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劇辛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
姓名 劇辛
時代 戦国時代
生没年 生年不詳 - 前242年(燕王喜13年)
字・別号 劇子、処子?
本貫・出身地等
職官 将軍、諸子百家(法家?)
爵位・号等 -
陣営・所属等 昭王恵王武成王

孝王燕王喜

家族・一族

劇 辛(げき しん、? - 紀元前242年)は、中国戦国時代末期、出身の将軍法家思想家の処子と同一人物とする説がある[1]

生涯

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出身は趙であるが、紀元前312年、燕の昭王に対抗するために、臣下の郭隗の献策をもとに有能な人材を諸国に求めたとき、それに応じて魏の将軍の楽毅や斉の陰陽家鄒衍と共に燕に移った[2]。以後、昭王から燕王喜まで、70年間5代の燕王に仕えた。

燕王喜12年(紀元前242年)、趙将の李牧により武遂と方城が奪われる。しかし、燕王喜は、趙がたびたび秦に敗北し、さらに既に名将の廉頗が出奔し将軍が龐煖に交替したのを見て、劇辛に趙に反撃するのが良いかを諮問した。劇辛は趙にいたころ、龐煖と親しくしていたため、「龐煖は与(くみ)易きのみ(龐煖はまさしく与するのに容易い人物だ)」と答え、趙に攻め入った。しかし、燕軍のうち二万が捕虜になるという大敗に終わり、劇辛もまた戦死した[3]

『史記』「孟子荀卿列伝」によれば、趙には名家公孫竜の堅白同異説と並ぶ学説として、『劇子之言』(『劇先生の言説』)というものがあったとされる[4]。これを『漢書』「芸文志」に記載される法家思想の書物『処子』(旧字体では『處子』)九篇と同一の書籍とする説がある[1]。いずれの書籍も散逸しており、正確なところは不明[1]

脚注

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  1. ^ a b c 司馬遷『史記列伝』第一巻、小川環樹今鷹真福島吉彦訳。岩波文庫、1975年。p. 242。ただし、同書は劇辛と劇子が同一人物であるかまでは言及していない。
  2. ^ 『史記』「燕召公世家」昭王元年「楽毅自魏往,鄒衍自斉往,劇辛自趙往,士争趨燕。」
  3. ^ 『史記』「燕召公世家」今王喜十二年 「十二年,趙使李牧攻燕,抜武遂・方城。劇辛故居趙,与龐煖善,已而亡走燕。燕見趙数困于秦,而廉頗去,令龐煖将也,欲因趙獘攻之。問劇辛,辛曰:「龐煖易与耳。」燕使劇辛将撃趙,趙使龐煖撃之,取燕軍二萬,殺劇辛。」
  4. ^ 『史記』「孟子荀卿列伝」。趙亦有公孫龍為堅白同異之辯,劇子之言。

参考文献

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