる。 2本目の77.0mはこの大会最長の飛距離だったが着地で右手を雪面について転倒扱いとなった。 直前にスイスで行われた万国学生選手権で左ひざを痛めていたことが原因の一つである。
- 龍田鳳三
小樽中学-早稲田大学 峻次の3歳下の弟 1938年の第16回全日本選手権ではアルペン滑降で優勝している。 1939年の全日本学生選手権で優勝、兄弟でインカレを制したのはほかに笠谷兄弟
- 宮島巌
小樽中で龍田峻次の1年後輩 小樽中4年時にジャンプを始めた。中学卒業後小樽高等商業学校に進む。
- 四ッ谷勇
小樽商-小樽高等商業 昭和8年全日本学生スキー選手権で2位 昭和9年スイスの万国学生大会に出場したが以後は振るわなかった。
- 浅木武雄 6歳年下の弟は文雄
小樽中学-北海製缶-トーモク 父の浅木常次郎は”ジャンプとうさん”とあだなされるほどのスキー狂。 武雄は独特の二段サッツを編み出して活躍した。 アプローチの終盤でクローチングから一旦立ち上がり、サッツの直前に再び膝を曲げ、反動を利用して飛び出すもの。 しかし助走スピードをロスしたりタイミングが難しいなど壁にぶつかり大成しないまま終わった。 社会人ではボート競技で活躍した。
- 若木松太郎
150cmそこそこという小柄な体格ながら活躍し、1943年の全日本選手権優勝 アルペンで1938年、1939年と全日本回転2連覇を達成している。 そのテクニックを買われ、トニーザイラー主演の映画「銀嶺の王者」に出演する話もあったが、 出演料が、アマチュア資格を失うに十分なものではなかったため辞退した。
- 松山茂忠
札幌一中時代にクロスカントリーからジャンプに転向、北大に進む。 1943年札幌市内で市電にはねられ不慮の死を遂げる。
- 小島謹也
175cm45kgと華奢であったが札幌商業時代には1932年全日本選手権幼年組で優勝している。
- 星野昇
浅木文雄の1年先輩 小樽奥沢小-北海商業-明治大学 全盛期はアプローチのスピードをそのままに低く飛び出す直線的なジャンプを見せた。 1943年の第21回全日本選手権複合で優勝、戦争を挟んだ1949年の第27回ではジャンプで優勝
- 浅木文雄
小樽奥沢小-北海商業-明治大学-クロバーバター 武雄の弟 全日本選手権は1939年の第17回、1948年第26回、1950年第28回と3回優勝 1939年2月26日宮様スキー大会で大倉シャンツェのバッケンレコード79.0mを記録、これは1952年早稲田大学の柴野宏明が84mを飛ぶまで保持されていた。 1952年のオスロ五輪代表選考で健康診断に引っ掛かり、出場できなかった。
- 菅野駿一
小樽若竹小学校-小樽中-小樽高等商業-茂尻炭鉱 小樽中5年時に全道中等学校選手権2位 1940年のインカレと全日本選手権を制した。 大倉シャンツェ建設記念ジャンプ大会で1940年の第10回と1941年の第11回を連覇した。
- 川島弘三
小樽中学入学時は野球部に入り、1年からセカンドのレギュラーとなったが、3年の冬にスキー部へ移り本格的にジャンプを始める。 戦後明治大学に進学し、1948年インカレ優勝、1952年のオスロオリンピック代表(42位)
- 渡部龍雄
小樽経済専門高等学校-三井鉱山 小樽中学時代はテニスで鳴らした。小樽経専に進み1947年の全日本学生スキー選手権で優勝する。 1952年のオスロオリンピックには、肋膜炎の病歴により出場出来なくなった浅木文雄の代理で出場しスペシャルジャンプで27位だった。 三井芦別では酒井清孝(小樽千秋高校卒)、杉山安久(小樽潮陵高校卒)らを指導した。
- 吉沢 広司
小樽奥沢小学校-小樽中-早稲田大 176cm74kgの堂々たる体躯で小学校-中学入学まで相撲で鳴らした。 小樽中の同学年に佐藤耕一がいる。
- 柴野宏明
小樽緑陵高校-早稲田大学 吉沢の1年後輩である 第23回 1952年2月25日の宮様スキー大会で84.0mを記録、1939年に浅木文雄が記録した79mの大倉シャンツェバッケンレコードを13年ぶりに更新した。 大学卒業と共に競技から退いた。
- 八木博
北海商業(北照高校)-明治大学 1952年明大2年時にインカレ優勝 八木弘和の父
北海道新聞1980年3月1日夕刊”ざっくばらん”より 1954年明大卒業後一時会社勤めをした後家業の農業を継ぐ 1972年の札幌オリンピックでは宮の森ジャンプ競技場のジャンプ台係長を務めた。 1977年全日本スキー連盟のジャンプ・ヘッドコーチに就任。息子八木弘和を銀メダリストに育て上げた。 1951年、明大1年時の全日本スキー選手権で1本目に75mを飛んだが転倒、肋骨を3本折るケガを負う。 しかし本人は骨折していることに気付かず2本目に77mを飛んで5位入賞。 以来仲間内から尊敬を込めて”不死身の八木”と呼ばれていた。
- 藤沢隆
全日本大学スキー選手権複合で前人未到の4連覇を達成
- 益子峰行
札幌五輪では代表に選ばれたものの出番はなく、チームマネージャー的な役割を果たした。