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利用者:Y.F0839/sandbox

metronome

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metronomeは1995年9月に開業したナイトクラブである。80年代の踊るようなミーハー一直線なディスコからの脱却を目指し、より寡黙で排他的、身体的な表現にフォーカスしたという特徴がある。

metronome
概要
所在地 東京, 日本
種類 ナイトクラブ
ジャンル エレクトロニックダンスミュージック, アシッドハウス, テクノ
開業 1995年9月
閉鎖 1995年9月
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Background to establishment

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当時の共通認識として「大人に裏切られた」という肌感覚を抱くユースたちは少なくなかった。大人たちはバブル景気の中で何不自由なく遊び呆けた。当然のように、共有されるべき規範は緩んでいった。社会全体の前提が浮ついていたのだ。そうした結果が生んだバブル崩壊。景気は著しく悪くなり、扇動的な「大人」の不在と、そもそも「大人」という概念に対しての不信感を当時のユースたちは拭うことができなかった。そこで千駄ヶ谷から裏原の入り口あたりの住宅街にポツンとある小さなビルの地下に、若者たちだけが集まって完成させたのが「metronome」だった。

About the metronome 

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黎明期からのmetronomeを知る尾崎ももこはmetronome廃業後の1998年、今は無き伝説のファッション誌ジャップ(1994-1999,光琳社)の中で当時をこう懐古する。 「私がmetronomeに出入りしていたのは95年からの1年半くらいだったんですが、その時はなんだかとんでもないものが出来ちゃったんじゃないかという気がしていました。当時の東京のクラブの中でも特に異質というか、例えばクラスの窓際でいつも一人でお弁当を食べていて、友達はいないけど私服がオシャレでカセットでずっとYMO聴いているような子と、普段はなんかちょっとチンピラたちのボスみたいなんだけど実は岡崎京子が大好きで、でもそんなこと口が裂けても言えないみたいな子が楽しそうに踊ってたりするんです。そういういろんなタイプのコミュニティに属している人がこっそり集まって、融和的で自由にやってたと思います。それは中心にいた ヤマ(山岡亮太/DJ DoubleTapTrigger:metronomeの発起人。一橋大学在学中の1993年、大学OBであるケン・イシイがベルギーのR&Sからリリースした『Garden On The Palm』に衝撃を受け、電子音楽制作を開始。卒業後電通に入社し会社員を務めながらも1995年秋、秘密裏にmetronomeを開業した)をはじめとして頭のキレる人たちが多かったので、思想的な統一感というか、そういうのがあって。街にはチーマーみたいなのまだ時々いましたけど、metronomeでは誰かをいじめたり排除したりみたいのはダサいっていう空気感が確かにありました。そのかわりといったらなんですけど、常識では毛嫌いされるものを肯定するみたいな、ビジュアルとか態度として反抗的であるんじゃなくて、前提をすり替えちゃうみたいな、理論的なパンクというか、なんていうんだろ(笑)とにかくそういう一面があったと思います。」


Musical features

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metronomeの若者たちは、DJ Baby Tokio率いたVoice Projectのイベント/空気感を強く意識していた。Voice Projectは当時東京中のクラブでエレクトロニック・ミュージックのイベントを主催し、電気グルーヴの二人やCMJK、[[ケン・イシイ]、ススム・ヨコタなどの当時のエレクトロニックサウンドの先駆者たちも客として訪れるほどだった。そのサウンドはハードテクノからアンビエントまで、最先端でありながら多様だった。こうした自由と多様さを、metronomeの若者たちは音楽の中に求めた。 metronomeの中ではそれゆえ多様なエレクトロニックサウンドが流されたが、特に均一なリズムに未来的でサイケデリックな色彩感覚を持つテクノは、彼らの求めていた排他的な世界にピッタリだった。しかし彼らが特に好んだのは無機質なサウンドに特化したメタルハウスやハードテクノではなく、808stateやA Guy Called Geraldのような有機的なメロディの乗ったアシッドハウスを受け継いだサウンドだった。 metronomeの空気感は、テクノサウンドのように無機質でありながら、どこかカラフルでグロテスクな肌触りがあった。

metronome meme

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metronome特有の反抗的な態度には、常識では毛嫌いされる様なものをあえて肯定的に捉えるという特徴があった。例えば当時のmetronomeでは親しい友人に噛みかけのガムをつけるという行為が流行した。初めは仲間うちで行われていた流行であったが、次第に誰かにガムをつける行為はmetronomeへの勧誘の手段となり(metronomeは違法だったこともありかなり排他的で、誰かの紹介なしでは基本的に足を踏み入れることはできなかった)、街中で見つけたイけている人にこっそりガムをつけることで、その人はmetronomeへ招待されたという意味を持つようになった。常識では理解できないような行為だが、一般的に「汚い」と認識されているガムを、人と人とを繋ぐ”クールなもの”という認識にすり替えることで、彼らはそこに新しい価値観を持った文化圏を作り出そうとした。それは93年以降停滞の一途を辿っていた日本社会からの逸脱を図ったとも言えるかもしれない。そのような新しさ・過激さは特定のコミュニティにおいてカルト的な人気を博し、一部の若者たちは芸能事務所のスカウトやファッション誌のスナップを撮られるのと似たような温度感で、metronomeに招待されるために原宿や渋谷の街をお洒落な格好で徘徊するということさえあった。」温井紀之『ウラハラ定点観測』, 内田書房, 2004

cultural influence

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このようなmetronomeの若者の期待感を代弁するように、90年代後半には新世紀エヴァンゲオン攻殻機動隊AKIRAなどのサイバーパンクで未来的な作品が飛ぶ鳥を落とす勢いで台頭していった。  実際このクラブの中では、これまで述べたようなユースの反抗的なエネルギーと、少年のような未来への憧憬が入り混じり、新しい文化を形成していた。一言で言い表すならばそれは、美しいカオスとでも言えるだろう。彼らのセンスは卓越していた。その美しさがその空間の多様性と享楽性に溶け込んだ。  実際に00年台に入っていくと、こういったテクノロジーやインターネットは、2ちゃんねるに代表されるような閉鎖的で村社会的な、より粘着質なものへと形を変えていく。当時のSF的な未来への期待は、見事に裏切られたのだった。しかしそれ以前の90年台後半のインターネット黎明期には、これらはSF的な未来への希望であった。

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参考文献

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外部リンク

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