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劉実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

劉 実(りゅう じつ、1396年 - 1461年)は、官僚は嘉秀。本貫吉安府安福県

生涯

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1430年宣徳5年)、進士に及第した。1433年(宣徳8年)、翰林院庶吉士に選ばれた[1]正統初年、金華府通判に任じられた。旱魃の年にあって、劉実は租税の免除を請願し、売られた飢民の子女を買い戻した。母が死去したため、劉実は辞職して帰郷し、喪に服した。喪が明けると、順天府治中として起用された。

景泰年間、劉実は『宋元通鑑綱目』の編纂事業のため召し出された。劉実は性格が剛直で俗世と交わらず、おかしいと思ったところは貴顕高官に対しても遠慮しなかった。編纂事業にあたっても、同僚の担当部分に不当なところがあれば、大笑いしてその声が殿中に鳴り響いたため、人々は劉実を忌み嫌った。

天順初年、劉実は順天府治中の任にもどされた。1460年(天順4年)、南雄府知府に抜擢された。中央の宦官が監察のために南雄府に入り、公衆の面前で劉実を辱めようとした。民が競って前に出て劉実をかばったので、かえって宦官が恥をかかされることになった。宦官は劉実を召し出して謝罪させようとしたが、劉実は赴かなかった。宦官が南雄府を去って韶州府に入ると、韶州府の人に吹き込んで劉実を誣告させた。1461年(天順5年)、劉実は投獄された。獄中から上書して、英宗も心動かされ、劉実を釈放しようとした。しかし劉実は5月に獄中で死去した[2]。享年は66。著書に『孝経集解』1巻・『小学集注』6巻[3]があった。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻22
  2. ^ 『国榷』巻33
  3. ^ 明史』芸文志一

参考文献

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  • 『明史』巻161 列伝第49
  • 南雄府知府劉君言行録(徐紘『明名臣琬琰録』巻24所収)