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劉郁芬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
劉郁芬
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1886年光緒12年)[1]
死去: 1943年民国22年)4月2日
中華民国の旗 中華民国北京特別市
出身地: 清の旗 直隷省保定府清苑県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 劉郁芬
簡体字 刘郁芬
拼音 Liú Yùfēn
ラテン字 Liu Yü-fen
和名表記: りゅう いくふん
発音転記: リウ・ユーフェン
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劉 郁芬(りゅう いくふん)は中華民国の軍人。初め北京政府国民軍、後に南京国民政府(汪兆銘政権)に属した。馮玉祥配下の「五虎将」の1人(他は張之江鹿鍾麟宋哲元鄭金声)と目された人物である。蘭江

事跡

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保定速成学校を卒業。雲南省に向かい、中国同盟会に加入した。

辛亥革命後は北京に戻り、陸軍軍事学校で職に就く。陸軍第10混成旅参謀長、第11師参謀長、第11師第22旅旅長を歴任した。1924年民国13年)、馮玉祥が組織した国民軍の第2師師長に任命される。1925年(民国14年)、代理甘粛軍務督弁に就任した。

1926年(民国15年)9月に馮玉祥が五原誓師を行うと、劉郁芬は正式に甘粛督弁に任命された。中国国民党北伐の際には、第7方面軍総指揮兼甘粛省政府主席に任命された。1929年(民国18年)、馮玉祥が蔣介石との内戦を開始すると、馮玉祥の下で第3路軍総指揮、第2軍団総司令となる。1930年(民国19年)の中原大戦では、後方総司令兼代理陝西省政府主席として後方を守った。しかし、馮玉祥の敗北とともに、劉郁芬も下野した。

1931年(民国20年)に復帰し、冀察政務委員会委員をつとめる。しかし、1933年(民国22年)に再び引退して北平に寓居した。

1940年(民国29年)、汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加し、開封綏靖主任に任命された。1942年(民国31年)には、軍事委員会総参謀長に就任している。

1943年(民国32年)4月2日、北平で病没。享年58。

脚注

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  1. ^ 来新夏ほか著『北洋軍閥史 下』は、1892年としている。

参考文献

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劉郁芬 (1940年前後)
  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
李鳴鐘
綏遠都統
1926年1月 - 9月
次代
商震
先代
李鳴鐘
甘粛督弁
1926年9月 - 1927年6月
次代
(廃止)
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
(創設)
甘粛省政府主席
1927年6月 - 1930年11月
1929年8月、孫連仲
馮玉祥により任命)
次代
馬鴻賓