劉慎行
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劉 慎行(りゅう しんこう、生没年不詳)は、遼(契丹)の政治家。本貫は河間郡。
経歴
[編集]劉景の子として生まれた。膳部員外郎や三司使などをつとめた。統和29年(1011年)3月、参知政事・知南院枢密使事となった。5月、南院枢密使となった。後に北府宰相・監修国史に進んだ。ときに聖宗は宴会の場で賞罰を下すことが多かったので、劉慎行は「喜怒の感情のままに賞罰を加えると、おそらく間違いが起こります」と諫めた。聖宗は意をさとって、「いまより宴会の場で賞罰のことがあっても、翌日に議論して行うこととする」と勅令を下した。
開泰4年(1015年)、劉慎行は都統となり、高麗遠征に参加したが、軍を失った罪で裁判を受けた。開泰7年(1018年)、罪を許されて彰武軍節度使として出向した。太平4年(1024年)、順義軍節度使に転じた。太平5年(1025年)、遼興軍節度使となった。保節功臣の称号を受けた。
子女
[編集]- 劉一徳
- 劉二玄(上京留守)
- 劉三嘏(進士に及第し、駙馬都尉となったが、公主と合わず北宋に亡命した)
- 劉四端(進士に及第し、駙馬都尉・衛尉少卿として北宋への使者におもむき、帰国すると枢密直学士となった)
- 劉五常(三司使・武定軍節度使)
- 劉六符
伝記資料
[編集]- 『遼史』巻86 列伝第16