劉郁芬
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劉郁芬 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: | 1886年(清光緒12年)[1] |
死去: |
1943年(民国22年)4月2日 中華民国北京特別市 |
出身地: | 清直隷省保定府清苑県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 劉郁芬 |
簡体字: | 刘郁芬 |
拼音: | Liú Yùfēn |
ラテン字: | Liu Yü-fen |
和名表記: | りゅう いくふん |
発音転記: | リウ・ユーフェン |
劉 郁芬(りゅう いくふん)は中華民国の軍人。初め北京政府、国民軍、後に南京国民政府(汪兆銘政権)に属した。馮玉祥配下の「五虎将」の1人(他は張之江・鹿鍾麟・宋哲元・鄭金声)と目された人物である。字は蘭江。
事跡
[編集]辛亥革命後は北京に戻り、陸軍軍事学校で職に就く。陸軍第10混成旅参謀長、第11師参謀長、第11師第22旅旅長を歴任した。1924年(民国13年)、馮玉祥が組織した国民軍の第2師師長に任命される。1925年(民国14年)、代理甘粛軍務督弁に就任した。
1926年(民国15年)9月に馮玉祥が五原誓師を行うと、劉郁芬は正式に甘粛督弁に任命された。中国国民党の北伐の際には、第7方面軍総指揮兼甘粛省政府主席に任命された。1929年(民国18年)、馮玉祥が蔣介石との内戦を開始すると、馮玉祥の下で第3路軍総指揮、第2軍団総司令となる。1930年(民国19年)の中原大戦では、後方総司令兼代理陝西省政府主席として後方を守った。しかし、馮玉祥の敗北とともに、劉郁芬も下野した。
1931年(民国20年)に復帰し、冀察政務委員会委員をつとめる。しかし、1933年(民国22年)に再び引退して北平に寓居した。
1940年(民国29年)、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加し、開封綏靖主任に任命された。1942年(民国31年)には、軍事委員会総参謀長に就任している。
1943年(民国32年)4月2日、北平で病没。享年58。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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