加藤忠正
表示
時代 | 安土桃山時代-江戸時代初期 |
---|---|
生誕 | 慶長4年(1599年) |
死没 | 慶長12年1月27日(1607年2月23日) |
改名 | 熊之助(初名)、清孝(初名)、忠正 |
戒名 | 理性院殿宗覚日等大居士 |
墓所 | 熊本県八代市妙見町谷の宗覚寺 |
官位 | 主計頭 |
藩 | 肥後熊本藩世嗣 |
氏族 | 加藤氏(清正系) |
父母 | 加藤清正、本覚院? |
兄弟 | 百助、虎熊、忠正、忠広、本浄院、瑤林院 |
加藤 忠正(かとう ただまさ)は、江戸時代初期の肥後国熊本藩の世嗣。官位は主計頭。
生涯
[編集]初代藩主・加藤清正の次男として誕生。母は菊池武宗の娘本覚院(川尻殿)といわれるが不詳である。幼名、熊之助。初名、清孝(きよたか)。
豊臣時代の清正の正室山崎氏(山崎片家娘)に嫡男・虎熊がいたが、文禄の役中に没し、関ヶ原の戦いを経て慶長8年(1603年)に徳川家康によって江戸幕府が開かれ慶長10年(1605年)に加藤家江戸屋敷が設けられると、熊之助は徳川将軍家への人質として江戸に置かれた。
慶長11年(1606年)、豊臣姓を下賜され[1]、主計頭に叙任。一方、徳川秀忠より偏諱の授与を受けて忠正と名乗りを改めている。
慶長12年(1607年)正月に疱瘡を患い、将軍秀忠より名医を遣わされるがその甲斐なく、江戸屋敷で死去。享年9。法名は理性院殿宗覚日等大居士。墓所は熊本県八代市妙見町谷2445の宗覚寺。
忠正の死去により、弟(清正三男)の虎藤(忠広)が後継となり熊本藩2代藩主となるが、後に改易された。
脚注
[編集]- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」1996年。
参考文献
[編集]- 水野勝之・福田正秀『加藤清正「妻子」の研究』ブイツーソリューション、2007年