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劉師知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

劉師知(りゅう しち、生年不詳 - 567年)は、南朝梁からにかけての官僚学者本貫沛国相県

経歴

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梁の尚書左丞・司農卿の劉景彦(劉奚之の子)の子として生まれた。学問を好み、書物や記録を広く渉猟し、文章に巧みであった。儀礼をよくし、有職故実に詳しかった。梁のときに諸王府の参軍を歴任した。紹泰元年(555年)、陳霸先が輔政にあたると、師知はその下で中書舎人となり、詔誥を管掌した。当時は兵乱の後であり、儀礼の多くが欠けていたため、陳霸先が丞相となり九錫を加えられ、さらには禅譲を受けるにあたって、その礼節の全ては師知が定めたものであった。永定元年(557年)、陳霸先が梁の最後の皇帝蕭方智(敬帝)より禅譲を受けて陳を建国すると、師知はそのまま中書舎人をつとめた。永定2年(558年)4月には武帝(陳霸先)より任を受け、江陰王に降封された蕭方智を暗殺した[1]

永定3年(559年)、武帝が崩御すると、大行皇帝の霊前に仕える御人の衣服の制について、師知は沈文阿蔡景歴江徳藻らと議論して、衆議決着つかず、2案が奏上されて、師知の意見が採用された。ほどなく中書舎人のまま鴻臚卿に転じた。天嘉元年(560年)、事件に連座して免官された。かつて文帝が起居注を編纂するよう師知に命じており、永定2年(558年)秋から天嘉元年(560年)冬にかけての記録が10巻となった。後に師知は再び中書舎人として起用され、詔誥を管掌した。

天康元年(566年)、文帝が病に倒れると、師知は尚書僕射の到仲挙らとともに病床に近侍した。文帝が崩御すると、遺命を委嘱された。光大元年(567年)、安成王陳頊尚書令として宮中に入ろうとしたところ、師知は到仲挙らとともに舎人の殷不佞を派遣し、帝の命と偽って安成王陳頊を東府に帰そうとした。事情が発覚して、師知は北獄で死を賜った

脚注

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  1. ^ 李延寿『南史』巻68「梁敬帝在内殿……行事者加刃焉。」

伝記資料

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