劉茂 (中山王)
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劉 茂(りゅう も/りゅう ぼう、5年 - ?)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将で、群雄の一人。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。弟は劉匡。従兄弟は劉歙。甥(劉匡の子)は劉浮。後漢の光武帝(劉秀)の族父にあたる。
事跡
[編集]姓名 | 劉茂 |
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時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 5年(元始5年) - 没年不詳 |
字・別号 | 劉先職(自号) |
本貫・出身地等 | 荊州南陽郡蔡陽県 |
職官 | 厭新将軍〔自称〕 |
爵位・号等 | 中山王〔後漢〕→穣侯〔後漢〕 |
陣営・所属等 | 〔独立勢力〕→光武帝 |
家族・一族 | 弟:劉匡 従兄弟:劉歙 甥:劉浮 |
地皇3年(22年)に漢軍が勃興すると、劉茂も年18にして挙兵し、「劉先職」[1]を号した。劉茂は、京県・密県(いずれも河南郡の県)の辺りで軍勢を集め、厭新将軍を自称し、潁川郡・汝南郡を攻略して、10数万の軍勢を率いる群雄の一人となった。なお、同時期の汝南郡には、劉望や劉信も割拠・活動していたが、これらの勢力との関係は不明である。
建武元年(25年)7月、族子の光武帝が河内郡に進軍してくると、劉茂は一族として軍勢を率いてこれに降伏し、中山王に封じられた。建武13年(37年)、宗室の王は全て侯に降格されたため、劉茂も穣侯に降格された。
なお、弟の劉匡も劉茂と同時期に挙兵し[2]、建武2年(26年)、宜春侯に封じられた。人となりが謙遜であったため、永平年間に宗正に任命されている。
注釈
[編集]参考文献
[編集]- 『後漢書』列伝4 泗水王歙伝
- 同本紀1上 光武帝紀上