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小宮山清三の業績
「一村一家族」「護郷立国」
1、 小宮山清三の略歴と最期
小宮山清三は明治13年(1880)6月27日、中巨摩郡西野村の長谷部真三の次男として生まれた。13歳の時、父の次弟である中巨摩郡池田村の小宮山民平の養子となる。甲府中学校から、明治33年9月早稲田専門学校英語政治科に入学、同校を明治36年7月卒業、早稲田大学政治経済法律学科へ進んだが、明治38年1月退学した。この間、明治34年21歳の時、甲府メソジスト教会で洗礼を受けている。明治36年(1903)には小宮山家の家督を相続している。
大学を退学した明治38年4月(25歳)に甲府教会で知り合った、南湖泉の村長、大木親.·てるの娘いほ(18歳)と結婚した。翌年の明治39年12月12日徴兵検査に合格、意とする所があり、陸軍入隊を志願し一年志願兵として近衛歩兵第一連隊に入隊、一年後の12月歩兵軍曹に任官、予備役に編入された。(五回の勤務演習を経て2年後の12月予備役少尉に任官)この軍隊での経験は、後の消防での基本動作に取り入れられ、役立っている。入隊中の明治40年3月には長男一男が誕生している。
近衛連隊、除隊後は直ちに池田村に帰郷して1800余俵の大地主の嫡子として家事に専念する一方、山梨地方裁判所の役人として二ヵ年程勤務したが、性に合わないとして辞任し、もっぱら家事に専念に専念した。その後、公共事業に身を捧げ、明治41年3月池田村第二区水防組合長に推されたのを皮切りに、明治43年3月区長、大正2年7月村会議員に選ばれた。大正2年、長兄長谷部恒三氏の朝鮮扶余での大農場の経営を本格的に手伝うために、池田村青年有志と渡朝、大陸の未開土地で縦横無尽に活躍、次女「扶余子」が生まれたが、翌年養父民平の病気(大正3年8月13日死去)により、間もなく帰郷した。この経験も後年、池田村の果樹栽培に取り入れられている。清三は大正3(1914)年4月8日に、第五代池田村村長に就任、この日より逝去した昭和8年(1933)11月4日までの19年6ヶ月、偉大な業績を池田村に残した。池田地域が明治31年から甲府市に合併される昭和24年までの、51年間の村政施工時代に10人の村長が村政に携わったが、清三は17年間、他の村長は平均3~4年である。
大正4年4月には、清三を日本的に有名にした、消防への道「池田村消防組頭」を拝命、耕地整理組合長、在郷軍人会中巨摩連合分会長、山梨青年団理事等の職に終始したのだ。
昭和4年大日本消防教会設立と共に、代議員、常議員理事に推薦された。
昭和6年には、強く辞退していたが、周囲からのたって推薦され、県議会議員に立候補し10月に初当選(52歳)、翌年には、第32代山梨県議会議長となった。52歳の年であった。
昭和4年大日本消防協会の代議員、二名しかいない常議員理事として、県内はもちろん、県外各地で、あたかも獅子奮闘のごとき、消防講演に東奔西走の大活躍をした。昭和8年(1933)10月18日、県内下諏訪村での講演を熱っぽい身体で無理しておこない、さらに改進党結成式にも出席した。帰宅後、ただちに池田小学校運動会反省会にも出席、村民と談合中発病し倒れ、深夜重態に陥った。県立病院に入院、診断の結果、非常に手遅れの盲腸炎と判明、22日野本博士の手術を受けたが、効無く次第に病状悪化、11月3日、にわかに危篤状態となり、11月4日午前10時25分、家人、近親者等見守る内に、泰然と生前の好意を謝してついに長逝した。享年53歳4ヶ月。
葬儀は、今井新造氏(山梨交通重役、後に衆議院議員)等友人の提案により、11月13日、本県初めての消防葬にておこなうと決定した。舞鶴公園における消防葬は本県において、前代未曾有の盛儀で武田神社乙黒宮司を祭主にして、会葬者は県内外より一万余人の多きにわたり、氏の人徳を偲ぶ一般参列を加えると二万人に達し、葬列はその数約千人、延々十五町に達し、先頭は舞鶴城内に到着しているが、後尾は池田小学校にあったと言われている。
葬列は、午前10時、池田村の自宅を出発。長田池田村助役、山下消防協会支部顧問を先駆けとして、銘旗、神榊、寄贈品、花環(大日本消防協会長山本内務大臣、若槻民政党総裁、関谷知事その他)、竜王警察署館内消防ラッパ隊、前衛纏百基、紅旗友人五人、吉江副委員長(県保安課長、山梨県知事、代議士)、米倉副祭主、察員、乙黒祭主、故人の遺影、池田消防組員七名·今井組頭に護られた霊柩、紅白旗墓標、故人の遺品(消防制服、制帽等)、喪主長男一男氏、喪婦いほ未亡人、副喪主堅次(弟)氏、近親、親友、大日本消防協会員、県下各警察署長、後衛纏百基、各消防組員、一般会葬者、青年団の順で、ラッパ隊の奏する「哀しみのきわみの曲」も悲しく、全県消防組を代表する前後二百基のさん然と輝く金馬簾に垂れた黒の喪章も新たなる涙を誘う。
何分県下挙げての騒ぎだから、地元の池田村は全村民総動員で、消防はもちろん、青年、在郷軍人、処女、婦人会等々の団体は申すまでもなく、小学校児童も総員途中まで見送る。老若男女の郡まで正装して沿道に並び、足腰立たぬ老婆が孫の背に負われて霊棺を伏し拝むシーンもあった。葬列は貢川橋、荒川橋を渡り、甲府市内寿町、泉町の繁華街へ出たが、この日二十人町の手塚五重氏宅に準備していた、故人の実母、長谷部きく刀自(83歳)は、泉町大正堂前で霊棺を迎えたので、葬列はしばらく此処に停まって敬意を表した。また民政党山梨県支部前では支部長の河西豊太郎代議士以下百数十名の党員が整列してこれを見送った。市内のどの家も店務を投げ出して戸外に出て、道の両側は非常な人垣で何れも暗涙をたたえて見送る。銀行も会社も皆しかり、中にはたまらなくなって嗚咽している人々もある様で、今更にして故人の徳が偲ばれる光景であった。
会場の舞鶴公園は山の上まで真っ黒な人だかりとなり、自転車の臨時預かり所や、露天のおでんや、甘酒や等が、十数軒も仮設され、思わぬ繁盛に大喜びで『エライ人は、死んでも民を潤すものだね』と此処に至っても故人の礼賛が始まる。
葬儀は葬儀委員長、荒木警察本部長の挨拶に始まり、神事がおこなわれ、関谷山梨県知事の祭司、山本内務大臣、若槻民政党総裁の弔辞(代読)、甲府市長を始めとし各界代表の弔辞があり、最後に喪主長男一男氏の答辞があった。態度堂々、音吐朗々厳父そのままの立派さに、今更会衆が涙をのんだ。しかし一男氏も『満感、胸に迫って多くを語り得ぬ』と心情を吐露して感謝の辞を結んだ。
午後3時40分荒木委員長の挨拶で終式、往路と同じ葬列で県庁前より橘町、親青沼町、相川町を経て池田村に帰り、小宮山家の墳墓の地に埋葬した。
このとき、骨壷は李朝白磁の壺を用い、生前愛顧の木喰仏二体を共に埋葬したが、翌朝には、何者にかに盗掘され、仏像は無くなり、骨壷も何の変哲も無い壺に取り変わっているのが発見された。
故人と無二の親友である今井新造氏は、友人代表としてこの大規模な葬儀万端一切を計画し、葬終了後は虚脱状態になってしまった。また故人の若い友人で代議士にもなった、高野孫佐衛門(毅)は後年追想して『どう、考えても53歳で亡くなったなどとは思えない。たいした人だった。あまりに早死にだ。本当にもったいない気がする。それであんなに仕事をし、よくもあんなに活動したものだ。社会の事、政治の事、そうしたいろいろの問題への関心、執念、実践―なかでも消防団の事は、社会的な印象が誰にも深いだろう。・・・・・・
あの豪華な写真帳や柳先生の「木喰五行上人の研究」のかずかずは小宮山さんがなければ生まれない」・・・・・・と語っている。
2、「消防の父」小宮山清三
小宮山清三の死去の際、書く新聞は「消防の父死す」の大見出しをつけた。清三とこの消防とは切っても切れない関係にあり、この消防界に尽くした業績は論を待たないほど有名である。
それは、池田村、山梨県の消防組織を作り上げたのみならず、江戸時代よりの「火消し」の封建的伝統を破って現在の消防法に見られるような、自治体としての有機的(全体と部分との間に統一と関連があるようす)消防網をつくりあげた所に大きな功績がある。
第二次世界大戦による敗戦の憂き目で、軍隊と共にその組織は変わるはずの所を、この消防組織だけは、日本全国どこにいっても変わらなかった。それだけ我々庶民の生活の中に、その精神が溶け込んでいるのである。国家の根幹は自治であり、その自治精神がなければ民主国家とは言えない。その民主国家を体現しているのが「消防団」であるという清三の哲学に根ざした、日本の消防団にJHQも手が出せなかったにちがいない。戦前にありながら、最大の民主的な組織であり、そしてなんと言っても必要な組織であり、若者や青年、そして婦人までにも(女学生、小学生消防団もあった)、多くの「庶民達に」に自信と誇りと、そして生きる価値観を与えてくれたに違いない。それは「社会のために役立ちたいという」自己の存在のアイデンティーの確立であった。小宮山清三は、消防道の権化と言われているが、民主主義の権化と言ってもよいかも知れない。
現在の自治消防(消防団)は、昭和23年に発足したが、戦後の混乱期にあって、新規に230万人にも及ぶ団員を集めることは、いかなる方法をもっても不可能であり、その前史の存在があって、なしえたのである。
寛永16年(1639三大将軍家光のとき)江戸城本丸の出火を教訓として組織された「処々火消し制度」を手初めとして、江戸城下の警備が強化されるのに伴い、「江戸火消し組」が重要な意味を持つようになった。それ最大のねらいは火事によって起こる社会不安を沈静化させ、社会秩序の維持をはかり幕府の権威を保つことであった。そのため発足当時から、いわば官設機関という性格を持っていた。一方、むら消防組織は、むら人が自らの生活防衛のために組織化されたものである。前者が常備消防の前史という意味合いを持っているのに対し、後者は今日の「消防団」に収斂される。
むら消防は、むらの跡取り層からなる「若者組」との若者契約からなっており、この若者契約は消防だけの機能を持っていたのでなく、警防やお祭り等の実行部隊であった。明治政府は「夜這い」や「暴れ神輿」等を含む若者契約を廃止し、「若者組」から消防活動を中心とした「消防組」に変わっていった。 (明治5年~15年頃) しかし、その後、新政府は他に解決しなければならない 政治課題が多かったため、消防についてはあまり顧みられなかった。
明治22年の町村制の施工に伴い、旧来の五~六ヶ町村が合併して新しい町村すなわち「行政町村」が誕生した。(清三9歳) その結果全国的に新たな、町村段階に「公立消防組」を組織する動きが起こった。しかしその実態は、むらの消防組みに補助金を出す程度にとどまり、新たな組織を組織するまでにはならなかった。それは慢性的な財源不足に当面していた「行政町村」にとっては、むら人からの寄付(大部分は大地主の寄付)により成り立っていた「むら消防」に頼らざるを得なかったのである。特に明治8年に、東京で使用された「椀用ポンプ」は急速に普及した。それは水力の高さが30メートルにも達し、従来の「龍吐水」(7~10メートル) とは比較にならない威力を発揮した。しかしその価格は、一台500円もし、それを収納する「ポンプ小屋」の建設費、維持管理費もあり、「組頭は消防組の面倒を見ることのできる者でないと務まらない」ともさえ言われた。
明治20年代はむらの消防組が政党の下部組織として利用されたり、頻発化する小作争議に中心的役割を果たすようなこともあり、明治政府は何らかの規制強化をはかることが必要であった。政府は明治27年。(清三14歳)「消防組規制」「消防組施行概則」を制定、その内容は、消防組織は警察の補助機関であること、消防の費用は市町村の負担とすること、消防組織の名をかりた集会の禁止、が主なないようであった。この規則は「むら消防」を否定し「公立消防」への移行を促進するする狙いがあったが、前述のように「行政町村」の財政事情により、現実的にはかなり困難であった。(清三が死去した、翌日昭和8年11月5日、開催の大日本消防協会の代議員会の議事でもこのことが議題になっている)
このような状況のなかで、大正3年(1914)池田村村長に就任のすぐの、翌年池田村消防組頭を拝命した、小宮山清三は、「模範消防指導大綱」「農村消防の革新」「消防道要領」「消防応用動作の価値」「農村消防の現状と消防」「団体禁酒運動」の著作を表すと共に、大日本消防協会の設立にも最初から関係し常に中心的リーダーとして、県内はもちろん、日本全土を北海道から九州まで「公演行脚」してまわった。この行脚は、消防思想の普及と消防精神の確立、全国的消防組織の統一、化学的消防動作の普及等が目的であった。
清三の消防理論は
① 過去の消防は、単に火消し人足で、それ以外の社会的責任及び存在価値が認められておらず、村の公式行事に参列することもできない。自ら任意に集会することも禁じられており、その社会的待遇は、青年団少年団以下である。これは消防組自身が任務観念を見失った結果である。
② 農会、産業組合、補習学校、青年団までが自治開発の要素として、政府の政策要綱に積極的に組み入れられているのに、消防のみは何ら顧り見られていない。消防は自治政策の第一歩であり、これなしでは、自治体の魂を造り、有機的統一を完成するこることは不可能である。
③ 昨今、産業政策の成功により模範村が注目をあび、災害政策が軽く見られていることは注意しなければならない。災害政策、すなわち火災はもとより、水害、伝染病、害虫、風教、犯罪、小作問題も一村災害として現代自治体は解決しなければならない。
④ 国家は自治体の骨であり、皮である。自治体は国家の血であり、肉であり、国家と自治体は一体でなければならない。したがって、国民が日常生活を託す舞台、すなわち自治体の尊厳を教育しなければならない。自治体の尊厳―それは自治体を守護する消防の尊重が第一である。
⑤ そして消防制度の尊重は自治体のみにとどまらず、国家の基本を築きあげるものである。多数の国民にその所属する自治体を護ることを、教育することが国防教育の第一歩である。(護郷立国)消防組は自治体の軍隊であり、消防活動を通して、青年に「自治」の重要性を教育しなければならない。
は以上のように要約できる。
消防と団体禁酒
⑥ 「火消し」は火災現場でその勇気を鼓舞するために「飲酒」は当然であり、その伝統を消防組は受け継いでいたが、清三は「団体禁酒」を提唱した。それは、火災現場はもちろんのこと、各種の行事でもしかりであった。その理論は「消防と団体禁酒」の中で詳しく述べられているが、清三自身、その論文の中で、どのように説得するか、相当悩んでいる様子が窺える。また、その当時の家庭における食事風景が登場し、父親の権威について疑問を投げかけ、説得の一助としていて面白い。
その当時の池田小学校の生徒の作文に『今での消防は昔と違って、心の中の火を消し、水を防ぐというのです。昔は火事が出てからポンプを引き出したが、家事が出てから防ぐのはもちろんです。それより火を出さないうちに注意する方法を考えねばならぬ。我村の消防はその方面より考えて、火気取締りということを毎年二回つづけておこないます』とあり、小学生にまで、「消防教育」が徹底されていた様子がよくわかる。静岡県氣架町の話であるが、亭主が消防演習に嫌気がさし、辞職を妻に相談したところ離婚話しまで発展したともある。また、山梨県小泉村の話として、見っともない亭主の消防演習を参観した妻君が、その様子にあきれ、毎朝その妻君が号令をかけ、訓練したとの逸話もある。どれも、その当時いかに「消防」が庶民の生活の中に溶け込んでいたか、よくわかる。
これだけでも、小宮山清三の業績がいかに偉大であったか、よく理解できるが、これがあの「大消防葬」につながるのである。
3、農村近代化の先駆者
明治28年日清戦争後、わが国は、工業や金融、交通等の部門では資本主義的近代経営が順調に発達したけれども、農村の大部分はいぜんとして家族的小経営で、鋤、鍬に頼る、原始的労働を繰り返すのみで、重い税金や小作料にあえいでいた。貿易の拡大も貨幣経済の発達を促し、換金労働のない農村をますます疲弊させた。
二百戸足らずの農村池田村も例外ではなかった。池田村は甲府市の西部を流れる荒川の右岸、今の荒川町、池田町、長松寺町、下飯田町、新田町、金竹町、中村町、下河原町一帯で、今こそ機山高校、盲学校、養護学校、池田小学校、甲府西高、東海甲府高校等の並ぶ文京地帯だが、昭和の初めまでは百町歩余の水田地帯でありながら、荒川と貢川にはさまれ、干ばつと出水に永い間苦しんできた土地であった。荒川は、文字通りの「あれ川」で出水期は中央線から南側は沼地となり、人の膝頭までめり込んで、田鋤の馬も使えないほどであるのに、いったん日照りになると水田はひび割れて収穫は皆無に等しかった。
明治初年(1868)、藤村県令は勧業製紙工場の動力として、荒川上流の河川から専用水路を作ってしまった。「水よこせデモ」で流血の惨事を起こし、村民のほとんどが捕らえられたこともある。その際の取調べ官が『……いったい池田村の田はどれほどの水が必要なのか』の質問にたいして、ある村民が『……一日やんで、三日降り、その間に夕立があれば丁度よいごいす』と答えたエピソードが語り伝えられている。
大正3年(1914)4月、34歳の若さで村長に就任した、清三は山のような難問を前にして武者震いしたことであろう。「一村一家族主義」「護郷立国」をモットーと掲げ、村づくり、人づくりで遠大な計画をたて、強烈な熱意と実行力で着々と実現していく。
利害を共にする近隣の村と、共同で再三再四、甲府市議会、県知事に12年間陳情を続けたが、荒川の改修はなかなか実現しなった。県費による改修は結局、昭和6年(1931)、清三が県議会議員となることよって、ようやく達成されたのである。灌漑用水の確保のためには、上流の敷島村との関係(どうしても水利権は敷島村が強かった)で独自の打開策のため、村内五箇所に荒川の伏流水を利用した揚水池をつくり動力エンジンにより一応解決した。昭和4年(1929)甲府市が上水道拡張計画をたて、黒平地内に大貯水池をつくることとなった。そうなると荒川以西の村々は水田水利問題で不利になるので、1月近隣各村に呼びかけ「荒川水利権擁護同盟会」を結成、これに反対する「大衆示威運動」になった。1500名による抗議集会を行い、警察の警戒裡の中、村長自ら先頭に立ち一大デモ行進が行われた。その成果として、甲府市の荒川上流貯水池計画は中止となり、感慨用水確保のため丸山貯水池(千代田湖)の着工に、この運動が発展した。尚この千代田湖からは池田村直通用水路(二号幹線)が確保されている。
水の配分と二毛作から耕地整理の必要を感じ、清三は自分の所有地はもちろん、多数の村民の協力を得て、今の機山高校(城西高校)付近から西側40町歩の耕地整理を実施した。昭和6年(1931)3月からのことであり、その整然たるありさまは、当時の小学校の地理教科書にも写真入で取り上げられた。(最初60町歩で計画、資金難のため縮小)
清三はさらに池田村をとませるための新しい農業経営に取り組んだ。それは、酪農と果樹栽培である。酪農は乳牛80頭を飼い、日産20石(3トン)の生産を生みだした。これは清三の死の2年後に「みずほ牛乳組合」が設立され、昭和30年には、年産二億円の売り上げとなり、人々をうるおした。果樹栽培は自身の農業経営の経験を生かし、農大卒の弟、堅次氏と協力し自らの水田を果樹園として「柿」「梨」を栽培したものである。これは「共生農園」名付け、小作人に共同経営させた。これは当時大きな話題になり、県内外から多数の参観者があったほどである。これをモデルとして池田村は「柿」「梨」の生産が盛んになり他見にも大量出荷し、苗木は甲府の「正の木祭り」(五月五日前後)で売られ好評を博した。
その他、道路網の整備や、甲府市の糞尿処理問題等、近代化を目指して結実させた成果はまことに大きい。
また最大の業績として、その著「農村の現状と消防」に書かれているように、かねてから、地主と小作人の封建的な関係を批判しており、実際に自らの小作地を開放して、多くの自作農を誕生(農地解放)させ、大きい反響を巻き起こしている。
4、青年教育への情熱
真の「村づくり」は「人づくり」である。「人づくり」は青年教育からと考えた清三は、青年教育に情熱を注いだ。明治43年(1910)に清三の力で山梨県初の青年団が池田村に誕生し、大正3年(1914、村長就任の年)女子青年団も発足した。自宅を青年集会場に提供し、青年団の財源に自分の耕地を提供するなど、物心両面の援助は限りない。
さらに昭和4年(1929)、日蓮主義青年団運動の実践者として、著名である、石井集氏を長野県から強引に招聘して、池田小学校長とした。石井校長は優秀な教師を集め、作業教育を実施するため、高等科を廃して昼間制の農業補修校に改編し、青年団を二部制として、一部は20歳以下の定時制の夜学として、二部は25歳以上の自治産業等の研修を実施した。青年たちは、村長、石井校長の指導の下に農村の近代化や社会奉仕、心身の鍛錬に積極的に参加した。
県外の模範農場等への研修派遣もあり、毎月の十三日の乃木会の日は、早起きで地区への清掃奉仕等をおこなった。大正9年(1920)の明治神社造営にも、山梨県を代表し奉仕活動し、大正12年(1923)の関東大震災の時も、皇居前の整備、清掃に参加している。とにかく、青年を大変かわいがり、四十代の村長が十代、二十代の青年と寝起きを共にして、これらの活動をおこなっている。また県内外の消防公演行脚には、必ず何人かの青年を連れて行き、見聞を広めさせた。また村長考案の制服は、男子はスマートなレインコート団服で、女子は東京実践女学校の制服を模したものであり、大変おしゃれでもあった。
さらに後藤静香氏の希望社運動にも参加、山岳やウインタースポーツにも興味を持ち、大正13年(1924)「甲斐山岳会」昭和7年(1932)「スキー・スケートクラブ」を発足させている。
5、観光開発への努力
清三は、山梨県の観光開発にも主力を注ぎ、景勝ち山梨の宣伝に尽くし、御岳昇仙峡の開発に尽力し、現在の昇仙峡のもとを築く、一旦を担ったといえる。昇仙峡は先人、長田円衛門の功績によるところ大であるが、アクセス道路は貧弱であった。大正二年(1913)若尾一平氏より寄付二万円あり、これをもとに大正5年(1916)甲府市を起点として、天神平までの道路改修を目的として、清三等の働きで、御岳道路組合が設立された。しかし、各村は東西両線を固持して譲らず、なかなか着工できなかった。大正11年(1922)ようやく着工、同13年(1924)8月完成した。引き続き長澤橋も着工し同14年(1925)12月完成し、同年12月5日天神平にて盛大な開通式が挙行された。
この間、大正11年(1922)、東京日日新聞で葉書の応募による、日本新八景の第一位に入選、世に出たのであるが、これも清三、堅次氏、今井氏等が中心になり、在京県人会にも働きかけ、投函させ栄誉を獲得したものである。
また、御岳開発事業と関連して、遊覧バスの拡充をはかり、甲州、鰍沢等の自動車会社を合併し、山梨開発協会を設立した。これは、温泉資源(甲府駅前の開発温泉、湯村の常盤ホテルの設立)、観光、運輸産業開発、の総合的企画運営するもので、当時としては、(いまでも、通用する) 画期的なものだった。
この計画には、実弟金丸康三氏(金丸親氏の父親)も深く関わっている。
6、信頼される人柄
清三氏は実に典型的な紳士で、人格、学識、趣味、何れの点を観ても立派な人物であった。公人として、剛毅、不屈の精神を有し、その反面やさしき情操の持主で、人情味豊かな涙ある人物であった。多くの人が「公平無私、清廉潔白の士」と表している。これは決して誇張ではなく、小社有意の青年達が氏を慕って小宮山邸に集まり、夜を徹して談論風発し、県会議員一年にして議長に選出されていることは、それを示している。
氏はまた多趣味の人であった。木喰仏の他に民芸、古陶器、絵画などにも熱心で、全国消防公演行脚のさいのスケッチ帳の毛筆画の腕前はすばらしい。「芒芒西」はそのペンネームである。
氏は何事にも熱中する人であった。社会のいろいろな事象を、ただ眺め、あるいは批判して過ごすのではなく、その中に自ら飛び込んで何とかしようと努力する。熱中したことに私財を投入することは全く意に介さなかった。耕地整理や自作農創設(農地解放)や果樹園経営、青年指導の場合はもちろんのこと、木喰上人研究等にも、驚くべき巨額の資金を提供している。金銭に淡白なのは性格であったかも知れないが、小作米の納入などにもほとんど督促しなかっと言う。(巧の祖父、千野真道と同じ)
昔の政治家には、社会のために奔走して家産を使いつくして、井戸と塀しか残さなかったので、これを称して「井戸塀」というが、清三の場合、井戸と塀すら残さず、「屋敷の入り口の石橋が残っただけ」と言われている。
(清三の妻いほは、木喰仏を称して、貧乏仏と言っていた。したがって伯教の「木履の人」も、何処かに離散したものと考えられる。また価値のわからない者によって廃棄されたのかも知れない)