劉元
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劉 元(りゅう げん)は、
- 中国の前漢時代後期の人(? - 紀元前56年)。平干繆王。漢の景帝の曾孫で、趙敬粛王劉彭祖の孫にあたる。元鳳元年(紀元前80年)、父の平干頃王劉偃を後継して平干王となる。しかし五鳳2年(紀元前56年)、謁者殺害に連座した。そのため、彼が死去しても子の劉林が封国の継承は許されなかった(『漢書』諸侯王表、景十三王伝)。
- 中国の新代の女性(? - 22年)。以下で詳述する。
劉元 | |
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続柄 | 光武帝の姉 |
全名 | 劉元 |
称号 | (追贈:新野節義長公主) |
死去 |
地皇3年(22年) |
埋葬 | 邙山 |
配偶者 | 鄧晨 |
子女 |
鄧汎 女子3人 |
父親 | 劉欽 |
母親 | 樊嫻都 |
荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。後漢の初代皇帝光武帝(劉秀)の姉。後漢草創期の功臣鄧晨の妻。父は劉欽。母は樊嫺都。姉は劉黄。弟は劉縯・劉仲・劉秀。妹は劉伯姫。1男(鄧汎)3女の母。死後、新野節義長公主の位を追贈されている。
地皇3年(22年)、弟の劉縯・劉秀らが反新の挙兵を行ったが、同年末の小長安聚(南陽郡育陽県)の戦いで、劉縯らの軍は新の前隊大夫(新制の南陽太守)甄阜・前隊属正(新制の南陽都尉)梁丘賜に大敗した。
この時、敗走する劉秀は、途中で劉伯姫を救出し、これも馬に乗せて逃走する。さらに2人は、姉の劉元とその3人の娘を見つけだし、これも救おうとした。しかし劉元は、自分たちが足手纏いになると判断し、救助を謝絶して劉秀と劉伯姫にそのまま逃げるよう告げる。こうして劉秀と劉伯姫は死地を逃れたが、劉元と3人の娘は新軍の手にかかって落命してしまった。また、弟の劉仲も、この時に戦死している。
建武元年(25年)6月、劉秀が光武帝として即位すると、鄧晨は房子侯に封じられた。この時、亡き妻の劉元も、新野節義長公主の位を追贈され、新野の西に廟が立てられている。そして、鄧晨と劉元の間に生まれた息子の鄧汎も呉房侯に封じられ、劉元の祭祀を司ることになった。
参考文献
[編集]- 『後漢書』列伝5鄧晨伝
- 同列伝4斉武王縯伝